「煖陶」、見慣れない言葉ですが、「かんびん」と読みます。「煖」はあたたかいとかあたためるという意味を持ち、「陶」は陶器、焼き物のことで、「煖陶」ではあたためられた焼き物、つまりお酒のお燗、熱燗の意味になります。私がこの言葉を知ったのは国木田独歩の短編「忘れ得ぬ人々」からです。次のような文章の中で使われています。溝の口の宿屋「亀屋」に泊まるふたりの客が座敷で一緒になっている場面です。「二人とも顔を赤くして鼻の先を光らしている。そばの膳の上には煖陶が三本乗っていて、杯には酒が残っている。」また、ふたりの語らいが深更に及んだ箇所にも出てきます。「秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶の中へ冷めた煖陶を突っ込んだ。」(冷めた煖陶とはおかしな感じがしないでもありませんが)
ところで、国木田独歩の作品における「煖陶」から話は離れて、何故私がこの言葉に関心があるかです。家でお酒を飲もうとした時、気になるのは家人の視線です。視線だけならまだしも、「飲み過ぎ」と待ったが掛かることもあります。そこで「煖陶」の登場です。「明治時代の作家・国木田独歩に『忘れえぬ人々』という短編があってね、その中に『煖陶』て言葉が出てくるんだけど、意味は分かる?『煖』はあたためる、『陶』は焼き物、つまり熱燗のことなんだ・・・」みたいなうんちく話で相手の気を緩めて、やおら「今日は煖陶にしてみるか」という展開に持っていけないか、それを期待しているからです。
さて、国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」にはオチがあります。「鉄瓶の中へ冷めた煖陶を突っ込んだ」後、ふたりの客の片割れ、売れない作家の大津は、同じく売れない画家の秋山に自分が旅先で出会った忘れられない人々のことをつぶさに語って聞かせます。溝の口の宿屋「亀屋」での一夜以来、このふたりが会うことはありませんでした。二年の後、大津のもとには「忘れ得ぬ人々」と題する原稿の束が置かれています。その最後に書かれた人物は秋山ではなく「亀屋」の主人であったということです。
ところで、国木田独歩の作品における「煖陶」から話は離れて、何故私がこの言葉に関心があるかです。家でお酒を飲もうとした時、気になるのは家人の視線です。視線だけならまだしも、「飲み過ぎ」と待ったが掛かることもあります。そこで「煖陶」の登場です。「明治時代の作家・国木田独歩に『忘れえぬ人々』という短編があってね、その中に『煖陶』て言葉が出てくるんだけど、意味は分かる?『煖』はあたためる、『陶』は焼き物、つまり熱燗のことなんだ・・・」みたいなうんちく話で相手の気を緩めて、やおら「今日は煖陶にしてみるか」という展開に持っていけないか、それを期待しているからです。
さて、国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」にはオチがあります。「鉄瓶の中へ冷めた煖陶を突っ込んだ」後、ふたりの客の片割れ、売れない作家の大津は、同じく売れない画家の秋山に自分が旅先で出会った忘れられない人々のことをつぶさに語って聞かせます。溝の口の宿屋「亀屋」での一夜以来、このふたりが会うことはありませんでした。二年の後、大津のもとには「忘れ得ぬ人々」と題する原稿の束が置かれています。その最後に書かれた人物は秋山ではなく「亀屋」の主人であったということです。