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二時間待って、10秒の診察

記念病院は11時からの予約。10時に到着。30分遅れと表示されていたが、始まったのは12時過ぎ。
二時間待って、10秒の診察。それを医者に言ったら、「通常の三倍処理いる」と返してきた。どういう関係なのか、意味がわからない。
詳細は概要のため。
 ヘーゲルは歴史哲学で「自由」というキーワードを言うために、東洋と西洋の歴史の詳細を調べ上げた。
 歴史哲学の結論は自由を享受できる人間の拡充を言いたかった。
 これはピケティも同様。
 詳細なしに概要を述べることはできないのか。
家族制度は個と全体の関係から先が見える。
ベーシックインカムも家族制度崩壊の流れ。

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同じことばかりやっている

仕様の役割は外から挟むこと。
同じことばかりやっている。整理に意味があるのか。
色々な観点からアプローチしている。仕様を構成にする。
個と全体の関係。ポイントは個の内に全体を持つこと。サファイアも個と全体を分けることではなく、個の中の全体を把握すること。

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穴埋めの連続思考

今週はライブ。集中させよう。日曜日のライビューは映画館で予約しよう。二日前から始まるはず。
表現の穴埋め。穴埋めの連続思考はあたまがおかしくなる。
オレンジタブレットをつぶす。入れたものを活用。入力は限界です。
穴埋めの連続思考は頭がおかしくなる。考えるのが目的なら、これは正しい。

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OCRした6冊

 『暴走する日本軍兵士』
  恐ろしいものと些細なもの
 『量子コンピュータが変える未来』
  量子コンピュータで変わる自動車の未来
   自動車の発展を支えるコンピュータ
   自動車業界は100年に一度の変革期~自動運転の先にあるもの~
   バンコクから渋滞はなくせるか~量子コンピュータが空想を現実に~
   未来の車のシステム
   シェアリングエコノミーが起こす変革とカーシェアリング
   ライドシェアリング
   マルチモーダル
   ラストマイル/ファーストマイル問題
   物流
   今後の発展
 『図書館コレクション談義』
  ドイツの小さな町の図書館
   英語もできない私がドイツ語を習う
   ドイツヘの旅立ち
   ドイツの南の小さな町、ホルガウにて
   図書館で「朝ごはんの会」
   世界遺産の街レーゲンスブルクで働く
   休日は買い物? それとも?
   レーゲンスブルク図書館コレクション
   ドイツ人司書VS.日本人司書?
   レーゲンスブルク街歩き
 『ノニーン!』
  フィンランド人の遺伝子に、組み込まれた「秘密の力」 『シス』
 『移民とAIは日本を変えるか』
  移民の社会的影響
   経済的影響を超える可能性
   日本国民が移民受け入れに感じている不安
  ドイツの経験
   ドイツにおけるゲストワーカー
   統合コースによるドイツ言語・ドイツ文化習得の難航
   ドイツにおける外国人犯罪の多発
   ドイツにおける国際結婚の潮流
   タイ人女性とドイツ人男性との国際結婚率の高さ
   トルコ人とドイツ人との国際結婚率の低さ
  ディアスポラ問題と宗教対立による軋榛
  多文化アプローチの失敗を認めたメルケルの演説
 『概念の主体性』
  哲学的理念と歴史
   哲学の歴史的立場
   哲学的批判の課題
   哲学の唯一性
   悟性の時代の歴史観
   ヘーゲルの歴史的立場
   哲学の時間性--ヘーゲルの歴史的思惟--
   歴史の時間性
   ヘーゲルの歴史論
   歴史的思考
   哲学の現在性
   ヘーゲル哲学と現代
   ヘーゲルの時代意識
   現代における死と生
   自己の開拓
   弁証法の精神と論理

