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車レスで何が生まれる

クルマがなくなるということは何かが生まれる。何だろう? 楽しみですね!
そこじゃないでしょう、問題は神宮の天気
第一次選別で14冊残った。厚い本から片付けよう!

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人々が孤立する社会

『公民館をどう実践してゆくのか』より 〈ちいさな社会〉をたくさんつくる--公民館を再考するために
 高い未婚率・雇用不安・出産育児の困難をつなぐもの
  確かに問題はある。こんなにいい社会なのに、子どもを産みにくくなっているのも事実である。これだけ少子化が問題視され、子育て支援の必要性が叫ぱれ、保育園の整備が求められているのに、遅々として改善されず、待機児童が増え、子どもを産み育てることが難しくなっているともいえる。
  少子化の原因に、未婚率の高さがいわれることがある。その背後には、若者の雇用不安や自立不安があるともいわれる。七〇四〇問題といわれるような、七〇代の親の年金に四〇代の未婚の子どもが依存しているという状態も、マスコミを賑わすようになってきている。しかし反面、それはまた、結婚しなくても、ひとり暮らしで生活できてしまうほどに、この社会がひとり暮らしに対応したサービスを提供していることと裏表の関係にあるのだともいえる。
  この未婚率の高さと若者の雇用・自立不安、さらに出産育児の困難という現実は、ある一点で相互に結びついているように見える。これまでの産業社会、つまり製造業を中心とした、規模が拡大する社会の観念や仕組みをそのままにして、少子高齢化・人口減少の社会に対応しようとし、その結果、歯車が悪い方へとまわってしまっている、そういうことである。
  それは、人々がこれまでの社会のあり方に依存してしまっていて、そこから抜け出せないということであり、それは端的には、行政や企業そして家族に依存するという考え方や習慣から抜け出せていないこと、そしてその裏には「自己責任」をいい募る社会、つまりともに生活して自立しようとする人々の存在を否定する社会のあり方があることを物語っているのではないだろうか。
 直列していた個人-家族-会社-国
  これまでの産業社会は、人口が増えることを前提として、多くの人々が同じような生活を送ることをよしとする社会であった。経済発展とは、拡大再生産の価値観にもとづいて進められるものであり、そこでは、拡大・進歩・発展・発達が社会の価値となる。
  その社会では、個人と家族と会社と国が直結していたのだといえる。こういういい方を聞いたことはないだろうか。将来、幸せな生活をしようと思ったら、一生懸命勉強して、いい学校に進学して、いい大学に入って、大企業に就職して、一生懸命働きさえすれば、給料は増えるし、税収も増えて、あとはお上が保障してくれる。この社会では、会社と家庭が社会保障の要であった。会社とくに大企業は終身雇用・年功序列で福利厚生を充実させており、家庭では専業主婦の妻が、家事と育児、そして高齢者の介護を担っていた。そして、家庭と会社を結びつけていたのが学校であった。そこでは学歴信仰とでもいうべき観念が人々を支配して、激しい進学競争が繰り広げられてもいた。
 サービス化される公共と消費者化する個人
  その社会では、人々は自分の利益と他者の利益とを競争の関係でとらえ、行政に対しては自分の利益を保障せよと要求する、そういう対抗関係がつくられてきたといってよい。行政も潤沢な税収を背景として、それらの要求に応えてきたことも事実である。この動きに拍車がかかったのは、社会が消費社会へと移行して、それまでの公共施策や措置をサービスととらえ返したことではないだろうか。
  教育も医療も福祉もサービスとされ、個人が自己の責任で要求し、購入するものという観念が強化されることで、人々はともにこの社会をつくっているという感覚を失い、自分が生活するために必要なものは、サービスとして、要求し、購入する、こういう構図がつくられていった。そこでは、納税者は公共サービスを税金で購入する消費者として位置づけられ、行政に対して無理難題をいい募る、いわばクレーマーとして登場する。
