goo

国家に頼らない遊牧民の生き方--併存化

『遊牧の思想』より 国家に頼らない遊牧民の生き方--周縁化・併存化・独立国化 併存化--遊牧民と国家の通貨
 国家の最大の役割のひとつは、その国の通貨を発行することである。日本円なき経済生活や日常生活を考えることは、国家の通貨にあまりにも依存しすぎている私たちにとってとてつもなく困難なことであるが、東アフリカ遊牧社会ではどうだろうか。
 東アフリカ遊牧民のある小さな町に、当該国政府と地方議会の主導のもとに、一九九一年にこの地域一帯で最大の家畜定期市が開設された。当該国では、一般に無知な民として蔑まれてきた遊牧民は、現金経済の意義を理解せず、家畜を売却しないだろうといわれていた。しかし、こうした予想は大きく裏切られた。開設されるやいなや家畜市は大盛況となり、家畜市の開設以前と比べると、家畜の出荷頭数は五倍に伸びた。多いときには、二千頭近くの家畜、千人近くの人が家畜市に集まって来るようになった。一〇〇キロメートル以上離れた場所から徒歩で家畜を売却に来る人もいた。
 こうして遊牧民が家畜定期市の開設を歓迎したことは、先に述べた「遊牧民は保守的であり変化を受け容れない」というステレオタイプ・イメージを完全に覆したといってよい。この地域で市場経済が発達しなかったのは、彼らが保守的な気質をもちあわせていたからではなく、政府による市場環境の整備が同国のほかの地域に比べて著しく立ち遅れていたからに過ぎず、先に述べた周縁化によるものと考えられる。
 家畜定期市が盛況を極めると、今度は反対に「この地域の遊牧民は彼らの家畜をすべて売り払ってしまうのではないか」と噂する人も出現するようになった。私も、人々が家畜をどんどん売り払ってしまい、それによって得た現金を使用して、外部から押し寄せてくるさまざまな商品を購入するようになると予想していた。事実、遊牧民は、家畜市に併設されているバザールでインド製の自転車、中国・韓国製のラジオやデジタル時計をつぎつぎに購入していた。つまり、文字通りの市場経済化、グローバリゼーションの波が遊牧社会に押し寄せてくると思われたのである。
 そこで、私はこの地域の遊牧民が、家畜定期市をどのように捉えて、どのような取引をおこなっているのかを調査してみることにした。一九九六年の八月二九日からI〇月二四日にかけて、六回の家畜市における総計三六二例の取引事例を収集した。そのうち、家畜を売却した理由を調査すると、最も回答の多かった理由は「家畜の確保」で四二%を占め、「食料の確保」(一九%)、「サーヴィス関連」(一三%)、「日常雑貨類の取得」(一〇%)などの理由が続いていた。つまり、「家畜の確保」が最も高い割合を占めていることが判明したのである。
 遊牧民は、家畜を売却して商品を購入していると予想していた私は驚いた。商品の購入やサーヴィスを得るためではなく、家畜を確保するために家畜を売却するとは、いったいどういった意図にもとづぐ取引なのだろうか。調べてみると、ずいぶん奇妙な取引がみられることが明らかになった。オスウシを売却して、未経産のメスウシを購入しようとしていた人や、年老いたメスウシを売却して若い未経産メスウシを購入しようとしていた人がいた。儀礼で使用するための家畜を購入しようとしていた人もいれば、体力をつけるために肉を食べようとして家畜を購入しようしている人もいた。遊牧民は、家畜定期市において、市場取引をするのみならず、自分の都合に応じて融通無碍にそれを幅広い交換の場として利用していたのである。家畜定期市に来たにもかかわらず、まったく現金を使用しないで、家畜と家畜を物々交換して帰る人すらいた。さらに、くわしく検討してみると、遊牧民が購入したいと考えている家畜は、若い未経産のメスの家畜であり、売却したいと考えている家畜は去勢オスや不妊の家畜であることがわかった。つまり遊牧民は、去勢オスを商品として売り払いつつも、メスの家畜が出産して家畜群を増やしていくことを期待して、若いメスを購入しようとしていることが明らかになった。