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ヘーゲルの歴史論

 『概念の主体性』より 哲学的理念と歴史 哲学の時間性--ヘーゲルの歴史的思惟--
 歴史が歴史家の観点に応じて成立するということは、ヘーゲルの歴史論においても確認できる。ヘーゲルもまた歴史を三種類に分類する。それらは、
  A.根源的歴史
  B.反省的歴史
  C.哲学的歴史
 と呼ばれる。
 第一類の「根源的歴史」とは、歴史家が同時代の事件や行為や状況を観念の作品に作りかえるものである。歴史家は、自分たちが目の辺りにし精神を共有できる行為や事件や時代状況を記述し、外界の事実を精神の国に移しかえる。こうして外面的な事象を内面的な観念に変えるのである。それは、慌ただしく過ぎ去っていくものを繋ぎ止め、不滅の記録とするという意味を持つ。
 事実の記録といえば、没主体的な事件の単なる記述のように見えるかもしれない。だが、観念の作品という表現が示すように、歴史家の自覚的な働きがなければ、この歴史すら成立しない。伝説や民話や民謡にとどまらず、あるがままの事実を記録しようという態度は、自分の状態と自分の目指すところを自覚した民族において初めて生まれる。そうした民族こそが固有の歴史を持とうとするのである。従って、そこで書き記される内容は広範囲には及ばない。生きた現在として自分の回りに存在するものが基本的な素材となる。
 それ故、歴史家の文化的教養と記録される事件の文化的教養は同一であり、歴史家の精神と歴史家の語る行動の精神は同一である。この同一性にもとづいて歴史家はためらいなく事象に向かうことができる。彼の記述する内容は、彼が多かれ少なかれともに作り上げたものであり、ともに生きたものに他ならない。その歴史に反省が加わらないのは、歴史家が歴史事象の只中にあってその精神を呼吸しているからである。それ故にこそ、事実をあからさまに事実として語ることができるのである。
 このように見るならば、根源的歴史とは、歴史家の主体性が最も顕著に現れた歴史であると言うことができる。歴史家の認識関心のみならず、歴史家の実践的関心すらが歴史の関心であり目的と見なされることもありうる。主体なくして歴史もないということがここにおいてすでに洞察されるのである。
 第二類の「反省的歴史」は、このような同一性、一体性が失われたところに成立する。それには四種がある。第一のものは、一民族、二国土ないし世界の全体を概観する「通史」である。ここでは、時間的にも叙述の精神においても、歴史家の意識は現在を抜け出ている。歴史家の精神と過去の時代の精神は違ったものであることが多い。従って、素材の精神とは違う歴史家自身の精神によって素材が裁かれる。歴史家は、厖大な対象を簡潔に記すために要約の手段として思考を動員せねばならない。その時問題となるのは、歴史家が記述の対象とする行動や事件の内容と目的をどう捉え、歴史をどう組み立てるのかということである。主観と客観の間に距離があるだけに主観の振る舞い方が問題となる。
 だが、こうした距離の存在にもかかわらず、現在と過去の繋がりを見出そうとする働きが起こる。過去の叙述を生かし、現在に通用するものを過去から引き出そうとするのである。これが「実用的な歴史」である。そこには、事件は様々だがそれを貫く内的な繋がりは一つであるという想定がある。そして、この歴史が活気を帯びたものとなるか否かは、矢張り歴史家の精神によるのである。
 歴史家の洞察力が力を発揮し歴史に現在が確保されるもう一つの形が、「批判的歴史」である。それは歴史的事実に向かうのではなく、「歴史の歴史」であろうとする。すなわち、歴史的伝承や歴史的研究が真理か否か、信頼できるか否かの批判的考察と判断を課題とする。だが、それは、その意図に反して、高度な批判の名のもとに事実から遊離した想像力の飛翔を許し、非歴史的な妄想を混入させる可能性がある。主観的な思いつきが歴史的事実に取って代わるのである。
 高度な抽象を要しながらしかも歴史的事実の内面に透入することを求めるのが、芸術史、法制史、宗教史などの個別史である。だが、精神活動の各分野は民族の歴史の全体と関係を持つから、そこでは一般的な視点が要求される。そして、それが真に一般的な視点であるならば、外面的な繋がりをなぞるだけでなく、事件や行為の内面にあってそれらを導く魂そのものを表すものでなければならない。それは、理念こそが世界を導くとする「哲学的歴史」に通じている。
 第三類の哲学的歴史すなわち歴史を哲学的に考察することは、思考によって歴史を捉えることに他ならない。ここでは思考が最も重要な役割を演ずる。しかも、哲学は、理性が世界を支配しており、世界の歴史も理性的に進行するという思想を携えて歴史に向かうのである。歴史にとって理性の思想は未証明の前提たらざるをえないが、哲学にとってはそれは証明済みである。理性は実体であり、無限の力であり、自ら自然的生命と精神的生命を成り立たせる無限の素材であり、この内容を活性化させる無限の形式である。あらゆる現実は理性によって理性の中に存在し存在し続ける。理性は単なる理想像や目標ではなく、活動の素材を自分で自分に提供し、自分を糧とし自分を材料としてそれに手を加える。理性は理性のみを前提とし、目的とする。その活動は理性の内実を外に表すことである。かくて、すべての実在と真理は理性に他ならない。そこには自然的宇宙と精神的宇宙つまり世界史が含まれる。世界とは理性が啓示される場のことである。
 従って、人が世界史に向かう目的は、こうした理性の現実性の確認、現実に関する理性的な洞察ないし認識を獲得することである。知識の蒐集は副次的なことであり、必要なことは、世界史のうちに理性が存在しており、知と自覚的な意志の世界は偶然に委ねられるのではなく、明晰な理念の光のうちに展開するという信念を以て臨むことである。そこには、反省的歴史におけるように認識主体と対象の隔絶は前提されず、同一の本性を保持する精神がどの領域にも存することが想定される。認識主体のうちに理性が宿っているからこそ対象のうちに理性を把握することも可能だということになる。
 とはいえ、歴史は程造されてよいわけではなく、そのありのままを捉えるべく史実を経験に即して追うことを怠るわけにはいかない。この探究の過程では右の要求は過大であるとも思われる。それは前提されるだけではなく、全体を通覧して後に確認されねばならず、また全体を把握して初めて獲得できるものに他ならない。全体を認識している者のみがそれを主張しえ、未だ全体を把握していない者にとっては、それは独断的な教条にすぎない。