  その背景にあるのが、社会が、自分-家族-会社-国が直列となって、みんなが同じ生活を送るという帰属の安心感をもたらしていたそれから、孤食と呼ばれる食事のような、家族であってもそれぞれがばらぱらな時間に生活する、人々が孤立するそれに変わることで、人々自身の生活が安定感を失っていってしまったことではないだろうか。

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Uberは私たちをどのように変えたか

『Uberland ウーバーランド』より Uberの新時代
 ドライバー・フォーラムは、こんにち最も重要なふたつの社会的トレンド、すなわち、臨時労働の拡大と社会におけるデジタル通信ネットワークの優位性をUberがいかにまとめあわせたかについて、ひとつの実例を提供する。雇用主は業務委託契約などによって、労働者から距離を置くようになり、Uberもその例外ではなく、ドライバーを個人事業主に分類して、彼らを価値の低い消費者のように取り扱い、アルゴリズムによって管理しているUberは労働の動向を利用し、分散された労働力のなかで、仕事の機会を拡大することによってその身をたてると、アルゴリズムはこの会社が設定するルールを実施する。アルゴリズムはフェイスブックやグーグルといった消費者志向のテクノロジー・プラットフォームでューザーを管理する。雇用主と遠く離れたところにいるドライバーは、デジタル文化に頼って、アルゴリズムの上司から直接得ることのできない情報をクラウドソースする。雇用主が労働者に対する責任を回避するとき、職場文化に隙間が生まれることになるのだ。
 その一方で、インターネットとデジタル文化は、労働者やその他の人々にチャンスの第二の波を切り開き、彼らの抵抗をネットワークでつなぐ。これは搾取を防ぐものではないし、ふ九全に信頼できるものでもない。労働条件が頻繁に変更される可能性がある仕事では、一部の情報--個別の実験、突発的な料金設定ポリシー、テスト機能などに関する情報--は、あっという間に広がる可能性がある。誤報が同じ経路から拡散すると、ドライバーの対話の信憑性は危うくなる。アルゴリズム的マネジメントからネットワーク化された抵抗に至るまでのこうした力関係は、Uberが単に社会の注目を集めるだけの存在ではないことを物語っている。この会社は、足を踏み入れたあらゆる場所で、一連の果てしない波及効果を生みだしているのだ。
 Uberの慣習やその個々の影響のほかに、ウーバーランド全体に何度も姿を現わすテーマは、Uberがいかにテクノロジーの言語を使用して、アイデンティティの役割を破壊しているかということだ。Uberは自らを輸送会社ではなくテクノロジー会社と呼んでおり、この区別を利用して、たとえば、なぜ自分たちが障害をもつアメリカ人法に従う必要がないか、つまり車椅子の人が利用できる輸送手段を提供しなくてもよいかを正当化している。何十万人もの労働者がUberのプラットフォームで仕事を探しているが、Uberは雇用主という役割から距離を置いている。Uberは、ドライバーは独立したアントレプレナーであると宣伝するが、自動化されたアルゴリズムの上司を介して、ドライバーの仕事中の行動をコントロールしていることを覆い隠しているのだ。テクノロジーは「接続しているもの」なので、Uberは自らが提供する仕事とサービスを、シェアリング・エコノミーにおけるシェアの一タイプだと見なしている。事実上、賃金労働の価値を下げ、それを女性化するメッセージである。賃金損失のような問題は、「不具合」などのテクニカルな言語で処理される。価格差別の市場論理は、人工知能のイノベーションとして組みなおされる。私たちがこれと思うものが実は別物だということを主張するために、テクノロジーの言語が修辞的に使われていることを私たちは何度も目にしている。ウーバーランドはテクノロジーのからくりによって動かされているだけでなく、アメリカ文化を実質的に支配しているテクノロジーによる説得によっても動かされているのだ。