 それでは、なぜ遊牧民はメス家畜を必要としているのだろうか。それは、長期的な時開幅で考えると、遊牧民にとってメス家畜とは、自然の恩恵がもたらす自然資本のようなものだからである。遊牧民は、メス家畜が出産し続ける限りにおいて、経済的に自立できる潜在的可能性を手にすることができる。メス家畜が出産すれば、泌乳を開始し、乳は主食としてその遊牧民の食生活を支えることができる。つまりメス家畜をもつ限り、彼らは自律的な生業経済を維持し、生活の基盤を確保することができるのである。
 また、遊牧社会では、メス家畜を相手に贈ったり貸したりすることによって、結婚を含むさまざまな人間関係を形成していくことができる。さらに調べてみると、家畜と家畜を交換する物々交換レートが定められていることも明らかになった。たとえば、未経産のウシ一頭は未経産のヤギ・ヒツジ一二頭と等価交換される。また、遊牧民は、家畜と物々交換することによってさまざまな物品を入手していることも明らかになった。たとえば、未経産のヤギーヒツジ一頭と交換できる小さな槍は、「未経産のヤギ・ヒツジ分の槍」と表現され、仔ウシ一頭と交換できる大きな槍は、「仔ウシ分の槍」と表現される。つまり、国家が発行する通貨に頼らなくても、遊牧民は出産可能なメスの家畜をもつ限り、そしてその自然の恩恵を基盤として動く共同体の仕組みがある限り、家畜を遊牧民同士の通貨として生きていくことができるのである。
 家畜定期市が開設されれば、遊牧民は市場経済にのみこまれてしまうという私の予想は間違っていた。もし、国家の通貨や市場経済が安定的な生活を約東してくれるのであれば、それに全面的に依存して生活していくことが可能であり、事実、東アフリカ諸国でも裕福な層はそのような道を選んだ。しかし、遊牧民以外の人々が経済の実権を握っている国家において、著しく周縁化されている彼らが市場経済のなかで良好な位置を与えられる可能性は極めて限られている。旱舷になれば、家畜の価格は暴落して外部から来た商人に安く買いたたかれてしまうし、都市部で賃金労働に従事しても、不安定な経済のなかで容易に解雇されてしまう。このように、彼らは市場経済から見放され、危機に直面する可能性が高い生活を営んでいるが、遊牧を基本とする経済と社会の仕組みは、危機に対応するセーフティーネットの役割を果たしているのである。
 遊牧民は、市場経済を拒絶して遊牧を基本とする生業経済に引きこもったのでもなければ、それまでの彼らの生業経済を全面的に放棄して、市場経済にのみこまれてしまったのでもなかった。国家が発行する通貨や市場経済がもたらす便益は享受しながらも、それに全面的に頼り切ってしまうのではなく、もともと遊牧民がもっていた家畜を資本や通貨とする生業経済を巧みに組み合わせながら、両者を併存化させる道を選択したのである。ここでは、通貨や市場について述べたが、こうした二重の併存化は、教育や宗教など、遊牧民の生活のあらゆる側面に見出される。
 遊牧民は、新しい事態に対して柔軟で融通無碍な対応をとってきたが、本章の課題である国家についていえば、彼らは国家か遊牧共同体かという二者択一ではなく、その両者を併存化させていく戦略をとってきたといってよい。グローバリゼーションがさまざまな場面で議論される今日、私たちは、グローバルかローカルか、近代か伝統か、国家か共同体か、市場経済か生業経済かといった二者択一的な考え方に陥りがちである。しかし、両者を巧みに併存化させてきた遊牧民のしたたかな生き方から私たちが学ぶべきことは多い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

最後の預言者

『宗教史』より
