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Uberは私たちをどのように変えたか

『Uberland ウーバーランド』より Uberの新時代
 ドライバー・フォーラムは、こんにち最も重要なふたつの社会的トレンド、すなわち、臨時労働の拡大と社会におけるデジタル通信ネットワークの優位性をUberがいかにまとめあわせたかについて、ひとつの実例を提供する。雇用主は業務委託契約などによって、労働者から距離を置くようになり、Uberもその例外ではなく、ドライバーを個人事業主に分類して、彼らを価値の低い消費者のように取り扱い、アルゴリズムによって管理しているUberは労働の動向を利用し、分散された労働力のなかで、仕事の機会を拡大することによってその身をたてると、アルゴリズムはこの会社が設定するルールを実施する。アルゴリズムはフェイスブックやグーグルといった消費者志向のテクノロジー・プラットフォームでューザーを管理する。雇用主と遠く離れたところにいるドライバーは、デジタル文化に頼って、アルゴリズムの上司から直接得ることのできない情報をクラウドソースする。雇用主が労働者に対する責任を回避するとき、職場文化に隙間が生まれることになるのだ。
 その一方で、インターネットとデジタル文化は、労働者やその他の人々にチャンスの第二の波を切り開き、彼らの抵抗をネットワークでつなぐ。これは搾取を防ぐものではないし、ふ九全に信頼できるものでもない。労働条件が頻繁に変更される可能性がある仕事では、一部の情報--個別の実験、突発的な料金設定ポリシー、テスト機能などに関する情報--は、あっという間に広がる可能性がある。誤報が同じ経路から拡散すると、ドライバーの対話の信憑性は危うくなる。アルゴリズム的マネジメントからネットワーク化された抵抗に至るまでのこうした力関係は、Uberが単に社会の注目を集めるだけの存在ではないことを物語っている。この会社は、足を踏み入れたあらゆる場所で、一連の果てしない波及効果を生みだしているのだ。
 Uberの慣習やその個々の影響のほかに、ウーバーランド全体に何度も姿を現わすテーマは、Uberがいかにテクノロジーの言語を使用して、アイデンティティの役割を破壊しているかということだ。Uberは自らを輸送会社ではなくテクノロジー会社と呼んでおり、この区別を利用して、たとえば、なぜ自分たちが障害をもつアメリカ人法に従う必要がないか、つまり車椅子の人が利用できる輸送手段を提供しなくてもよいかを正当化している。何十万人もの労働者がUberのプラットフォームで仕事を探しているが、Uberは雇用主という役割から距離を置いている。Uberは、ドライバーは独立したアントレプレナーであると宣伝するが、自動化されたアルゴリズムの上司を介して、ドライバーの仕事中の行動をコントロールしていることを覆い隠しているのだ。テクノロジーは「接続しているもの」なので、Uberは自らが提供する仕事とサービスを、シェアリング・エコノミーにおけるシェアの一タイプだと見なしている。事実上、賃金労働の価値を下げ、それを女性化するメッセージである。賃金損失のような問題は、「不具合」などのテクニカルな言語で処理される。価格差別の市場論理は、人工知能のイノベーションとして組みなおされる。私たちがこれと思うものが実は別物だということを主張するために、テクノロジーの言語が修辞的に使われていることを私たちは何度も目にしている。ウーバーランドはテクノロジーのからくりによって動かされているだけでなく、アメリカ文化を実質的に支配しているテクノロジーによる説得によっても動かされているのだ。
 アメリカの労働人口におけるUberドライバーの数は全体としては少ないが、こうしたドライバーは、臨時労働の長期にわたる拡大傾向を拡散し強化するテクノロジーの役割を象徴するようになった。ローレンス・F・カッツとアラン・B・クルーガーというふたりの経済学の第一人者によると、「UberやTaskRabbitなどのオンライン仲介者を通じてサービスを提供する労働者は、二〇一五年には、全労働者の〇・五パーセントを占めていた」ことがわかった。だが、Uberがテクノロジー文化、ビジネス、仕事に与えた影響は、その運営のしくみに劣らずUberの成功のパワフルな文化的手段なのだ。アメリカ社会におけるシリコンバレー・テクノロジーというポピュラー・カルチャーは、私たちにUberの雇用テクノロジー・モデルを受け入れる準備をさせているUberが文化にもたらす不釣り合いな影響は、サービスとして、また常にメディアに注目されるものとしての遍在的な存在を通じて明らかになる。なぜならそれは、対立を引き寄せる磁石のようなものだからだ。そしてUberがドライバーに設定する条件は、私たちが労働の未来において、テクノロジーの役割を取り決める基礎となる条件を決定するのだ。
