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 『暴走する日本軍兵士』
  恐ろしいものと些細なもの
 『量子コンピュータが変える未来』
  量子コンピュータで変わる自動車の未来
   自動車の発展を支えるコンピュータ
   自動車業界は100年に一度の変革期~自動運転の先にあるもの~
   バンコクから渋滞はなくせるか~量子コンピュータが空想を現実に~
   未来の車のシステム
   シェアリングエコノミーが起こす変革とカーシェアリング
   ライドシェアリング
   マルチモーダル
   ラストマイル/ファーストマイル問題
   物流
   今後の発展
 『図書館コレクション談義』
  ドイツの小さな町の図書館
   英語もできない私がドイツ語を習う
   ドイツヘの旅立ち
   ドイツの南の小さな町、ホルガウにて
   図書館で「朝ごはんの会」
   世界遺産の街レーゲンスブルクで働く
   休日は買い物? それとも?
   レーゲンスブルク図書館コレクション
   ドイツ人司書VS.日本人司書?
   レーゲンスブルク街歩き
 『ノニーン!』
  フィンランド人の遺伝子に、組み込まれた「秘密の力」 『シス』
 『移民とAIは日本を変えるか』
  移民の社会的影響
   経済的影響を超える可能性
   日本国民が移民受け入れに感じている不安
  ドイツの経験
   ドイツにおけるゲストワーカー
   統合コースによるドイツ言語・ドイツ文化習得の難航
   ドイツにおける外国人犯罪の多発
   ドイツにおける国際結婚の潮流
   タイ人女性とドイツ人男性との国際結婚率の高さ
   トルコ人とドイツ人との国際結婚率の低さ
  ディアスポラ問題と宗教対立による軋榛
  多文化アプローチの失敗を認めたメルケルの演説
 『概念の主体性』
  哲学的理念と歴史
   哲学の歴史的立場
   哲学的批判の課題
   哲学の唯一性
   悟性の時代の歴史観
   ヘーゲルの歴史的立場
   哲学の時間性--ヘーゲルの歴史的思惟--
   歴史の時間性
   ヘーゲルの歴史論
   歴史的思考
   哲学の現在性
   ヘーゲル哲学と現代
   ヘーゲルの時代意識
   現代における死と生
   自己の開拓
   弁証法の精神と論理

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ヘーゲルの歴史論

 『概念の主体性』より 哲学的理念と歴史 哲学の時間性--ヘーゲルの歴史的思惟--
 歴史が歴史家の観点に応じて成立するということは、ヘーゲルの歴史論においても確認できる。ヘーゲルもまた歴史を三種類に分類する。それらは、
  A.根源的歴史
  B.反省的歴史
  C.哲学的歴史
 と呼ばれる。
 第一類の「根源的歴史」とは、歴史家が同時代の事件や行為や状況を観念の作品に作りかえるものである。歴史家は、自分たちが目の辺りにし精神を共有できる行為や事件や時代状況を記述し、外界の事実を精神の国に移しかえる。こうして外面的な事象を内面的な観念に変えるのである。それは、慌ただしく過ぎ去っていくものを繋ぎ止め、不滅の記録とするという意味を持つ。
 事実の記録といえば、没主体的な事件の単なる記述のように見えるかもしれない。だが、観念の作品という表現が示すように、歴史家の自覚的な働きがなければ、この歴史すら成立しない。伝説や民話や民謡にとどまらず、あるがままの事実を記録しようという態度は、自分の状態と自分の目指すところを自覚した民族において初めて生まれる。そうした民族こそが固有の歴史を持とうとするのである。従って、そこで書き記される内容は広範囲には及ばない。生きた現在として自分の回りに存在するものが基本的な素材となる。
 それ故、歴史家の文化的教養と記録される事件の文化的教養は同一であり、歴史家の精神と歴史家の語る行動の精神は同一である。この同一性にもとづいて歴史家はためらいなく事象に向かうことができる。彼の記述する内容は、彼が多かれ少なかれともに作り上げたものであり、ともに生きたものに他ならない。その歴史に反省が加わらないのは、歴史家が歴史事象の只中にあってその精神を呼吸しているからである。それ故にこそ、事実をあからさまに事実として語ることができるのである。
