未唯への手紙

未唯への手紙

カイロ 都市空間の形成

2019年05月25日 | 4.歴史

『世界の都市』より 都市の地層 カイロ アラブ人によるエジプトの都市
近代以前の地層
 ①アラブ人の軍営都市建設
  古代エジプトはBC6世紀にペルシャの属領となり、次いでアレクサンダーの支配を経てマケドニアのプトレマイオス王朝が生まれるものの、クレオパトラの時代になるとローマの属領となっていった。ローマが東西に分裂した後は、ビザンティン帝国の属領で古代エジプトの文化は消滅し、コプト教(原始キリスト教)が普及する地域となった。この属領支配の拠点としてトラヤヌス帝は、AD98~117年にバビロン要塞(メソポタミアのバビロンとは異なる)を建設した。
  一方、ムハンマドによって生み出されたイスラムは、彼の没後(632)も勢力を拡大し、そのアラブ軍は642年にササン朝ペルシャを破り、ピザンティン帝国に勝利してシリア全土を支配するに至った。それに先立ち、エジプトに迫ったアムル・イブヌル=アース率いるアラブ軍は、バビロン要塞を包囲して陥落させ(641)、エジプトを支配下に収めた。領土を拡大したアラブ軍は征服後の各地に軍隊の駐屯地を設営し、地域の支配拠点としての軍営都市(ミスル)を建設していった。エジプトでは、アムルがバビロン要塞の隣にアル・フスタート(野営地の意味)をミスルとして建設し(642)、行政拠点であるだけでなく兵士家族の居住地、商工業者の集まる経済拠点として都市活動が営まれる場所となっていった。以降、ミスルはカイロそのものを指し、エジプト全体を指す言葉ともなった。ダマスカスを首都とするウマイヤ朝が創設されるとアムルはエジプトの終身総督となり、フスタートはエジプトの主都の地位を確保し、ガーマ(英名:モスクトアムルが建設された。現在、この一帯はオールドカイロと言われ、フスタートの廃墟、ガーマ・アムル、コプト教の教会が残る遺跡地区となっている。
  7世紀にバダダードを首都とするアッバース朝の時代になると、フスタートの北部のアスカルに政庁が置かれたが、9世紀に入りアッバース朝が弱体化してくると、総督のアフマド・イブン・トウールーンは事実上独立(868)して卜ウールーン朝を設立し、アスカルのさらに北にカターイーの町を築き、ガーマ・アフマド・イブン・トウールーンを建設した。
 ②アル・カーヒラの建設
  10世紀には、チュニジアに興ったシーア派のファーティマ朝はエジプトに遠征軍を送り込んで征服し(969)、カターイーのさらに北の場所に新首都アル・カーヒラ(勝利者の街の意味)を建設する。このカーヒラの英語読みがカイロであり、ここにカイロの都市名が誕生した。カイロは、東西1、100m、南北1、150mのカリフ(イスラム国家の最高権威者)のアル・ムイッズと軍隊のためだけの城郭で、北のフトウーフ門から南北幹線のバイナル・カスライン(現ムイッズ通り)を経て南のズウエーラ門に至り、中央部にガーマ・アズハルと二つの宮殿が配置されていった。その後、ガーマ・アズハルにはマドラーサ(イスラム教神学校)が加えられ、今日1、000年の歴史を誇るアル・アズハル大学となっている。これ以降、カイロは200年にわたるファーティマ朝の首都となるが、新都カイロは軍事・行政拠点として、旧都アル・フスタートは商工業者の拠点として栄えていく。1017年には6代カリフのハーキムはシーア派色を強め、ガーマ・ノヽリーファ・イノレ・ハーキムを建設する。しかしファーティマ朝末期には、十字軍戦争のあおりでフスタートは灰燼に帰し、カイロが商工業を含む両方の都市機能を担うようになる。
 ③サラディーンの城郭建設