 3つの宗教がアブラハムを父祖とすると主張している。そしてその主張の解釈は2通りある。ひとつは、その主張を宗教上の系統を示すものと考えることだ。アブラハムがユダヤ教徒に伝えた一神教は、ユダヤ教徒を通じてキリスト教徒に伝わった。そして7世紀になってイスラーム(イスラム)教が、ユダヤ教とキリスト教によって薄められたと考える一神教を元の姿に戻した。一方、アブラハムの子孫だという主張は、物理的意味と理解することもできる。アブラハムの息子イサクはイスラエルの先祖だ。ユダヤ教徒とキリスト教徒の父系はイサクに行き着く。だが、アブラハムにはもうひとり息子がいて、その息子にまた別の逸話があるのだ。
 アブラハムにはふたりの妻がいた。サラと、エジプト人の女奴隷ハガルだ。サラはハガルに嫉妬し、アブラハムがハガルの息子イシュマエルを跡継ぎにするのではないかと恐れた。そこでサラはふたりを追い出すように夫を説得した。ハガルは年若い息子を連れて砂漠をさまよい、紅海からさほど遠くないところまでやってきた。ハガルはそこで岩の上に座り込み、泣き出した。あまりに悲しくて不幸せだったからだ。だが、イシュマエルは悲しくも不幸せでもなかった。彼は怒っていた。とても怒っていた。イスラーム教の伝承によれば、怒りに任せて砂を蹴散らす。あまりに激しく砂を蹴ったので、湧き水が見つかったという。砂漠のなかのオアシスと呼ばれる緑地にあるような泉だ。アブラハムはイシュマエルが作ったオアシスのことを聞いて、自分が見捨てた妻と息子のところを訪れ、ふたりの命を救った泉の近くに神殿を建てた。アブラハムはこの神殿に聖なる黒石を収めた。この石についても別の逸話がある。
 「創世記」という、ユダヤ教の聖書の冒頭の書では、最初に創造された男がアダム、その妻がエバと記されている。アダムとエバはエデンと呼ばれるすばらしい楽園に住み、何も不足はなかった。楽園のなかには果物の木が何本もあったが、ひとつの木だけは彼らが触れることを禁じられていた。善悪の知恵の木だ。アダムとエバは必要なものをすべて神から与えられ、いつまでも子供のような純真な生活を送っていた。親というものは子供を永遠に幼いままにとどめておきたいと時に思うものだ。だが、子供は成長して善悪の知恵を自ら見いだすのを待ちきれない。このような衝動に駆られてアダムとエバは禁じられた果実を食べる。すぐさま彼らの頭に、世の中はもはや単純なものではないという知識が押し寄せた。
 アダムとエバが純真さを失ってしまったので、神は彼らを地上に追い出し、大人の複雑さに満ちた生活を送らせる。だが、イスラーム教ではこの話のなかで、神は彼らに楽園の記念となるものをもって行くことを許したという。記念となるものは、永久に残してきたものと、永久にともにあるものの両方を彼らに思い出させる役目をはたす。彼らはエデンを失ったが、神を失いはしなかった。エデンの門が彼らの背後で閉ざされても、神はまだ彼らとともにある。彼らがもち出したのは黒石で、天国から来たものだと言われている。アブラハムがその石を受け継いだ。そして、イシュマエルが見つけたオアシスに建てられたカアバという神殿に据えられたのはこの石だ。カアバとその伝説上の黒石の周りに町が発展した。この町の名前をメッカ(マッカ)という。
 メッカ(現在はサウジアラビア内)はアラビア半島の紅海東岸を半分ほど南下したところにあり、地上でもっとも神秘的で魅力的な場所のひとつだ。アラビア半島は長さ1900キロメートル、幅2100キロメートルの巨大な半島で、西側は紅海、南側はアラビア海、東側はペルシャ湾に面している。内陸は広大な砂漠で、そこに暮らすのが大胆不敵で独立した戦士だったベドウィンと呼ばれる遊牧民の部族だ。「創世記」にはイシュマエルについて「野生のロバのような人になる。/彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々はみな彼にこぶしを振るう」(「創世記」16章12節)と核心をついた記載がある。ベドウィンの部族同士は井戸やオアシスの所有権をめぐって争い、戦うが、誰もが聖地メッカを崇めて巡礼を行い、アダムから受け継がれた黒石に接吻し、イシュマエルが見つけた井戸の水を飲む。ベドウィンの先祖アブラハムは熱心な一神教信者だったが、彼らにも同じことが言えるわけではない。アッラー(アラビア語での唯一の神の呼称)を最高神として崇拝していたが、偶像も好み、崇める神々が1年のうち毎日ひとりずついるほどだった。黒石に接吻し、聖なる井戸から水を飲み、店から偶像を買うために訪れる巡礼者を相手にもうける商人たちも同じだった。彼らの店がカアバの周りに数多く立ち並んでいた。