 このように見るならば、根源的歴史とは、歴史家の主体性が最も顕著に現れた歴史であると言うことができる。歴史家の認識関心のみならず、歴史家の実践的関心すらが歴史の関心であり目的と見なされることもありうる。主体なくして歴史もないということがここにおいてすでに洞察されるのである。
 第二類の「反省的歴史」は、このような同一性、一体性が失われたところに成立する。それには四種がある。第一のものは、一民族、二国土ないし世界の全体を概観する「通史」である。ここでは、時間的にも叙述の精神においても、歴史家の意識は現在を抜け出ている。歴史家の精神と過去の時代の精神は違ったものであることが多い。従って、素材の精神とは違う歴史家自身の精神によって素材が裁かれる。歴史家は、厖大な対象を簡潔に記すために要約の手段として思考を動員せねばならない。その時問題となるのは、歴史家が記述の対象とする行動や事件の内容と目的をどう捉え、歴史をどう組み立てるのかということである。主観と客観の間に距離があるだけに主観の振る舞い方が問題となる。
 だが、こうした距離の存在にもかかわらず、現在と過去の繋がりを見出そうとする働きが起こる。過去の叙述を生かし、現在に通用するものを過去から引き出そうとするのである。これが「実用的な歴史」である。そこには、事件は様々だがそれを貫く内的な繋がりは一つであるという想定がある。そして、この歴史が活気を帯びたものとなるか否かは、矢張り歴史家の精神によるのである。
 歴史家の洞察力が力を発揮し歴史に現在が確保されるもう一つの形が、「批判的歴史」である。それは歴史的事実に向かうのではなく、「歴史の歴史」であろうとする。すなわち、歴史的伝承や歴史的研究が真理か否か、信頼できるか否かの批判的考察と判断を課題とする。だが、それは、その意図に反して、高度な批判の名のもとに事実から遊離した想像力の飛翔を許し、非歴史的な妄想を混入させる可能性がある。主観的な思いつきが歴史的事実に取って代わるのである。
 高度な抽象を要しながらしかも歴史的事実の内面に透入することを求めるのが、芸術史、法制史、宗教史などの個別史である。だが、精神活動の各分野は民族の歴史の全体と関係を持つから、そこでは一般的な視点が要求される。そして、それが真に一般的な視点であるならば、外面的な繋がりをなぞるだけでなく、事件や行為の内面にあってそれらを導く魂そのものを表すものでなければならない。それは、理念こそが世界を導くとする「哲学的歴史」に通じている。
 第三類の哲学的歴史すなわち歴史を哲学的に考察することは、思考によって歴史を捉えることに他ならない。ここでは思考が最も重要な役割を演ずる。しかも、哲学は、理性が世界を支配しており、世界の歴史も理性的に進行するという思想を携えて歴史に向かうのである。歴史にとって理性の思想は未証明の前提たらざるをえないが、哲学にとってはそれは証明済みである。理性は実体であり、無限の力であり、自ら自然的生命と精神的生命を成り立たせる無限の素材であり、この内容を活性化させる無限の形式である。あらゆる現実は理性によって理性の中に存在し存在し続ける。理性は単なる理想像や目標ではなく、活動の素材を自分で自分に提供し、自分を糧とし自分を材料としてそれに手を加える。理性は理性のみを前提とし、目的とする。その活動は理性の内実を外に表すことである。かくて、すべての実在と真理は理性に他ならない。そこには自然的宇宙と精神的宇宙つまり世界史が含まれる。世界とは理性が啓示される場のことである。
 従って、人が世界史に向かう目的は、こうした理性の現実性の確認、現実に関する理性的な洞察ないし認識を獲得することである。知識の蒐集は副次的なことであり、必要なことは、世界史のうちに理性が存在しており、知と自覚的な意志の世界は偶然に委ねられるのではなく、明晰な理念の光のうちに展開するという信念を以て臨むことである。そこには、反省的歴史におけるように認識主体と対象の隔絶は前提されず、同一の本性を保持する精神がどの領域にも存することが想定される。認識主体のうちに理性が宿っているからこそ対象のうちに理性を把握することも可能だということになる。
 とはいえ、歴史は程造されてよいわけではなく、そのありのままを捉えるべく史実を経験に即して追うことを怠るわけにはいかない。この探究の過程では右の要求は過大であるとも思われる。それは前提されるだけではなく、全体を通覧して後に確認されねばならず、また全体を把握して初めて獲得できるものに他ならない。全体を認識している者のみがそれを主張しえ、未だ全体を把握していない者にとっては、それは独断的な教条にすぎない。