  ファーティマ朝は十字軍の侵攻に危機を抱きアッバース朝のザンギー政権4こ援軍を要請し、十字軍は撤退する。その後、援軍のサラディーン(英語読み:正式にはサラーフッディーン)が宰相に指名されたが、すぐにカリフが死去するに及び、ファーティマ朝は滅び、サラディーンは、スンナ派のアッバース朝よりエジプトの君主スルタンに任命され、独自の政権アイューブ朝を開設した。サラディーンは、十字軍の侵攻に備えて、フスタートとカイロを取り囲む新城壁の建設に取りかかった(1176)。さらにその北の高さ75mの断崖を持つモカッタム丘陵に、現在シタデルと呼ばれる山城を建設した。この城郭建設により現在のカイロの旧市街地が完成していった。そして、シーア派の支配したエジプトにスンナ派を復活させるため新しいマドラーサを建設し、病院の建設も行った。その後主君であったザンギー政権をも取り込み、シリア、メソポタミアを統一し、1187年には、十字軍が建設したエルサレム王国を滅ぼし聖地を回復した。十字軍がエルサレムを占領した時、殺人、暴行、掠奪をしたのに比し、サラディーンは身代金の支払いを条件にキリスト教徒の生命を保障し、高潔、清廉、寛容な人柄でアラブ騎士道の花と称せられた。
 ④マムルークの栄華
  サラディーンはムスリムの英雄であったが、アイユーブ朝の政治体制を確立する余裕がないまま病没したことから、この王朝は脆弱であった。この間、奴隷の身分でありながら騎士教育を受け、スルタンの親衛隊となっていくマムルータが力を持つようになってきていた。1249年にフランスのルイ9世は十字軍を率いてナイル河口に上陸したが、バイバルス率いるマムルーク軍に敗北する)1258年にはモンゴル軍の侵攻にバグダードは陥落し、1260年にモンゴル軍とマムルーク軍との戦いが行われるが、マムルーク軍はモンゴルの征服戦争の中で初めての敗北を与える。司令官のパイバルスはカイロに凱旋し、スルタンに就任する。バイバルスはアッバース朝のカリフを復活させ、マムルーク朝政権を正当化してイスラム世界全体のスルタンとなった。十字軍とモンゴルとを駆逐していったマムルータ朝は、紅海と地中海とを結ぶ経済活動も活発化し、黄金時代を迎える。ガーマ・スルタン・ハサン、スルタン・カラウーン・マドラサなど数多くのモスク、マドラーサ、病院、小取引所などが建設され、フアーティマ朝時代に宮殿が置かれていた場所ハーン・アル・ハリーリは大規模なスークとなり、「千一夜物語」の舞台ともなっていった。しかし、この王朝も末期になると政治の腐敗や競合国家の登場で終焉を迎える。
  東西貿易を独占していたエジプトは、ポルトガルが1498年に喜望峰回りのインド航路を開発すると壊滅的打撃を受け、ポルトガルとの海戦にも敗れ、インド洋の制海権を失った。また、ピザンティン帝国を滅ぼしたオスマン・トルコはエジプトに侵攻し、世界最強の火器でもってマムルーク軍を圧倒し、1517年、カイロに入城しマムルーク王朝は滅亡した。征服者のセリム1世は、カリフや太守、聖職者、商人、職人、知識人など主だった人材数千人を引き連れてイスタンブールに凱旋した。ここに、イスラム世界の中心はカイロからイスタンブールヘと移った。これより、カイロには停滞と衰亡の3世紀が流れる。イスラム地区の東側に広大な墓地がある。「死者の街」と呼ばれ、中世以降、死後の安楽を求めて支配層の人々が壮麗な墓地を建設した「死者の街」であり、ここに衰亡の軌跡を見ることができる。現在では、住宅難からこの中にも2万人もの困窮者が住み着く場所となっている。
近代の地層
 ①ムハンマド・アリーによる近代化
  1798年、フランス軍隊が突如エジプトに侵攻し、カイロを占領する。司令官は29歳のナポレオン・ボナパルトでめった。相変わらずの中世の軍備で立ち向かったマムルーク軍は、戦艦13隻をはじめとする近代式軍隊になすすべがなかった。しかし、イギリス・トルコ連合軍の反撃でフランス軍はカイロを去ることになる。
  英仏の軍隊が去った後、頭角を現し人民戦線から支持されたのはムハンマド・アリーで、オスマン政府により総督に任じられた。アリーは、その後、エジプトの支配をたくらむイギリス軍を撃退してアラブ世界の独立を確保し、残存していたマムルーク軍を絶滅して内政の安定を図った。彼は西洋流の文明開化と富国強兵を政策に掲げ、専門教育機関を開設し、ヨーロッパ各国に留学生を派遣した。交流が活発となるにつれ、カイロではヨーロッパ人が増加し、ナイル川に面するブーラク地区には外国人居住区が形成されていった。その後アリーは、オスマン帝国のスルタンより世襲支配を認められ、アリー家は半独立国のエジプトの君主となった。