 ヘブライ語の古くからの話が伝えるように、アブラハムは宗教を種にしてもうけることがいかに簡単かを知っていた。彼は家族で営む店で父親が偶像を作って売るのを見ていた。偶像は貧しい人から小銭を巻き上げる詐欺だとアブラハムは非難していた。メッカの当時の状況も憎んだことだろう。精神的慰めを求めてやってくる巡礼者の要望に商人がつけ込んでいたのだから。これは時代や宗派を問わず、どの聖地でも必ず起こりうることだ。必要な人に精神的慰めと称するものを売ることで、いつでも手っ取り早くもうけることができる。イエスはエルサレムで聖職者の一族が貧しい人々を相手に財を成しているのを見て、嫌悪感をあらわにした。だからこそ神殿のなかで両替人の台を倒し、神の家を強盗の巣にしたと言ったのだ。570年にメッカで生まれたひとりの男もイエスと同じように、出生地の商人や行商人によってアブラハムの一神教が崩壊していると憤った。彼の名前をムハンマド(570頃~632)という。
 ムハンマドのそれまでの人生は楽ではなかった。父は彼が生まれる前に死に、母も彼が6歳のときに没した。幼いみなし子は祖父に育てられたあと、叔父のアブー・ターリブの養子となった。ターリブは商人として成功しており、若いムハンマドをラクダの乗り手として働かせた。商品を積んだラクダの隊商の列は、アラビア半島での経済の特色のひとつだ。北はシリア、西はエジプトやパレスチナ、東はペルシャまで、香水や香辛料を運び、絹や麻と交換して長い帰途につく。預言者イザヤも述べているように、アラビア半島南部のシェバからラクダの大群が黄金と乳香を携えてエルサレムに至る。ムハンマドが見習いとしてはじめたのはこの貿易商の仕事だった。
 ムハンマドは物覚えが早く、有能で信頼できるという評判が立ったので、ハディージャ(555頃~619)という裕福な寡婦に見込まれ、シリアヘ向かう隊商のひとつを任された。ムハンマドとハディージャは595年に結婚する。ムハンマドは25歳で、ハディージャは40歳だった。子供が6人、4人の娘とふたりの息子が生まれたが、息子たちは幼い頃に亡くなった。もっとも有名な娘はファーティマだ。アリー(ムハンマドのいとこ)と結婚し、ムハンマドの孫にあたるハサンとフサインの母となる。ムハンマドは商人として成功する一方、正直で公正な取引をするという名声を得たことで、地域社会の一種の指導者となった。商売上の問題や親族間の争いの解決に助けが必要になったときに頼りにされた。だが、ムハンマドは社会の指導者だけでは終わらなかった。
 彼はこの世やあの世を見通して意味や目的を常に見つけようとする、あの特別な集団に属していたのだ。彼らは人間社会の特徴である醜さや不正に悩む。もがいている人たちに己を超えた精神的な真実に触れさせようとする宗教には敬意を払うが、権力者が自分の目的のために宗教を操って、本来なら助けるべき者たちの善意をどれほどたやすく裏切るかも知っていた。
 メッカのカアバで目にする不正な商売に反感を抱き、40歳頃のムハンマドはひとり離れてメッカの郊外にある洞窟で祈り、瞑想するようになった。そこで彼は初めて幻を見て、初めて声を聞いた。こうした啓示は生涯つづくことになる。その啓示は神ご自身の姿や声ではないことにムハンマドは気づいた。瞑想によって現れたのは天使ジブリールだった。ジブリールからの最初の言葉は、「読め、『創造主なる汝の主の御名において。主は凝血から人間を造りたもうた』」だった。ムハンマドはどう判断してよいかわからなかった。自分を誘惑する邪悪な霊の声を聞いたのだろうか? あるいは頭がおかしくなってきたのか? 幻を見たり声を聞いたりする者はいつも頭がおかしいと言われているのではないか? ムハンマドは混乱して不信に満ちていた。だが、その声は非常に美しく魅力のある言葉で引きつづき彼に話しかけた。そしてムハンマドは自分が預言者として召し出されていると確信するようになった。
