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ライブビューイングのチケットをゲット

無事、ライブビューイングのチケットをゲット。2日前の映画館の開館時にチケット売り場で普通に買う。
ネットよりも売り場を選考させているので、現場で買うのが正解。
17:30から3時間半とすると、21時過ぎ終了。バスは21:30前だから、バスで行こう。
車レスのパターンを決めよう。
 バスの時間、三好経由と衣ヶ原経由
 豊田市のスタバと図書館
 元町のスタバとドンキ
 未唯空間の項目のダブり。一つのものを視点を変えるだけでなく、新しい観点を発券していく。
 詳細が概要につながるカタチをとる。きついのは確かです。
 量と時間との関係。生きている内にできない。どっち道、自分だけのことだから、どうでもいいけど。
 少しでも自分なりの答に近づけたい。変なところから、答えが出てくる気がする。クライシスに耐えられるようにしておくだけのことかもしれない
 それにしても持続力はない。

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わたしたちがコンピュータの待遇を法律で規制する日

『ユニバース2.0』より わたしたちは宇宙を創造するべきなのか?
 ロイドは、自由意志を持つためには意識は必ずしも必要ない、少なくとも彼が意識とみなすところのものは必要ないと主張する。本書の第二章では、自由意志を定義しようとすれば地雷原に迷い込むことになるのを見たが、ロイドにとって自由意志を持っているかどうかの本質的な判断基準は、自分か未来に下す決断を予測できないということだ。わたしたちの行動や選択は、脳の中で起こる化学反応のプロセスに至るまで、ビッグバンに始まる一連の出来事によってあらかじめ決定されているのかもしれないし、わたしたちはけっしてその成り行きから自由になれないのかもしれない。それでもなお、昼食をとりにカフェテリアに行って、自分がメニューから選んだものに我ながら驚くこともしばしばだ。ロイドの観点からすれば、それが自由の本質なのである。
 その論文の中でロイドは、決定を下し、「初歩的な自己参照の判断ができる」(自意識ですらなく、自己参照であればよい)コンピュータは何であれ、自由意志があることを示すいくつかの数学的定理を証明した。たとえば、同時に走らせているたくさんのソフトウェアのほかにも、ハードウェアのリソースや、メモリ領域や、入出力のデバイスなどの割り当て方を選択するとき、そのコンピュータのOSは自己参照をしている。OSは、各プログラムが将来的に何をするか、あるいは何か必要になるかを推定するときに、ワードプロセッサーをプログラム番号513、自分自身をプログラム番号42として参照するかもしれない。
 「プログラム番号42が何をしようとしているのかを問題にすることは、たとえプログラム番号42がOS自身であっても、自意識である必要はないんだよ」とロイド。「しかし、そのOSは自己参照能力を持つのだから、自分がやろうとしていることを予測できないということは、数学的に証明できるんだ」
 ロイドは、OSは自分がやろうとしていることを予測できないという「経験をしている」、と主張しているのではない。そうではなく、そのOSは、プログラムとして、「プログラムなりのやり方で」、自分がまだ決断を下していないということ、そしてその決断がどんなものになるかを知らないということを了解している、とロイドは言うのだ。「OSは十分に複雑なので、OSがやろうとしていることを予測するためにわれわれが作ろうとしている心のモデルは、彼らの行動を捉えるためには使いものにならない」とロイド。「その結果、コンピュータとスマートフォンの振る舞いは、人間の振る舞いと本質的に同じ意味において、予測不可能だということになる」
