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OCR化した8冊

『テニアン』
 原爆基地の島、再びチャモロらの島
  509混成群団
  原爆投下
『チャイナスタンダード』
 書き換えられる人権の定義
  ギリシャの恩人
  EU内の代弁者
  人権の砦
『日本の戦争Ⅲ 点の意図戦争責任』
 昭和天皇の戦争指導・作戦指導
  はじめに
  一 ガダルカナル攻防戦と天皇の督戦
  二 天皇による中部ソロモン撤退論批判
『「生きにくさ」はどこからくるのか』
 文化的相互依存(グローバル化)と低文脈化
  グローバル化とコミュニティの崩壊
『齋藤孝のざっきり!世界史』
 なぜ現代社会がイスラムを欲するのか
  「9・11」報道の危険性
  イスラムは世界の最先端だった
  キリスト教のパワーに唯一、対抗できるもの
  ムスリムは世界中どこにいても家族
  意外と「ゆるい」イスラムの戒律
  世界に広がるイスラム圏
  史上最悪の兄弟げんかのゆくえ
『クルアーン やさしい和訳』
 4.女性章
  慈悲あまねく、慈悲深し、アッラーの御名において
  孤児と遺産相続
  女性の権利と結婚
  アッラーと使徒たちに従うこと
  アッラーの道のために戦うこと
  裏切りの禁止
  女性と孤児に対する正義
  偽信者の成り行き
  非信者の間違ぃと孤児の相続
『父が子に語る世界歴史2 中世の世界』
 イスラム教の誕生
  アラブ人の遠征
  『アラビアン・ナイト』の背景
『世界歴史4 地中海世界と古典文明』
 ギリシア本土との遠近--デルフォイとオリュンピアの求心性-―
  デルフォイ
  オリュンピア

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デルフォイとオリュンピアの求心性

『世界歴史4 地中海世界と古典文明』より ギリシア本土との遠近--デルフォイとオリュンピアの求心性-―
デルフォイ
 シチリアヘのギリシア人の植民は、ごく初期には交易を目的にしていたとしても、まもなく農地を求めての移住、すなわち農業植民が主流となったことはすでに指摘した。農業植民の具体例として残存史料のなかに見いだされるのが、よく知られている北アフリカ、リビアのキュレネである。
 干ばつに苦しむテラはデルフォイの神託を受けてキュレネヘ植民することを決めたとヘロドトスは記述しているが、「植民者たちが定住地を確保したならば、その家族であとになってリビアに航行する者は、市民権と役職とをともに享受し、所有者のいない土地の割り当てをうけること」と碑文史料が伝えるように、農地を獲得することが先遣の植民者の課題であった。農業植民は自立・自営のポリスの建設を目指すもので、母市との政治的な従属関係はなかったとされている。キュレネの場合も母市テラとのあいだに従属関係が当初からなかったことは、前四世紀に相互に対等な両国のあいだで締結された友好条約に、植民者を派遣する際の協定を引用していることから明らかである。
 このキュレネ建設にあたって、テラはデルフォイの神託に伺いをたてて得られたアポロンの勧告にしたがって植民を敢行した。テラの場合に限らず、デルフォイの神託と植民活動とのあいだには密接な関係が成立していた。ヘロドトスは、前六世紀末にスパルタ王クレオメネスの弟ドリエウスがリビアヘ植民に出かける際にデルフォイに神託伺いもせず、また、その他の慣行も守らなかったため失敗した、と述べている。前六世紀末には植民者がデルフォイの神託に伺いをたてることが慣行化していたことは、この記述が伝える通りである。すでに触れたように、シチリアのナクソスでも国の守護神としてデルフ″イのアポロンが祀られていた。
 デルフォイはパンヘレニック(全ギリシア的)な神域であり、ギリシア世界の各地から人々が集まるから、それだけでもここに情報は集まってくる。そのうえ、植民に成功したポリスが感謝の奉納にやって来れば、関連の情報ももたらされる。こうして、どこに植民することが望ましいか、あるいは、特定の地への植民が適当であるか否か、どこにどのような障害があるか、というような問に対してデルフォイの神託は適切な判断をくだすことが可能となったのであろう。
オリュンピア
