未唯への手紙
未唯への手紙
カーレス対応
9月になったら、カーレスだから、30冊の持ち運びはムリになる。運搬方法を考えないと。
カーレースもドライバーが不要になる時代は近い。
農民こそが陸軍に多数の従順な兵士を供給した
『独裁と民主政治の社会的起源』より 政治的帰結--日本ファシズムの本質
アメリカの農地改革前の日本の村落の最も著しい特徴は、富裕な者による支配と、公然たる紛争の忌避とであった。村落における権威の主要基盤は土地所有であった。その結果生ずる諸関係は、国家により時には暴力によって支持された。しかし、その諸関係が幾分かは年月と伝統と習慣とによって和らげられ、受け入れやすいものになっていたことも事実である。在村地主はしばしば村落の問題を処理した。もっとも、大地主は雑事を他人に押しつけ、自分はうしろで権威を振り回すだけであったろうが。小作人も時には、それほど重要でない村落の役職にありついたかもしれない。多くの村落、あるいはもっと広い地域には、いくつもの結婚で結びついた数家族の地主の小集団--「キッシング・リング」という生々しい言い方で知られているもの--があり。地方の問題を処理していた。一般に小地主がムラの有給役職員になるのが普通であった。彼らは安い給料を小作料で補うことができたからである。
地主が勝手に小作人の唯一の生活手段を取り上げうるのは、あるいはそのような極端な行動をとる可能性が大きかったのは、おそらく極限的な場合においてのみであったろう。しかし、小作人の生存手段に対する地主の権力は、数多くの巧妙なやり方によって、小作人やその他の人々に常に明らかにされていた。農民の地主に対する関係を律していたのは、敬意を表わして従うという念の入ったしきたりの裏にある、この窮極的な罰であった。小作人は注意深く「地主の顔色」をうかがっていた。この叙述はR・P・ドーアによっているが、彼は地主の権威の暗黒面を過大評価するのではなく、むしろ過小評価する人である。そのドーアでさえ、小作人が敬意を表わし従うのは、経済的に従属しているという厳然たる事実に基づいて、利益とむきだしの不安の種とを意識的に計算したその結果であると、結論づけているのである。従って、アメリカ人訪問者を珍しがらせ、自分の経験と対照的であると考えさせた、日本の敬意を伴う服従の精巧なしきたりの源泉は、少なくとも農村部では、不安と従属とであった。アメリカ人訪問者は、合衆国における肩のこらない親密さの背後に敵意があることは知っていたが、日本人の礼儀正しさの歴史的起源も、当時の意味も見そこなったと考えてよいかもしれない。アメリカによる農地改革の結果として、あるいはその他の理由によって、経済的従属関係が消滅した所では、身分や敬意を伴う服従の伝統的な構造は崩壊してしまった。村落における寡頭支配や日本人の礼儀作法の経済的根拠に疑いがあるならば、その一部が消滅した状況を調べれば、関係がよくわかるであろう。
大土地保有農家の回りに小土地保有農家を配するという衛星型の体制は、最近まで持続した。その理由は、この体制が小作制によって市場経済に適応可能であったこと、更にこの体制に挑戦する勢力が勃興しなかったことによる。日本の村落の連帯と「調和」、及びあからさまな紛争の忌避--これはおそらく抑圧と呼ぶべきであろうが--もまた、多少とも近代に適応した封建遺制であった。近代以前の村落では、この連帯は領主の徴税政策や温情主義的監督ばかりではなく、農民相互間の経済協力体制からも生じていた。両大戦同期にはこの両方の要素が近代的形態において作用し続け、今日ですら同様な効果を数多く持ち続けている。詳しくは述べないが、村落に対する貨幣経済の継続的な浸透が、旧来の関係に幾分緊張をもたらしたが、これまでのところあまり大きな変化はおこっていないといえば充分であろう。
村落の結束を持続させる方向に働いた諸要因は、広い意味で政治と呼ばれる側にもあった。富者と貧者を分裂させるような「大」争点は、徳川期の地方レヅェルでは決定的でなかったし、近代の地方レヴェルにおいても同様である。地域共同体にのみ影響を及ぼすような「小」争点は、学者の会議に出席した人なら、誰でもよく知っているようなやり方で処理されている。それをまとめて、退屈と疲労を通じて合意を達成するやり方、と呼んでもいいかもしれない。おそらくこれは、社会学者の一部がいまだ熱心に追求している普遍概念、又は法則のひとつであろう。これは基本的に、意見のある者に延々としゃべらせ、集団が全体としてひとつの決定に進んで責任を持とうとするまで待つというやり方である。