『フランス史』より 革命--王政の崩壊 憲法制定議会--一七八九年五月~九一年九月 ⇒ レミゼのシーンは歴史的には表出していない
バスティーユ襲撃
ルイ十六世は譲歩した直後に、態勢の立てなおしを図ったように思われる。軍隊がパリとヴェルサイユの周辺に集められ、七月十一日ネッケルが罷免され、代わりに反動的な政府が誕生した。パリの民衆は、おそらく野心家オルレアン公の手の者による扇動も手伝って興奮状態に陥った。パリの選挙人たちは新たな市政府「常設委員会」を設置し、略奪の阻止を任務とする市民軍--国民衛兵--の創設を決定した。指揮官には国民に人気のあるラファイエットが任命されている。
七月十四日の朝、市民と無法者たちの入り混じった群衆がバスティーユ監獄--シャルル五世の時代にさかのぼるかつての要塞--に押しかけ、武器弾薬を要求した。ド・ローネー侯爵の指揮下で百名ほどの傷痍軍人が守備に当たっていたバスティーユ監獄は、数時間の包囲戦ののちに陥落した。ド・ローネーは部下のうち六名の者とともに虐殺された。そのすぐ後に、パリのかつての商人頭--すなわちパリ市長--のフレッセル、財務監督官のフーロン、彼の女婿でパリ総徴税区長官であったペルチエ・ド・ソーヴィニらも、同じ運命をたどっている。
バスティーユの陥落は、それ自体としてはそれほど重要なできごとではなかったとはいえ、その後、象徴的な意味合いを有するようになった。バスティーユは《封印状》によって、すなわち裁判なしに下された王の命令によって、投獄された臣下を収容する牢獄として使用されていたからである。
事件の当面の結果として、王はネッケルを--またしても!--呼び戻し、パリ市庁舎を訪れ、新たに誕生したパリ市政府を承認している。和解の印として三色帽章が登場したのはこのときである。王家の色である白が、パリ市の色である赤と青のあいだに入れられていた。
王弟のアルトワ伯(のちのシャルル十世)をはじめ、国民の動きを力でおさえつけることを主張していた人びとは生命の危険を感じてフランスを離れ、こうして貴族の亡命の動きが始まった。
農民の革命
パリの報が伝えられたことにより、大部分の都会で同じような動きが発生している。王国の行政官たちは、恐怖と部下の不服従によって行動の術を失い、その一方で新たな地方行政機関が市民軍の力を背景にして形成された。
農村部では積年の恨みが一挙に噴出し、土地の囲いは破壊され、森林は荒らされ、賦課租は支払いを拒絶された。いたるところで農民の集団が城館や修道院を襲撃し、憎むべき隷従の身分が記録されていた文書に火を放った。
いくつもの地方で《大恐怖》が発生している。これは奇妙な集団ヒステリー現象であった。村から村へと、正体不明の盗賊団が襲撃に来るという噂が広まり、農民たちは急いで武器を手に取り、女や子どもたちは逃げていった。
八月四日の夜
中央を震源とする衝撃は農民集団を行動へと駆り立て、このようにして開始された民衆革命は、その反作用として中央の政治革命に新たな一歩を踏み出させることになった。
八月四日の夜、二人の自由主義者の貴族が、領主権を自発的に放棄することによって農民の怒りを鎮めることを議会で提案した。すべての特権団体--聖職者、貴族、行政司法官、地方、都市、同業組合--の代表者たちは、互いに高邁な精神を競いあうかのように、次々とそれぞれの権利を放棄することを表明した。朝の三時まで続けられたこの日の会議が、感涙まじりの熱狂的な雰囲気のうちに終了したとき、特権と不平等の上に成立していたかつてのフランス社会の骨組みは跡形もなく消滅していた。
このように下準備が完了していたので、議会は『人権宣言』を採択することが可能となった。これは将来の憲法の前文となるものであり、主権在民、市民の平等、個人の自由、思想と表現の自由、私的所有の不可侵など、十八世紀の哲学者たちの基本的な思想を法典化した、いわば一種の公教要理のごときものである。
十月の事件
新たな危機が九月に発生した。王は八月四日の夜の決定を裁可することをためらい、また議会においても保守的な陣営が形成されつつあった。その一方で、パリでは食料の供給が困難になり、民衆の不穏な動きが慢性化していた。