 アメリカの労働人口におけるUberドライバーの数は全体としては少ないが、こうしたドライバーは、臨時労働の長期にわたる拡大傾向を拡散し強化するテクノロジーの役割を象徴するようになった。ローレンス・F・カッツとアラン・B・クルーガーというふたりの経済学の第一人者によると、「UberやTaskRabbitなどのオンライン仲介者を通じてサービスを提供する労働者は、二〇一五年には、全労働者の〇・五パーセントを占めていた」ことがわかった。だが、Uberがテクノロジー文化、ビジネス、仕事に与えた影響は、その運営のしくみに劣らずUberの成功のパワフルな文化的手段なのだ。アメリカ社会におけるシリコンバレー・テクノロジーというポピュラー・カルチャーは、私たちにUberの雇用テクノロジー・モデルを受け入れる準備をさせているUberが文化にもたらす不釣り合いな影響は、サービスとして、また常にメディアに注目されるものとしての遍在的な存在を通じて明らかになる。なぜならそれは、対立を引き寄せる磁石のようなものだからだ。そしてUberがドライバーに設定する条件は、私たちが労働の未来において、テクノロジーの役割を取り決める基礎となる条件を決定するのだ。
 Uberのひときわ目立つ共同創業者であるトラヴィス・カラニックは、最終的にシリコンバレーの戦士王を象徴する存在となった。「デカコーン]〔評価額一〇〇億ドル以上の未上場のスタートアップ企業のこと〕としてのUberのステータスと、およそ七〇〇億ドルという評価額にも関わらず、カラニックは二〇一七年、ついに辞任に追いやられた。尽きることのないスキャンダルが、この会社の未来を危うくしたからだ。長年シリコンバレーのジャーナリストをしてきたサラ・レイシーは、二〇一七年七月一四日に、モントリオールで行なわれたスタートアップ・フェスのキーノート・スピーチで次のように述べた。
  シリコンバレーは地元で育った文化です。最高の価値をもつ会社がどこであろうと、それは、この時代のあらゆる文化に不均衡な影響を及ぼします。IPO(上場)直前という立場から、シリコンバレー史上最高評価額の七〇〇億ドルを誇るようになったUberをはじめ、これほどのレベルはかつて目にしたことかありませんでした。全権を創業者が握っているのです。三年にわたるスキャンダルを経て、創業者はついに失脚に至ります。彼らに何十億ドルも稼がせた破壊と違法行為、その評価とマスコミ報道などすべてが原因で--この会社は、タクシー法を破ることと、労働法を破ること、そして企業秘密を盗むこととのちがいがわかっていないことが判明したのです。
 自らの活動に対する規範的規制を適切に遵守するのをUberが攻撃的なまでに無視したことは、シェアリング・エコノミーがアメリカ社会に広めている男性的な破壊の態度のひとつと言えよう。
 とはいえ、Uberの評判が目まぐるしく変化していても、それが必ずしも、Uberがもつもっと大きな遺産に影響を与えているわけではない。Uberの考え方は、社会におけるテクノロジーの望ましさを、私たちがどのように想像するかという点で重要なことは確かだ。世界的高みへと上りつめていくなかで、Uberはテクノロジー楽観主義者の合言葉となった。多くの都市にとって、Uberを迎えることは最先端であることの証しであり、少なくともグローバルなテクノロジー・ビジネス市場の一部であることのしるしなのだ。UberとLvffが二〇一六年五月、彼らに運営条件を課そうとする規制当局の取り組み(データシェアリングやドライバーの指紋ベースの身元調査など)に対する抗議として、すばやく腫を返してテキサス州オースティンから撤退したとき、このことは、「Uberを失ったオースティンは、もはやテックの首都ではなくなった」といった、やたらと批判的な見出しでもってメディアに取りあげられた。シェアリング・エコノミー会社を受け入れることに対して、カナダで最も気が進まなかった主要都市、バンクーバーでは、心配したブリティッシュコロンビア大学の卒業生やコミュニティの専門家らが、二〇一六年一一月末に行なわれた「バンクーバーはなぜシェアリング・エコノミーヘの参入にこれほど遅れをとっているのか?」といったパネルに参加した。
 大都市でUberが不在であることは、その都市の評判に傷をつける。それは、進歩的な仲間に遅れを取っている証拠になるからだUberを利用することは、都市によっては社会の基盤、すなわち、多くの人にとって標準的な民間輸送手段となっている。二〇一七年五月、オハイオ州ペインズビルの地方裁判所判事が、飲酒運転で有罪判決を受けた者に対して、保護観察条件の一環としてUberとr莽をダウンロードするよう命じた。消費者にとって、Uberのない地域へ旅行するという経験は、カルチャーショックのように感じられる。それはまるで、アメリカ人やカナダ人がョーロッパに行って、トイレを使うのにお金を払わなければならないことを知ったときと同じくらい当惑することかもしれない。