 しかしながら、史実をそのまま受け入れているだけのように見えても、歴史家の思考は単に受動的であるにはとどまらない。自分の思考の枠組みを通して事実を見ているのである。特に学問的に捉えようとするならば、理性を働かせ思考を傾注せねばならない。そのような態度と見方に対してこそ、世界のうちなる理性は見えてくる。「世界を理性的に見る者を世界も理性的に見る」とヘーゲルは言う。そして、理性の存在への確信は高められる。そこには循環があるが、それは不可避的かつ生産的であり、二つの事柄は互いに作用を及ぼし合う。
 だが、このことを認めるにしても、歴史的過程の中にある有限者にとって、理性の思想は逆説を含む。ヨーロッパにおいては、理性の世界支配という思想はアナクサゴラスに淵源し、キリスト教において具体性を獲得する。それはヘーゲルにおいて神とも精神とも理念とも言い換えられる。「理性が世界を支配している」。その支配の内容、その計画の遂行が世界史である。それが目指す目的は、「精神が自己の自由を意識すること」であり、「自由の原理によって世界の状態を形成し貫徹すること」である。自由の発展の過程として世界史を見る歴史観がここに成立する。それは、近代の自由主義思想に基づく近代的な歴史観であると言うことができる。
 だが、精神はその達成のために無限の力を行使する。無限の力とは有限な主体が意図して遂行することを超えて歴史を推進するということである。それは個人を犠牲にすることすら厭わない。諸個人が情熱によって行動することを許しながら、彼らの意図しなかった事柄のための道具、手段とする。「理性の読計」がそこにある。有限な諸個人から見れば、自らが情熱を賭けて為したことが達成されず、違ったことが実現されたという思いが生まれる。歴史は不条理であり逆説と見えるのである。
 自由への道はこのような屈折をはらんでいる。それによって真の自由は達成されるのである。それは「国家」の建設によって完成する。そこにおいて、有限な個人は理性を自己の実体として自覚し存在しうることになる。「実体的なものが人間の現実的行為と人間の心性の中で認められ、現存し、自己自身を保存すること、これが国家の目的である。かかる人倫的全体が現存することが理性の絶対的な関心である」。従って、世界史において問題となるのは、「国家を建設する民族のみである」。
 ここには、哲学的歴史の持つ三つの観点が認められる。「絶対的な究極目的としての自由の理念」、「手段としての主観的な知と意欲」、「自由の実在性としての国家」がそれである。こうした内容的視点から見る時に「世界が途方もなく愚劣な生起であるかのような仮象は消滅し」、世界は神的理念の純粋な光に輝く。既められていた現実は正当化される。だが、問わねばならないのは、まさに歴史の渦中にあって無限の力に翻弄されているかに見える諸個人にとって、かかる正当化は如何にして可能かということである。反省的歴史とは違って、ここでは「反省の道」は閉ざされる。
  「われわれはそもそも始めからあの特殊なものの像から普遍的なものに高まろうとする反省の道を拒否して来た。いずれにせよ、実際にこの感情を超越し、かの考察において課せられている摂理の謎を解くことは、矢張りあの感情に満ちた反省自身の関心ではない。むしろあの否定的な結果の空しい実りなき悲壮さを痛ましげに甘受することがそうした反省の本質なのである」。
 反省はただ歴史の悲惨な現実を前にして、「常にそうであったしそうであることが宿命であって何も変えることはできない」という宿命論に陥る他はない。歴史とは「民族の幸福や国家の英知や諸個人の徳が犠牲となる台」に他ならないと見える。とはいえ、そうした悲劇的な体験の中で「次の問いが思考に対して生起せざるをえない。一体誰に如何なる究極目的にそうした途方もない犠牲は捧げられているのか」。
 人間は歴史の不条理を思考によって正当化しようとする。それは伝統的な弁神論の要求に通じる。「われわれの考察は(……)弁神論に他ならない」とヘーゲルは言う。そして、こうした弁神論的要求にとってこそ、神的理念は意味を得るのである。これは悲劇的世界を前にしての逆説的な要請として理解することができる。理性の理念は、歴史の渦中からこのような要請として定立されるのである。神の世界支配という哲学的歴史観の根拠はここに存する。
 従って、哲学的歴史観は、常に正義を求める人間主体に根ざして生まれる。主体は過去を背負い未来に差し向けられている。それは単に知の主体であるだけでなく、未来に向けて実践する主体である。正義を実現しようとする価値的主体でもある。そうした主体にとって、知は単に悲劇的現実を諦観するだけでなく、行為を導く指針を提供するものでなければならない。
  「行為者は活動しつつ有限な諸目的や特殊な利害関心を有するが、彼はまた知りかつ思考するものでもある。それら諸目的の内容は、権利や善や義務等といった普遍的で本質的な諸規定と織り合わさっている。かかる普遍的な諸規定は、同時に諸目的と行為の方向線である。(……)人は行為しようと思うならば善を意志するだけでなく、あれこれのことが善であるか否かも知らなければならない」。
 人々が安穏な国家生活を営んでいる時には、「いかなる内容が善であり善でないか、正当であり正当でないか、は国家や法や慣習において与えられる」。それが通常の個人生活を導く。
 だが、歴史には「現存の、承認されている義務、掟、権利としての体系」が毀損され、その基礎と現実が破壊され、大きな衝突が生じる危機がある。既存のものに対して、善、有利なもの、本質的で必然的と見える諸可能性が対立する。それは、歴史の転換者、転轍手たる世界史的個人すなわち英雄の登場が期待される時代に他ならない。
 彼らは「安定し秩序づけられ現存の体系によって聖化されている事柄の秩序から目的と使命を汲み取る」だけでなく、「その内容が隠れていて現存の定在となりえていない源泉から汲み取る」。それこそが「世界精神の意志である実体的なものを含んでいる」のである。世界の隠れた動向を察知しそれを現実化するところに、世界史的個人の洞察と創造的活動がある。彼はすぐれて「実践的政治的人間」として「何か必要であり、何か時に適っているか」を洞察する。「世界の必然的な次の段階を知り、これを自己の目的とし、その力をこ。の目的に注ぐ」のである。その目標は、新たな国家の形成に他ならない。だが、「或る民族が真なるものとみなすものの定義を与える場」は宗教に他ならない。従って、世界史的個人はまた宗教の創設者でもなければならない。さらには、哲学と芸術も彼の洞察に参画しなければならない。こうして、哲学は世界史的個人とともに歴史的変革の現場に臨むこととなる。