日本では、他の国でも同じかもしれないが、真の議論は通常公衆の目に触れないところで行われる。その方が、率直な話し合いができ、妥協の可能性を増やすかも知れないからである。この仕組みは、個々人が抱いている意見に対する執着心を、意見の合理的根拠よりもはるかに重く見ている。同時にこれは、相対立する意見の自由な交換を許す限りにおいて民主的である。このような対立は、相争う党派が委員会室の外でもほぽ勢力が等しい場合にのみ生じる。指導的農家が複数であった近代日本の村落においては、このエリート集団内で激しい議論がなされたようである。但し、繰り返し強調しておかねばならないが、それはあくまでも地方の争点に関してであることを忘れてはならない。日本は、民主主義的価値に関する自生的な伝統を全く欠いていたが、その制度的特質の一部を完全に自分の土壌から発展させたように思われる。本当に民主的な国々からすれば、日本は最も重要でない点で最も効率的にデモクラシーを発展させたと思われるかもしれないが、それは酷にすぎよう。
日本近代史の全体主義的段階において、村落は、農村社会に浸透し支配するという徳川期の手法を生々しく思い起こさせるやり方で、国家構造に統合された。直接の歴史的継続性があるか否かは、資料からは明らかではない。たとえ継続性がなかったとしても、上述の取り合わせは、日本封建制の重要な特質が容易に二〇世紀の全体主義的制度に適合したことを示している。
徳川期の農民層に課せられた五人組制度が、連帯責任を目的としたものであることを、読者は思い起こすであろう。五人組は農民に善行を勧める村落内の立て札によって補強された。一九三〇年以降、政府によって隣組が組織され、各々に長が定められた。ドーアによれば、この体制によって中央政府は、上からの官僚行政指導と相侯ち、直接的人間関係による下への命令系統を通じて、あらゆる家庭に介入することができたという。命令は回覧板を通じて、内務省から個々の家庭に下達された。重要事項の場合は、各家庭は命令を受けたしるしに印鑑を押さねばならなかった。このやり方によって、配給や、統制食糧の集結や、戦債の募集や、全般的な耐乏策など、様々な目的のために農村住民を効果的に組織しておくことができたのである。アメリカの占領軍司令部は、上意下達のコミュニケーション体制を廃止したが、地方組織は存続した。地方組織には果たすべき機能があったからである。現に残存しており、村人が軽視するかもしれない立て札以上に効果的な広報手段であったからこそ、すぐにそれらは再び機能し始めたと言ってよい。
一七世紀以降の日本村落史をふり返る時、歴史家を最も驚かせるのはその継続性であろう。寡頭支配構造、内部の連帯、上級の権威との効率的な垂直の結びつき、これらはすべてほとんど変化をこうむることなく生き残った。近代に入って、市場のために生産しなくてはならなかったにもかかわらずである。しかし、歴史的継続性それ自体では説明にはならない。むしろそれこそが説明を必要とするものであり、他の多くの要因が変わってしまったという場合には、特にそうである。最も重要な点だけをあえて言えば、地主が旧来の村落構造を通して、最高の地位を保つに充分な余剰農産物を絞り取り販売することができたからこそ、地主は旧来の村落構造の大部分を維持したのだ、ということになろう。それに成功しなかった地主の一部は、農本主義的な擬似急進主義運動に加わった。擬似親族関係に代えて小作関係を採用することは、唯一の必要な制度的変更であった。これはすべて、事実が物語っているように、伝統的方法が生産性を大きく伸ばしうる米作においてのみ可能であった。一八世紀イギリスの地主や、一六世紀プロイセンのユンカーや、二〇世紀ロシアの共産党員と異なり、日本の支配諸階級は、現にある農民社会を破壊しなくとも、やっていけることを発見した。伝統的な社会構造を通じての労働が、もし結果をもたらさなかったとすれば、日本の地主が他国の地主以上に村落を守ろうとしたかどうかは疑わしい。
日本の政治・社会制度が資本主義の諸原則に適応可能であったために、日本は近代史の段階に入るに際して、革命という犠牲を払わないですんだ。日本がこの初期の恐怖を免れたことが理由のひとつとなって、日本は後にファシズムと敗戦とによって打ちのめされることになった。広い意味では同じ理由から、ドイツも同様であった。革命を回避して近代に入る代償は、きわめて高いものである。この代償はインドにおいても高いものについている。しかし、インドでは見せ場は未だ来ていないし、筋立ても登場人物も異なっている。それでもなお、これまでの事例から学んだ様々なことは、インドでの物語が何を意味するかを理解する一助となるであろう。