 オリュンピアはパンヘレニックな神域としてデルフォイと並び称せられた神域である。しかし、植民活動とオリュソピアとの関係は、デルフォイの場合ほど明らかではない。
 シュラクサイのオルテュギアにはアレトゥサの泉があった。現在もその遺跡は多くの観光客が訪れる名所となっている。古代にはこの泉の水はオリュンピア近くを流れるアルフェイオス河から地下を通って供給されている、と信じられていた。さらに、狩人アルフェイオスがアレトゥサに恋したが、結婚を嫌うアレトゥサはオルテュギア島に渡って泉に変身してしまった、という神話がパウサニアス『ギリシア案内記』にも紹介されている。オリュンピアとシュラクサイとのあいだの関係を示唆しているような神話ではある。
 そのほかに、シュラクサイとオリュンピアとの関係について触れているものに、ピンダロス『第六オリュンピア祝勝歌≒がある。これはシュラクサイのアゲシアスのために作られたものだが、そこには、イアミダイ一族出身のアゲシアスは、オリュンピアの競技の勝者にして、オリュンピアの神域を一時支配下におさめていたピサのゼウス祭壇の守り手、かつアルキアスとならんでシュラクサイの共同創設者であると歌われている。
 しかも、イアミダイ一族はオリュンピアを活動の中心にしていた占い師を出す家柄だった。このように辿っていけば、オリュンピアとシュラクサイとのあいだに因縁が存在していると言えるかもしれない。特に、植民に出かける者が神頼みしてすがったのは、デルフォイの神託だけではなく、事あるごとに試みた吉兆占いもあったはずである。したがって、植民団が占い師を伴ったことは十分に考えられ、植民が成功したあかっきには、その占い師が建国者のひとりに祭り上げられることもあり得ただろう。シュラクサイ建国とオリュンピアの連関の可能性は、ますます濃厚になってきたようにもみえる。しかし、ピンダロス『第六オリュンピア祝勝歌』の表現は、後述二〇六頁)する前四七八年に僣主になったヒエロンの時代のシュラクサイに向けられたものと解釈することもできる。残念ながら、シュラクサイ建国譚とオリュンピアとの連関についてこれ以上の探求はいまのところ放棄しなければならない。
 ところで、パンヘレニックな神域であるデルフォイとオリュンピアについては、前古典期の末や古典期になると文献史料や考古資料に基づいて比較的よく知ることができるものの、それ以前の両神域については不明なことが多い。祭祀の存在は前一〇世紀頃までさかのぼることが発掘によって確認されているが、デルフォイ、オリュンピアにおいて前七世紀末以前の祭祀に関係する建造物や記念碑は発見されていない。これはたとえば、サモスのヘラ神殿やアルゴスのヘラ神殿が前八世紀にさかのぼる事実と比べて、むしろ遅いと言わねばならない。しかし、前六世紀以降には両神域でいろいろなポリスの宝庫が建造されており、そのなかに植民市の建設した宝庫が少なくないことが注目される。両神域がとりわけ植民市と密な関係をもっていたことがここから明らかとなる。
 なぜ、植民市はデルフォイあるいはオリュンピアとのあいだに密な関係を築くことに積極的であったのだろうか。それは、こう説明できるだろう。植民市は母市にょって建設されたのではあるが、母市からの政治的独立を確保する必要があった。そのょうな植民市が移住以後も持ち続けているギリシアの神々への崇拝の念は、デルフォイやオリュンピアのようなパンヘレニックな神域に向けた方が、母市との密な関係を作り出すことなく、しかもギリシアの神々の加護を得られるという利点があったにちがいない[文献⑩二〇頁]。つまり、パンヘレニックな神域に敬虔の念を示すことは、ギリシア人のポリスとしてのアイデンティティを維持し、強固にするという結果をもたらしたのである。
 視点を変えて、デルフォイ、オリュンピアの側に注目すれば、いずれの場合も、パンヘレニックな神域としての規模の拡大には、植民市による奉納が関係していたと言えるだろう。パウサニアス『ギリシア案内記』のなかの両神域に関する記述を見れば、神域内にシチリアの諸ポリスからの奉納物や彫像や宝庫が立ち並び、人目を引いていたことは明らかである。パンヘレニックな神域としてのデルフォイ、オリュンピアが拡大、発展し、ギリシア世界のなかでの権威を高めていくに当たっては、植民活動にょってギリシア人の世界が拡大し、しかも、植民市が母市とは独立した国となる、というギリシアに独特の植民活動の性格が関係していたと思われるのである。

