goo

色眼鏡を通して世界を見ている 『せかいの哲学者に学ぶ人生の教室』より カント 視点を変えて人生を逆転させる 私たちが知っているこの世界は本当の世界の姿ではない

私たちは色眼鏡を通して世界を認識している
 コペルニクスは、私たちの目には「太陽が地球の周りを回っている」ように映っているけれど、実際は「地球が回っている」と主張しました。
 このような革命的な観点を「コペルニクス的転回」といいます。カントは、私たちはいま目の前の世界を認識していると思い込んでいるけれど、実際は、私たちの認識形式が外からもたらされた情報を私たちが認識できる形式に変換したものに基づき、世界を読み解いていると考えました。
 たとえば、因果関係の認識形式についていえば、私たちは世界とは因果関係によって成り立っていると思っていますが、実は因果の認識形式を使って世界を見ているにすぎません。言い換えれば、私たちが認識している世界というのは、認識形式が、外からの情報を原料にして加工製造した世界だということです。カントはその考えを「知識上のコペルニクス的転回」と称しました。
 カントは哲学体系を否定しましたが、新たに構築もしました。つまり私たちが認識する本当の世界を否定しただけでなく、一歩進んで認識形式に基づく新たな知識を構築したのです。ゆえに「私たちは本当の世界を認識することはできない」と主張したカントの哲学は、いわゆる「懐疑主義」には相当せず、理性の限界を深く考え、私たちが把握できるものを把握しようとする思想なのです。
 その認識形式を、一種の色眼鏡だと考えることもできます。私たちは、その色眼鏡を通して世界を見ることで、世界を理解可能な姿につくり上げ、それを認識しています。
 もちろん、「形式」であれ「色眼鏡」であれ、認識のしかたをそんな簡単な言葉で例えるのは、安易と言わざるを得ません。
 なぜなら、私たちには本当の世界の姿を知る方法はなく、一部の「認識形式」を知っているにすぎない(もしかしたら、ほとんどのことに気づいていない)からです。ゆえに、それをどういうふうに例えるのが適当なのかを議論することは非常に困難です。
 とにかく、カントの哲学を生活の中で応用すれば、熟考に値する人生の知恵を三つ兆見することができます。第一に、限界を知る知恵、第二に、色眼鏡を活用する知恵、第三に、最良の答えを探す知恵です。
色眼鏡を通して見ていることに気づけば認識を変えることができる
 人生における最大の限界は、死を避けられないことです。人は死を恐れ、逃れられないと分かっていても、ずっと後に延ばせば向き合わなくてすむのではと、無意識に逃れようとします。
 ゆえに、不治の病に侵され死が迫っていると知らされると、ほとんどの人が青天の露言と感じるでしょう。そうは言っても、人は遅かれ早かれ死を迎える日が来ることを知っていたはずですよね?
 そんなときは、ソクラテスの「無知の知」により、。「死は恐怖に値しない」という知識があることを推測することができます。またヒュームの「自我への懐疑」によっても、ひとまず自我を手放せば恐怖を遠ざけることができます。さらにカントの「先天的な色眼鏡(知識形式)」をヒントに、「死は悪いこととは限らない」ということに気づくでしょう。
 生まれながらに死を怖がるのは、私たちが「怖い」という色眼鏡で死を見ているからです。加えて「怖い」ことが「悪いこと」だと思っているため、おのずと「死は怖くて悪いこと」だという認識になりがちです。
 しかしその認識には、何も根拠がありません。なぜなら生きている人は死を経験していないし、死んだ人も死の真相を私たちに語ることはできないからです。ゆえに理性的に考えれば、「死は悪いこと」とする観念は、先天的な色眼鏡によるものだということが分かります。そしてその観念が正しいのか否かは、私たちにはまったく計り知れないことです。
 言い換えれば、もし私たちがその色眼鏡の作用を発見できなければ、「死は悪いこと」という観念を当然とみなし、本能的に死に抗い、拒み、時には感情的に死から逃げようとさえするでしょう。
 しかしカントの「色眼鏡」という人生の知恵に基づいて考えれば、その認識は一変します。死そのものは悪いことでもないのに、私たちが「悪いことの形式」を用いて、死の印象をねじ曲げていることに気づき、その認識が本当に正しいとは限らないと思えるようになるはずです。
 人生の勝敗にまつわる色眼鏡
 人は、富や成功、幸福や快楽を追い求める傾向にあります。そのうえ当然のごとく人生の成功と失敗を測る色眼鏡をかけています。
 人は、望むものが手に入らなければ、人生に失敗したと思いがちです。しかしカントの哲学に基づいて考えれば、それもやはり色眼鏡の世界観だと気づきます。