 哲学は世界史的個人の実践的営為と深く結びつくことが分かる。哲学的歴史観は合理的なものを達成せんとする実践的関心とともに成立する。この意味で、「世界を理性的に見る者を世界もまた理性的に見る」という言葉が理解される。実践的合理性を追求する者に対して、世界は合理的なものという評価と位置づけを与えるのである。
 とはいえ、理性的なものの一般的な追求は課題として明らかであるとしても、何を理性的としまたしないかは個別的判断に委ねられる。それは世界史的個人の洞察にのみよることであり、その洞察の内容は実践的行為において示される他はない。従って、ただ彼の為しえたこと、すなわち結果のみが洞察の正しさを証しすることができる。ここではプラグマティズムの真理基準が適用される。従って、世界史的個人はおのれの信念に基づいて前進し、その結果を確認する以外にはない。自己の意図の実現のために諸々の価値観との熾烈な闘争も辞することはできない。
  「世界史的個人は、あれこれのことを欲し多くの観点を採用してみる冷静さを持たない。それは何の顧慮もなく一つの目的に仕える。従って、次のような事態も生じうる。他の偉大な、それどころか聖なる諸々の関心事を軽率に扱うため、その挙動は明らかに道徳的非難に曝される。だが、彼ら偉大な人物は多くの罪なき花を踏みしだき、多くのものを自分の道中で破壊せねばならない」。
2019年08月25日(日) ヘーゲルの時代意識
 『概念の主体性』より 哲学的理念と歴史 ヘーゲル哲学と現代
 ヘーゲルは彼の時代と哲学的思索の関係について極めて敏感であった。彼がどのような時代にあったかは、彼の時代意識に映し出されている。それを端的に示しているものは、『精神の現象学』序文における「実体喪失」という言葉であろう。それは実体的生に充たされた古代、中世に対して近代を特徴づける言葉である。神的なものを頂く共同体の結束が破れ、個々人が拠り所を失って孤立したアトムとして無秩序な世界に投げ出されている様をそれは表している。政治、社会、経済構造のこの変動と並行して起こったものが、「没実体的反省」に立脚する近代哲学であった。デカルトの自我の発見に始まる諸思想を、ヘーゲルは「反省哲学」の名で呼んだ。それは、デカルトの物心二元論を始めとしてあらゆる物事を対立的分裂的に捉えようとするものであり、近代の一切の政治的、社会的、文化的な変革を規定したのである。宗教改革の精神もそこにあった。
 パスカルがデカルトを評して言ったように、そこには無神論の萌しが認められる。「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学の中で、できれば神なしに済ませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初の一弾きをさせないわけにはいかなかった。それが済めば、もはや彼は神を必要としない。無用にして不確実なデカルト」。少なくとも神は人間の前から姿を消し、「隠れたる神」となった。パスカルは神なき世界の永遠の沈黙に恐怖を覚えた。「この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる」。「この空間は私を知りもせず、また私の知りもしないものである」。それは、デカルトによる確実な知の追求とは裏腹に、近代人が存在に不安を抱いていることを示すものであった。
 ヘーゲルは、パスカルの言葉とともに、近代の宗教の根底に「神は死んだ」という感情のあることを指摘している。パスカルは、「自然は人間の内においても外においても至るところで失われた神を告知している」と語ったのである。
 それにもかかわらず、近代哲学は反省文化の大道を歩む。それは、積極的に言えば、自己にのみ立脚しようとする近代的人間の自立と自負の表明であり、自己の世界を構築しようとする意欲の現れである。それが市民革命の理論としての「啓蒙主義」に繋がることは言うまでもない。しかし、フランス革命末期の恐怖政治に見られるように、人間の絶対的自由の追求は、人間自身を制禦不可能なものとすることが明らかとなった。ハイデガーの言う「近代人の蜂趣」は大きな挫折に遭遇する。それは、ホルクハイマーらによって「支配の原理の弁証法的反転」、「啓蒙の弁証法」として反省される問題に通じている。人間は自立性を維持することができず、却ってそれを放棄し、新たな拠り所を求めねばならなくなる。
 ヘーゲルは、そうした混乱した時代状況を「分裂の時代」と呼んだ。そして、この分裂を超えることを哲学の課題としたのである。分裂の内に哲学の端緒はあり、「分裂こそは哲学の要求の源泉に他ならない」。引き裂かれた諸断片が有限なものであるとすれば、哲学はこれら有限なものを超える無限なものの追求であり、相対的なものを超える絶対的なものの探究に他ならない。ディオゲネスーラエルティウスが「ピュタゴラスは自分を哲学者と呼んだ。なぜなら、人間は知者ではない、ただ神のみがそうだからである」と記したように、愛知(ピロソピア)としての哲学は、神と人間との断絶を前提し、人間は本来無知なるが故に知者(ソポス)たらんと努めるのだという哲学の原義からすれば、ヘーゲルの態度はまさしく哲学的であった。そして、この意味で自分を哲学者と名乗ったのは、ソクラテスであった。ヘーゲルが、『差異論文』において、哲学の課題は「絶対者を意識に対して構成すること」であるとするのは、この伝統に適っている。
 それは、分裂によって生きた連関を見失った近代人が生を回復しようとする努力であ誕゜「哲学の課題は`存在を非存在へ、生成として、分裂を絶対者のうちに--その現象として、有限なものを無限なもののうちに--生として措定することである」。そして、分裂によって引き裂かれた全体は、「最高の分裂からの回復を通してのみ最も生き生きした形で可能となる」§声切・邑、とヘーゲルは言う。キリスト教に依拠した初期以来の生の思想が、この問題と繋がりを持つ。それによって、ヘーゲルは近代を超克しようとするのである。
 このように見るならば、『精神の現象学』において「不幸な意識」が「精神の生誕の中心地」として意味づけられていたことが納得される。まさしくパスカルが「神なき人間の悲惨」を捉えたように、分裂の只中で絶対的なものを見失った近代人による神の探究として不幸な意識を捉えることが可能である。そして、それは、究極のところ、自己意識に傲る近代人が見かけの自立を放棄するのでなければ達成されないことになっている。『差異論文』の言葉を引けば、「死の跳躍」が必要とされるわけである。近代人における死の意味が問われることになる。

