花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

ポスト戦後社会

2009-02-02 20:55:08 | Book
 前の土日、吉見俊哉著の「ポスト戦後社会」を読みました。これは岩波新書の「シリーズ日本近現代史」全10巻のうちのひとつで、高度経済成長の後から小泉改革までの期間を扱ったものです。自分の人生と重なる時代を辿ったものであるせいか、いったん読み始めるとなかなか頁を繰る手を止められず、休みの日、家族サービスを怠る後ろめたさを感じながらも、それでも終わりまで一息に読みました。大づかみですが各章ごとの内容を振り返ってみると、第1章「左翼の終わり」では、革命を夢見ながらも自壊していった連合赤軍からシングルイシューが争点となる市民運動への変遷が、続く第2章「豊かさの幻影のなかへ」では、高度経済成長の結果、豊かになった社会の中で、ものからイメージへと消費の対象が移ってきていることが、述べられています。以降、実体を失いつつも観念の上では逆に強く存在が意識されている家族の姿(第3章「家族は溶解したか」)、政治に翻弄されながら徐々に地崩れ的に壊れていく地方の姿(第4章「地域開発が遺したもの」)、効率性の飽くなき追求とそこからこぼれ落ちた人たちを切り捨てていく新自由主義の姿(第5章「『失われた10年』のなかで」)、外国との交流が進む中、自他の境界が明確ではなくなり、歴史的主体としての存在が曖昧になりつつある日本の姿(第6章「アジアからのポスト戦後史」)、これら日本の変化の諸相が描き出されています。そして、その変化を経て、私たちが今どういった地平に立っているかですが、私には吉見さんが「未来からの解放」と呼ぶ次の記述が、その地平を指し示しているのではないかと思います。かなり長くなりますが、その箇所を引用してみます。「変化は、家族と企業の全人格的な結合力が、同時に弱まったことだけではない。同時期に、『しっかりと計画を立てて、豊かな生活を築く』(<利>志向)や『みんなと力を合わせて世の中をよくする』(<正>志向)といった未来中心の考え方が弱まり、『その日その日を自由に楽しく過ごす』(<快>志向)や『身近な人たちとなごやかな毎日を送る』(<愛>志向)といった現在中心の考え方がより支配的になっていった。(中略)<未来>を準拠点にして現在を位置づけることは、近代社会の根幹をなす価値意識であったわけだから、七〇年代以降に顕著になるこの変化は、戦後社会という域を超えて、近代社会の地殻変動が始まっていたことを示している。一九世紀半ば以来、日本社会は、文明開化・殖産興業という名の近代化路線、日清・日露の戦争を経ての帝国化と総力戦体制、さらに敗戦を経て高度成長期まで、未来の豊かさのために国民が団結し、現在の生を犠牲にして努力する体制を作り上げてきた。この体制にとって、家父長制的な近代家族の維持、つまり<平等>を求める女たちの生と<自由>を求める若者たちの生を抑圧することは、必要な社会的基盤であった。だが、高度成長以降の「豊かさ」の実現は、このような生産主義の必要を相対的に弱める。<未来>の拘束は相対化可能なものとなり、その弛みから、個人的な<快>や<愛>を志向する声が大きくなっていったのである。」
 この本を読み終えて私のこころに残ったのは、桎梏から自らを解放しようとしてきたけれど、いざ自由を手に入れてみるとその自由を持てあましている日本人の姿でした。自由を得ることで可能性が拡がると思っていたのに、自由というのは思いがけずも過酷なものだったわけです。ドイツに「フォーゲルフライ」という言葉があります。文字通り訳すと「鳥の自由」となり、何だか良い印象を与えますが、この言葉の意味するところは「鳥のついばむがままにされる自由」であり、つまり共同体の庇護のないものには生存を維持するための試練が待ってるよ、と言っています。「ポスト戦後社会」を読んで、私たち日本人が戦後60数年掛けて獲得してきた自由が、実は「フォーゲルフライ」だったのではないかとの思いを強くしました。けれども、だからと言って、私たちが歩いて来た道を引き返すことは何の解決にもなりません。福沢諭吉ではありませんが、「独立自尊」の精神で踏ん張って生きていくしかないと思いました。