 預言者として肝心な点は、聞いたことを自分だけにとどめてはおかないことだ。彼らは世界に警告して神からのお告げを聞くように説得するために遣わされるのだ。ムハンマドは天使ジブリールの啓示を数年間聞いたのち、その啓示を記憶して復唱できるまでになっており、妻ハディージヤの温かい支えと励ましを受けて、613年にはメッカの男女に説教をはじめた。彼の伝えるお告げは目新しいものではなく、ムハンマドも目新しいものとは主張しなかった。彼のお告げは彼らが忘れていたことを思い出させるものだった。つまり、預言者アブラハムが言っていたとおり、偶像はまがい物であり、神以外に神はおられないというお告げだ。
 ムハンマドが伝えるお告げは特に貧しい人々を引きつけた。彼らは神殿を支配して偶像を売る商人に食い物にされていたからだ。まもなくムハンマドはメッカに信奉者をもつようになり、彼らは「神に帰依する者」と呼ばれた。これがムスリム(イスラーム教徒)という言葉の意味だ。アッラーだけが神であり、ムハンマドは神の預言者だというお告げにムハンマドがとどまっている限り、問題はなかった。宗教はありふれていて、宗教市場には新たな宗教が生まれる余裕が常にある。だが、すでに定着した組織の利益や特権をその新しい信条が脅かすようになると、風向きが変わる。ここでも風向きが変わった。ムハンマドはカアバのそばの偶像市場で財を成した商人や、聖なる井戸の水を飲む巡礼者からお金をとる者たちを非難した。非難することによって避けられない事態がつづいた。メッカでムスリムヘの迫害がはじまったのだ。
 幸いなことに、ヤスリブという町から訪れてムハンマドの説教を聞いた一団が、ムハンマドと信奉者たちをヤスリブに移住するように招いた。そのヤスリブの人々は指導者を必要としており、ムハンマドがぴったりだと考えたのだ。メッカから350キロほど離れたヤスリブヘの移住は、秘密裏に行われた。ムハンマドと、いとこのアリー、友だちのアブー・バクルが最後に出発した。彼らは夜にメッカを出たが、622年9月のこの脱出は「ヒジュラ」(聖遷)と呼ばれるようになり、この年がムスリム歴の元年となる。脱出先のヤスリブの町には、のちに預言者の町を意味するメディナ(マディーナ)という新しい名前がつけられる。
 この移住でも問題は解決しなかった。その後の10年間、メッカとメディナのあいだで戦争となる。ついに630年、ムハンマドは大軍を率いて自分の出生地に向かう。勝ち目がないことを悟ったメッカ側は降伏し、預言者が町に入る。住民への報復はせずに、ムハンマドはカアバから偶像を撤去し、メッカの市民にムスリムとなることを奨励して、メディナに戻った。
 だが、彼の死が迫っていた。632年にムハンマドはメッカに巡礼して、最後となる説教を行った。こうしてムハンマドが、黒石と聖なる井戸のあるメッカのカアバを最後に訪れたことを記念して、「ハッジ」と呼ばれる巡礼が、5つの義務のうちのひとつとして定められた。5つの義務とはムスリムが行うべきイスラーム教の五行(柱)だ。ハッジののち、預言者に残された時間は長くはなかった。彼は高熱を出して病に倒れ、632年6月8日に亡くなった。だが、彼の残した信仰は現在、世界で2番目に大きな宗教となり、歴史を刻みつづけている。以下の章で、その豊かな神学理論と実践について探ってみよう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

国民国家というモデル

『文化人類学の思考法』より 国家とグローバリゼーション--国家のない社会を想像する
 国民国家というモデル