 Uberのひときわ目立つ共同創業者であるトラヴィス・カラニックは、最終的にシリコンバレーの戦士王を象徴する存在となった。「デカコーン]〔評価額一〇〇億ドル以上の未上場のスタートアップ企業のこと〕としてのUberのステータスと、およそ七〇〇億ドルという評価額にも関わらず、カラニックは二〇一七年、ついに辞任に追いやられた。尽きることのないスキャンダルが、この会社の未来を危うくしたからだ。長年シリコンバレーのジャーナリストをしてきたサラ・レイシーは、二〇一七年七月一四日に、モントリオールで行なわれたスタートアップ・フェスのキーノート・スピーチで次のように述べた。
  シリコンバレーは地元で育った文化です。最高の価値をもつ会社がどこであろうと、それは、この時代のあらゆる文化に不均衡な影響を及ぼします。IPO(上場)直前という立場から、シリコンバレー史上最高評価額の七〇〇億ドルを誇るようになったUberをはじめ、これほどのレベルはかつて目にしたことかありませんでした。全権を創業者が握っているのです。三年にわたるスキャンダルを経て、創業者はついに失脚に至ります。彼らに何十億ドルも稼がせた破壊と違法行為、その評価とマスコミ報道などすべてが原因で--この会社は、タクシー法を破ることと、労働法を破ること、そして企業秘密を盗むこととのちがいがわかっていないことが判明したのです。
 自らの活動に対する規範的規制を適切に遵守するのをUberが攻撃的なまでに無視したことは、シェアリング・エコノミーがアメリカ社会に広めている男性的な破壊の態度のひとつと言えよう。
 とはいえ、Uberの評判が目まぐるしく変化していても、それが必ずしも、Uberがもつもっと大きな遺産に影響を与えているわけではない。Uberの考え方は、社会におけるテクノロジーの望ましさを、私たちがどのように想像するかという点で重要なことは確かだ。世界的高みへと上りつめていくなかで、Uberはテクノロジー楽観主義者の合言葉となった。多くの都市にとって、Uberを迎えることは最先端であることの証しであり、少なくともグローバルなテクノロジー・ビジネス市場の一部であることのしるしなのだ。UberとLvffが二〇一六年五月、彼らに運営条件を課そうとする規制当局の取り組み(データシェアリングやドライバーの指紋ベースの身元調査など)に対する抗議として、すばやく腫を返してテキサス州オースティンから撤退したとき、このことは、「Uberを失ったオースティンは、もはやテックの首都ではなくなった」といった、やたらと批判的な見出しでもってメディアに取りあげられた。シェアリング・エコノミー会社を受け入れることに対して、カナダで最も気が進まなかった主要都市、バンクーバーでは、心配したブリティッシュコロンビア大学の卒業生やコミュニティの専門家らが、二〇一六年一一月末に行なわれた「バンクーバーはなぜシェアリング・エコノミーヘの参入にこれほど遅れをとっているのか?」といったパネルに参加した。
 大都市でUberが不在であることは、その都市の評判に傷をつける。それは、進歩的な仲間に遅れを取っている証拠になるからだUberを利用することは、都市によっては社会の基盤、すなわち、多くの人にとって標準的な民間輸送手段となっている。二〇一七年五月、オハイオ州ペインズビルの地方裁判所判事が、飲酒運転で有罪判決を受けた者に対して、保護観察条件の一環としてUberとr莽をダウンロードするよう命じた。消費者にとって、Uberのない地域へ旅行するという経験は、カルチャーショックのように感じられる。それはまるで、アメリカ人やカナダ人がョーロッパに行って、トイレを使うのにお金を払わなければならないことを知ったときと同じくらい当惑することかもしれない。
 Uberはスマートフォンにダウンロードする単なるアプリというだけではない。それは私たちが街を移動する方法を変える。WhatsAppがブラジルでしているように、またWazeがイスラエルでしているように。ブラジルでWhatsAppを停止することは、国全体の通信を無効にするも同然だ。同様に、肖吋がイスラエルのドライバーに、主要道路を避けよという誤った忠告を流したとき、とんでもない交通渋滞がそれに続いて起こったという。G)ヽ「の考え方とそのビジネスモデルの論理は、すでにcberそのものを超えているのだ。