十月五日、女たちの一団が、ペチコートをはいて女装した男たちの武装集団に率いられ、パンの要求を表向きの理由として、ヴェルサイユに向かって行進を開始した。乱入を許した議会は混乱のうちにすべての要求を採択している。ルイ十六世は女性たちの代表と接見し、八月のすべての法令を裁可し、食料を供給することを約束した。群衆は疲れはて、興奮状態も収まり、その場で眠りについた。しかし翌六日、夜明けとともに、数名の暴徒が不意を衝いて宮殿の入り口を突破し、何名かの衛兵を殺害し、きわどく難を逃れた王妃の間にまでなだれこんだ。ラファイエットがようやく国民衛兵を引き連れて到着し、暴徒たちを宮殿から追い出すことができた。しかし中庭に集まった群衆は、こんどは大声で国王がパリに来ることを要求した。ルイ十六世は王妃およびラファイエットとともにバルコニーに姿をあらわし、要求に応じる旨を告げている。その日の夜、下層階級の民衆の列に加わり、王一家は実質的に囚人となってヴェルサイユを離れ、チュイルリー宮殿に居を移した。議会はその数日後、会議場に改装された宮殿敷地内の屋内馬術調教場で開かれることになった。
『クルマ社会の地域公共交通』より 交通と社会学--理論的示唆の導出-- 交通研究及び周辺領域への学術的示唆の導出
地域公共交通に関する研究
既述の通り、規制緩和が地域公共交通衰退の直接的な要因となっているわけではないが、象徴的な事象の一っとして位置付けられ、それまで地域住民の身近にあったバスや鉄道が失われ、地域住民自身が自らのモビリティ確保を考えていく必要に迫られた。交通まちづくりや政策的視点の文脈でも、地域住民の役割が問われながら、要求するのみではなく政策立案への参画や、自らが公共交通に携わるケースがあることも確認してきた。
本書でも、第4章で取り上げてきた京丹後市「ささえ合い交通」や、第6章のドイツにおける住民バスの実践では、地域住民が主体的に活動し、前者ではまさに住民同士が支え合いながら、モビリティ確保に努めており、後者では行政や地元企業のバックアップを受けつつ、バス運行を通じた住民の交流活性化等が行われてきている。こうした意味では、これらの事例は、西村のいう市民の賛同と協力が実践されている事例として位置付けることもできよう。
地域公共交通の政策的視点に関する整理では、地域住民の参加や主体的な活動が求められる中で、自治体や交通事業者も住民に対して声を聞き入れる場所や機会、プラットフォームの構築が必要であることを確認してきた。こうした意味では、第5章でみてきた[住吉台くるくるバス]運行における交通事業者(みなと観光バス株式会社)の取り組む住宅街での定期券販売は住民参画のプラットフォームの一つであるともいえよう。交通事業者が住宅街へ足を運び、定期券や回数券の販売を通じて、地域住民と忌憚なく意見を交わす新たな「場所」あるいは「機会」として位置付けることができる。
筆者の継続的な調査からはまた、定期的に利用するわけではないが、交通事業者との「付き合い」で定期券を購入する住民や、定期券販売の場に「遊びに来る」住民がいることもわかっている。こうした住民の行動については、さらなる詳細な調査・分析から学術的な示唆を導出していく必要があるが、これは今後の研究課題としたい。ただ、もちろん交通事業者に課される役割は、地域で安心・安全な運行を遂行することである。しかし、それだけではなく、交通事業者の方からも地域住民に歩み寄り、生活ニーズを把握する場所や、胸襟を開いて話し合う機会を形成していくことで、協働に基づく交通の展開が可能となるものと考えられる。
従来の交通研究では、こうした機会に着目してくることは少なかったが、本書において社会学的な視座から調査研究を展開した結果、交通事業者による示唆に富む取り組みであることがわかった。もちろん、従来のような地域公共交通会議や関連する協議会、ワークショップ等の場や機会は、住民が参加し、活動するプラットフォームとして引き続き、位置付けられていく必要はある。一方で、フォーマル/インフォーマルに関わらず地域住民が参加できる場づくりも、これからの地域公共交通に求められてくるであろう。
定期券販売以外にも、第4章の「ささえ合い交通」や第6章の「住民バス」では、ドライバーとして住民が参加する様子を確認してきたが、こうした取り組みを契機として、住民の新たな協働が生まれる可能性も十分にあるといえよう。この点については、住民参加に関する理論の整理や参加のプラットフォームづくりに関する考察が十分にはできなかったため、今後の研究課題としたい。
モビリティ確保に関する交通権等を主題とした研究
