本来なら五輪に国中が沸き立っていたであろう4連休ですが、1年前は誰も予想しなかったコロナ禍と、それによる外出自粛の呼び掛けのもと、梅雨に打たれた庭木の枝葉から滴が落ちるのを眺めるばかりです。そのような中、図書館から借りてきた司馬遼太郎の「関ケ原」(新潮文庫)が無聊の慰めとなりました。
歴史における「たら」、「れば」は古来、世人の興味を掻き立ててきました。関ケ原の合戦もまた然りで、「小早川軍の寝返りがなければ」などは歴史好きに格好のネタを提供する例となっています。「たら」、「れば」に空想を巡らせることは確かに魅力的ではあるものの、司馬さん描く関ケ原を読む限り、結局は徳川の世になっただろうと思わざるを得ませんでした。
西軍と東軍の大合戦と言っても、とどのつまり豊臣家臣団同士の戦いでした。東軍の大将は家康ですが、激戦の中で兵を動かしたのは福島正則ほか反三成の豊臣大名です。仮に関ケ原で東軍が敗けたにせよ、叩き潰されたのは豊臣の家臣、家康は戦力を温存したまま逃げ延びて、真田勢に阻まれて中山道に釘づけにされていた秀忠軍と合流し、体制を立て直したことでしょう。そして、関ケ原で疲弊した西軍に対して漁夫の利を得たことは容易に想像出来ます。その意味では、関ケ原は天下分け目ではなく、天下の趨勢が決した後、豊臣から徳川へ覇権が移る際の一局地戦だったように思われます。もちろん、私のこの読後感も無聊を慰める「たら」、「れば」ではありますが。
歴史における「たら」、「れば」は古来、世人の興味を掻き立ててきました。関ケ原の合戦もまた然りで、「小早川軍の寝返りがなければ」などは歴史好きに格好のネタを提供する例となっています。「たら」、「れば」に空想を巡らせることは確かに魅力的ではあるものの、司馬さん描く関ケ原を読む限り、結局は徳川の世になっただろうと思わざるを得ませんでした。
西軍と東軍の大合戦と言っても、とどのつまり豊臣家臣団同士の戦いでした。東軍の大将は家康ですが、激戦の中で兵を動かしたのは福島正則ほか反三成の豊臣大名です。仮に関ケ原で東軍が敗けたにせよ、叩き潰されたのは豊臣の家臣、家康は戦力を温存したまま逃げ延びて、真田勢に阻まれて中山道に釘づけにされていた秀忠軍と合流し、体制を立て直したことでしょう。そして、関ケ原で疲弊した西軍に対して漁夫の利を得たことは容易に想像出来ます。その意味では、関ケ原は天下分け目ではなく、天下の趨勢が決した後、豊臣から徳川へ覇権が移る際の一局地戦だったように思われます。もちろん、私のこの読後感も無聊を慰める「たら」、「れば」ではありますが。