 私たちは労働者として、そして消費者として、シリコンバレーのアルゴリズムを毎日の生活のなかに統合してきた。Uberのケースは、テクノロジーが思いも寄らない、潜在的に取り返しのつかない方法で、仕事というものを変えてきたことを私たちに示している。シェアリングーエコノミーは利他的な貢献と仕事を合体させ、労働者のアイデンティを疑問に付し、仕事そのものの価値を下げることによって、労働文化に広範囲の変化を普及させた。一方で、cy「は労働者の法的地位に関する自らのビジョンを発展させ、彼らは労働者というよりもテクノロジー消費者に近いということを強調した。一見、法律を尊重しているようなこのニュアンスは、実は、私たちが労働を分類する上での文化的な目覚ましい変化なのだ。
 アルゴリズムによって動かされているUberの雇用モデルは、私たちの労働の定義のしかただけでなく、その組織のされ方をも、テクノロジーがいかに永久的に変えようとしているかを示している。Uberが働き方の定義を変えようとして事業を始めたとは思わない。それよりも、事業の危機を切り抜けようとするとき、Uberは、より幅広い文化的底流を感じとり、それらをどのように効果的に結集すれば自分たちの慣習を守り抜くことができるかを知っているように見える。Uberがその途上で引き起こす対立は、そうした慣習に私たちがどれほど苛立ちを感じているかを例証しているが、究極的には、ひとつのアイデアとしてのC7「の成功は、この会社を一〇億ドル規模でグローバルに現実にしたその慣習を容認しているのだ。そしてUberにいま何か起きているかに関わらず、その変化はすでにそこに存在している。
 Uberとドライバーとの間の対立関係は、私たちの新しいデジタル時代に、労働関係がどのように形成されているかを示す一例だ。消費者のアルゴリズム的マネジメントの隆盛は、シリコンバレーのデータドリブンのテクノロジー全体に普及している。こうしたシステムに出会わずして、毎日の生活を送ることはできない。GoogleマップなどのGPSナビゲーション・アプリは、推奨経路を生成し、交通路をクラウドソースする。フェイスブックはアルゴリズムのエンジンに頼って、私たちが消化する情報をキュレーションしている。私たちは、フェイスブックやグーグルをシェアリング・エコノミーの一部として想像することはない。たとえテクノロジー・プラットフォームが中立性というレトリックによって覆われていても、ウーバーランドは、ューザーを必然的に不利な立場へ追いやらざるを得ないプラットフォームの力を明るみに出しているのだ。
 ドライバーは乗客と同様、この会社のテクノロジーの消費者だというUberの利己的な論拠は、表面的には規制逃れのためのさらなる策略のように見える。つまるところUberは、ルールが追いついてくる限り、方針を変えていくことで名を馳せてきた。だが、よく見ればUberはドライバーを、実際には消費者のようにも労働者のようにも扱っているのだ。こうした境界線をあいまいにすることで、Uberは、私たちが自らを労働者または消費者として考える方法にひとつのレガシーを生みだしているUberはこの戦略的なあいまいさから利益を得ている。というのも、どちらのルールがUberのモデルに適用するかを決めるのは難しいからだ。ドライバーは自分のやった仕事にお金が払われない場合、労働法に基づいて賃金泥棒を申し立てるべきか、それとも、消費者保護法に基づいて、不公平で人を欺くようなやり方に対する補償を求めるべきか? Uberは法律だけでなく規範をも壊し、その両方の脆さを露呈した。Uberが先導するこの新しい規範が、労働者と消費者にとってよりよいものなのか、より悪いものなのか、その答えはまだ見つかっていない。
 Uberの影響は奥深い。この会社が乗り越えるスキャンダルにもかかわらず、そしておそらく、メディアにおけるその持続的な露出ゆえに、口’)aは大衆の想像のなかで、労働の未来として捉えられているのだ。同時にUberのストーリーは、いまやあたり前のものになったテクノロジーによって、私たちがどのように弄ばれているかの一例に過ぎない。端的に言えば、私たちはテクノロジーを使いたいのだから。オーソドックスとは言えないアプローチでUberは数多くの利害関係者--ドライバーから乗客まで、労働者から消費者まで、テクノロジー業界からタクシー業界まで、そして政府や規制当局から市民権運動グループまで--に合わせて、さまざまな方法で活動の場を変えてきた。とはいえ、おそらくもっと重要なのは、Uberがシステムのルールを有利に使うことによって、シリコンバレーのアルゴリズムを利用して労働のルールを書き換えたということだろう。

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