第2章では、モピリティ確保に関する学術的・実践的背景について整理してきた。とりわけ交通権をめぐる議論や社会運動に注目してきたが、モータリゼーションや国鉄分割・民営化と並行して、障害者等の交通弱者に対する移動・交通を保障する動きが強まってきた。1960年代後半から1970年代にみられた自動車社会を批判する見解も近年ではあまりみられないが、既述のように問題が多様化、複雑化しているからといって当事者からの要求が小さくなっているわけではないことも、改めて述べておきたい。むしろ、高齢者からの移動の要求が認知症ドライバーによる事故や、買い物弱者問題という形で顕在化しつつあることを、いまふたたび深刻な課題として研究者や実践者が受け止めるべきであるといえよう。
またこうした文脈では、社会福祉学や地域福祉に関する研究が、現代社会における地域の移動や交通という問題に正面から向き合わなけれぱならないことも指摘しておきたい。とりわけ高齢者や障害者に関しては、「施設か在宅か」という議論が行われてきた中で、移動はある意味で所与のものとして捉えられてきたといえよう。すなわち、自力での移動や家族、施設職員による送迎があるという前提で、諸サービスが展開されてきた。
ただ、ドイツ「住民バス」をはじめとする本書で取り上げてきた事例でもみられたように、地域公共交通によって施設と自宅の往復だけでなく、行きたいところへ自由に行くことが可能になっていることも、改めて着目すべき点である。生活者やサービス利用者の立場から日常的な移動を考える際に「移動の可能性」、つまりモビリティを高めることが、QOL(生活の質)の維持・向上や社会的ネットワークの構築へとつながる可能性がある。
すでに述べてきたように、社会福祉の制度・政策的な側面が、高齢者や障害者のモビリティを限定的なものにしてきた。第3章でも引用した真田是は、移動・交通問題には言及していないが、生活問題の多くが社会福祉の対象から行政的に外される、あるいは放置されることを、対象の「対象化」という表現を用いて説明している、具体的にみていくと、「現実の社会福祉の対象とされているものは、行政上の対象に据えられたものである。このほうは政策としての社会福祉が対象に設定したものであって、生活問題と表現する対象を政策的ねらいからさらに「対象化」したものである。この[対象化]は、対象をさらに限定したものにする」とされている。
ここでいう生活問題の範囲には、本書でみてきた移動・交通の問題は間違いなく含まれているといえよう。真田の指摘から現在、移動・交通の問題が置かれている状況を考えれば、たしかに高齢者や障害者へのモビリティ確保の方策が構想され、実践されてきた。しかし、第1章でみてきたような制度・政策の狭間(あるいは「グレーソーン」)にいる一般高齢者のモビリティ確保は誰が、どのように行うのかという大きな課題が残されている。先の真田の指摘に従えば、対象の[対象化]によって生まれた社会的課題ともいえよう。一方で、社会福祉の対象からこぼれ落ちる住民に対してモビリティ確保に努めてきたのが社協という、地域福祉的なアプローチを得意とするアクターであったことも、改めて興味深い点である。
これらのことから、従来の社会福祉研究に対しても、とりわけ地域という文脈で、施設か在宅かという二者択一ではなく、モビリティを保障していくことが生活を豊かにする可能性を含んでいるという視点を提供することができるものと考えられる。またこうした文脈において、社会的包摂や社会的結束という観点からモビリティや交通を捉え直していくことが必要とされるが、この点については欧州の先進事例の動向等を確認しつつ、今後の研究課題としたい。
さて、本書で事例として取り上げてきた多様なアクターの取り組みは、交通権の時代に盛んであった社会運動とは異なるが、ある意昧での社会的な運動(ムーブメント)として位置付けることもできよう。とりわけ自治体や交通事業者という従来のアクターではない、社協やNPO法人という新たなアクターによる国内での実践は、いずれも第1章でみてきたような地域公共交通の諸施策の帰結ではない。むしろ、制度や政策が機能不全に陥っているところで、地域の内部から内発的に立ち現れた取り組みであるともいえよう。
厳密にいえば、システム支援という側面からみると外部からの影響(たとえばデマンド交通のシステムやささえ合い交通の「ウーバー」アプリケーション)を受けてはいるか、しかし同じようにデマンド交通や自家用有償運送に取り組んで、一定の利用者獲得や地域活性化につなげている事例はそう多くはない。繰り返し述べてきたように、システムという基盤の上に、社協やNPO法人、住民組織といった多様なアクターによる実践、あるいは広義での「ムーブメント」を通じて、地域住民の共同を成り立たせているという点に着眼してきたことが、本書の特徴ともいえる。
『迷いを断つためのストア哲学』より 死と自殺について