 Uberはスマートフォンにダウンロードする単なるアプリというだけではない。それは私たちが街を移動する方法を変える。WhatsAppがブラジルでしているように、またWazeがイスラエルでしているように。ブラジルでWhatsAppを停止することは、国全体の通信を無効にするも同然だ。同様に、肖吋がイスラエルのドライバーに、主要道路を避けよという誤った忠告を流したとき、とんでもない交通渋滞がそれに続いて起こったという。G)ヽ「の考え方とそのビジネスモデルの論理は、すでにcberそのものを超えているのだ。
 私たちは労働者として、そして消費者として、シリコンバレーのアルゴリズムを毎日の生活のなかに統合してきた。Uberのケースは、テクノロジーが思いも寄らない、潜在的に取り返しのつかない方法で、仕事というものを変えてきたことを私たちに示している。シェアリングーエコノミーは利他的な貢献と仕事を合体させ、労働者のアイデンティを疑問に付し、仕事そのものの価値を下げることによって、労働文化に広範囲の変化を普及させた。一方で、cy「は労働者の法的地位に関する自らのビジョンを発展させ、彼らは労働者というよりもテクノロジー消費者に近いということを強調した。一見、法律を尊重しているようなこのニュアンスは、実は、私たちが労働を分類する上での文化的な目覚ましい変化なのだ。
 アルゴリズムによって動かされているUberの雇用モデルは、私たちの労働の定義のしかただけでなく、その組織のされ方をも、テクノロジーがいかに永久的に変えようとしているかを示している。Uberが働き方の定義を変えようとして事業を始めたとは思わない。それよりも、事業の危機を切り抜けようとするとき、Uberは、より幅広い文化的底流を感じとり、それらをどのように効果的に結集すれば自分たちの慣習を守り抜くことができるかを知っているように見える。Uberがその途上で引き起こす対立は、そうした慣習に私たちがどれほど苛立ちを感じているかを例証しているが、究極的には、ひとつのアイデアとしてのC7「の成功は、この会社を一〇億ドル規模でグローバルに現実にしたその慣習を容認しているのだ。そしてUberにいま何か起きているかに関わらず、その変化はすでにそこに存在している。
 Uberとドライバーとの間の対立関係は、私たちの新しいデジタル時代に、労働関係がどのように形成されているかを示す一例だ。消費者のアルゴリズム的マネジメントの隆盛は、シリコンバレーのデータドリブンのテクノロジー全体に普及している。こうしたシステムに出会わずして、毎日の生活を送ることはできない。GoogleマップなどのGPSナビゲーション・アプリは、推奨経路を生成し、交通路をクラウドソースする。フェイスブックはアルゴリズムのエンジンに頼って、私たちが消化する情報をキュレーションしている。私たちは、フェイスブックやグーグルをシェアリング・エコノミーの一部として想像することはない。たとえテクノロジー・プラットフォームが中立性というレトリックによって覆われていても、ウーバーランドは、ューザーを必然的に不利な立場へ追いやらざるを得ないプラットフォームの力を明るみに出しているのだ。
 ドライバーは乗客と同様、この会社のテクノロジーの消費者だというUberの利己的な論拠は、表面的には規制逃れのためのさらなる策略のように見える。つまるところUberは、ルールが追いついてくる限り、方針を変えていくことで名を馳せてきた。だが、よく見ればUberはドライバーを、実際には消費者のようにも労働者のようにも扱っているのだ。こうした境界線をあいまいにすることで、Uberは、私たちが自らを労働者または消費者として考える方法にひとつのレガシーを生みだしているUberはこの戦略的なあいまいさから利益を得ている。というのも、どちらのルールがUberのモデルに適用するかを決めるのは難しいからだ。ドライバーは自分のやった仕事にお金が払われない場合、労働法に基づいて賃金泥棒を申し立てるべきか、それとも、消費者保護法に基づいて、不公平で人を欺くようなやり方に対する補償を求めるべきか? Uberは法律だけでなく規範をも壊し、その両方の脆さを露呈した。Uberが先導するこの新しい規範が、労働者と消費者にとってよりよいものなのか、より悪いものなのか、その答えはまだ見つかっていない。