 コンピュータが、わたしたちの心と仕事に巧みに干渉してくるのはこのためだ--コンピュータは自分なりに自由意志を行使しているのである。そのことの倫理的帰結として、わたしたちは近い将来、コンピュータの待遇を法律で規制しはじめなければならないのかもしれない。「こういう問題への取り組みを始めなければならないだろうと思うが、その結果がどうなるかはわからない」とロイドは言う。「そして、われわれが思う以上に、そんな時代がすぐそこまで来ていると思うんだ」
 ロイドと話をして、ペビーユニバースを作ることに関するわたしの懸念はさらに深まった。自分のスマホに人格を認めるまであと一歩だと言うなら、考え、感じる者が、そして苦しむことがわかっている者が生じるかもしれない宇宙を新たに作ることを見直さなければならないのは間違いない。しかし、わたしが倫理について論じるために会った次の人物は、その論法を逆転させるのである。「われわれが作られた存在であっても、生きる意味には影響を及ぼさない」
 一九八○年代に少年時代を過ごしたアンダースーサンドバーグは、当時一般家庭用として普及していたホームーコンピュータ、シンクレアZX81で、小さな太陽系をシミュレーションして遊んでいた。学部を卒業すると、脳にヒントを得た学習のアルゴリズムを使って、人工的なニューラルネットワークのデザインをするようになった。「テレビを見て寛ぐ人もいれば、わたしのように哲学の講義を聞きながらシミュレーションをプログラムする者もいる」と言って、サンドバーグはクスリと笑う。一九九九年のある日のこと、彼は自分のコンピュータからニューラルネットワークをひとつ削除して、「罪の意識に苛まれた」という。「今、小さな生き物を殺してしまったのだろうか」と思わずにいられなかったのだ。
 サンドバーグに会うために、わたしはオックスフォード大学の「人類の未来研究所」[哲学者ニックーボストロムが創設した研究所で、人類とその未来についてのビッグークェスチョンに、数学、哲学、社会科学、自然科学を結集して取り組むことを目指す]にやってきた。スウェーデンのストックホルム出身の彼は、計算神経科学という分野で博士号を取得した。しかし、自分の作ったニュ圭フルネットワークを削除して罪の意識に苛まれて以来、サンドバーグは哲学に重心を移し、現在はシミュレーションの倫理について執筆している。サンドバーグもまたロイドと同じく、人間は自分たちが思っている以上に近い将来、共感を持つ機械をどう扱うべきかという問題に取り組まざるをえなくなるだろうと論じる。それなのに一般の人ばかりか科学者でさえ、この問題に向き合うことには後ろ向きだと彼は言うのだ。
 宇宙を作ろうとしている物理学者たちと話すとき、わたしもまたそれと同じ後ろ向きの態度にぶつかってきた。なかには、実験室で作った宇宙に生き物を創造することの道徳的な意味といった問題は、自分の守備範囲外だとして逃げを打つ人たちもいた。「たいていの人は、よくわからないもののために使える予算があって、その範囲を超えて支出はできないようになっているんだね。残高以上にお金を引き出せば信用にかかわるから、使いすぎるわけにはいかないんだ」とサンドバーグ。「そのせいで、本当は考えなければならない重要な問題にも、口をつぐんでしまう人はたくさんいる」
 ロイドとは対照的にサンドバーグは、スーパーインテリジェントな種族がシミュレーションのプログラムを作り、そこにわたしたちを放り込んだ理由はわかる気がするという。理由の多くは、わたしたち自身がシミュレーションを走らせるときの、ごく普通の事情によるものだ。たとえば、限られた予算を効果的に医療に支出するためにはどうするのがもっとも効率的かを知るのは難しい。人口全体としての健康状態は良くなるが、予算の分配が不平等なせいで、どれかのマイノリティー・グループが悲惨な目に遭う世界のほうが良いだろうか? それとも、たとえ受けられる医療レペルはかなり低いとしても、誰もが平等に医療を受けることのできる公平な社会を目指すほうが良いだろうか?