 しかしながら、史実をそのまま受け入れているだけのように見えても、歴史家の思考は単に受動的であるにはとどまらない。自分の思考の枠組みを通して事実を見ているのである。特に学問的に捉えようとするならば、理性を働かせ思考を傾注せねばならない。そのような態度と見方に対してこそ、世界のうちなる理性は見えてくる。「世界を理性的に見る者を世界も理性的に見る」とヘーゲルは言う。そして、理性の存在への確信は高められる。そこには循環があるが、それは不可避的かつ生産的であり、二つの事柄は互いに作用を及ぼし合う。
 だが、このことを認めるにしても、歴史的過程の中にある有限者にとって、理性の思想は逆説を含む。ヨーロッパにおいては、理性の世界支配という思想はアナクサゴラスに淵源し、キリスト教において具体性を獲得する。それはヘーゲルにおいて神とも精神とも理念とも言い換えられる。「理性が世界を支配している」。その支配の内容、その計画の遂行が世界史である。それが目指す目的は、「精神が自己の自由を意識すること」であり、「自由の原理によって世界の状態を形成し貫徹すること」である。自由の発展の過程として世界史を見る歴史観がここに成立する。それは、近代の自由主義思想に基づく近代的な歴史観であると言うことができる。
 だが、精神はその達成のために無限の力を行使する。無限の力とは有限な主体が意図して遂行することを超えて歴史を推進するということである。それは個人を犠牲にすることすら厭わない。諸個人が情熱によって行動することを許しながら、彼らの意図しなかった事柄のための道具、手段とする。「理性の読計」がそこにある。有限な諸個人から見れば、自らが情熱を賭けて為したことが達成されず、違ったことが実現されたという思いが生まれる。歴史は不条理であり逆説と見えるのである。
 自由への道はこのような屈折をはらんでいる。それによって真の自由は達成されるのである。それは「国家」の建設によって完成する。そこにおいて、有限な個人は理性を自己の実体として自覚し存在しうることになる。「実体的なものが人間の現実的行為と人間の心性の中で認められ、現存し、自己自身を保存すること、これが国家の目的である。かかる人倫的全体が現存することが理性の絶対的な関心である」。従って、世界史において問題となるのは、「国家を建設する民族のみである」。
 ここには、哲学的歴史の持つ三つの観点が認められる。「絶対的な究極目的としての自由の理念」、「手段としての主観的な知と意欲」、「自由の実在性としての国家」がそれである。こうした内容的視点から見る時に「世界が途方もなく愚劣な生起であるかのような仮象は消滅し」、世界は神的理念の純粋な光に輝く。既められていた現実は正当化される。だが、問わねばならないのは、まさに歴史の渦中にあって無限の力に翻弄されているかに見える諸個人にとって、かかる正当化は如何にして可能かということである。反省的歴史とは違って、ここでは「反省の道」は閉ざされる。
  「われわれはそもそも始めからあの特殊なものの像から普遍的なものに高まろうとする反省の道を拒否して来た。いずれにせよ、実際にこの感情を超越し、かの考察において課せられている摂理の謎を解くことは、矢張りあの感情に満ちた反省自身の関心ではない。むしろあの否定的な結果の空しい実りなき悲壮さを痛ましげに甘受することがそうした反省の本質なのである」。
 反省はただ歴史の悲惨な現実を前にして、「常にそうであったしそうであることが宿命であって何も変えることはできない」という宿命論に陥る他はない。歴史とは「民族の幸福や国家の英知や諸個人の徳が犠牲となる台」に他ならないと見える。とはいえ、そうした悲劇的な体験の中で「次の問いが思考に対して生起せざるをえない。一体誰に如何なる究極目的にそうした途方もない犠牲は捧げられているのか」。
 人間は歴史の不条理を思考によって正当化しようとする。それは伝統的な弁神論の要求に通じる。「われわれの考察は(……)弁神論に他ならない」とヘーゲルは言う。そして、こうした弁神論的要求にとってこそ、神的理念は意味を得るのである。これは悲劇的世界を前にしての逆説的な要請として理解することができる。理性の理念は、歴史の渦中からこのような要請として定立されるのである。神の世界支配という哲学的歴史観の根拠はここに存する。