 Uberの影響は奥深い。この会社が乗り越えるスキャンダルにもかかわらず、そしておそらく、メディアにおけるその持続的な露出ゆえに、口’)aは大衆の想像のなかで、労働の未来として捉えられているのだ。同時にUberのストーリーは、いまやあたり前のものになったテクノロジーによって、私たちがどのように弄ばれているかの一例に過ぎない。端的に言えば、私たちはテクノロジーを使いたいのだから。オーソドックスとは言えないアプローチでUberは数多くの利害関係者--ドライバーから乗客まで、労働者から消費者まで、テクノロジー業界からタクシー業界まで、そして政府や規制当局から市民権運動グループまで--に合わせて、さまざまな方法で活動の場を変えてきた。とはいえ、おそらくもっと重要なのは、Uberがシステムのルールを有利に使うことによって、シリコンバレーのアルゴリズムを利用して労働のルールを書き換えたということだろう。

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禁欲というムスリムの文化

『アルコールと酔っぱらいの地理学』より
 酒・飲酒・酪酸は地理学者に豊かな研究テーマを提供してきた一方、節制の文化、そして夜間経済に喜んで参加する非飲酒者からみた都市再生におけるアルコールの重要性の意義にはあまり注意が払われてこなかったのような禁酒についての歴史的な研究を除く)。しかしながら、ある研究によればイギリスの人口の13%は1年を通じてアルコール飲料を飲まないとされている。いくつかのキリスト教宗派と並び、南アジアにおけるすべての主要な宗教はアルコールの使用を非難しているが、実際には禁欲が広範に実践されているのはムスロノムだけである。ここでわれわれは、コミュニティ内におけるムスリムの態度とアルコールに関係した実践を探究する。そうすることで、ムスリム・コミュニティの節制の文化が、成員の空間へのアクセスや使用のどのような特徴となっているのかに着目する。その際、われわれは非‐人間の行為者としてアルコールによって演じられた積極的な役割を強調しているレイサムとマコーマックに従う。ここでは社会的亀裂が生み出され、新しい排除が作り出される作用を探究することを通じて、表出した社会関係を重視していく。
 最新の国勢調査〔2001年〕によれば、イギリスにおけるムスリム人口は160万人で、最大の宗教マイノリティである。ただし、この数字は実際の人口に対して控えめな見積もりであるとみなされている。イギリスのムスリムの大多数は南アジア出身であるが、それはこのコミュニティが均質であることを意味するのではなく、むしろ文化的・言語的・教義的な違いによって二分されている。ムスリムはしばしば黒人やアジア人の想像上のコミュニティに位置づけられているが、かれらは、人種やエスニシティや国籍などよりも、まず信仰との関係で自身を定義している。それゆえ、宗教的価値観はムスリム・コミュニティにとって不可欠なものである。イスラームはイップが定義するところの「全体的なシステム」であり、それがムスワムを個人的および集合的に、かれらの日常生活のあらゆる観点において導いている。そのため、この信仰は個人の実践とコミュニティのリズムの両方において時空間的な慣習を強力に形づけてもいる(たとえば礼拝のしきたりやモスクヘの訪問、クルアーン〔コーラン〕教育など)。実際、クルアーンは文字通り神の言葉であり、変えたり妥協したりすることはできないと広く信じられている。
 この信仰の教義において明確な理由を提示してはいないものの、イスラームはアルコールの消費を禁止している。そのため、多くのムスリムと同様に、われわれのインタビュー対象者はより広い社会におけるアルコールの肯定的あるいは否定的インパクトにかかわらず、酒を飲まないと説明する。