 それを判断するためには、それら二つの場合について、世の中がどうなるかをシミュレーションしてみるのが役に立つだろう。シミュレートされた存在が意識的な経験をせずにすむうちは、やってみてもかまわない。だが、もしもそれらの存在が進化して知性と感覚を持つようになれば、あなたは自分が作り出した人工的な世界の中に、期せずして多大な苦しみを生み出してしまったのかもしれない。
 たとえばサンドバーグは、イギリスの国家医療制度が予算をどう使うかによって、国民にどんな影響が及ぶかを調べるための比較的小さなシミュレーションがあって、わたしたちはそのシミュレーションの中で生きているということもありうると考える。その場合、シミュレーションの焦点は、医療資源を利用する個々の国民に合わせられているだろうから、宇宙の中のそれ以外の部分は、リアリティーを与えるためにおおまかに書き込まれただけかもしれない。
 サンドバーグは、自分はシミュレーションの一部だと気づくことが、その人の自意識や人生の目的にどんな影響を及ぼすかを考察した論文を書いた。もしもわたしたちが、自分たちを作り出した者の関心は医療にまつわるさまざまな問題を解決することにあり、わたしたちはそのシミュレーションに登場するチェスの駒にすぎないことを知ったとすれば、病気になって頻繁に医者や病院に行くのが自分の道徳的義務だと考えるようになるだろうか?
 サンドバーグは最終的に、スーパーインテリジェントなプログラマーの動機がどうであれ、生き方に関するわたしたちの選択には影響しないだろうと結論した。「われわれが作られた存在だということは、生きる意味には影響を及ぼさないように見えるんだ」とサンドバーグは言う。こんなありもしない状況を論じるのは馬鹿げていると思うかもしれないが、その結論の要点は、わたしたちの現実の生き方にも適合する、とサンドバーグ。つまるところ、わたしたちはシミュレートされた存在ではなく生物学的な人間だと仮定しても、進化はわたしたちの遺伝子をできるだけばらまこうとしてきたのだ。「われわれを作ったのは進化のプロセスだとしても、子孫を増やすことに持てる時間のすべてを費やすべきだという話にはならない」とサンドバーグ。「人生、それがすべてではないからね」

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わたしたちの宇宙は無数の泡のひとつにすぎない

『ユニバース2.0』より 宇宙の始まりは「無」だったのか?
 わたしたちの宇宙は無数の泡のひとつにすぎない
  リンデとビレンキンは、宇宙の誕生はもはや唯一無二の始まりではなく、ひとつの始まりにすぎないことを見出した。このバージョンのインフレーション理論では、わたしたちの宇宙はただひとつの存在ではなく、フツフツと湧きあがり、それぞれが誕生、膨張、そしてもしかすると収縮を経験する、無数の泡のひとつにすぎない。
  人類は四百五十年ほど前に、コペルニクス革命により宇宙の中心という玉座を追われた。地球の周りを太陽が回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているというのだから。そしてどうやら、わたしたちの宇宙すら唯一の存在ではないのかもしれない。その考えは物議を醸すことになった。第七章で見るように、マルチバースは神を相手取って、手に汗握るつば競り合いを演じることになる。しかしビレンキンとリンデにとってみれば、ほかにも宇宙があったところでとくに不思議はなかった。リンデの言葉を借りるなら、それは地球が巨大な球体で、その上にさまざまな国があることがわかったというのと同じようなものなのだ。
  しかし、しばらく時間を早送りにすると、ビレンキンはもうひとつ、彼によれば「ある不穏なこと」に気がついた。それは彼にとって、人生の意味と自分のアイデンティティーの根幹に関わることだった。マルチバースに関する彼の研究が示唆するところによれば、これら多数の平行宇宙には、わたしたちのコピーが無数に生じるようなのだ。
 わたしたちとまったく同じ歴史を歩むクローン宇宙が存在する?