わたしは死ななければならない。すぐにというなら、今、死のう。じきに、というのであれば、今は食事をしよう。食事の時間だから。その後、死ぬときが来たら死のう。--エピクテトス『語録』--
古代のストア哲学者は、死をとても気にかけていた。いや、「気にかけていた」というのは厳密には正しい表現ではない。死ぬということと、人間がそれに加えた重みを理解し、きわめて独特で前向きな見方を発展させたのだ。
実は、わたしはこのテーマについてエピクテトスと真剣に対話をしてきた。かつては死を気に病んだものだ。それどころか、ほぼ毎日、死のことを考えていた時期もあらたし、一日に何度も考えたこともあった。とは言っても、わたしは陰僻な考えにとらわれて、ふさぎ込むようなタイプでもない。逆に、人生に対してつねに楽観的で、運命に与えられるもの(ありかたいことにこれまで多くを与えられた)はなんでも楽しみ、最善を尽くして取り組んできた。しかも、わたしは生物学者である。死は自然の現象であり、何十億年も前からわたしたちの祖先がたどってきた進化の過程の一部であることもわかっている(もしわたしたちが仮にバクテリアであるなら、老衰ではなく、偶然の出来事によって死ぬ。よって、人生哲学を確立することもできない)。それでも、いつの日か自分の意識が消えると思うと恐怖に襲われた。ところが、本章の冒頭に掲げたエピクテトスの言葉を初めて読んだとき、それが変わりはじめた。わたしは大笑いし、こう思った。誰もが何より恐れているものに対して、なんと屈託のないことか。
エピクテトスは、わたしがなぜあれほど悩まされたのかも説明してくれた。「麦はなんのために成長するのだろうか。太陽のなかで穂を実らせるためではないだろうか。穂を実らせるのは、刈り取られるためではないだろうか。それらは一体なのだ。麦は、もし感情を持っているとしたら、刈り取られないように祈るべきだろうか。刈り取られないのは、麦にとって災いである。同様に、人間が死なないように祈ることは、災いを為しているのだ。それは麦が、実がならないよう、刈り取られないよう祈るのと同じである。だが、わたしたち人間は、刈り取られるべき運命にありながら、刈り取られるべき運命にあることを知ると、怒りを感じる。それは自分がなんであるかを知らないからであり、馬を扱うのに長けた者が馬についてよく研究しているのとは異なり、人間について学んでいないからである」
興味深い一節である。ここでは相互に関連する三つの考えが示されている。第一に、わたしたちはほかの生物と変わりがないということ。太陽の光を受けて実る運命にある麦のように、わたしたちも刈り取られる運命にある。ストア哲学者はある種の宇宙の摂理を信じていたので、現代を生きるわたしたちの大半よりも、運命をそのまま受け入れた。現代科学の観点からも、わたしたちは宇宙におそらく何十億と存在するであろう居住可能な惑星のひとつで生きている、何百万という種のひとつにすぎないことは明らかだ。
第二の考えはきわめて重要なものだ。すなわち、わたしたちが自分の死という行く末に穏やかでいられないのは、麦や、地球上にあるその他多くの生物とは異なり、死について考えられるせいである。だが、死について知ったとしても、その本質は変えられない。死に対するわたしたちの態度を変えることができるだけである。これは、コントロールできることとできないこと、というストア哲学の基本的な二分法に立ち返ることになる。つまり、死そのものはわたしたちにはコントロールできない(いずれにしても避けられない)が、死をどう考えるかは間違いなくコントロールできる。そのことについてもう少し考えてみたいし、考える必要がある。
この第二の考えは第三の考えに通じる。エピクテトスは、人間について学ぶことと、馬について学ぶことを類比させた。死を恐れるのは無知ゆえであり、調教師が馬を知り、理解するように、わたしたちがもっと人間のありようを知り、正しく理解すれば、来たるべき死への向きあい方が変わる。
それでもまだ、わたしが十分に納得していないのを察したエピクテトスは、戦術を変えた。すぐれた教師なら、前途有望ながら大事な点を頑として受け入れようとしない生徒を前にすればそうするだろう。「それではきみは、人間の悪意や、卑怯や臆病のおもな源は死でなく、むしろ死に対する恐怖であることはわかるか。わかるなら、どうか自分自身を訓練してほしい。すべての思考、すべての訓諭、すべての鍛錬をそれに向けるがいい。そうすることによって人はようやく自由になれるのがわかるだろう」セネカなど他のストア哲学者や、ストア哲学者に影響を受けたモンテーニュなど後世の人々もこうした考えを受け入れた。哲学が役立つことがあるとすれば、もっとも良く生きることに加え、死を恐れるべきではないという事実をいかに受け入れるべきかを示して、人間をより深く理解できるようにすることだ。それについては、ストア派の最大のライバルであるエピクロス派も、完全に同意している。エピクロス派の創始者であるエピクロスは『メノイケウス宛の手紙』で次のように記した。「それゆえ死は、もっとも恐ろしく悪いものだが、われわれにとってはなんでもないことなのだ。われわれが存在するかぎり、死はやって来ず、死が来たときには、われわれはもはや存在しないからである」