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移民の社会的影響 ドイツの経験

 『移民とAIは日本を変えるか』より 移民の社会的影響--欧州の経験
 ドイツにおけるゲストワーカー制度
  まず、ドイツのゲストワーカー制度をみておこう。1950年代から60年代にかけて第二次世界大戦の敗戦国であるドイツは総人口、労働力人口がともに減少傾向にあった。ドイツ政府は労働力不足を補うため、農業および製造業やサービス業分野において国家間協定による「ゲストワーカー」の受け入れを開始した。
  国家間協定は、1955年にイタリアとの間で結ばれた農業分野におけるゲストワーカープログラムに関する協定を皮切りとして、その後、スベイン、ポルトガル、ギリシャ、ユーゴスラビアなど7カ国にまで拡大した。労働政策研究・研修機構の資料では、1965年までにこれらの国からの労働者受け入れは100万人にのぼったという。その背景として1961年にベルリンの壁が築かれ、東ドイツからの新規労働力の流入が途絶えたことなどが労働力の供給不足に拍車をかけ、ゲストワーカーが増加したとしている。
  外国人受け入れにあたり、ドイツ政府はローテーション方式(受け入れ期間を有期とし順繰りに交代させる方式。受け入れ期限は当初1年だったが、後に2年に延長された)を採用し、受け入れた外国人労働者は基本的に帰国すべき者とされていた。
  しかし、外国人労働者を受け入れた雇用主側の要請などにより、就労・滞在期間は長期化していった。第一次石油ショック後、ドイツ政府はそれまでの政策を転換し、外国人労働者の利用を極力制限する措置をとり、1973年には国外からの外国人労働者受け入れを原則的に停止した。それでも、例外措置による受け入れは続いた。また、受け入れ労働者の帰国は進まず、むしろ残留労働者の家族呼び寄せなどにより、外国人労働者とその家族等は緩やかな増加を続けた。
  このようにして、ドイツには多くの外国人労働者が移民として定住することになったが、ドイツは長い間、みずからを「移民社会」とは認識しておらず、これらの移民をドイツ社会に統合するための政策が必要とも考えていなかったとい侃゜
  しかし、いずれは送出国に帰っていく有期の労働者との位置づけであったはずのゲストワーカーの多くは、トルコ系を中心にドイツに定住し、その子供や孫の世代も誕生してしまった。ドイツ政府は1980年代にはこれらの定住移民に対して、帰国奨励策を打ち出したが、効果が十分でないまま、定住移民の第2世代、第3世代が生まれていく。彼らは教育水準が相対的に低く失業率が高いため、所得水準も低いという問題を抱えていた。
  他方でドイツ人の間では少子高齢化が進行した。1972年以降は人口自然減の状態が継続する。そうした中で、ドイツの移民政策は1998年の政権交代を機に「移民をドイツ社会により良く適合させ」「国外から高技能人材を積極的に呼び込む」ことの二つを軸とするかたちに転換されていった。
  ドイツ政府は、2001年に政府から独立した諮問委員会(ジュスムート委員会)を発足させる。人口減少に伴う労働力不足に対処するための新たな外国人労働者政策の提言を依頼するためだ。同委員会は、「外国人労働政策と社会統合政策を組み合わせた包括的かつ戦略的政策が必要」とした報告書を提出、政府はこれを受け新しい外国人労働法の策定に着手し、2004年7月、(ZuwG:滞在法およびEU連合移動自由法、入国管理法、滞在法、移民法などさまざまに訳されている)が成立、翌2005年1月から施行された。労働政策研究・研修機構の資料は、ZuwGにより「ワンストップ・ガバメント」原則が導入され、外国人は「滞在許可」と「就労許可」という二つの申請手続きを別々に行う必要がなくなった、という点を強調している。
  また、外国人がドイツに滞在したり、就労したりする際の規則が簡素化されると同時に、移民をドイツ社会に統合させるための政策に力を入れることが明確化された。「統合」実現のために重視されているのは、一定のドイツ語能力、「自由と民主主義」というドイツの価値観の尊重、ドイツの歴史や選挙制度などに対する理解、信教の自由の尊重などである。また、ドイツ語習得に加え、住まい探し、子供の学校の手続き、医療機関のあっせんなども含めた外国人の移住者・定住者に対する支援体制が強化された。
  このように、ドイツは労働力としてドイツ経済に組み込まれ不可欠の存在となった移民の社会統合を目指したが、それは十分実現してきたのだろうか。前述の社会的影響についてのいくつかの視点から検討してみよう。
 統合コースによるドイツ言語・ドイツ文化習得の難航
  2005年1月にZuwGが施行され、具体的な政策として、ドイツ語能力が不十分な移民に対しては「統合コース」参加の義務を負わせることが定められた。これによってドイツ社会からの孤立化を防ぎ、移民をドイツに統合することが目的である。
  この統合コースはドイツ語コースとオリエンテーションコースの二部構成で、ドイツ語コースに割り当てられる時間が大きく、言語習得が統合コースの大きな柱をなすが、ドイツ語コース修了後に実施されるオリエンテーションコースもドイツの法律、歴史、文化、価値規範を習得するための重要なカリキュラムとされている。
  しかし、統合コース開始直後から統合コースの不参加とドロップアウトの問題、統合コース修了者のドイツ語能力不足の問題が指摘されることになった。2005年は6万783名に統合コースが義務づけられていたが、実際に参加したのは3万2596名にとどまり、2005年だけですでに約3万人の不参加者を出し、2005年と2006年両年の総参加者数35万9047人のうち、約3割に当たる10万7879人しか統合コースを修了していなかったという。
  その理由として、小林(2009)では、日常生活の中でドイツ語を必要としない人にとっては、統合コース参加の理由を実感することは難しい。ベルリンのクロイツベルクやヴェディングのような移民集住地域では、子どもの教育から買い物、病院、出産までトルコ語が通じるため、ドイツ語が話せなくとも日常生活をするうえで不自由はない、とされ「統合コース以外でドイツ語を使用することはない」「クロイツベルクに住んでいる限りはドイツ人とかかわる機会がないので、トルコ語だけで十分」「何かあった時には同胞が助けてくれる」といった移民の発言が引用されている。日常生活の中でドイツ語の必要性がまったく感じられない参加者にとって、統合コースの目的は共有されづらい。そして、この論文は社会から周縁化されている移民を統合し、構成員として社会に取り込んでいくことは重要だが「われわれの国に住みたいのなら言語、文化を習得すべきである」というホスト社会側の高圧的な姿勢は、移民が移住先を選択するという現代においては時代錯誤、と指摘している。
 ドイツにおける外国人犯罪の多発
  ドイツでは、外国人移民の増加によって犯罪比率も高まったのだろうか。労働者としてドイツに移住してきた人々と、難民としてドイツを目指した人では、生活の困窮度も異なるから、犯罪比率が異なる可能性があるので、ここでは、欧州難民危機以前の状況をみておこう。
  法務省・法務総合研究所「外国人犯罪に関する研究」によれば、ドイツの外国人人口は、1961年(旧西ドイツ)の約68万6200人から、2011年には736万9900人になったとしている。この結果、全人口に占める外国人の比率を見ると、1961年の1・2%から2011年には9・O%になっている。2011年の外国人人口の構成比を国籍別で見ると、トルコが最も多く、外国人全体の23・2%を占めており、次いで、イタリア(7・5%)、ポーランド(6・8%)、ギリシア(4・1%)の順だった。
  次に、犯罪を代表する指標として受刑者数をとってみる。2011年の外国人受刑者は1万3232人、総数に占める外国人受刑者の比率は22・8%(男子は23・2%、女子は16・5%)であるという。また、2011年単年でなく、2011年までの10年間の外国人受刑者の比率を見ても、おおむね21~23%の間で推移している。
  外国人比率が9%であるのに、受刑者比率が20%を超えている、という点からみてドイツにおける外国人受刑者の比率は相当に高い。国籍等別で見ると、トルコが最も多く(18・4%)、次いで、ポーランド(7・5%)、ルーマニア(6・5%)、イタリア(4・5%)の順で外国人人口の比率にほぼ沿っている。
  「外国人犯罪に関する研究」の執筆者は、ドイツ連邦司法省を訪問し、収容人員に占める外国人の比率が総人口に占める外国人の比率よりも高いことの背景や要因について、行政サービス・保護サービス法令関係担当の課長にインタビューし、「確定的なことは言えないが、犯罪の背景・要因として一番大きいのは、言語、文化、経済的事情、法的な立場のちがい等の問題からドイツ社会に統合することが十分にできていない外国人が多いことがあると考えられる」との説明を受けた、としている。やはり、統合の失敗が犯罪率の高さに結びついてきたことは否めない。
 ドイツにおける国際結婚の潮流
  移民社会である米国については、「人種の増蝸」という表現がしばしば用いられてきた。それぞれの文化が互いに溶け合い混じり合って同化し、結果として一つの独特な共通文化を形成していく、ということになろうが、こうした同化の一番の近道は、国際結婚である。ドイツでの国際結婚はどのようになっているのだろうか。
  オルガ・ノットマイヤー(ドイツIZA労働経済学研究所)の論文には、国際結婚についての統計が含まれている。以下では、その中での国際結婚の「国籍による定義」による統計を引用する。国籍による定義は、ドイツ国民とドイツ国籍を持たない人との結婚を指す。たとえばドイツ国民の女性と、トルコ国籍ドイツ生まれのトルコ人の青年の結婚は国際結婚に当たる。
  国籍によって移民を分類し、国際結婚を定義するのは技術的に簡単でわかりやすい。しかし、話が複雑になるのは、ドイツ国籍を持たない移民が帰化するような場合である。この場合には、この定義の国際結婚にあてはまらない。言い換えれば、この定義による婚姻の状態(国際結婚か内婚か)は安定的ではない。さらに、この分類による国際結婚は、たとえば、帰化したトルコ移民と帰化していないトルコ移民の間の結婚も国際結婚として含んでしまう、などの問題がある。このため、国際結婚の代替的な定義としては、移民歴のない人(すなわちドイツ生まれのドイツ人)と移民歴のある人との婚姻関係による定義、というものもある。
  ただし、この定義による国際結婚統計は、2005年以降しか利用できない。ノットマイヤーは、両方を紹介しているが、前述のように、ここでは前者の定義による国際結婚の状況(難民問題が深刻化する以前の2008年までのストック統計)を引用する。