アリーは、カイロに記念碑ともいうべきガーマ・ムハンマド・アリーをシタデルに建設する。この建設に際しフランス国王から時計塔が贈られたが、その返礼にアリーはルクソール神殿入り口のオペリスクの一つを贈呈し、これはパリのコンコルド広場のモニュメントとなった。1863年に即位した孫のヘディーヴ・イスマイルは、パリで教育を受け、近代産業を興し、外資の導入を図るとともにカイロの西方のナイル河畔に至る地域に新市街地を建設した。鉄道、通信網、港湾施設、ナイルの護岸工事、大街路などのインフラ建設とパリをモデルとしたオペラ座、オスマン様式の建築、水道、ガス燈、公園を整備し、アズバキーヤ地区の繁華街を造り、現在のカイロの中心市街地を生み出した。さらにアブディーン宮殿を建設して為政者の居城を移し、シタデルを観光客に開放した)1969年に開通したスエズ運河の落成式にヨーロッパの賓客がカイロに集まることから、その滞在のためにゲジィーラ島のサムリク迎賓館(現在はホテル・マリオット)が建設された。
 ②イギリスの統治下
  カイロの都市整備は財政を圧迫した。イスマイルは財源確保のためスエズ運河会社の持ち株を売り出し、イギリスが即座に買い取り運河の筆頭株主となった。その後も増加する借金を払い続けることができず、イスマイル政権は破産し、エジプトは債権者代表の英仏の共同管理下に置かれた。その後フランスの撤退により、エジプトはイギリスの単独支配下に置かれる。このイギリス統治時代に、ナイル川東岸沿いにイギリスの総督府が置かれて都市開発が進められ、ガーデンシティと呼ばれる高級住宅街が形成されていった。
  20世紀に入ると郊外開発が始まり、カイロ東部の古代エジプトの創世神話の地ヘリオポリス近くに個人企業により同名のニュータウン(面積2、500ha)が開発され、カイロの市街地を拡大し始めた。


ファストフードに見るグローバル化

2019年05月25日 | 3.社会

『食で読み解くヨーロッパ』より グローバル化をコーヒーで読み解く
ヨーロッパに普及したコーヒーは、特に19世紀以降、世界の人やモノの流れが激しくなるにっれて世界各地で飲まれるようになった。コーヒーカップに砂糖やミルクを加えてコーヒーを飲む習慣は、広く世界に定着していった。これに応じてコーヒー豆の生産量も増加の一途をたどっており、2013年の世界生産量は約892万t。そのうちブラジルが297万tでトップを占め、ベトナム、インドネシア、コロンビアがこれに続く。コーヒーの生産量とともに消費量も増えており、まさに世界共通の飲み物としてますます浸透しつつある。
たとえば世界第2位の生産量を誇るベトナムのコーヒー栽培は、フランス植民地時代の1857年に始まったプランテーションでの栽培にさかのぼる。収穫されたコーヒー豆のほとんどはフランス本国に運ばれ、さらにヨーロッパ各国に輸出された。コーヒーは明らかにフランス経済を支え、ベトナムにおける主要産業に成長した。第二次世界大戦後にフランスの支配から脱し、ベトナム戦争を経て1986年にドイモイ(市場開放政策)が打ち出されると、ベトナムのコーヒーの生産量はさらに拡大され、この国の主要輸出品へと登りつめた。
その一方で、飲み物としてのベトナムコーヒーもよく知られている。強い焙煎による香り高いフレンチコーヒーに、酪農の発達が遅れていたことからコンデンスミルクが使用されるようになった。独特の風味と味わいが住民の間に定着し、今や毎日の暮らしに欠かせない飲み物になっている。
このほか、同じくフランスの植民地だったラオスや、ポルトガルの影響を受けたマカオでも、コーヒーは日常の暮らしの一部になっており、マカオの朝はもっぱらコーヒーとサンドイッチが定番になっている。日本でも、飲茶の伝統があるにもかかわらず、1864年に横浜の外国人居留地にコーヒーハウスが開かれて以来、コーヒーは次第に飲まれるようになった。今日の1人当たり年間消費量を見ると、コーヒーが2432 gで緑茶の847 gを大きく上まわっている(2015~2017年家計調査による)。