  イスラームは独自の文化を持っています。それはイデオロギー的な基盤で、飲酒しないことはその一部なのです。飲酒は完全に禁止されていて、それは規則であり法なんです[編集一私が従っている生活の規範はイスラームで、何が合法で何が違法かはクルアーンによって定義されていますし、クルアーンでアルコールは違法とされているから飲まないんです。[編集]私はそれがいつも有利なことだと思っています、クルアーンの教えを守ることが天国に人を導くと信じていますし、それは非常に有利なことだと思っています。(アフズル・モハメド、ストーク・オン・トレント、45~54歳、男性、NS‐SEC4)
  アッラーが禁止しているというので飲酒は禁止されています。理由はありません。特別に与えられた理由は……ないのです。アッラーが禁止されていると言うのですから、禁止されているんです。私たちは・酒を飲むことに加わりません。社会においてわかること、飲酒が社会のなかでいかに問題を作り出しているか、イスラームから見ればそれが禁止されている理由ではないんですがね。禁止されている、それがすべてです。でもアルコールの影響の後で、人びとは、アルコール依存症の人びとは、社会における影響の後で、それが引き起こす問題をもって飲酒しない理由と考えますが、イスラームについて話したり、イスラームに言及したりするなら、私たちが飲まないのはアッラーが禁じているからです……[私は一許されるものと許されないものの規則を遵守しますし、飲酒は許されていないから飲みません。
 この禁欲の文化は社会的な義務によって統制されている。イギリスのムスリム・コミュニティにおいて、緊密に編圭れた家族ネットワークは、特に第1世代の移民にとって、強い統合と調和への期待を生み出している。家族の名誉と両親や目上の者への尊敬を維持することは、信仰の重要な要素とみなされている。クルアーン、シャリーア〔イスラーム法〕、ハディース〔預言者ムハンマドの言行録〕はどれも家族の義務や階層的な家族関係を強調している。実際、イップが指摘するように、クルアーンにおける法的な命令の3分の1は結婚や家族に関係しており、これらの関係がいかに管理され、統制されるべきかを示している。同様に、パキスタン系ムスリムのビラダリ(文字通りの意味は同胞的関係)は、より広い氏族や部族のネットワークや献身に対応している。ここではメンバーに対する支援や連帯の感覚を提供するだけでなく、社会的な義務や期待一切を同時に伴う。このように、コミュニティが禁欲に関する価値観や規範を共有するので、その社会的ネットワークはメンバーの振る舞いを監視し制限する役割を持つ。この種の過程に言及して、コールマンは、(子どもたちが友達同士で親同士が友達であるような)信仰コミュニティのような社会集団が、子どもたちをその「規範」へと社会化し、「世代を超えて閉じられた」価値体系への献身を強めていく両親の能力を支え強化するとしている。たとえば地理学の先行研究は、ムスリム・コミュニティがこの方法でいかに若い女性の服装やその他の身体化されたアイデンティティを規定するかを示してきた。次のインタビュー対象者が説明するように、同様の過程がアルコールの消費との関係でも明らかである。
  正式な取り締まりの形があるわけではないんですが、そういう人たちがいるんです。それぞれのコミュニティにイスラームの核があって、その人たちが出かけていくことで、かれらの存在がたいてい飲酒を防ぐのです。(アフズル・モハメド、ストーク・オン・トレント、45~54歳、男性、NS‐SEC4)
 特に、ムスリム・コミュニティが特定の地区に集中していることと、市の中心部で運行している夕クシー運転手の多くがパキスタン・コミュニティに属していることから、コミュニティの目がいつもストリートに注がれているという感覚がある。いつも潜在的に誰かにみられている可能性があるというこの事実は、飲酒しようとした何人かのインタビュー対象者が、結果的にフーコー的な意味での自己統制が働くと表現していることを意味していた。実際、ムスリムの回答者のなかには、飲酒への誘惑に抗する自分の力や、信仰の規律において感じている自尊心の感覚について述べている人もおり、さらには禁欲による財政的・健康的効能を見出す人びともいる。