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フィンランド人の遺伝子に、組み込まれた「秘密の力」 『シス』

 『ノニーン!』より フィンランド人の遺伝子に、組み込まれた「秘密の力」 『シス』
 フィンランド人は働き者で心に秘めた決断力があると言われています。それは、フィンランドのことわざ「灰色の岩をも突き抜ける」に表わされているように、フィンランド人の遺伝子の中に備わっているものです。それを『シス』と呼んでいます。
 「シス」の説明にはいろいろあります。粘り強さ、妥協しない頑強さ、ガッツ、勇気など。要するに、全ての障害に打ち勝つ、決して負けない心です。歴史的にも、フィンランドは、1939年に起きたロシア(当時のソビエト連邦)との「冬戦争」に多くの犠牲者を出しながらも戦い、独立を守りました。これは、「シス」の代表的な例です。
 「シス」は、アーティスト、作家、作曲家、劇作家たちにインスピレーションを与え、個人の意志の力が英雄的な行いに繋がることをテーマに数多くの作品が作られています。
 「シス」はどこのドラッグストアでも買える強い味の喉薬の名前でもあります。また、冬の間凍るパルテック海の氷を打ち砕く砕氷船の名前にもなっています。

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世界遺産の街レーゲンスブルクで働く

 『図書館コレクション談義』より ドイツの小さな町の図書館
 世界遺産の街レーゲンスブルクで働く
  これから半年暮らしていくレーゲンスブルクに着いたのは、忘れもしない9月下旬の日曜日でした。ホルガウの異文化体験を書いたので、私がホルガウに住んでいたのだろうと思われたかもしれません。でも実際に住んでいたのは、南ドイツのバイエルン州の州都ミュンヘンから北東約120キロに位置するレーゲンスブルクという街でした。100館あまりのドイツの図書館へ「もし助成金がいただけたならば、貴館で研修を受けさせてほしい」というメールを出し続ける中、最初に返事をくださったのがレーゲンスブルクの図書館でした。それにご縁を感じ、ここに住んでみようと思いました。
  レーゲンスブルクといえば、ユネスコの世界遺産に登録されている街です。古い街並みが美しく、街を流れるドナウ川にはドイツ最古の石橋がかかっています。一人暮らしをしたことがなく、生まれ育った北九州市以外に住んだこともない私。初めての一人暮らしに世界遺産の街は面白いかな。ひそかにそんなことも考えていました。
  さて、そのレーゲンスブルクに到着した日曜日の午後、街は動きを止めているかのようにシーンとしていました。気のせいかなあと思いながら、お腹が減ったので(パンでも、何ならケーキでもいい気持ちで)食べ物を買いに行きました。
  まだドイツに着いたばかりで、街の様子もわかりません。ドイツ語にも慣れていなくて、知り合いもいません。レストランに入る勇気もありません。パン屋かスーパーで何か買って食べられれば、今晩の空腹はとりあえずしのげるかなと考えました。でもその日、開いているお店を見つけることはできませんでした。ペコペコのお腹を抱えて眠ったドイツ滞在初日でした。
  後で聞いてみるとドイツには「閉店法」という法律があり、日曜日は基本的にお店の営業はできないというのです。2006年以降は、国ではなく州政府がそれぞれに閉店法の規程を定めることができるようになり、規制緩和もベルリンなど一部の都市では進んでいるようです。しかし私が行った頃のレーゲンスブルクは、閉店法がきちんと守られている状態でした。基本的にはお土産物屋さんでさえ閉まります。
  日本では考えられませんが、ドイツでは常識。そんなことも知らずにドイツに渡りました。同じ人間が暮らしているのだから、どこで暮らすことになってもだいたいのことは何とかなると思っていました。でも、ものごとを知らないということは「腹ペコ我慢事件」を発生させるのだと思い知りました。
  『ドイツ人はなぜ、1年に150日休んでも仕事が回るのか』(熊谷徹 青春出版社 2015年)という本があります。この本には旅で見えてくるドイツと、働き、暮らしてみて感じるドイツと、両方のドイツが詰まっています。また、ドイツ流の休暇の過ごし方の背景には効率的な労働についての考え方が存在しているなど、ドイツ人の生活を垣間見ることができたように思います。閉店法の歴史的な背景やお店での体験談なども書かれています。24時間営業するコンビニが生活になくてはならないものになっている日本でこの閉店法を公布するとなると、パニックが起こるだろうなあとしみじみ思います。
 レーゲンスブルク図書館コレクション
  私の住まいはレーゲンスブルクのほぼ中心部で、そこから歩いて2~3分のところに研修先である中央図書館がありました。日本でいう市立図書館はこの中央図書館以外に北分館、東分館、南分館、ブルクヴァインティング分館と、4つの分館がありました。それぞれの地域の特性に合わせて開館時間は違っていましたが、それ以外のルールは5館共通でした。
  レーゲンスブルクの中央図書館は、ハイドプラッツという小さな広場にある建物の2階と3階部分でした。このハイドプラッツにはカフェや飲食店などが複数あり、図書館で借りた本などを読みながらコーヒーを飲むといった過ごし方をしている人もよく見かけました。
  建物に入り、正面の階段をのぽって2階に行くと、小説や実用書、児童書やヤングアダルト向けの本が並んでいました。特にヤングアダルトのコーナーでは、日本の影響を大きく受けたであろうと思われる可愛い女の子のキャラクターのホップが本に添えてありました。またコミックスとは別に『MANGA』というコーナーがあり、『DRAGON BALL』『one Piece』など日本の漫画も数多く収集されていました。海外で日本の漫画が人気という話を聞いてはいましたが、レーゲンスブルクでもこうして図書館にコーナーができるほどの人気でした。特にレーゲンスブルクは人口12万人に対して大学が3校もある学生の街です。その影響もあるのかもしれません。大学で日本語を学んでいるドイツ人の学生と会うと、たびたび漫画のことや秋葉原のことなど、たくさんの質問を受けたのを覚えています。またMANGAコーナーがある書店も多く見ました。『名探偵コナン』や『犬夜叉』など、ドイツ語に翻訳した漫画が販売されています。興味深いことに、このドイツ語版の漫画には読み方を説明するページがあります。説明には、日本の漫画は本の背を右にした状態が表紙で物語が始まること、右上のコマから左下のコマヘと読み進めることとありました。そして吹き出しには読む順番を示す数字がふってありました。
  また、児童書の近くにはボードゲームも並べてありました。児童に限り、ゲームの貸出をします。ここ数年、日本の図書館でもボードゲームなどの収集を始めているところもあるようですが、ドイツではもう10年以上前からこういった取り組みがされていました。
  このレーゲンスブルクの図書館では楽譜もコレクションの一つでした。レーゲンスブルクにはドイツ有数の音楽学校があります。図書館の資料収集方針にもそういった背景が反映されていると思われます。
  3階にはさまざまな国の言葉で書かれた資料が収集されていました。基本は英語、フランス語、スペイン語です。ドイツに多く住んでいるというトルコ人移民のためのトルコ語の資料を収集している図書館も少なくありません。ここレーゲンスブルクの図書館にもトルコ語の資料がありましたし、さらには中国語、日本語の資料も多くはありませんが収集されていました。基本的に、レーゲンスブルクの図書館はベストセラーを追いかけるのではなく、読み継いでいくことができる本、後世に遺したい本という視点での選書をしているとのことでした。
  さてそんなドイツの図書館のルールの中でまず日本人が驚くだろうことは、図書館での本の貸出に料金がかかるというところではないでしょうか。たとえば、年間利用料金として、大人は17ユーロ(1ユーロを125円とすると、日本円で2125円)かかります(18歳以下は無料です)。学生や兵役についている人、社会的援助を受けている人、障がいのある人や青少年指導者カードをもっている人は10ユーロ(1250円)。さらにはパートナーカードというものがあり、配偶者だけでなく同棲相手や、18歳以上でも親と家計を共にしている人は3ユーロ(375円)でカードを作ることができるとのことでした。
  公共図書館のカード作成が有料!に驚いた半面、公共施設としての図書館という意味では、対象によって細かく配慮されており、サービスの一環として住民に寄り添っているという印象を受けました。ちなみに、これは白治体によって個別に決められています。
  年間の利用料金以外で、何に料金が発生するのかが興味深いものだったので、一部ご紹介したいと思います。
  まず延滞料金が1日あたりかつメディアー点につきO・2ユーロ(25円)です(レーゲンスブルクの図書館ではメディアというのを貸出する資料の単位として使っていました。収集資料は本や楽譜、地図、レコード、ゲームなどさまざまありました。そのため単位をメディアとしていたようです)。ビデオ・DVDは1点あたり、かつ1日あたりO・6ユーロ(75円)です。そして延滞請求書作成費用は5ユーロ(625円)かかります。また、インターネット利用料金は1時間2・5ユーロ(313円)かかりますし、本の予約はI点につきIユーロ(125円)です。資料についているバーコードを破損した場合は1点あたり1・5ユーロ(188円)、図書館カードの登録内容変更の申し出をしなかった場合には3ユーロ(375円)徴収されます。