 私たちが知らない本当の世界では、そういう価値観が正しいとは限りません。富がなく、成功もせず、さして幸福でなくても、人生に失敗したことにはならないとすれば、人生の最終的な答えとはいったいなんなのでしょうか。それはまるで本当の世界を理解しようとしているときのように、私たちの認識の限界を超えています。
 そんなとき、色眼鏡という知恵に基づいて考えれば、さまざまな価値観の不確定な基礎がはっきりと見え、簡単に束縛から抜け出すことができます。たとえ「正しい」人生が見つからなくても、方向性を見直して最も自分らしい人生を探すことができるでしょう。
 ある人は、人生は白黒だと言い、またある人は、人生はカラーだと言います。果たしてどちらが正解なのでしょうか。カントの哲学によると、人生の真相は理性に制限されています。私たちはこの人生から逃れられないうえ、さらに視野を広げて比較することはできないので、この疑問に答えることはできません。しかしそのどちらも明らかに色眼鏡に左右されています。私たちが白黒の眼鏡をかければ、人生はおのずと白黒になります。逆に、色とりどりの人生を望むなら、カラーの眼鏡をかけることが何より大切です。人生がどういうものなのかは、私たちが人生をどう見るかによって答えも違ってきます。
 多くの人は、習慣的に白黒の眼鏡をかけて悲観的に世界を見ています。それが続くとアリストテレスが言ったように、その習慣により内在的な性質が養われます。しかしその内在的な性質は、私たちを幸福ではなく不幸に導きます。ゆえに、視点を変えて世界を見ることを学び、習慣を変えれば、白黒の眼鏡のせいで不幸になった人生を逆転できる可能性があります。
 感情は、往々にして物事の善し悪しを判断する色眼鏡になります。そして不愉快なことは、悪いことと判断されがちです。たとえば、お金や才能、能力のある人たちが、自分にはやりたくてもできないことをやるのを見たとき、嫉妬という感情が湧き上がってきます。
 嫉妬は、人を不愉快にさせ、無意識のうちに自分を嫉妬させた人を悪者だと決めつける傾向があります。そしてその悪人が災難に見舞われると、愉快な気持ちになるのです。ゆえに大衆は、ボロボロの車を飲酒運転して人身事故を起こした人より、高級車で飲酒運転をして事故を起こした人のほうを厳しく非難する傾向にあります。そのとき、厳しく非難している本人は、自分には正義感があると思い込んでいますが、実はそれは嫉妬心です。
 恋人同士が別れを決意したとき、別れたくないほうはショックを受けとめきれず、振られたことを最悪の出来事だと思ってしまいます。そして最悪の出来事を引き起こした相手が悪魔のように思えてきて、悪魔なら消えてしまえとすら念じてしまうのではないでしょうか?
 このような感情によってつくられた色眼鏡は、人に間違った判断をさせるものです。カントの哲学の知恵を使って、それは色眼鏡がもたらした認識だと理解できれば、激しい感情に流されることもなくなるでしょう。なぜなら事実がそうだとは限らないのですから。
 色眼鏡をはずし、いかに人生を歩むか
 私たちの人生からその先天的な色眼鏡を除いたら、何か確かなものが残るのでしょうか。もし残らないのなら、どういうふうに生きていけばいいのでしょうか。これだという方向を見失ったときは、新たな方向(人生の意義)を探し目標にすればいいのですが、見つからないと、失望し虚無感に襲われます。そしてタンポポの綿毛のように、目的地も分からないまま茫漠とした人生を漂うことになります。
 しかし、それはやはり色眼鏡による人生観といえます。いまこの時を生き、命の存在の美しさを感じられれば、目標など必要でしょうか。人が生まれながらにして目標を欲するのはまさに色眼鏡をかけているからです。私たちは、それに従うべきでしょうか。それともその先天的な色眼鏡を、人生を送るうえの一要素としてうまく活用し、理想とする人生形態をひねり出しますか?
 暫定的にすべての色眼鏡をはずすことができれば、人は大きな自由を感じるのではないでしょうか。カントの哲学のように、たとえ世界の真相を理解する方法はなくても、不確かな中にも有益な情報があり、相対的な確かさを構築することはできます。そして私たちも人生において、不確かな基礎という前提のもとで合理的な答えを見つけることができるはずです。それがカントの哲学がもたらす第三の知恵です。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« カイロ 都市... 「環境」って... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。