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父が子に語る世界歴史 イスラム教の誕生

『父が子に語る世界歴史2 中世の世界』より イスラム教の誕生
わたしたちはさまざまな地方の歴史や、たくさんの王国や、帝国の興亡を考察した。だが、水夫や商人を遠方の国ぐにに送った国としてのほかに、アラビアがわたしたちの話題にのぼってきたことはなかった。地図をごらん。西にはエジプト、北にはシリアやイラク、そのすぐ東にはペルシアや、遠く西北にゆくと小アジアと、コンスタンティノープルがある。ギリシアも遠くはなく、インドも海をへだてて向かいあっている。中国と、極東とをべつにすれば、古代文明について語るかぎり、アラビアは世界のまっただなかに位置していた。イラクのティグリス、ユーフラテスにはいくつもの大都会が興り、エジプトにはアレクサンドリアが、シリアにはダマスカスが、小アジアにはアンティオキアが栄えた。アラブ人は旅行者であり、商人だったから、しじゅうこれらの都市を訪れたにちがいない。しかしそれでもアラブ人は、歴史上、目立った役割を演じたことはなかった。そこには、おとなりの国ぐにのような高度の文明が存在した形跡はない。外国を征服しようというくわだてもなかったが、かといって、服従させるのも容易ではなかった。
アラビアは砂漠の国であり、砂漠と、山岳は、自由を愛し、容易に屈服することを知らない、剛毅の民を育てあげる。それはゆたかな国ではなく、他国の征服者や侵略者の欲望をそそるものに乏しかった。町といえば、メッカと海辺のヤスリブのふたつきりで、ほかには砂漠に住居があるばかり、住民の大多数はベドウィンもしくはバッドゥ--「砂漠の住人」であった。足の速いラクダと、颯爽とした馬が、かれらの日常の伴侶であり、ロバもその異常な耐久力を買われて、忠実な仲間とされた。ロバ--ドンキー--と比較されることは、おせじをいわれたことにこそなれ、よその国のように、軽蔑を意味するものではなかった。砂漠の生活は苦しく、強健と忍耐は、どこの国よりも貴重な徳とされたからだ。
かれらは気位が高くて、おこりっぽく、砂漠の民のつねとして喧嘩ばやかった。かれらは氏族の、あるいは家族の一員として生活し、他の氏族や家族とあらそいを起こした。一年に一度、かれらは仲なおりをして、メッカに偶像のあるたくさんの神がみのところへ、巡礼のすがたで参詣にでかけた。なかでも、かれらはひとつの巨大な黒い石--「カーバ」--を崇拝していた。
それは、まだ都市の生活や文明になじむ以前の、中央アジアやその他の原始部族がいとなんでいるような、一種の遊牧族長制度であった。アラビアの周囲に興った大帝国がアラビアに支配をおよぼしたこともまれではなかったが、それはむしろ名目的なものにとどまった。砂漠の遊牧民をおさえ、もしくは治めることは、たやすくはゆかないものだ。
いつか、たぶんおぼえていることと思うが、わたしは、シリアにパルミラという小さなアラブ人の都市が栄えたことを話したことがあった。それは、紀元三世紀ごろに光彩をはなった。だがこれも、アラビア本土外のことだった。そんなわけで、ペドウィンたちは幾代となく砂漠の生活をおくり、アラブ人の船はあいかわらず貿易にでかけたが、アラビアには、なんの変わったこともなかった。キリスト教徒や、ユダヤ教徒になったものも少しはいたが、多くのものは、いぜんとして三百六十の偶像と、メッカの黒い石とを礼拝していた。
長いあいだ眠ったような存在をつづけ、見たところ、よそのできごととはぜんぜんかけはなれていたこのアラブ人が、突如としておそろしいエネルギーを発揮して、世界をおどろかせ、くつがえしてしまったのだから、おどろく。アラブ人と、そのアジア、ヨーロッパ、アフリカヘの急速な進出、そしてかれらが生んだ高度の文化・文明は世界のふしぎのひとつだ。