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量子コンピュータで変わる自動車の未来

 『量子コンピュータが変える未来』より 量子コンピュータで変わる自動車の未来
 未来の車のシステム
  ここからは、未来の車に考えられるシステムとして、シェアリングエコノミーに端を発するカーシェア、ライドシェア、複数の乗り物を活用するマルチモーダルシステム、そして交通を誰でも楽しめるよティの世界を紹介します。また、現在、課題となっている物流量の増加についても触れていきます。これらは、どれも最適化の要素を大きく含むだけでなく、対象とする人や乗り物の数が増えれば増えるほど、より効率的な運用ができる可能性がある反面、計算量爆発を引き起こします。そのため、量子コンピュータが大きく寄与できる可能性があるものです。
 シェアリングエコノミーが起こす変革とカーシェアリング
  世の中はモノを保有する時代からシェア(共有)する時代へ変わってきたといわれています。たとえばAirbnbと呼ばれる、一般人が空いた部屋を他人に貸し出す取組みや、メルカリのメルチャリなどの自転車を好きなときだけ借りられる仕組み、DeNAのAnycaと呼ばれる個人の車のカーシェアリングなど、次々と新しいサービスが始まっています。
  このムーブメントの本質は、モノの稼働率の改善です。個人で保有されている自動車の稼働率は数%といわれています。車を片道1時間の通勤に使っていたとします。勤務地に到着して仕事をしている8時間の間は駐車場に止まったままです。家に帰ってからの夜の時間や寝ている間も車は止まったままです。そのため、このライフスタイルの場合は24時間中2時間しか車は稼働していないことになります。極論をいえば、もし2時間ずつ使う人12人でこの車をシェアすれば、保有コストは12分の一になる可能性だってあります。このような資産の有効活用の取組みは今後も拡大していくといわれています。この有効な活用もまた最適化であり、量子コンピュータで作れる未来があるのではないでしょうか。
 ライドシェアリング
  車のシェアリングには、カーシェアリングのほかにライドシェアリングというアプローチがあります。ライドシェアリングは日本語でいう相乗りで、タクシーに乗る際に行き先が似たお客さんが同乗するイメージです。ライドシェアリングは当然ながら、ほとんどの場合は個人の最適ルートとは異なるルートを走ることになります。そのため、時間の面ではデメリットになりますが、費用負担がシェアされることで料金は安くなります。そして、シェアする人数が増えれば増えるほど、どんどん費用は安くなっていくのです。
  このように、人や経路の要求のマッチングは、候補数が多ければ多いほど効率化を生んでいきます。その人の考え方によって、費用と時間をどうバランスさせたいかの最適値は異なります。個々人が満足できるような最適化をリアルタイムにすることができればどんどん良いサービスにできる可能性がありそうです。
 マルチモーダル
  実はライドシェアリングというのは、バスや電車といった公共交通機関では当たり前の考え方です。みんなで移動を共有するからタクシーよりもずっと安いわけです。公共交通機関での移動を考えてみると、遠くに行く場合には乗り継ぎをすると思います。在来線の電車から新幹線に乗り継ぎ、降りた先でバスに乗るといった具合に。ライドシェアリングを突き詰めていくと、車だけでなく公共交通機関も活用した乗り継ぎの最適化をするアプローチに行き着きそうです。
  こういった複数の乗り物を乗り継ぐシステムはマルチモーダルシステムと呼ばれ、北欧を中心にすでに運用され始めています。たとえば、ある地点からある地点へ行きたいとスマホのアプリでリクエストすると、そこに行き着くまでの電車、バスなどが案内され、料金もまとめて支払うことができて大変便利です。
  しかし、すでに運行されている多くのマルチモーダルのアプリでは、あくまで乗り継ぎの案内と支払いをしてくれるのみで配車をしてくれるわけではありません。そこで、乗り継ぎ先のライドシェアリングカーの到着タイミングや経路まで最適化してしまったらどうでしょう。こんな大胆なことが考えられるのも、もしかしたら量子コンピュータならではかもしれません。
 ラストマイル/ファーストマイル問題
  日本では総人口に占める高齢者の割合が増加してきています。高齢者のなかには事故を恐れて自主的に免許を返納される方も多くいらっしゃいます。しかし、バスなどの公共交通機関の停留所から家が遠ファーストマイル問題と呼びます。この言葉は、家から公共交通機関の停留所までの1マイルの移動が課題という意味です。しかし、毎回タクシーを使うのは高コストです。そこで、運転者が要らずに将来低コスト化の可能性もある自動運転車を活用する実証実験が始まっています。
  こういった個々のニーズに合わせて車やバスが無数に走る時代になれば、運行コストの低減や待ち時間の短縮など、サービスの質向上に向けた運行計画の最適化が必要になっていくと考えられます。量子コンピュータは・』のようなシステムを実現することで、あらゆる人に移動をする楽しみを提供していくキー技術になるかもしれません。
 物流
  Amazonや楽天などのオンラインショッピングの増加によって、物流量は年々増大しているそうです。それに伴い、時間指定や再配達などの要求が増大することで配達員の方々の負荷は日に日に増しています。さらには時々刻々と変化する渋滞状況も配送の困難さを助長しており、配送の効率化は大きな課題です。
  最近では、配送効率化を目指してドローンを活用した配送や、バスのなかに移動客と荷物を混在させた貨客混載と呼ばれる配送であったり、自動運転車での配送、個人の車を使った配送などさまざまな提案がされ始めています。
  こういったさまざまな手段を用いながら、時間通りに配送を行えるような最適化を量子コンピュータで実現できれば、配送コストが大きく低減され、さらなる物流量にも対応できるようになる未来が創れそうな気がしています。
 今後の発展
  ここまでに述べてきたように、さまざまな新しいモビリティサービスに量子コンピュー夕を適用できる可能性が生まれそうです。それでは、さらにその先のせ界はどうなるのでしょうか。
  2018年1月のCESや9月のITS世界会議を始めとした多くの場所で筆者は量子コンピュータが切り開く未来の可能性を発信してきました。その結果、アメリカやインド、シンガポール、韓国、オーストラリアなど、地域事情も多種多様な方々から多くの反響がありました。
  たとえば、交通の最適化は都市のデザインから始まるため、ビルの配置や道の設計といった都市の最適化をできるのではないかという話がありました。これは、交通を一段上のレイヤで捉える非常に面白い発想です。渋滞を回避すれば食品の配送が鮮度を保ちながらできるようになるのではないかという話もありました。これは、渋滞がなくなった先の新しい価値を生み出す考え方です。単純に渋滞を回避するだけでなく、渋滞を回避する経路として、新しい発見や人が楽しくなるような体験ができるような経路を作ったら面白いんじゃないかという話もありました。これはユーザーエクスペリエンスに価値を見いだすという、世の中の潮流に合った新しい考え方です。
  このような議論が活発に行われ始めたことこそが、まさに量子コンピュータの可能性をさまざまな業界の人々が見たことによって生まれるイノベーションの始まりだと思います。ここから、私はあることを感じています。最適化とは、多くの価値が組み合わされてできていることです。たとえば渋滞一つにしても、都市を良くするための1パーツと捉えれば都市の最適化となるように、CO2をなくして環境を良くするための1パーツと捉えれば、ほかの環境要因を組み合わせたシステムにもなるかもしれません。このように最適化の広がりは多面的です。今までのコンピュータの能力では、この多面的な世界の一部分しか扱えなかったかもしれません。しかし、量子コンピュータを手にした人類は、この多面的な世界への挑戦権を獲得したともいえそうです。以降でも紹介されるさまざまな取組みや、この本の読者の方々から出てくる発想との組合せによって、面白い世界が作られていきそうな予感がしています。