 従って、哲学的歴史観は、常に正義を求める人間主体に根ざして生まれる。主体は過去を背負い未来に差し向けられている。それは単に知の主体であるだけでなく、未来に向けて実践する主体である。正義を実現しようとする価値的主体でもある。そうした主体にとって、知は単に悲劇的現実を諦観するだけでなく、行為を導く指針を提供するものでなければならない。
  「行為者は活動しつつ有限な諸目的や特殊な利害関心を有するが、彼はまた知りかつ思考するものでもある。それら諸目的の内容は、権利や善や義務等といった普遍的で本質的な諸規定と織り合わさっている。かかる普遍的な諸規定は、同時に諸目的と行為の方向線である。(……)人は行為しようと思うならば善を意志するだけでなく、あれこれのことが善であるか否かも知らなければならない」。
 人々が安穏な国家生活を営んでいる時には、「いかなる内容が善であり善でないか、正当であり正当でないか、は国家や法や慣習において与えられる」。それが通常の個人生活を導く。
 だが、歴史には「現存の、承認されている義務、掟、権利としての体系」が毀損され、その基礎と現実が破壊され、大きな衝突が生じる危機がある。既存のものに対して、善、有利なもの、本質的で必然的と見える諸可能性が対立する。それは、歴史の転換者、転轍手たる世界史的個人すなわち英雄の登場が期待される時代に他ならない。
 彼らは「安定し秩序づけられ現存の体系によって聖化されている事柄の秩序から目的と使命を汲み取る」だけでなく、「その内容が隠れていて現存の定在となりえていない源泉から汲み取る」。それこそが「世界精神の意志である実体的なものを含んでいる」のである。世界の隠れた動向を察知しそれを現実化するところに、世界史的個人の洞察と創造的活動がある。彼はすぐれて「実践的政治的人間」として「何か必要であり、何か時に適っているか」を洞察する。「世界の必然的な次の段階を知り、これを自己の目的とし、その力をこ。の目的に注ぐ」のである。その目標は、新たな国家の形成に他ならない。だが、「或る民族が真なるものとみなすものの定義を与える場」は宗教に他ならない。従って、世界史的個人はまた宗教の創設者でもなければならない。さらには、哲学と芸術も彼の洞察に参画しなければならない。こうして、哲学は世界史的個人とともに歴史的変革の現場に臨むこととなる。
 哲学は世界史的個人の実践的営為と深く結びつくことが分かる。哲学的歴史観は合理的なものを達成せんとする実践的関心とともに成立する。この意味で、「世界を理性的に見る者を世界もまた理性的に見る」という言葉が理解される。実践的合理性を追求する者に対して、世界は合理的なものという評価と位置づけを与えるのである。
 とはいえ、理性的なものの一般的な追求は課題として明らかであるとしても、何を理性的としまたしないかは個別的判断に委ねられる。それは世界史的個人の洞察にのみよることであり、その洞察の内容は実践的行為において示される他はない。従って、ただ彼の為しえたこと、すなわち結果のみが洞察の正しさを証しすることができる。ここではプラグマティズムの真理基準が適用される。従って、世界史的個人はおのれの信念に基づいて前進し、その結果を確認する以外にはない。自己の意図の実現のために諸々の価値観との熾烈な闘争も辞することはできない。
  「世界史的個人は、あれこれのことを欲し多くの観点を採用してみる冷静さを持たない。それは何の顧慮もなく一つの目的に仕える。従って、次のような事態も生じうる。他の偉大な、それどころか聖なる諸々の関心事を軽率に扱うため、その挙動は明らかに道徳的非難に曝される。だが、彼ら偉大な人物は多くの罪なき花を踏みしだき、多くのものを自分の道中で破壊せねばならない」。
2019年08月25日(日) ヘーゲルの時代意識
 『概念の主体性』より 哲学的理念と歴史 ヘーゲル哲学と現代
 ヘーゲルは彼の時代と哲学的思索の関係について極めて敏感であった。彼がどのような時代にあったかは、彼の時代意識に映し出されている。それを端的に示しているものは、『精神の現象学』序文における「実体喪失」という言葉であろう。それは実体的生に充たされた古代、中世に対して近代を特徴づける言葉である。神的なものを頂く共同体の結束が破れ、個々人が拠り所を失って孤立したアトムとして無秩序な世界に投げ出されている様をそれは表している。政治、社会、経済構造のこの変動と並行して起こったものが、「没実体的反省」に立脚する近代哲学であった。デカルトの自我の発見に始まる諸思想を、ヘーゲルは「反省哲学」の名で呼んだ。それは、デカルトの物心二元論を始めとしてあらゆる物事を対立的分裂的に捉えようとするものであり、近代の一切の政治的、社会的、文化的な変革を規定したのである。宗教改革の精神もそこにあった。