このようにヨーロッパから世界に広まったコーヒーを飲む習慣は、世界に共通の生活スタイルとして定着しつつあり、ごく日常的な暮らしに溶け込んできている。もはやコーヒーは、ヨーロッパの文化とはみなされないほどありふれた飲み物として各地で受け止められている。
ところがその一方で、1970年代以降に登場してきたアメリカ資本のコーヒー専門店によって、コーヒー消費の事情は大きく変わることになった。それは、これまでにないタイプのサービスを提供するもので、どの店でもまったく同じ手順で同じ装置を使って同じタイプのコーヒーがメニューに並べられた。店のレイアウトや看板もすべての店舗で同じような仕様になっており、注文方法やメニューもかなり共通のものにした。同じ名前の店であれば、世界どこでも同じ味のコーヒーを、同じサービスを受けながら飲むことができる。このタイプの店は、消費者に世界共通のものへの安心感や満足感をもたらし、あるいはアメリカ発信の新しい生活スタイルとして各地で受け入れられていった。
たとえばウィーンでは、この種のコーヒー店であるスターバックスが2001年に1号店をオープンさせた。1971年にシアトルで創業したこのコーヒー店は、それまでのいわゆるアメリカンコーヒーではなく、ヨーロピアンテイストのコーヒーを提供した。アメリカ合衆国内で反響を呼び、さらに世界的な展開を続け、そしてカフェの町ウィーンにもやってきた。当時、この開店計画が明るみになると、ウィーン市民の間には伝統的なカフェが客を奪われる恐れがあるとして反対の声があがった。しかし、予定通り1号店が開店。場所は、こともあろうか国立劇場が目の前という旧市街地の一等地にある歴史的建築物。まさにウィーンのカフェ文化に真っ向から挑戦するかのような進出ぶりだった。付近は往来が多く、観光客でにぎわう界隈でもあることから、コーヒー店の思惑は大いに当たり、連日多くの来訪客を集めてきた。
ただ、このコーヒー店進出の影響は、市民が恐れていたほどではなかった。従来のカフェは、引き続き多くの客を集め続けたのである。その理由は、カフェとコーヒー店それぞれで、訪れる客の利用のしかたにかなりの違いがあったからである。カフェでは伝統的な雰囲気のなかで会話や読書にふける人が多いのに対して、アメリカ系のコーヒー店では、カジュアルな感覚でコーヒーを飲むところとして、異なる客層の人気を集めた。その結果、カフェの大半が生き残り、その一方で、現在ウィーンには14軒のスターバックスが営業している。
このように17世紀以来、カフェの歴史を育んできたウィーンに、世界戦略を練った新しいタイプのコーヒー店が、20世紀後半以降、アメリカ合衆国から進出している。両者は激しく競合するように思われたところが、実際にはいずれも多くの客を迎えている。ウィーンにおいて、この新しいタイプのコーヒー店は着実に受け入れられており、ウィーン固有の伝統的なカフェと世界的なコーヒー店には一定の共存関係を見て取ることができる。
ここで改めて注目したいのは、ヨーロッパで普及したコーヒーを飲む習慣が世界各地に広がり、そしてさらに新しい世界戦略を練ったコーヒー店がヨーロッパに進出しているという事実である。同様のことは、ピザやサンドイッチなどのファストフードにも見ることができる。かつて世界各地へと広まったイタリア生まれのピッツァが、アメリカ経由でピザという世界共通の食としてヨーロッパ各地に浸透している。あるいは、冒頭に触れたヨーロッパにおける英語の普及も同じプロセスを踏んでいることがわかる。ヨーロッパから世界へと広まった英語が、今や国際語としてヨーロッパに定着しつつある、というわけである。
つまり現代のヨーロッパでは、世界各地に広がったヨーロッパ発祥の文化が世界共通の文化として、逆にヨーロッパに向かって流れ込み、取り込まれている。こうした一連の変化は明らかにヨーロッパでしか起こっていない。この流れをヨーロッパ固有のグローバル化とみなすならば、それは、それまで継承されてきた固有の伝統文化と、それが世界共通のものへと変貌した新しい文化が同居する状況をもたらすものということができる。つまり、ローカルな文化とグローバルな文化がせめぎ合い、共存するのが今のヨーロッパの姿といえるだろう。