アラブ人をゆりおこし、かれらに自信と活力を吹き込んだ新しい力、あるいは理念は、イスラム教であった。これは、紀元五七〇年にメッカに生まれた新預言者マホメットによって創始された宗教だった。かれは、この宗教の創立をいそがなかった。平穏な生活をいとなみ、隣人から愛され、信用され、アル・アミーン--律義もの--とよばれていたほどだった。けれども、ひとたびかれがその新宗教の伝道を開始し、メッカの偶像の排斥の声をあげると、けんけんごうごうと非難があつまった。そしてついにはメッカを追われ、いのちからがら脱出した。かれはとくに、ただひとつの神が存在すること、そして、かれ、マホメットは、その神の預言者であることを強調した。
自分の町の人びとにメッカから追いだされたかれは、二、三の友人や同志といっしょに、ヤスリブに隠れ家をもとめた。このメッカ逃亡のことを、アラビア語で「ヒジュラ」といい、ムスリム暦は、この年--紀元六二二年--からはじまる。このヒジュラ暦は太陰暦、つまり月によって算定される暦だ。したがってそれは、われわれがふつうに使っている太陽暦年より五、六日みじかく、ヒジュラ暦による月は、いつもおなじ季節にあたるとはかぎらない。このようなわけで、おなじ月でも、今年は冬であったものが、数年後には真夏ということもありうるわけだ。
イスラム教は、ある意味では、それより少しまえからはじまっていたのだが、まずこの紀元六二二年の逃亡--「ヒジュラ」--にはじまるといってよい。ヤスリブの町はマホメットを歓迎し、かれの到来を祝してその名も「マディーナット・ウン・ナビー」--預言者の都--とあらためられた。あるいはこれをかんたんにして、こんにちよばれているように、メディナとよんだ。マホメットを助けたメディナの人びとは、「アンサール」--救援者--とよばれた。これらの「救援者」の子孫は、この称号を誇りとし、いまだにそれを使っている。おまえはすくなくとも、そのひとりを知っている--わたしたちのよいお友達M・A・アンサリーのことだ。
いよいよイスラム教と、アラブ人の征服のあとをたどるにさきだって、いちど周囲を見まわしてみよう。われわれがローマの崩壊を見たのは、ついいましがたのことだった。古代ギリシア・ローマ文明は幕を閉じ、それが築きあげてきた全社会構造はくっがえった。北ヨーロッパの部族や、氏族が、いくらか目立つようになってきた。かれらはローマから学ぼうとしながらも、じっさいには、まったく新しい型の文明をつくりつつあった。ただし、これははじまったばかりで、ほとんどまだ目にとまるほどのものはなかった。このように、古いものが去り、新しいものはまだこれに代わるところまでゆかなかったので、ヨーロッパは暗黒につつまれた。その東の端に、いまだに繁栄をつづけていたコンスタンティノープルがあったことは事実だ。コンスタンティノープルは、その当時も壮麗をきわめた大都会であり、ヨーロッパ第一の大都市であった。大円形劇場(アンフィシアター)ではさかんに試合や競技が催され、その華美とぜいたくは見るべきものがあった。それでもやはり、帝国は日ましにおとろえつつあった。ペルシアのササン朝とのあいだには、戦争が絶えなかった。ペルシアのホスローニ世は、コンスタンティノープルから領土の一部をはぎとり、アラビアに名目上の主権を宣言しさえした。ホスローは、またエジプトを征服し、コンスタンティノープルに迫ったが、ここで、ギリシア人皇帝ヘラクリウスによってついに破られた。その後ホスローは、かれ自身の息子のクヴァーのために殺された。
こうしてみれば、西のヨーロッパ、束のペルシアは、ともに苦境にあったことがわかる。これにくわえてキリスト教諸派のあらそいは、いつ果てるともしれなかった。西方や、アフリカに流行していたキリスト教は、腐りきった、暴力的なものだった。ペルシアでは、ゾロアスター教が国家と一体となって、人民に強制された。それでヨーロッパや、アフリカや、ペルシアのふつうのひとは、既成宗教に幻滅を感じていた。ちょうどこのころ、七世紀のはじめに、伝染病がヨーロッパじゅうに流行して、幾百万というひとが死んだ。
インドでは、ハルシャ=ヴァルダナの治世で、このころに玄奘の訪れがあった。ハルシャの治世のあいだ、インドは大強国であったが、しかしまもなく北インドは分割され、その勢力はおちた。もっと東へ行って、中国では、唐の王朝がまさにはじまったばかりであった。紀元六二七年、もっとも偉大な皇帝のひとりタイ・ツン(太宗)が即位し、かれの治世のあいだに中国は、西は遠くカスピ海にまでひろがった。中央アジアの諸国の大多数は、かれの宗主権を承認し、かれに貢ぎ物をささげた。たぶん、これだけぼうだいな帝国を治める中央集権政府はなかった、と思われる。