それでは、病気になったときは? おそらく真の問題は死ぬことではなく、死に至る過程ではないかと考えながら、わたしはエピクテトスに尋ねた。「きみは立派に耐えるだろう」とエピクテトスは言った。もちろん。だが、誰がわたしの面倒を見てくれるのだろうか。「神と友人たちが」とエピクテトスは答える。けれど、わたしは固いベッドに横たわらなければならないでしょうね。「だが、男らしく耐え抜けばいい」きちんとした家は持てないのでしょうか。「それでも、病気になるのは変わらない」手厳しい師である。だが、すべて、ストア哲学の枠組みにおいては筋が通っている。人間が病気になるのは紛れもない事実であり、多くの人はそのひとつによって死に至る。だから、友人や愛する人々がそばにいてくれるなら、自分は幸運だと思うべきだし、それは、自分が他者とそうした関係を維持できるまともな人間であったことを意味する。彼らは病気を治すことも、命を救うこともできないが、最期に至る過程に付き添い、安らぎを与えてくれる。もちろん、ちゃんとした家の柔らかいベッドの上で人生の旅を終えられればもっといいだろう。だが、これから確実に起こり、わたしたちの意識のすべてを向けるべきものに比べれば、家もベッドも些細な問題にすぎない。
そこで当然ながら、わたしは言った。いずれ死ぬときが来ますからね。「なぜ『死』などと言うのか」エピクテトスはわたしを正した。「もったいつけずに、事実をそのまま言えばいい。『物質がそれを構成していた元素に戻るときだ』と。その何が怖いのか。その損失は宇宙にとっては何を意味するのか。奇妙で、不合理な出来事だろうか」自分自身のことばかり考えるのではなく、もっと視野を広げろ、と冷静な理性の声が言う。子どもの頃、わたしが科学者のロールモデルと仰いでいた天文学者のカール・セーガンは、人間は星屑であるという事実を考えてみるようにと言った。人間の身体を形作る分子は、太陽系の近くで超新星が爆発して生じた元素が、数十億年にわたる進化を経たものだという。それを思うと厳粛な気持ちになる。それを裏返したのが、エピクテトスの言葉だ。わたしたちは塵に戻り、わたしたちを作っていた化学元素は宇宙の営みのなかで再生されて、新しい生命に生まれ変わる。こうした宇宙の営みに意味があるのか、あるいは、ただそういうものなのかはどうでもいい。いずれにしても、わたしたちは宇宙の塵から生まれ、宇宙の塵に返るのだ。そう考えれば、この世に存在して、飲んで、食べて、愛するという、宇宙から見ればごく短い瞬間が愛おしくなる。その瞬間がいずれ終わるのを嘆くのは合理的でないばかりか、無益だ。
それでも、納得できない人もいるだろう。それどころか、技術楽観主義者の多くは、死を治すべき病と考え、その努力に多額の資金を投じている。みずからを「トランスヒューマニスト」と呼ぶこうした技術楽観主義者は、世界でもとくに影響力の大きいテクノロジー企業が集まるシリコンバレーの、大富豪の白人男性のなかに多く見られる。もっとも有名で強い影響力を持つのはレイ・カーツワイルだろう。現在、グーグル社で自然言語を解するソフトウェアの開発にあたっている未来主義者だ。フューチャリストとは未来についての研究や予測ができると考える人たちである。
カーツワイルは、史上初のOCR(オムニフォント光学式文字認識システム)の開発をはじめ、大きな成功をいくつか収めている。本書執筆時点では六八歳で、以前から、永遠に生きるにはわたしたちの意識をコンピューターにアップロードすればいいと論じてきた。それももうすぐ可能だと言う。実際、その究極の技術は、いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)の到来の前に適切な扱いを考えておくべきだろう。シンギュラリティとは数学者のスタニスワフ・ウラムの造語で、コンピューターが人間の知能を超えて独自に、そして、おそらくは人間がいなくても、技術的な発達を始める時点のことである。