格差が進むヨーロッパの農村

2019年05月25日 | 3.社会

『食で読み解くヨーロッパ』より 農村の変化をジャガイモで読み解く
不利な条件を抱えて暮らす人々には不公平感がつきまとう、これはアイルランドに限らない。そこで農村は食料生産の場としてきわめて重要であるという観点から、各国政府はもちろん、現在ではEUも条件の不利な地域に対して底上げのための補助金をあてがっている。なかでもEUの共通農業政策は、生産保護や農産物の品質の維持を進めて、質のよい十分な食料を確保する政策をとっている、農業に意欲的で質の高い農産物を生産し、環境に負荷を与えないような農業を行う農家や地域に対して補助金が提供されている。また、生活環境の保護や景観の整備も積極的に支援している。
さらにEUは、域内で消費者が安心して口にできる食料を自由に流通させるために農産物の品質を一定水準に保つための基準を設けている。たとえば農薬や肥料の使用量の制限や、家畜の場合は一定期間の放牧を義務づけている。ワインの場合、醸造の過程で発酵を促進させるために糖を添加することが多いが、EUは生産地の条件に応じてその量を厳しく規定している。
しかし、それでもこうした基準をクリアするのは農地の条件によってはかなり厳しく、それが新たな不平等を呼んでいる。特に東ヨーロッパでは、基準をクリアして成長する地域とできない地域の差が大きくなっている。
東ヨーロッパの農業は、かつて社会主義体制において国の統制下にあり、生産量の目標値だけが設定されていた。そのため、農家は農産物の質の向上には関心が薄く、生産ノルマをこなすために大量の化学肥料と農薬を投入した。その結果、土壌は汚染され、多くの化学物質を含む農作物が出まわっていた。
それが自由経済に移行し、さらに2004年以降、EUに加盟したことによって、販売の機会が大きく広がった。しかしその半面、農家は厳しい規制にさらされることになった。その結果、市場の拡大を最大限に利用して拡大をはかる農業地域が出現した一方で、規制に対応できず農業をあきらめざるをえなくなった農家も各地に現れてきた。
発展している農村の例としてハンガリー南部の農業地域があげられる。もともと肥沃で日照量の多いこの地域では、コムギなどの上質な穀物生産が盛んなほか、優れたワインの産地としても名をあげている。なかでもハンガリー最南端に近いヅィラーニ村は、知る人ぞ知るヨーロッパ最高水準の赤ワインの産地に成長している。カペルネフランCabernet Francをはじめ、ハンガリー特有のケークフランコシュKekfrankosなどの品種が中心で、その芳醇な味わいは多くのワイン通をひきつけてやまない。ゲレGereやテイッファンTiffanといったヨーロッパでも屈指の蔵があり、シーズンともなれば多くの観光客も訪れている。EUではワインを販売する際にボトルに生産年や畑の名称、品種などを明記することが義務づけられている。ハンガリーがEUに入ったことによって、ワイン醸造家はこれらの基準を満たす質の高いワイン生産に力を入れた。EUはそうした優良農家に補助金を提供しており、優れた農機具や醸造設備を整えて、より上質のワイン生産に取り組んでいる農家が増えている。
一方、これとは対照的に条件の不利な地域の実態は深刻である。たとえばルーマニア西部のトランシルヴァニア地方の丘陵地では、地力がやせていて日照量が少ないなどの不利な条件とともに、農業に関する最新の情報が少なく、新しい農業の展開が遅い。ここでは社会主義時代から自家製のジャムやワイン、ハチミツなどが庭先で販売されてきたが、ルーマニアがEUに加盟した2007年以降、基準に合わない製品の販売が禁止され、従来のものが売れなくなった。全般に経済水準が低く、農民の間に新しい農業技術に関する知識が浸透していない。そのため、農業をやめて首都ブカレストに転出したり、西ヨーロッパの都市に出稼ぎに川たりする人々が増えており、人口の流出による経済の停滞に直面している。
東ヨーロッパには、さらに深刻な経済停滞地域がある。ロマが暮らす農村である。ロマはヨーロッパに約1000万人いるといわれるが、その数は定かではない。きちんとした統計がないのは、差別があるために国勢調査で自身を明かさないからである。