これが、イスラム教誕生当時の、アジアと、ヨーロッパの状況であった。中国は強大であったが、はるかに遠くへだたっていた。インドも一時は強国だったが、あとからのべるように、長いこと、中国とインドのあいだに紛争は起こらなかった。ヨーロッパと、アフリカは力を失い、消耗していた。
たたかいの七年のあいだに、マホメットはメッカに復帰して、その主人となった。これより以前にも、かれは、メディナから、世界の国王、君主に勧告を発して、唯一神と、その預言者について承認をもとめた。コンスタンティノープルの皇帝ヘラクリウスは、ペルシアでシリアとたたかっているさいちゅうに、これをうけとった。ベルシアの国王も、これをうけた。そして唐の太宗さえも、中国でうけとったといわれる。かれらは、この無名の人物が、大胆にもかれらに命令を発したということをあやしんだにちがいない! この勧告文の送付から、われわれはマホメットがいだいていたにちがいない、自己、およびその使命にかんする無類の確信の消息をうかがうことができる。そして、この信念と信仰とを、かれは自分の国民にうえつけ、それによってかれらをなぐさめ、はげまし、ついにはこの名も知られなかった砂漠の民が、そのころの世界の半分を征服することになったのだった。
信念と信仰は、それ自体すでに偉大なものだ。しかもイスラム教は、かれらに同胞愛--いっさいのイスラム教徒間の平等--の福音をあたえた。こうして、ある規模におけるデモクラシーが、人びとのまえに実現した。当時の腐敗したキリスト教にくらべて、この同胞愛の福音は、ひとりアラブ人ばかりでなく、かれらの行くさきざきの国の住民にたいしても、深くうったえるものがあったにちがいない。
マホメットは、ヒジュラ以後十年、紀元六三二年に死んだ。かれは、多数の相あらそう部族をひとつにまとめて民族とし、しかも、かれらをひとつの目標をめざす情熱に燃えあがらせるという仕事をなしとげた。かれのあとをついだのは、家族の一員であったアブーバクルで、これがハリーファもしくはカリフ、すなわち首長となった。この種の継承は、公会における非公式の選挙によるのがならわしであった。二年後にはアブ・バクルは死に、十年間カリフの職にあったオマルが、これを嗣いだ。
アブ・バクルとオマルは、どちらもすぐれた人物で、アラブとイスラムの隆盛の基礎をきずいた。かれらはカリフとして、宗教上の首長であると同時に政治的元首であり、王と、教皇とをひとつにしたような地位にあった。その地位はきわめて高く、かれらの国家ははなはだ強大であったにもかかわらず、かれらは簡素を旨とし、ぜいたくと虚飾をしりぞけた。しかし、かれら自身の一族や官吏は、たちまち華美とぜいたくの風習にそまった。それで、アブーバクルやオマルが、これらの官吏を叱責したり、処罰したり、その狂能に涙を流しさえした話が、たくさん残っている。かれらは、自分たちの強さはその質朴簡素な生活にあり、もしかれらがペルシアや、コンスタンティノープルの宮廷のようにぜいたくに流れたならば、アラブ人は腐敗し、滅亡するだろうと感じていたのだ。
アブ・バクルとオマルが君臨していたわずか十二年のあいだに、すでにアラブ人は、束ローマ帝国と、ペルシアのササン王朝を打ち破った。ユダヤ教徒の聖地エルサレムは、アラブ人に占領され、全シリア、イラクおよびペルシアは、新アラビア帝国の領土となった。

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大も小も同じ。それが位相空間

大も小も同じ。それが位相空間。ゆえにワープできる。
今日は大阪全握。9月の名古屋全握に生ちゃんが来るのであれば、見に行こうか。セントレアみたいだから、空港バスで一発です。アジアとか、日本各地から集まることになる。生ちゃんは個握に免除されているし、全握とミュージカルがぶつかるから、年に2回ぐらいしか握手できない。
小説は嫌いだ。言葉をフィーリングだけにしているから。
言葉は平等。2つの間の関係だけはある。
ヘッドはレベル2です。レベル3以下は散文になる。文学で言う言葉の羅列。未唯空間はレベル3まで。

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