  「国家のない社会」とか異なる国家のとらえ方について聞くと、とても奇妙な感じがする。どうしてそんなしくみがありえるのだろうか、と。それは、私たちが特定の政治システムをあたりまえと考えているからだ。ここで当然視されているのは、たんに領域国家というだけではなく、国民国家という考え方だ。オリンピックで自国選手が勝ったときに感じるように、多くの人は国民としての「私たち意識」を自然ともっている。「私たち」は「彼ら」と違っていて、「私たち」の誰かの勝利は私の勝利でもある。だから、自国の大企業が売り上げ世界一になったと聞いてまったく縁のない私が喜ぶように、内部にある差異よりも共同性をより強く感じる。さらに、国境によって囲まれた自国を、人のものではなく「私たちの国」だと感じる。私たちの国の行方を決めるのだから選挙に行かないと、というときのように。あるいは、交通違反をしている人を見て、自分の国の法律なのだから守れよ、と憤慨するときのように。
  私たちは、まったく自然にこれらの感情を「感じる」ことができる。しかし、ベネディクト・アンダーソンは、国民という「想像の共同体」は、新聞が流通して人びとがニュースを共有するようになったりした結果として、歴史的にあらわれてきたものだと指摘している。逆にいうと、以前はそのような想像力はなかったということだ。かつて民衆は、先に挙げたような「国民」としての感情を抱くことがなかったという。国は支配者たちのものであるとみなされていて、民衆は「私たちの国」だという当事者意識をもっていなかった。だから、大規模な戦争のために民衆を動員する必要が出てきたときも、他人ごとに思える戦争に駆り出される徴兵に多くの人が反発していた。そのような状態からはじまって、参政権の付与や学校教育をとおして、だんだんと国家と自分を同一視して「私たちの国」と感じる感情が生まれてきた。またその過程には、国民が共有するとされる「私たちの」言語・歴史・文化が、ずっと存在してきた伝統として「発明される」プロセスが大きな役割を果たしている。
  こうして生まれた国民国家は、遅れて登場した国々がめざすモデルとなった。植民地支配を脱して独立しようと戦った人びとは、分割され統治されていた人びとからひとつの国民をつくりあげようと試みた。しかし、それは簡単なことではなかった。疑似的血縁関係、人種、宗教、言語、地域、慣習などの、国民より小さな単位への「原初的愛着」が、国民としての感情と相反する関係にあったからだ。ギアツは、当時の新興国の問題を、このような「原初的愛着」と国民意識のあいだの葛藤として描いている。あまたの民族や言語が混在する社会においてモデルどおりの国民国家を実現するのは、しばしば困難だった。しかしそれでも、二〇一九年の時点で一番新しい独立国である南スーダンにいたるまで、現実はどうであれ少なくとも「あるべき姿」として国民国家は思い描かれている。
 グローバリゼーションと国家
  しかし、私たちがそう思いがちなように、国民国家は究極のかたちなのだろうか? もうほかには可能性がないのだろうか? アルジュン・アパドゥライは、国境を超えるさまざまなフロー(人びと、メディア、資本、テクノロジー、イデオロギー)によって、国境に囲まれた国のなかに単一の国民が住むという国民国家の想像力は不確実になってしまったと論じている。とりわけ、儲かる投資先を求めて世界中を動き回る金融資本のせいで、それぞれの国家が自国の経済をコントロールしているという感覚が失われてしまった。もう国家が自分たち国民の生活を守ってくれないのではないかという不安が広がっている。このような不安は、一方で国民国家への執着とマイノリティヘの暴力を生みだしている。しかし同時に、国家の枠組みに収まらない人びとの新しい生き方をさまざまなかたちで生みだしてもいる。現在の人類学は、こうしてあらわれつつある世界をとらえようと試みている。