  クローンが無数に存在するとビレンキンが考えるようになった論理は、しばしば簡略化して次のように説明される。無限に大きく、永遠に存在している宇宙の中では、早晩歴史は繰り返される。したがって、わたしたちひとりひとりには、寸分たがわぬコピーがすでにどこかに存在することになる、と。しかしビレンキンが永遠インフレーションを発見してからほぽ二十年後に、同僚のジャウム・ガリガと一緒にやってみた計算は、そんなおおざっぱな喩え話よりもずっと緻密で高度で実質的だ。
  量子力学によると、どんな有限領域の内部でも、互いに区別できる量子状態は有限個しかない。なぜなら原子レベルのミクロな世界では、エネルギーはある単位の塊になっているからだ(その塊が「量子論」というときの「量子」だ)。エネルギーが連続的などんな値でも取ることは許されていない。このことは、有限な時空領域の内部では、互いに異なる歴史は有限個しかないということを意味する。つまり、過去の出来事として互いに区別できるものは、原理的にさえ、有限個しか存在しないのだ。
  二〇〇一年にビレンキンとガリガが大まかに計算してみたところ、わたしたちの宇宙程度の大きさの領域では、ビッグバン以降に存在できた歴史の数は、匹ほどだった。「これはとんでもなく大きな数です。しかし重要なのは、それが有限な数だということなんです」とビレンキン。
  一方、永遠インフレーションは、わたしたちの領域とそっくりな領域を果てしなく生み出す。「無限にたくさんある領域の中で起こりうる歴史が有限数しかなければ、まったく同じ歴史が繰り返されるしかありません」とビレンキンは言う。「まったく同じ歴史が、です」
  これは、第二章で出会った「量子力学の多世界解釈」に出てくる平行宇宙とは別のものだ。量子力学の多世界解釈は、ある意味、わたしたちの行動が実在を分裂させて、さまざまなバージョンのわたしたちがそれぞれの平行宇宙にいて、その平行宇宙の中で、わたしたちが下したそれぞれの選択が演じられる。一方、インフレーションのマルチバースの平行宇宙に存在するわたしたち自身は、むしろたまたま生じたレプリカに近く、実現可能な運命の数が有限なので、レプリカたちはほぼわたしたちと同じような人生を生きることになるというだけの話だ。時間と場所が違うだけで、まったく同じ人生を歩むレプリカもあるかもしれない。
  しかしその場合でも、「別の時間と別の場所に、同じような人生がある」と述べることにどんな意味があるのかという点にはあいまいさがある。ビレンキンは、第一章で出会ったアインシュタインの相対性理論の教訓を振り返る。相対性理論によれば、宇宙のあらゆる場所で、すべての観測者に通用する「今」を定義することはできない。ものごとに時間順序を与える方法としてすべての観測者が認めるようなものは存在しないし、客観的な同時性という概念も存在しない。マルチバースを支配する普遍的な時計は存在しないのだ。
  時間に関するこのあいまいさは、背景がインフレーションを起こしているせいで光よりも速く遠ざかる二つの泡宇宙を考えるとき、いっそう鮮明になる。それら二つの泡宇宙が、光よりも速い信号を送り合って情報交換することは不可能だから、時計合わせをする方法は考えることさえできない。したがって、別の宇宙で別の時刻に同じ出来事が起こると主張することに意味はない、とビレンキンは論じる。むしろ、クローンたちは今このとき、わたしたちとともに人生を生きているのかもしれない。
 「われわれは唯一無二の存在だという意義が失われる」
  別のわたしたちがどこかに存在して、今この時、同じ人生を生きていると思うと不思議な気持ちになるけれども、わたし自身はそのコピーには何のつながりも感じないので、深く悩むことはない。それらのコピーが存在するのは、単なる偶然のような気がするのだ(それとは対照的に、量子論の多世界解釈では、わたしの選択がコピーを生じさせているのだから、クローンのどれに対しても責任を感じる)。ところが、マルチバースの無数のコピーという考えが、ビレンキンの背筋を凍らせたのだ。それはいったいなぜだろう?
  「本当に動揺したんですよ」とビレンキン。「われわれは哲学の領分に入ろうとしている、いやむしろ哲学の向こう側の、感情の領分に入ろうとしているのです」。なぜ彼は、それほど感情的で、本能的と言ってもいい衝撃を受けたのだろうか? フンョツクだったのは、われわれは唯一無二の存在だという意義が失われるように思ったからです」と、彼は静かに語る。宇宙スケールで見れば、われわれは工場のコンペアベルトに運ばれていく、無数にある同じ製品のひとつにすぎない。それに気づいたことが、ビレンキンの自意識の中核と、彼が存在することの価値の根幹を直撃したのだ。
  「われわれには何の意味もない--宇宙スケールで見れば、地球上のこのコピーは、取るに足りないものでしかないんです」とビレンキン。「なぜわれわれが存在するのかという問題に説明を与え、われわれが存在する理由を知りたければ、自分の身の回りで、つまりわれわれのこの宇宙の中で、答えを探さなければなりません」
  その話を聞いてもなお、わたしはまだピンとこなかった。おそらくわたしが彼と違うのは、わたしたちには自由意志があり、わたしのアイデンティティーは、たまたま起こる粒子の運動や衝突の積み重ねで決まるものではないという思想を支持していることだろう。わたしは、ビッグバンに始まってインフレーションが起こり、やがて星、銀河、惑星、そして人びととわたしを作り出した偶然の連鎖反応には、さはどの意味はないと感じているのだ。だから、インフレーション理論が言うように物理的なコピーがどこかに無数に存在しているからといって、それらはわたしではありえない(わたしたちには無数のバージョンが存在するという物理モデルにおいて、自由意志とは何かという問題は、第九章で改めて取り上げることにしよう)。
  ビレンキンはその後、生命の起源を研究している生化学者で、彼の仕事について読んだという人物から突然の手紙をもらい、存在の意義について彼が気づかされた問題とも「多少気楽に向き合えるようになりました」と言う。その生化学者は、生命が誕生する環境は例外的といっていいほど稀にしか実現しないのかもしれないという問題について深く考えていたが、もしもマルチバースの観点が正しければ、生命は必ずどこかで生じるだろうと思うことができて、気が楽になったと書いていた。その短い手紙のおかげでビレンキンは、人間存在にはやはり意味があるのだと思えるようになり、「わたしたちが住む世界」とされるマルチバースのポケット宇宙とわたしたちとの関係も、より広い視野に収めることができたというのだ。
  「もしも生命が、観測可能なわれわれの宇宙の中でたった一度しか起こらない、きわめて稀なゆらぎがなければ発生しない稀有なものなら、われわれにはかなり大きな責任があります。われわれが大きなヘマをして滅亡でもしようものなら、それで一巻の終わりですから」とビレンキン。「広大な不動産に責任を負っているようなものですね。われわれは消滅するかもしれないし、銀河やその銀河の向こうの広大な領域を植民地化するかもしれない」
  とはいえ、ビレンキンは小さなスケールでのことも考え続けていた。わたしたちが自分で泡宇宙を作り出し、もしかするとそれを植民地化し、その泡宇宙とコミュニケーションを取ったり、そこから資源を調達するという選択肢はないだろうか? 第九章で見るように、リンデもまたそのことを考えていた。しかしなんにせよ、まずはベビーユニバースを作らなければならない。ビレンキンは無から宇宙を作れることを示した。無からでさえ宇宙を作ることができるなら、地球上にあるものを利用するほうが簡単ではないだろうか? まさにその問いに答えようとしていたのが、ダースと彼が指導する学生たちだった。

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生涯未婚率上昇と「親ロス」

『定年不調』より 男の孤独、孤立と向き合う
 親との死別でひとり取り残された喪失感を私は「親ロス」と名づけて、このところ、その症状や社会的背景、対応策について、メディアなどで発表してきました。
 各種の報道にあるとおり、50歳までに一度も結婚したことがない人の割合を示す「生涯未婚率」は、年々上昇しています。国立社会保障・人口問題研究所が『国勢調査報告』をもとに算出したデータによると、2015年の生涯未婚率は、男性23・37%、女性14・06%と、過去最高を記録しました。現在の日本では、50歳以上の男性のおよそ4人に1人、女性の7人に1人が未婚者ということになります。
 もちろん、意識して結婚を選ばなかった人、事実婚の人、ひとりで暮らすことを選んだ人など、それぞれ理由や事情はあると思います。その中で、結婚の意思はあっても何らかの理由でしないまま、親と同居してきた中高年の独身男性が、親の死をきっかけに、抑うつ状態やうつ病、更年期障害を発症するケースが目立って増えている、と日々の臨床の場で感じています。
 その一例を紹介しましょう。
 50歳の会社員男性・Eさんは、一人っ子で早くに父親を亡くし、母親との2人暮らしを続けていました。実家が東京都内にあり、通学や通勤に便利だったので、Eさんは就職後も実家を出ることはなく、食事や掃除、洗濯など身の回りの世話は母親がしてくれる生活を送ってきました。Eさんのお話では、「いい女性と出会えばいずれは結婚しようとは思っていたけれど、いまの生活が楽なので、自分から積極的に出会いを求める必要はなかった」ということです。
 ところが、Eさんが50歳になって間もなく、母親が病気で急逝しました。家事をめったにしたことがなかったEさんは途端に日常生活の諸事において難儀しましたが、「それ以上に痛手だったのが、家に帰って話す相手がいなくなったこと」でした。
 また、ご自身の性格について、「内気で親しい仲間はおらず、仕事が終わると自宅へ直帰していました。休日も用事以外は外出せず、自室でひとり、読書やゲームをして過ごすことを楽しく感じるタイプです」と明かされました。
 そんな生活でも、家にいるときは話し好きな母親が何かと話しかけてくるので、とくに不都合は感じていませんでした。ところが、「母親がいなくなった家は静まり返り、急に孤独感が押し寄せてきました。このままひとりの生活が続くかと思うと、何とも言えない不安と寂しさが襲ってきたのです」と言います。孤独感が募ったEさんは次第に不眠や胃痛を覚え、やがて抑うつ症状が強くなっていきました。
 当院ではいま、独身の患者さんをカウンセリングする中で、職場環境や仕事内容にさほどストレス要因が見当たらないため、よくよく話を聞いてみると、1年以内に母親を亡くしたという告白がポロリと出てくるケースが増えています。
 Eさんのように独身で親と同居していた男性が母親を亡くした後、「親ロス」による深刻な症状に見舞われることがあるのです。長年の臨床で得たデータでは、専業主婦が多数派を占めていた、団塊の世代くらいまでの母親は、一般的に男の子には大人になってもかいがいしく身の回りの世話を焼く傾向にあります。
 成人後も同居していると母親からのそうした過保護が定着し、家事はもちろん、生活習慣のありようまでを息子が母親に依存する関係が長く続くことになります。その結果、母親を亡くした後の息子の喪失感や孤独感は一段と深くなるのです。
 医学的に「親族の死」はストレッサーとしての順位が高く、大きな精神的ストレスになります。しかし、親の死の悲しみを乗り越えられずに抑うつ状態やうつ病など心身の病気になるのは、成長過程で親離れ・子離れができず、精神的に自立を果たせていなかったことが一因と考えられます。
 学校の卒業後も親との同居を続けて、親に経済面をはじめとする生活の基盤を依存する独身者を「パラサイトシングル」とも呼びますが、近年は「パラサイトの中年化」が話題になっています。総務省の調べによると、35~44歳で親と同居する未婚者の数は、1980年には39万人でしたが、2016年には288万人と、約7倍に増えています。45~54歳で親と同居する未婚者は2016年には158万人で、同年代の総人口の9・2%にのぼります。
 この数字からは、社会的背景として、バブル経済崩壊後に20年近く続いた不況と就職氷河期の影響で、経済的な問題で実家から独立できず、親と同居せざるを得なかった人が多数いることがわかります。また、いったん実家から独立したものの、親の介護のために再び同居を始めた人や、親に依存せずに同居している人、結婚の意思がない人なども相当数含まれると考えられるので、もちろん全員が親ロス予備群というわけではありません。しかし独身の中高年男性が急増していることを思うと、Eさんのように母親に先立たれた親ロスから抑うつ状態となる人が今後、ますます増えていくだろうことは予想できます。

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