ザ・ワン・デバイス 秘密主義と社内政治でめちゃくちゃになったアップルの内情
『ザ・ワン・デバイス』より 秘密主義と社内政治でめちゃくちゃになったアップルの内情
「紫寮」、別名「ファイト・クラブ」、または「インフィニット・ループ2番地の二階」-いずれにせよ、そこは人でいっぱいだった。
アップル本社が建てられたのは一九九〇年代初頭だ。ホールには紫色や青緑色の円がアクセントとして点々と描かれ、別棟の会議室には「ビトウィーン」「ロック」「ハードプレイス」など、こしゃくな名前がついている。「ディプロマシー」という名の会議室は、グレッグ・クリスティーのチームが新しいUIを大騒ぎで作り上げた場所。大会議室の「フィッシュボウル」には週一でスティーブ・ジョブズが現れたものだ。
二〇〇六年までにはiPhoneプロジェクトの基本的な輪郭が決まっていた。MacOSチームと通称〝NexTマフィア〟がソフトウェアの開発を担当。彼らと密接に連携しながら、ヒューマンインターフェース(HI)グループがアイデアに磨きをかけ、まとめ上げ、新しいデザインを考え出す。困難が予想される(ードウェアの開発はiPodチームが担当。別のチームはMacOSを携帯デバイスに転用するため、使えるコードを見つけては贅肉をそぎ落とす作業にひたすら没頭した。かの有名なIDグループは、フォームファクタ(形状因子)を完璧にする作1の古びたオフィスを中心にiPhoneプロジェクトが回り始めた。
「おいおい、本当にやるのか? という感じでしたね」とオーディング。「実際には写真の一覧表示はどんな方法で見せるのか、メールの使い方の細部やキーボードの使い方はどうするのか、詰めるべき点が山ほどありました」
すでにHIグループは、新しい携帯電話のルック・アンド・フィールがどうなるか、基本的特徴のアイデアを固めていた。そのコンセプトはとても魅力的で、低リスクながら魅力に劣る〝iPodフォン〟に取って代わるものだった。HIチームのチョードリーはこう話す。
「最大の課題は安心感でした。コンピュータは難しすぎると普通の人は考えます。Macでもね。だから私は、自分の父でも使えるようなインターフェースを目指したのです。誰でも直感的に操作でき、安心して使えるような」
フォーストールの下でソフトウェア開発の中心となったアンリ・ラミローも、HIグループのコンセプトを高く評価した。ラミローはiPhoneチームのなかで、誰からも一目置かれる存在だ。冷静沈着でバランス感覚に優れ、チームに問題が起きた時もみなを落ち着かせた。誰もが知るアップルの支配者のキャラクターと好対照をなす人物だ。軽快なフレンチ・アクセント、わずかに白いものが交じるあごひげ、エンジニアというよりも前衛彫刻家に見える。ラミローいわく「HIグループの作った試作機はよくできていました。どんなルック・アンド・フィールになるのか、UIがよくわかりました」
その試作機には、すでにアイコンやDockも盛り込まれていた。ラミローのチームは、そのアイデアを実際のプログラムに落とし込み、携帯電話に合うよう小型化する作業を担当した。夕ッチスクリーンのP2チームはこの試作機を〝ワラビー〟と呼んだ。ワラビーは紫寮で行われるさまざまな実験に欠かせないツールとなった。
もとはインターフェース・デザイナーの本拠地だった紫寮に、ソフトウェア・エンジニアが大挙して移動してきたのには理由がある。iPhoneを生み出すにはデザイナー陣営とエンジニア陣営の緊密なコラボレーションが必要だったのだ。デザイナーは気楽にエンジニアのところに立ち寄り、新たな思い付きが本当に使い物になるか確認できる。エンジニアはどの部分に修正が必要なのか、デザイナーに簡単に伝えられる。二つのチームがここまでしっかりとまとまったケースはアップルでも珍しかった。
リチャード・ウィリアムソンは、みんなで一つの目標に向かうという一体感があったと振り返る。「山ほどあった共同作業がうまくできた理由は、みんながあの閉ざされた部屋に押し込められていたからです。最大でちょうど四〇人いたでしょうか。インフィニット・ループ2番地、ジョニー・アイブのIDスタジオの真上を(iPhone開発の)〝ハブ〟にできたのです。みんな数年間、あそこに住んでいたようなものです」
当時のメンバーの一人は「オールスター・チームでした」と言う。「社内でもトップの連中だけが選ばれたのは明らかでした。その全員が全力を出し切ったのです。誰も電話を作った経験はなく、作業を進めながらやり方を見つけていきました。デザイナーとエンジニアが隣同士に座り、一緒に問題解決の道を探しました。あれほど自分の考えを製品に反映させたことはなかったし、これからもないでしょう」