  たとえば、人権、貧困、先住民の権利、災害援助、環境正義、ジェンダーの平等など、さまざまな問題に取り組む非政府組織(NGO)が生まれ、しかもそれらのNGOは単独で行動するのではなく国境を越えたネットワークをかたちづくっている。アパドゥライは、このようなネットワークの発展を「草の根のグローバリゼーション」と呼んでいる。これらのネットワークは、一国内にとどまらないグローバルな公正を実現するために抗議行動を組織するだけではなく、地道に状況改善のための運動を行っている。ムンバイのスラム住民による生活改善運動は、そのひとつだ。そこでは、タイプの異なる団体(都市貧困問題に取り組むNGO、貧しい女性にょる組織、男性スラム住民組織)が連携して、政府と交渉しながら自分たちで住環境の改善に取り組んできた。しかし、人びとはたんに口ーカルな実践をしているだけでなくて、スラム住民団体の国際的なネットワークに加わって、トランスナショナルな連携をとることによってよりよい活動をめざしている。こうして彼らは、国民国家の枠組みに限定されない国境なきデモクラシーを実現しようとしている。
  しかし、そのような「いい話」だけではない。NGOの活動をとおして生活を改善するよりも、インフォーマルな手段に訴える人びともいる。たとえば、アフリカのチャド盆地では、構造調整のあおりを受けて食い詰めた人びとが国境地帯に集まって、盗賊や密輸などの違法な商売を行うようになっている。しかし、彼らは自分たちのやっていることを、国の法律では違法だが道徳的には不正でない、路上の法が支配する世界としてとらえている。また、社会主義崩壊後のロシアの地方都市では、混乱のため公共の交通機関が停止してしまった。その状況をなんとかするために自分の車を使ってバス稼業をする人たちがあらわれ、独自の規則を備えた自主的なバス路線へと発展した。そこにマフィアも絡んで、当局も介入が難しい領域となったという。
  これらの人びとも、ムンバイのスラム住民と同様に、自力で苦況を切り抜けようとしている。しかし、市民運動によってではなく、国家から違法ととらえられる手法をとっている点では異なっている。このような実践はグローバリゼーションとともに始まったわけではないが、国民国家の確かさが疑われるようになったおかげでよりはっきりと見えるようになってきた。現実には、国家は主権を独占しているわけではない。コミュニティからギャング組織にいたるさまざまな集団が「部分的主権」を保持していて、それらが折り重なって対抗しあったり共存したりしているのだ。この状況は、消えていくどころか世界的により顕著になりつつあるのかもしれない。
  「草の根のグローバリゼーション」の例も「部分的主権」の例も、すぐに「国家のない社会」や国家の周縁についての人類学の古典的な議論を思い起こさせるだろう。そこで論じられていた社会とどこかで似ている「何か」、国家についての私たちの想定を超える「何か」が、あらわれつつあるのではないだろうか? それでは、両者はどのような点で似ているのだろうか? そして、どのような点で異なっているのだろうか?
  人類学が過去に扱ってきた多様な政治のあり方は、自分たちには関係のない遠い話のように聞こえたかもしれない。しかし、私たちが確かだと思っている「国民国家」だって歴史的にあらわれたものだし、現在その確かさはゆらいでいる。私たちは、別の政治のあり方をいやでも想像しなくてはならなくなっている。こうした状況において、国家についての人類学のアプローチは、現在の可能性をより幅広く考えるための手助けになる。インドやチャドやロシアといった遠くの社会だけではなく、身の回りにも考えるヒントはある。自然災害で行政が機能しなくなったとき、あるいは教師が休みで自分たちだけで何かを決めなくてはならなくなったとき、私たちはどうやっているだろうか? おそらくそこにも、何かしら人類学めいたものがある。このように考えれば、ふだんは気づきもしない別の可能性をはらみながら、私たちの日常が流れていることが見えてくるだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

川崎病って何?

川崎病って何?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )