花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

いい富士を見ました

2010-10-18 22:20:00 | 季節/自然
 先週の土曜日、河口湖畔の御坂山地にある黒岳に登ってきました。登り口に選んだのは天下茶屋というところで、ここは太宰治の「富嶽百景」の舞台となった茶屋があるところです。河口湖の駅から見る富士よりも、天下茶屋から見るほうが全体的にいくらか鋭角的に見え、存在感が増したように思えたのですが、「富嶽百景」の中で太宰は次のように酷評しています。「ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそり蹲って湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色で、私は、恥づかしくてならなかった」
 私はここからの富士を眺めて、狼狽もせず、顔も赤らめず、ただ靴の紐を締めなおして山中に分け入りました。天下茶屋から御坂峠を経て黒岳へ至る道は、ミズナラやブナが立ち並ぶ静かな山道で、カサコソと落ち葉を踏む音に心地良さを感じながら、小さな登り降りを繰り返して高度を上げていきました。黒岳の頂上近くに見晴らしの良い開けたところがありますが、そこに着いたころにはだいぶ雲が多くなり、富士の眺めはいまいちになっていました。雲の切れ間から時々顔を出す富士と相対するように地面に腰掛けて、アサヒスーパードライを飲みながら、お弁当を食べ、下山しました。
 帰りに乗り込んだ富士急行の車両はレトロな作りの観光列車でした。途中、富士山のビューポイントに差し掛かったところで、フレッシュな感じの客室乗務員が、「今日は雲が掛かってご覧になれませんが、右手の窓から雄大な富士山が望めます。晴れていれば、このような富士山がご覧頂けます」と言いながら、手に持った富士山のスチール写真を車内の客たちにに示していました。その時、私は「富嶽百景」の中の、太宰が井伏鱒二と三つ峠山に登った時の記述が思い出されました。三つ峠山はこれまた富士の好展望で有名ですが、太宰が登った時はあいにく一面のガスで何も見えなかったようです。霧に立ち込められた井伏鱒二は煙草を吸い、そして放屁します。それから、山の茶店で二人が番茶を飲んでいると、景色がないことを気の毒がった茶店の老婆が、「富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます」とやりはじめます。それに対して太宰は、「いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思わなかった」と述べています。一方、太宰から60年以上経った今、私は、「富士の景色を生業の一部としている人に共通するホスピタリティなのかも」と思いました。大月で富士急行からJRに乗り換えて新宿に着きました。新宿で2軒はしごして、終電間際に慌てて帰りました。