このオールスター・チームはただ狭い部屋に押し込まれただけでなく、完全に密封された。「いわばスティーブは企業内に〝スタートアップ企業〟を興し、完全に外部から遮断したのです。そして彼らが必要とするものは原則として無条件に与えました。このやり方は、スティーブの素晴らしい業績の一つに加えていいでしょう」(ウイリアムソン)
この〝スタートアップ企業〟の組織図を作れば以下のようになる。CEOはスティーブ・ジョブズ。その直下にいるスコット・フォーストールがソフトウェア部門の責任者。フォーストールの直下には三人。一人目はアンリ・ラミローで、その配下にいるリチャード・ウィリアムソンとニティン・ガナトラは、それぞれが小チームのリーダーだ。ウィリアムソンのチームはサファリとウェブアプリを担当し、ガナトラのチームはメール機能や電話機能などを担当する。フォーストール直下の二人目はHIグループを率いるグレッグ・クリスティー。このHIグループにはバス・オーディング、イムラン・チョードリー、ステファン・ルメイ、マルセル・ファン・オース、フレディ・アンスレス、そしてマイク・マタスがいる。フォーストールの直下の三人目は品質保証部出身のプロダクトマネジャー、キム・ヴォラス。iPhoneソフトウェア開発チームでは数少ない女性である。
全部で二〇人から二五人--初期のiPhone開発チームはわずかそれだけだった。後にそのデバイスが生み出す巨額の利益と絶大な影響力を考えると、驚くほどの少人数だ。フォーストールはチームに常駐し、ジョブズは定期的に進捗度合いを見に来た。「あれほど高度な楽しさを感じたことはなかった。『サージェント・ペパーズ』の変奏曲を作っているような体験だった」とジョブズは後に語っている。
ラミローによれば、週一でジョブズも参加する会議を行い、活発な意見交換を通して大きな方向性を決めていった。会議ではいつも、ジョブズからオーケーをもらいたい機能や特徴が山積みだった。例えばHIグループはiPhoneに盛り込みたい機能をいろいろと試作品にしてジョブズに見せる。
「もしスティーブが気に入って『うん、Aはいいね』と言ったとしましょう。するとAを実際に動くようにするのが私の仕事になります。次の会議で『Aを実装しました。どうでしょう?』と聞いてみると、『うーん、こりゃあダメだ。Bにしてみよう』と言われたりするのです」(ラミロー)
豊田市図書館の29冊
404モト『カガク力を強くする!』
913.6『ジョン・マン5 立志編』
302.1『日本の環境・人・暮らしがよくわかる本』
519.07『事典 持続可能な社会と教育』
159.7『男子が10代のうちに考えておきたいこと』
674.7『1枚デザインの構図とレイアウト』
673『日本の優れたサービス2 6つの壁を乗り越える変革力』
601.1『ふるさとを再生させる まちなみイラストチカラ』共感と感動が「ひと」と「まち」を変える
494.78『リハビリ 生きる力を引き出す』
701.1『美学への招待』
547.62『ザ・ワン・デバイス』iPhoneという奇跡の“生態系”はいかに誕生したか
493.74『僕らはそれに抵抗できない--「依存症ビジネス」のつくられかた』
814.7『平成の新語・流行語辞典』
130『語源から哲学がわかる事典』
319.8『過剰な理想--国民を戦争に駆り立てるもの』
290.93『サンフランシスコとシリコンバレー』サンノゼ サンタクララ スタンフォード ナパ&ソノマ 地球の歩き方
302.53『専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義』
230.7『世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線』
147『宇宙を超える地球人の使命と可能性』
362.06『独裁と民主政治の社会的起源(下)』近代世界形成過程における領主と農民
302.66『チリを知るための60章』
367.3『貧困専業主婦』
232.4『ユダルタ戦争 カティリーナの陰謀』
361.1『ゾンビの小哲学 ホラーを通していまに思考するか』
954.3『モンテーニュ 人生を旅するための7章』
319.53『不穏なフロンティアの大戦略--辺境をめぐる攻防と地政学的考察』
3233『ヨーロッパ憲法論』
372.38『ノルウェーのサーメ学校に見る先住民族の文化継承』ハットフェルダル・サーメ学校のユニークな教育
134.96『存在と時間6』