 レイサムとマコーマックは、アルコールの持つ作用について、「アルコールの及ぼす影響は、社交性の特殊な型のなかで示されており、都市的なものを通じて存在し関係づける方法、すなわち、酪酎や中毒状態とみなせるような動きや、ジェスチャー、歩行、会話の仕方」にあると論じている。第7章でみるように、さまざ圭な仕方で感情的な激しさを強めるアタコールの力は、飲酒者をリラックスさせたり、楽しませたり、羽目を外させたりする。しかし、飲酒をしないかれらムスリムにとって、アルコールは嫌悪や反感といった感情を生み出し、感情の構造において逆の影響力を持っている。限られた形で飲酒に関わったインタビュー対象者はしばしば、アタコールの味を楽しみやリラックスという感覚を生み出すものというよりは不愉快なものとして表現する。より一般的にいえば、飲酒しない人びとのコメントは、通常と異なる行動をさせる独立した原因物質としてのアルコールの力に対する嫌悪を示している。アルコールは特に好ましく尊敬される個人をうるさく、手に負えない、子どもじみた人物に変えてしまう。そのような振る舞いは、文化的に期待される慎み深さやきちんとした所作とは逆なのである。アルコールが「自信の増幅器」であるために、それは通常なら法を遵守する市民同士の対立や暴力を生み出す、強引なあるいは攻撃的な形で人びとを行動させうると語るインフォーマントもいた。
  〔アルコールは〕基本的にわけのわからないことを話させるし、そう、暴力的になる人もいます……私たちの宗教ははっきりと飲むなと言っていますが、私はなぜそう言われているのかよくわかります。飲酒は人に普段しないはずのことをさせたり、普段言わないことを言わせたりするからです……どのぐらい飲んだかによって、酒は人を完全に変えてしまいます……だから一定量以上飲むと人は人を尊重しなくなるんです、人を尊重しないんです。(ファルーク・フセイン、ストーク・オン・トレント、25~34歳、男性、NS‐SEC2)
 もちろん、どんな信仰でもそうであるように、毎日の実践のなかで常に宗教的な禁忌が忠実に守られているというわけではない。禁欲の文化があるにもかかわらず、パキスタン系ムスワムのなかにはアルコールを試してみたり、あるいは日常的に飲む人もいる。次節では、パキスタン系ムスリム・コミュニティ内での不在の存在としてのアルコールの役割を見ていく。

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豊田市図書館の30冊

368.6『犯罪学大図鑑』
140『ひと目でわかる心のしくみとはたらき図鑑』
493.18『定年不調』
934.7『あなたと原爆 オーウェル評論集』
588『おいしい無印良品。』
019.2『読書教育の未来』
010.2『情報革命の世界史と図書館』粘土板文庫から「見えざる図書館」の出現へ
379.2『公民館をどう実践してゆくのか』小さな社会をたくさんつくる・2
316.83『よい移民 現代イギリスを生きる21人の物語』
685.5『Uberland ウーバーランド』アルゴリズムはいかに働き方を変えているか
293.69『PORTUGAL ポルトガル 奇跡の風景をめぐる旅』
443.9『ユニバース2.0 実験室で宇宙を創造する』
410.4『数学ガールの秘密ノート/ビットとバイナリー』
913.6『ナポレオン 1 対等篇』
383.88『アルコールと酔っぱらいの地理学』秩序ある/なき空間を読み解く
757『SPECULATION 人間中心主義のデザインをこえて』
230.7『世界戦争の世紀 20世紀知識人群像』
740.2『写真の物語--イメージ/メイキングの400年史』
312.27『エルドアンのトルコ--米中覇権戦争の狭間、中東で何が起こっているのか』
367.3『精神科医が教える 親のトリセツ』
334.42『チョンキンマンションのボスは知っている--アングラ経済の人類学』
302.25『新インド入門 生活と統計からのアプローチ』
115.3『現代哲学のキーコンセプト 非合理性』
291『英語で読む 外国人がほんとに知りたい日本の文化と歴史』
223.5『カンボジア近世史』カンボジア・シャム・ベトナム民族関係史(1775-1860年)
778.8『テレビの国から』倉本聰
367.21『露出する女子、覗き見る女子--SNSとアプリに現れる新階層』
334.43『移動する民 「国境」に満ちた世界で』
210.75『「誉れの子」と戦争--愛国プロパガンダと子どもたち』
290.93『イスタンブールとトルコの大地』地球の歩き方

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