ロマというと貧困で社会の底辺をなす人々というイメージがあるが、もちろんそれがすべてのロマにあてはまるわけではない。ただ、東ヨーロッパの農村には、とりわけ厳しい状況に置かれているロマの人々がいることは確かである。その大きな理由は、かっての社会主義体制にある。  1950年代、東ヨーロッパ諸国では一斉にロマ放浪禁止令が出された。当時の東ヨーロッパには、幌馬車で移動して行商するロマがいた。しかし、理想の社会を目指す社会主義政権にとって移動生活は望ましいものではなく、彼らを強制的に定住させる政策がとられた。これによってロマの人々は住宅があてがわれたが、彼らを待ち受けていたのはロマが近隣に来ることを望まない地元住民たちだった。彼らには排除の目が向けられ、嫌がらせや暴力が日常茶飯事になった。
1960年代になると、そうした環境に耐えきれずに逃避するロマが増えてくる。その行く手の多くが、産業の発達が遅れた経済停滞地域だった。そこはあらゆる変化に乏しく、経済水準が低く、ロマ排除の動きも鈍かった。特に目立ったのが、人が去って空き家が多く目立つ町や村への移動であり、その最たる場所が廃村だった。
社会主義時代、束ヨーロッパには多くの廃村があった。これはこの地域特有の事情による。第一次世界大戦後、それまで東ヨーロッパに君臨していたドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国、口シア帝国、オスマン帝国が相次いで崩壊し、いくつもの国家の成立とともに新たな国境線があちこちに引かれた。それに伴って多くの住民がそれまでとは別の国に組み込まれることになった。たとえばルーマニア西部のトランシルヴァニア地方では、ハンガリー領からルーマニア領に変わったために、約40万人ものハンガリー系住民がルーマニア社会から逃れてハンガリーに移動した。また第二次世界大戦時には、ドイツ以東の東ヨーロッパから200万人を超えるユダヤ人がドイツの強制収容所に移送された。さらに大戦後は、東ヨーロッパ全体で1000万人以上のドイツ系住民が強制的に国外に追放された。
こうして東ヨーロッパでは、20世紀前半に住民が大挙して移動する事態が頻発した。そのほとんどは望まない移動であり、あるいは長く住み慣れた家を強制的に追われることになった。多くの家屋は住民が持ち出せなかった家財道具が残されたまま、社会主義体制のもとで国民に再配分された。しかしその後、国によって新しい住宅がつくられると、住民の多くが転出するようになり、古くからの村は次第に一般の人々が寄りつかなくなった。特にトランシルヴァニア地方をはじめ、ルーマニア西南部のバナート地方、ハンガリー南部、かつてズデーテン地方と呼ばれたチェコ北部などの国境地域では、廃村、もしくはそれに近い状況の村があちこちにあったようだ。ここは差別に苦しむロマの人々にとって格好の逃げ込み場所になった。こうして廃村にロマが住む構図が生まれた。
廃村におけるロマの暮らしがいかに劣悪な状況だったかは、容易に想像がつく。電気や水道の施設は老朽化の一途をたどり、学校や医療施設などの生活基盤も整っていない環境でロマは生活し続けてきた。彼らがそこに暮らしていることすらあまり知られず、地図にない村の人々、などと揶揄されたりした。1989年に始まる政治改革によってようやく国や自治体による支援活動が行われるようになり、彼らが住む地域の整備も事業計画に盛り込まれた。しかし、彼らに対する差別はあり続けており、生活環境の改善はなかなか進まず、劣悪な環境での暮らしが続いている。
こうしてみると、そもそも地域間の格差を是正するために進めているEUの農業政策が、実際には格差を拡大させてしまっていることに気づく。EU全体の発展を目指すことによって、これに見合わない地域が現れているのである。アイルランドの飢饉にイギリスが何ら手立てを講じることもなく、多くの犠牲者を出してしまった歴史を教訓にして、経済停滞地域にいかに手を差し仲べてゆくかが今後のEUの課題であることは間違いない。