 パスカルがデカルトを評して言ったように、そこには無神論の萌しが認められる。「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学の中で、できれば神なしに済ませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初の一弾きをさせないわけにはいかなかった。それが済めば、もはや彼は神を必要としない。無用にして不確実なデカルト」。少なくとも神は人間の前から姿を消し、「隠れたる神」となった。パスカルは神なき世界の永遠の沈黙に恐怖を覚えた。「この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる」。「この空間は私を知りもせず、また私の知りもしないものである」。それは、デカルトによる確実な知の追求とは裏腹に、近代人が存在に不安を抱いていることを示すものであった。
 ヘーゲルは、パスカルの言葉とともに、近代の宗教の根底に「神は死んだ」という感情のあることを指摘している。パスカルは、「自然は人間の内においても外においても至るところで失われた神を告知している」と語ったのである。
 それにもかかわらず、近代哲学は反省文化の大道を歩む。それは、積極的に言えば、自己にのみ立脚しようとする近代的人間の自立と自負の表明であり、自己の世界を構築しようとする意欲の現れである。それが市民革命の理論としての「啓蒙主義」に繋がることは言うまでもない。しかし、フランス革命末期の恐怖政治に見られるように、人間の絶対的自由の追求は、人間自身を制禦不可能なものとすることが明らかとなった。ハイデガーの言う「近代人の蜂趣」は大きな挫折に遭遇する。それは、ホルクハイマーらによって「支配の原理の弁証法的反転」、「啓蒙の弁証法」として反省される問題に通じている。人間は自立性を維持することができず、却ってそれを放棄し、新たな拠り所を求めねばならなくなる。
 ヘーゲルは、そうした混乱した時代状況を「分裂の時代」と呼んだ。そして、この分裂を超えることを哲学の課題としたのである。分裂の内に哲学の端緒はあり、「分裂こそは哲学の要求の源泉に他ならない」。引き裂かれた諸断片が有限なものであるとすれば、哲学はこれら有限なものを超える無限なものの追求であり、相対的なものを超える絶対的なものの探究に他ならない。ディオゲネスーラエルティウスが「ピュタゴラスは自分を哲学者と呼んだ。なぜなら、人間は知者ではない、ただ神のみがそうだからである」と記したように、愛知(ピロソピア)としての哲学は、神と人間との断絶を前提し、人間は本来無知なるが故に知者(ソポス)たらんと努めるのだという哲学の原義からすれば、ヘーゲルの態度はまさしく哲学的であった。そして、この意味で自分を哲学者と名乗ったのは、ソクラテスであった。ヘーゲルが、『差異論文』において、哲学の課題は「絶対者を意識に対して構成すること」であるとするのは、この伝統に適っている。
 それは、分裂によって生きた連関を見失った近代人が生を回復しようとする努力であ誕゜「哲学の課題は`存在を非存在へ、生成として、分裂を絶対者のうちに--その現象として、有限なものを無限なもののうちに--生として措定することである」。そして、分裂によって引き裂かれた全体は、「最高の分裂からの回復を通してのみ最も生き生きした形で可能となる」§声切・邑、とヘーゲルは言う。キリスト教に依拠した初期以来の生の思想が、この問題と繋がりを持つ。それによって、ヘーゲルは近代を超克しようとするのである。
 このように見るならば、『精神の現象学』において「不幸な意識」が「精神の生誕の中心地」として意味づけられていたことが納得される。まさしくパスカルが「神なき人間の悲惨」を捉えたように、分裂の只中で絶対的なものを見失った近代人による神の探究として不幸な意識を捉えることが可能である。そして、それは、究極のところ、自己意識に傲る近代人が見かけの自立を放棄するのでなければ達成されないことになっている。『差異論文』の言葉を引けば、「死の跳躍」が必要とされるわけである。近代人における死の意味が問われることになる。

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