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日本の政治および思想に組み込まれた三つの「バグ」

 『暴走する日本軍兵士』より 恐ろしいものと些細なもの
 第一のバグ--曖昧な正当性
  政治の正当性とは、政権が強制的な手段に頼ることなく大半の時期において大半の人々を従わせる能力と定義できる。それは根底において主に資源の問題である。世界中のいかなる政権にも全国民を絶えず抑圧するほどの力はない。銀行のように、政権は暴力という通貨を一部の人々に「支払う」ことができる。だが、あまりに多くの人々が「支払い」を受けなければならなくなると、銀行と同様に国家も破綻する。この観点から見ると、政治の正当性を支えるものは恐怖とイデオロギーという二つの柱である。政権を嫌う者でも制裁に対する恐怖はあるため、抑圧せずとも通常は政府に従うだろう。だがこれは、特に近代の政権においては、必要条件ではあっても十分条件ではない。たいていの政府は、メディア、国の公式発表、親政府系団体、そして何よりも教育制度を通じて、国民が自らの意思で従うように促す。ほとんどすべての近代国家において、大日本帝国も例外なく、政治の正当性は恐怖とイデオロギーの二つが土台となっている。
  一八六八年の維新後に樹立された明治政権は、以前の徳川政権における秩序が崩壊したため、政治の正当性を根本から再構築しなければならなかった。新たな指導者たちは権力を握るとただちに恐怖とイデオロギーを利用して新制度を正当化するため尽力し、理論どおりそれはうまくいった。西南戦争終結時における政権の軍事力に疑いの余地はなかった。さらに、イデオロギー構築の面でも政府は大きな成果を上げた。遅くとも二〇世紀になるころには国民の大多数が国家の中心としての天皇の権威、強い軍と経済および世界の列強と完全同等の関係をもつ必要性を受け入れ、ときには熱心に支持した。多くの国民、とりわけ陸軍軍人にとって、軍事力は中国大陸における領土拡大の範囲で示された。ただ、反体制派を別にしても日本が一枚岩の社会だったということはなく、むしろ国民はさまざまな意見をもっていた。それでも、大陸での権力行使を重んじる愛国主義はほとんどの日本国民が受け入れていた。この意味で、明治政権のイデオロギー構築は大きな成功を収めた。
  だが、完璧なように思えるこのイデオロギーには一つ根本的なバグが存在した。かつての藩閥の壁を越えて手を組み、明治政府において憲法の枠を越える権限をもった少数支配者たちは、自らの権力をイデオロギー面で正当化することはできなかった。むしろある意味では、正当化しようとさえしなかった。そうすれば天皇の絶対的権威を損なってしまうからである。一八七八年以後、彼らは恐怖を与えるとともに賢く政策上の妥協をすることで統治力を固めたが、その支配は確固たる正当性をもたなかった。長年の伝統もなく、洗練されたイデオロギーによる正当化もなされなかったため、天皇を除くほとんどの政府関係者はあらゆる場面で反抗的な者たちの挑戦を受けた。なぜ元老に従わなくてはならないのか? 首相に軍を動かす権限はあるのか? 文民政治家は帝国議会を通して多数決の原則を取るべきなのか? 天皇の権力が霞のように見えにくいためにこれらの問題は常に議論の的となり、交渉の末にはいかなる場合も必然的に誰かが不満を抱えることとなった。
  そのように不満を残した人々はさまざまな領域に及び、疎外され、搾取され、裏切られたと感じた。そうして反感をもった上級および下級将校の集団こそが本書の主題である。一八七八年から一九三一年にかけては政府が制裁の恐怖を与えていたため、彼らに反乱の成功を望むことはできなかった。また、不満を抱える軍人たちにも国家のイデオロギーは浸透していたため、帝国体制に抵抗することもなかった。だが、そのイデオロギー体系に組み込まれていた「バグ」を原因に、不満を表現できる手段が一つ残された。それは本書で「前線への逃亡」と名づけた行動、つまり十分に正当化されていない政府よりも早く、より優れた断固たる方法で領土拡大のために尽力することによって天皇を崇める行為である。
  理論上では、この愛国的反抗心が国外侵略にまでエスカレートする必要はなかった。台湾出兵と西南戦争で活躍した谷干城中将は、小さな日本こそ天皇と国家体制をうまく支えると信じたため、政府の帝国主義政策を批判した。だが、谷は陸軍内で孤独な「野の花」だった。残念ながら、彼の思想とは逆の愛国主義のほうが、命令に逆らって領土拡大のため突き進むという行動によって表されることが多かった。この事実は、近代日本の政治に巣食った第二の重大なバグと関連している。
 第二のバグ--一方通行の領土拡大
  谷中将などの例外を除けば、国家の公式なイデオロギーは、軍、権力層、そして大衆の大半によって、領土拡大と経済発展の両視点における国家の成長だと解釈された。政策の費用と実行速度はしばしば議論の的になったが、その方向性について意見は分かれなかった。領土拡大は一方通行の道だった。国家全体が持続的成長というイデオロギーを受け入れている状況では、たとえ反抗的な軍人が法に反して手に入れた成果であろうと、それを手放すことは理屈に合わなかった。閔妃と張作霖の暗殺事件で示されるように、そうした軍人は本質的には政府と同じ道を歩んでいたため、反逆的とはいえ彼らを罰することも難しかった。その行動は間違っていても、「純粋な」動機には常に上層部も共感を示し、手段は支持しないにしても彼らの目的自体は正しいと考えた。これは、幕末の志士文化が遺した遺産のうち、最も消し去りがたく破滅的なものの一つであった。
  このような条件下で、一方通行の領土拡大路線に後押しされて軍人は他国への攻撃という形で政府への反抗を示し、さらに一度上げた功績が否定されることはないと確信をもった。軍や政府が秩序への反抗を許すごとに、法で罰せられないという印象が強まるとともに歴史による正当化が進み、不服従を通じて現実を変えられるといった楽観思考が人々の中に深く根づいた。これまでに述べたとおり、このような楽観主義は一八七〇年代から桜会の時代に至るまで軍人の反抗における燃料となった。
 第三のバグ--終わりなき領土拡大の道
  だが、この反抗的楽観主義をいつまでも持続させたのは、大日本帝国のイデオロギーに組み込まれた、もう一つの致命的なバグだった。領土拡大は一方通行だっただけでなく、その道は無限に続いていた。日本にとっては不幸なことに、このイデオロギーは危険なほど曖昧だった。たとえば、いつになれば軍力が十分だと知ることができるのか? 大正政変時にも一九二〇年代にも、軍は常により多くの師団、予算、そして政治的影響力を求めつづけた。また、日本はどれくらいの大きさであるべきなのか? 朝鮮、台湾、満州を手に入れるだけで十分だろうか、それとも、これまで獲得した領地を守るためには中国への領土拡大が必要だろうか? これらを知るすべも客観的基準もなく、日本の運命がいつまっとうされ、その使命が果たされるのかを定める合意もなかった。政府が何をしても、どれはどの領土を手にしようとも、日本の漠然とした帝国主義のもとでは常に多くの渇望が残り、文民および軍人の急進派が満たされることは決してなかった。
  この絶えない不満は一九二〇年代後半に著しく急進化し、国内でますますフラストレーションが生まれていった。大正政変研究の中で坂野潤治が指摘するように、日本の帝国主義は解消できない矛盾に苦しんでいた。つまり、資源の乏しい日本には、一流の帝国でありつづけるという夢を叶えるための軍力を維持する手段がなかったのである。橋本欣五郎や二・二六事件首謀者などの軍人は、日本の貧困と領土拡大の遅れをどちらも懸念していた。軍と軍事費を無限に拡大しつづけながらも経済的に国家を繁栄させるという彼らの目標は、決して実現しえないものだった。したがって、何か起きようと彼らには不満が残ると決まっていたのである。
  大川周明や北一輝など右翼思想家のイデオロギーは、一九二〇年代後半から強まっていた軍人の反抗心から恩恵を受けた。こうしてすでに混乱していた軍人たちの思想にまったく新しいユートピア的側面が加わったため、状況はいっそう悪化した。「昭和維新」によって軍、社会、精神など全領域の問題を解決するという夢も、実現不可能なユートピア的考えだった。当然ながら、そのような政権を構築する手段は誰も知らなかった。そのため、処刑前に二・二六事件の首謀者が自分たちの行動によって陸軍の立場が強化されたことを知ったとき、そのほとんどがまるで関心を示さなかったことも驚きではない。渋川善助は国民に軍を信用しないよう訴えた。事件の中心人物のうち死刑を免れた数少ない軍人である末松太平は、彼の仲間が射殺した蔵相は軍の領地拡大方針を抑えようとしていたにもかかわらず、陸軍は国内の問題から気を逸らせるためだけに対外の強硬姿勢を利用しているのだと嫌悪感を溶ませた。村中孝次は次のように記した。「我々は軍の予算を増やすためや陸軍の立場を強めるために刀を抜いたのではない。それは貧しい農民のため、日本のため、そして世界のためだった」。そのような曖昧な目標のもとで村中が満足できなかったことに不思議はない。彼自身でさえ、自分が何を求めているのかほとんどわかっていなかった。
  これまでの内容をまとめると、近代日本の悲惨な現実は政治および思想におけるバグの結果として生まれた。第一のバグは、軍人に危険な形で不満を表現させた。第二のバグは彼らに楽観主義および自らを正当化する根拠を与えた。そして第三のバグを原因に、彼らは決して満たされることがなかった。政府も軍指導部も、叶わない夢を見つづける彼らを癒すことはできなかった。譲歩するか対立するほかはなく、さらにどちらも時が経つにつれ難しくなっていった。穏健派の政治家たちが繰り返し譲歩したことで、争いの道は満州から盧溝橋、南京、真珠湾、サイパン、沖縄、広島、長崎に至るまで伸びっづけた。そして自らが突き進んでいる方向に日本が気づいたとき、それを修正するにはもう遅すぎた。

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