『中国経済史』より モンゴル人の支配が経済に及ぼした影響
モンゴル人の征服によって中国は初めて全土を異民族に支配されることになり、社会と経済、統治機構は隅々まで影響を受けた。士大夫は政治権力を失ったが、社会的・文化的な威信は保っていた。元朝(一二七一年~一三六八年)を開いて君臨したクビライ(在位 一二六〇年~一二九四年)と後継者は、中国の政治的伝統のみならず、それまでの異民族王朝の手法も打ち捨てている。中国征服以前はほとんどが定住民だった契丹や女真人とは違い、モンゴル人は生粋の遊牧民だった。華北では一二三四年にモンゴルが金を滅ぼし、漢人に対するモンゴル人の政治的・社会的支配が強まっていった。かたや華南では、直接的影響はずっと小さかった。そんなわけで、モンゴルによる征服は中華世界の経済的中心地としての江南の地位をさらに高めることになる。
モンゴルの社会は、人身支配の原理によって支えられていた。一二三〇年代前半にモンゴルの軍営地を訪れた漢人の使節によると、各部族は民の一定数をカーンに貢がなければならなかったという。また、貴族はみずからの領民に対し、食料や馬、道具類、衣服、労役などの形で税を課していた。まとめてクプチルと呼ばれていたこれらの税は、人身支配の一形態ととらえることができる。クプチルは不定期税で、領主や主人が必要と認めたときにはなんどきでも課された。
一二三四年、モンゴル人は華北の金を征服するや、新たに支配下に収めた民を実際の血統に関わりなく「漢人」と呼び自分たちの社会制度を押し付けようとした。ステップ世界では、被征服民は奴隷にされた。金の遺民をステップに移住させるのは不可能だったため、チンギスの後を継ぎ大カーンとなったオゴデイ(在位 一二二九年~一二四一年)は分封(「投下」)の制度を設け、親族をはじめとするモンゴル貴族に広大な金の領土と大ぜいの民を与えた。金の遺民の半分強が分封地の所属になり、残りはカーンの直轄下におかれている。分封地には、官僚による統治に代わり、貴族による支配が敷かれることになった。モンゴルの統治下にあったほかの地域と同じように、領主は支配下の定住農耕民から収入を得ようと、税の取り立てにいそしんだ。徴税特権を与えられたのが、オルトクと呼ばれる商人だ。ウイグルやムスリムの人々などからなるオルトクは、モンゴル貴族の代理も務め、貴族の戦利品を貿易や貸金業に投資した。モンゴルの大カーンのおかげで、オルトクは財政と民間における商業活動を掌握した。
モンゴルは、二〇年にわたる流血の紛争の果てにようやく金を征服したのだった。華北は再び荒廃した。当初モンゴル人は華北平原を牧草地にすることを考えたが、結局はあきらめた。それでも農業経済は壊滅状態に陥り、華北の人口は激減した。一二〇九年に金が行った人口調査の数字と一三九三年の明による調査の数字を比べると、華北の人口は三分の二も減っている。
遊牧民の社会制度では土地ではなく人の管理に力点をおく。モンゴル人は「漢人」をいくつもの職種に分け--一般民、兵士、工匠などのおおまかな分類もあれば、医者や僧侶、儒学者、易者、オルトクなどの細かい分類もある--戸籍登録や課税に役立てようとした。職業は子孫に継がせるものとされた。華北の全世帯の一五~三〇パーセントを占める軍戸は、時を問わず健康な成年男子をひとり提供することになっていた。また、モンゴル人はとくに熟練した工匠を必要としていた。多くの工匠がモンゴリアの首都(当初はカラコルム。クビライの時代に大都に遷都)に移動させられ、そこでカーンと政府、貴族などのため労役に服した。政府に直接管理される匠戸のほか、地方でものづくりや短期の労役を課せられた匠戸もあり、こちらはかなり大きな割合を占めている。
オゴデイの顧問で契丹人系の耶律楚材が一二三六年に考案した税制により、金で温存されていた両税に代わって土地税と人頭税が併用されることになった。民戸、軍戸、僧戸は穀物や絹、銀を税として課された。寺院は原則として納税することになっていたが、モンゴル人は仏教と道教を保護していたので、聖職者個人には数々の免税措置が適用されている。遊牧民であるモンゴル人の生活にとって、穀物はあまり大切ではなく、そのため穀物税は比較的軽かった。代わりに絹や銀が税の多くを占め、さらには弓矢、防具などの武具も徴発された。また地主であろうとなかろうと、全世帯に定期的に労役が課せられ、やはり重い負担となった。一二四〇年代には束トルキスタンで、モンゴル人支配者がクプチルに代えて銀で支払う税を導入。これが前例となり、一二五一年にモンケが大カーンに即位すると、旧金国領の住民には銀を徴発する包銀という税が課された。
成人男性に個別に課税されるクプチルとは違って包銀は世帯ごとに課され、はじめは毎年六両(二二五グラム)を納めることとされた。だがこの税率を継続するのには無理があることがはっきりし、一二五五年には四両に軽減され、半分は銀、残り半分は絹糸で納めることになった。とはいえこの税率でもたいへんな負担だった(四両は米一九〇リットル分に等しく、これは成人男性が一年間に消費する米の半分に当たる)。大ぜいの人がオルトクから銀を借りたが結局は税を滞納し、土地を失って逃亡した。一二六一年、クビラィの漢人顧問の王憚が報告したところによると、包銀による税収は毎年六万錠(一一二・五トン分)にのぼったという。その二〇パーセント近くは行政コストをまかなうために温存され、残りはカラコルムの宮殿に送られた。モンゴル人はこうして得た銀をオルトクに預け、西アジアとの貿易の資金として使わせた。西アジアをはじめとする外国では銀の需要があったため、中国からイスラム世界へは絶えず銀が流出した。ある研究者は王憚のあげた数字をもとに、モンゴル人による支配が始まってからの三〇年間で、九〇〇〇万両(三三七五トン分)もの銀が中国から中央および西アジアに流れたと見積もっている。この数字が大きすぎることは否めないものの、クビラィが大カーンに選出された一二六〇年には、華北は深刻な銀不足に悩まされるようになっていた。
クビラィはすぐさま政府の大々的な再編に着手し、権力をみずからに集中させ、自分たちの得た果実のなかで最も大きな中国にモンゴル帝国の支柱を移そうとした。華北全域に地方長官を据えてそれぞれの分封地の徴税権を与え、地域によってまちまちだった紙幣を統一し、多種多様な物品税や商業税を設けて収入を大幅に増やした。一二六二年にはモンゴリアのステップにあった都の移転を決定し、大都、つまり現在の北京に中国風の巨大な帝都の建設を進めていった。そして一二七一年、クビラィは中国皇帝のような服をまとい、中国王朝風の元という国号を採用する。
モンゴル人にとって、権威は軍事力に根差すものだった。元の地方政府(「行省」)は占領軍にすぎない。元は数々の官僚機構に加え、モンゴルの伝統に起源をもつ統治官(ダルガチ)の制度も設けたが、指揮系統は一貫せず、任務の重複もしばしばあった。モンゴル人は民政に関わる業務のほとんどを地方に任せてしまった。金、宋の前例にならって、村長に税や労役の徴発のほか、警察関連の任務などの地方行政の責任を担わせている。また一二七〇年に「漢地」の人口調査を行い、これをもとに従来と似たような地方行政単位、「社」を設置した。社の長は農業の振興のほか学校や飢饉対策用穀倉の維持管理、民事事件の裁定に対する責任を負った。だが学校や穀倉、農業振興のためのこうした基盤づくりが実際に広範囲にわたって行われたことを示す史料はほとんどない。
一二七九年にクピラィの軍隊は華南征服を完遂した。華北の「漢地」の六倍もの人口を擁する南宋の領土を吸収したことによって、大都にできたばかりの帝都には財政上や物流上の問題が重くのしかかった。クビラィは財政の再編をもっぱら商業に関する顧問に任せた。そうした顧問の筆頭にあげられるのが、一二六二年から八二年に処刑されるまで財政組織を支配した悪名高きペルシャ人のアフマド、そしてクビライ治世末期に宮廷で強大な権力を行使した思慮深いチペット人宰相のサンガだ。アフマドとサンガは商業、なかでも塩の専売に目を向け、新たに収入を生み出そうとした。塩への課税にはなんら新しさはない。モンゴル人たちは金に勝利を収める前から塩の専売を始めていたのだ。しかしサンガの指示によって帝国全土に一四〇もの塩倉が設けられて塩専売制が拡大し、政権を財政面で支えるまでになった。塩の専売による収入は一二八五年に元の現金収入の三分の二を、商業税は一七パー七ントを占めるにいたった。何年かのちに、塩の専売収入は国家収入の八〇パーセントに達した。
モンゴル人は南宋を元に組み入れたのちも、華北で築いた税制を華南に適用するのではなく、宋代からの税制を温存するだけでよしとした。つまり、華北の「漢地」ではさまざまな世帯税が課されたのに対し、華南では両税法が残された。兵士の生活を支えるため、またモンゴル人貴族に付与するために土地が公然と接収された事例はいくつかあるものの、それを除くと、モンゴル人は華南の民間経済にほとんど干渉していない。それまで儒教国家が採用してきた抑制政策から解放された富豪や企業家は大量の土地を集め、商業や工業の分野で利益の大きい事業に自分たちの富を投資するようになる。富豪は鎮の創設や拡大に中心的な役割を果たし、それにより商業の発展が後押しされた。だがモンゴル人は華南の農業資源をできるだけ吸い上げようとした。ダルガチは農業から税収を獲得することを柱に据え、もっぱら大土地所有者を使って規定量の穀物税を徴収あるいは輸送させた。
江南で農業と商業の繁栄が続いたことは、税収の分布にあらわれている。一三二八年のデータを見ると、江南が税穀の全国合計の三七パーセントを、また塩税、酒税、商業税については同等かそれ以上の割合を占めていた。サンガは大都と大運河をつなぐ運河を新たに建設した。また海上輸送路を開設して長江デルタから首都に税穀を輸送させている。これによって時間と費用が大幅に節約できたことから、クピライは一二八七年、華南の税穀の輸送に大運河を利用するのをやめ、すべて海上輸送路を使うことにした。
南宋の経済を元の紙幣制度に組み込むことはもっと難しかった。クビライが一二六〇年に発行した新しい紙幣は銅銭や銀銭に代わるものとして考案され、銀と自由に交換することができた。一二六三年、政府は包銀を紙幣による納税に変更。銅銭は華南の一部地域でごく少量が使用されたが、それを除けばほとんど流通しなくなった。アフマド政権が紙幣の流通量を大幅に増やすとその価値は激しく下落し、政府は多額の赤字を抱えることになった。そこでサンガが流通紙幣の価値を切り下げ、供給量のさらなる増大を抑え、ある程度の安定を取り戻した。
銅銭に裏付けられた新紙幣の発行は一三〇九年から一三一〇年までと短命に終わり、壊滅的な結果に終わったものの、それを別にすると元の財務大臣たちは慎重にことを運び、金融の安定を維持した。だがそれも続かず、一三四〇年代にモンゴル人の支配に反対する民衆の蜂起が起きると、深刻な政治的・財政的な危機が生じる。
チンギスと子孫たちがアジア全土にモンゴル帝国を築き上げたことで、中央アジアには陸上貿易網が復活し、東西貿易が再び活発になった。モンゴルによる平和や積極的な勧商政策の恩恵に浴したのは、当初はウイグルの隊商ばかりだったが、モンゴル人指導層の代理をしていたオルトクが次第にユーラシア貿易で幅をきかせるようになっていった。すでに述べたように、オルトクは中国からイスラム世界に膨大な銀を流出させ、そのため中国の銀保有量が激減した。だが二四世紀前半にフィレンツェの商人、ペゴロッティが書き残したところによると、外国の商人たちは大都や杭州に銀を持ち込み、絹をはじめとする品々を仕入れていたという。
南宋が元の領土に組み込まれたのが、モンゴルの諸カーン国間に内紛が起きたときだったことから、中国の対外貿易は再び海路経由に転換している。一二八五年、元の宮廷は海上貿易を独占し、オルトクに実務を代行させた。だがサンガが海路を民間の商人に再び開放すると、泉州は世界屈指の港になり、外国人商人の集落がいくつもできた。一二九二年に泉州から帰国の途についたマルコ・ポーロは言う。「キリスト教諸国に売りさばこうとしてアレクサンドリアその他の港に胡楸を積んだ一隻の船が入港するとすれば、ここザイトゥン港にはまさにその百倍にあたる百隻の船が入港する。その貿易額からいって、ザイトゥン市は確実に世界最大を誇る二大海港の一であると断言してはばからない」。一三四一年にインド南西部の胡楸生産地を訪れたムスリムの旅行家、イブン・バットゥータもまた、インドから中国へは中国船でなければ航海できないと述べ、こう書き残している。中国のジャンク船は一般につき「一〇〇〇人が働き」、「船には、四つの甲板が取り付けられ、幾つもの一般船室、専用船室と商人用の[上部]船室が備わっている。そのなかの専用船室には、複数の個室と洗面所があり、その船室に鍵が付いているので、船室の主人がそこに鍵をかけ、女奴隷や女性(妻)たちを一緒に乗せることも出来る」。景徳鎮と福建の陶磁器は泉州を経由して東南アジアとイスラム世界、アフリカに次々と輸出された。景徳鎮でかの名高い青白磁が生まれたのはペルシャからコバルトを輸入するようになったからで、中国ではこの顔料を「ムスリムの青」と呼んでいた。好調な銅銭の輸出により活発になっていた日本との海上貿易は、クビライによる日本侵攻の試みが失敗に終わって混乱が収束すると、再び拡大の方向に向かった。一四世紀はじめには、中国の銅銭がジャワ島のマジャパヒト王国でも標準貨幣として使われている。
モンゴル人による統治下で国際貿易はさかんになったものの、元朝は安定した財政基盤の構築に失敗している。一四世紀にはモンゴルの制度と中華帝国の統治規範とを融合させる取り組みがなされたが、官僚組織に秩序ができるどころか、整合性を欠いた複数の政治的階層が生まれる結果になった。クビライと意志堅固な財政顧問は税収に対する中央の統制を強めることはできたが、クビライが死去すると財政規律が崩れた。国家の財政運営は皇族とモンゴル貴族の浪費癖によってますます複雑になり、政府は大きな負債を抱えるにいたった。また、農業生産量は地球寒冷化の始まりとともに減少に向かった(この気候変動を、一部の歴史家は「小氷河期」と呼んでいる)。河道を変えるほどの規模だった二三四四年の黄河大氾濫、またその後に起きた激しいインフレなどの危機に対する政府の対応は不適切きわまりなかった。一三五〇年代になると元帝国内の漢人の多くは公然と反旗を翻すようになり、モンゴル人はステップの故地の安全を守ろうと、ついに中国の地をあとにした。
『環境社会学の考え方』より 環境をめぐって人々はどのようにいがみ合うのか?
コミュニティは万能か
これまで見てきたように、本書を通じて一貫していたのは、環境を守るうえでたいへん重要なのは「地域コミュニティ」だという点であった。コミュニティは、環境保全の“要”として大きな役割を果たしてきた。そうであるならば、大切な環境を守ったり、今ある環境問題を解決したりする“万能薬”がコミュニティだと考えるかもしれない。だが、コミュニティという組織をつくっているのは、複数の人々である。人間と人間の集まりなので、当然ながら自分の思い通りにはいかないし、それは他人にとっても同じことだ。個々人の思惑が錯綜するだろうし、何らかの“ちから”(=権力)が渦巻いているのかもしれない。すれ違いや対立は、むしろ常態と考えていいだろう。つまり、人間が完璧ではないのと同じくコミュニティもまた完璧ではないのだ。
このことは、コミュニティ内部の「相互信頼」にもあてはまる。第2章で私は、環境問題に対して住民の発言がちからをもつ根拠のひとつとして、住民どうしが相互に信頼し合うことが重要であると論じた。それを社会学では「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)と呼んできた。“信頼”と聞けば、その言葉の響きにどことなぐ美しい”ものを感じるのではないだろうか。住民どうしがお互いに信頼し合って身近な環境をよくしていくーなんて美しい関係だろう、と。
ところがその一方で、信頼というものは、いとも簡単に裏切られる恐れがある。つまり、信頼は、守りつづけられるという保証はなく、無根拠なのだ。どういうことか。ちょっと環境から話はそれるのだが、私の両親は、私が子どもの頃から「いくら仲のいい信頼できる人であっても、絶対に借金の保証人になってハンコを゛押してはいけない」と、ことあるごとに忠告してきた。この忠告は、みなさんも一度は耳にしたことがあるだろう。たとえば、互いに「親友」と呼ぶべき友人に「ちょっとお金を貸してほしい」と頼まれ、「親友」だからと貸したら、相手も「親友」だからとちゃんとお金を返してきた。その後、貸しては返され、を繰り返したとしよう。そのような関係を前提に今度はその親友が「絶対に迷惑をかけないから、借金の保証人として、この書類にハンコを押してほしい」と頼まれたら、あなたはハンコを押すだろうか。あなたの親友がこう頼んだのを想像したとき、あなたはどう返答するだろうか。
もちろん、「押す/押さない」といろいろな反応があるだろうが、ここで「押す」という決定をくだしたとしよう。このとき、親友を信頼してハンコを押したとして、確実にその親友が返済するという保証はあるのだろうか。おそらく、今まで親友としてかなり何回もお金を貸す/借りるということをつづけてきたので、彼/彼女が言っていることは今回も信じることができるし、私に迷惑をかけるような人ではないから、となるだろう。だが、これまでの実績やその人の性格を信頼の担保としたところで、これまではたまたま返済されただけであって、将来も確実に責任をもって返済するという保証にはならない。もしかしたら、あなたの前から突如として姿をくらませるかもしれない。そんな例は、過去にも山のようにあったろう。その友人が本当に返済するかどうかはわからないのだ。つまり、信頼とは、結果をみるまでは“一か八か”の賭けのようなものなのである。“人を信じる”ということには、実は何の保証もなく、ただただやみくもに「エイヤー」と目をつぶって“信じる”しかないのだ。だからこそ、実際に裏切られたとき、「あれだけ信じられる人だったのになぜ……」というショックは計り知れない。つまり、信頼はかなりもろいものなのである。このことはコミュニティ内部の相互信頼でも同じことだ。
ちょっとした相互不信が徐々に大きくなっていき、やがてコミュニティの内部が不穏な状況に陥ることがある。すなわちいがみ合いである。日本社会には非常に長いコミュニティの歴史があるのだが、そのあゆみには当然ながらいがみ合いの歴史も含まれている。そこで、この最後の章では、コミュニティの“負”の側面であるいがみ合いとはどのようなものであり、またどのようにして起こるのかを見ていくことにしたい。なぜこのようなテーマを扱うのかと言えば、環境社会学を学ぶうえでコミュニティが両義的であることを知り、これからのコミュニティはどうあるべきなのかを考えてほしいからである。
いがみ合いのきっかけとしての外部権力
コミュニティの住民は、何もすき好んでいがみ合いたいわけではない。そこには何らかのきっかけがある。きっかけとなるのは、外部からの権力である。ここでいう外部からの権力とは、コミュニティに大きな影響を与える、外部組織のちからめことである。たとえば、国家、地方自治体、企業などがそれにあたる。これらの外部権力は、コミュニティに強圧的に働きかけてくるのである。これはいったいどういうことなのか。ここでは、外部権力の最たるものである「国家」を例にとろう。
そもそも、国家とはひとつの組織であり、それは明確な意思をもっている。そう言うと、「え、そうなの?」と疑問に思うかもしれない。というのも、ふだんの日常生活で、私たちは、国家なんて意識することがないからである。“ふつう”に暮らしていたら、国家はまるで“無色透明”に思える。だが、あなたが日常で国家を感じられないのは、たまたまその意思に沿った生き方をしているだけであって、もしそこから逸れてしまったら、国家の意思は明確なかたちをもってあなたの前に立ちはだかる。
日本の近代史を振り返れば、明治以降、西欧の列強国(先進国)に追いつけ追い越せと、日本社会は「近代化」というひとつのレールをひた走ってきた。近代化という掛け声のもとで、日本は、急激に西欧化し、工業化し、都市化した。そのための政策を強く推し進めてきたのが、日本国という近代国家である。他方で、近代化の負の側面である環境破壊への対応は、きわめて冷淡でありつづけた。近代化という発展モデルを唯一の道としながら、その路線に邪魔となる、あるいはそれに反対する者たちを容赦なく切り捨てた。たとえば、一級河川の上流部にn必ず水力発電用のダムがあるが、それは戦後、都市部の工業地帯に電気を送るために、そこに住む人々の意思などお構いなしに立ち退かせ、そこにあったムラ=コミュニティをダム湖に水没させることでつくられた施設であった。このように国家は、自らの思惑を貫徹する明確な意思をもっていると言えよう。
こうした国家の意思に対して、身近な自然を享受しながら生活を立ててきたコミュニティが、どうしようもなく向き合わざるをえなくなった場合、ときには抵抗したり、ときには同調したり、あるときはそのインパクトを自分たちの都合で改変したりして、何らかの対応をとるよう迫られてきた。つまり、国家などの外部権力は、コミュニティ生活の土台を揺るがす「生活条件」と言ってもよい。
ここで図12-1を見てもらいたい。まず、向かって右端の(1)を起点に、外部権力による大規模開発などの環境改変の要求が、新しい生活条件というインパクトとなって、 (2)のコミュニティに押し寄せる。コミュニティの内部では、そのインパクトを、(2-1)自分たちの日常的な知識や規範をフィルターにしながらどのように対応すべきかを決定する。その決定を受けて、コミュニティは、具体的に対応する装置としての生活組織を再編する。このとき、もし生活条件のインパクトが弱まっていけば、コミュニティは、生活組織を解消することもありうる。このようなプロセスをへて、最終的に(3)生活環境の変化が生じるのである。ここでいう生活環境の変化には、(1)と(2)の関係のなかで、コミュニティが激しく抵抗したことでそれまでとまったく変わりがないケースから、新しい生活条件のインパクトをコミュニティの都合に合わせて多少改変したケース、さらにはそのインパクトを全面的に受け入れることでの大幅な改変をしたケースまでを含めている。このように見れば、コミュニティという人間関係は、外部からもたらされる環境破壊への最後の“防波堤”の役割を果たしているのがわかるだろう。それだけに コミュニティはしっかりまとまっていなければならない。
ところが、相対する国家などの外部権力には豊富な資源(資金、人員、権力、情報など)がある。そのような外部権力が自分たちの意思を貫徹しようと長期的に働きかけつづけることで、当初は鉄壁の「信頼」を誇ったコミュニティに、ときとしてほころびが見えはじめる。そこを外部権力は突いてくるのだ。なんという「上位の社会システムからのあくどい操作」なのだろうか。
『貿易戦争の政治経済学』より 国家の仕組み
国家の仕組み
二〇一六年十月、英国のテリーザ・メイ首相はグローバル市民というアイデアをこけおろした際、多くの人々を憤慨させた。「もし自分が世界市民であると信じているのであれば、あなたはどこの国の市民でもありません」と彼女は言い放ったのだ。
彼女の発言は、金融メディアや自由主義のコメンテーターから嘲笑と警告を浴びせられた。あるアナリストは彼女に次のように教示した。「この時代に最も立派な市民のあり方とは、バークシャーの行政教区の幸福だけではなく、地球の幸福に身を捧げることだ」。経済誌エコノミストは、「反自由主義」に舵を切る発言だと伝えた。ある学者は啓蒙思想の価値観を拒否したとして彼女を非難し、彼女のスピーチにおける「一九三三年の残響」を警告した。
私は「グローバル市民」がどのようなものかを知っている。私自身がその完璧な見本と言える。私はある国で育ち、別の国に住んでおり、両国のパスポートを持っている。私は世界の経済問題について文章を書き、仕事で遠く離れた国まで赴く。私を自国民として認めている二つの国以外の国を移動して過ごすことの方が多い。職場の親しい仲間の多くは同じように外国生まれだ。私は国際ニュースを熱心にチェックする一方、地元の新聞にはほとんど手をつけないままだ。スポーツでも、私は地元のチームの成績は全く把握していないが、大西洋の向こう側にあるサッカーチームの献身的なファンだ。
ただ、私はメイ首相の言葉には共感できる。彼女の言葉には本質的な真理が隠れており、そのことを軽視することが、いかに我々--世界の金融、政治、官僚のエリート--が国民から乖離し、彼らの信頼を失ったのかを如実に表している。
経済学者と主流派の政治家は、大衆の反発はグローバル主義のエリートだちから見捨てられ、取り残されたと感じている大衆の不平不満を巧みに利用したポピュリストと排外主義的な政治家によって煽られたもので、悲しむべき進歩の後退と見る傾向にある。ところが、今日ではグローバリズムは後退しており、国民国家はその健在ぶりを誇示している。
長い期間にわたって、知識人の間では国民国家が時代に合わなくなってきているとのコンセンサスが幅を利かせている。グローバル・ガバナンス--国際的なルールと国際機関によって、不可逆的に思える経済グローバリゼーションの潮流と世界主義的な感覚の広がりを補強する必要があるという考え方--が流行しているのだ。
グローバル・ガバナンスという言葉は、我々の時代のエリートの間ではマントラのように唱えられている。彼らによると、技術革新と市場の自由化によってもたらされた財、サービス、資本、情報の国境を越えた移動が世界中の国々を相互に密接に結びつけ、いずれの国も自国の経済問題を独力では解決できなくなっているというのだ。我々にはグローバルなルール、グローバルな協定、グローバルな機関が必要というわけだ。こうした主張はいまでは幅広く受け入れられており、この主張に楯突くのは太陽が地球の周りを回っていると主張するようなものだ。
どのような経緯でこうした考え方に至ったのかを理解するために、知識人が国民国家に反対する論拠とガバナンスにおけるグローバリズムに賛同する理由を詳しく見て行こう。
国民国家はいまだ健在
国民国家の消滅は、これまでずっと予想されてきた。政治学者のスタンリー・ホフマンは一九六六年、「世界秩序を研究する者全員にとって重要な問題は、国民国家の運命だ」と書いている。『危機に瀕する主権』というのは、レイモンド・ヴァーノンが一九七一年に出版した古典的名著のタイトルだ。これら二人の研究者は最終的には国民国家の消滅という見方に冷や水を浴びせているものの、彼らの論調は当時いかにこうした見方が流行っていたのかを反映している。(ホフマンが焦点を合わせた)EUであれ(ヴァーノンが扱った)多国籍企業であれ、国民国家は自分よりも大きな存在の発展に圧倒されていると広く考えられていたのだ。
ところが国民国家は簡単には衰退しない。非常に立ち直りが早いことがわかり、いまでも世界の所得分布の最も大きな決定要因であり、市場を支える機関が主に所属する場所であり、個人が愛着と所属意識を最も感じている共同体なのだ。いくつかの事実を見てみよう。
私は世界の不平等の決定要因について学生が感じている直観を調べるために、授業の初日に貧しい国の金持ちか豊かな国の貧乏人か、どちらになりたいかを学生に聞くことにしている。自分自身の消費水準だけを考え、金持ちは国内の所得分布の上位五パーセント、貧乏人は下位五パーセントを意味すると説明する。さらに豊かな国とは一人当たり所得の国際比較分布で上位五パーセント、貧しい国とは下位五パーセントに入る国だと説明する。こうした基準をもとに判断した上で、大多数の学生は貧しい国の金持ちになりたいと答えるのが一般的だ。
彼らの直観は実は大きく間違っている。この定義でいくと、豊かな国の貧しい人は貧しい国の金持ちよりおよそ五倍も豊かなのだ。学生たちの判断を誤らせたのは、視覚上の幻想だ。彼らが貧しい国で見たことのあるBMWに乗り、大きな門構えの大邸宅に住んでいるような大金持ちは、全人口のほんのわずかにすぎないのだ。彼らに考えてもらった上位五パーセントよりも、はるかに少ない人数だ。上位五パーセント全体の平均を考えてみると、所得水準は大きく下がる。
学生たちはこの質問によって、世界経済が物語っている特徴を初めて理解した。我々の経済的運命は主にどこで(どの国で)生まれたかで決まり、所得分布の階層のどこに属するかは二次的な要因にすぎないのだ。より専門的だがより正確な言葉で言うと、世界の不平等は国内ではなく、それぞれの国の間の格差によってほとんど説明されるということだ。グローバリゼーションによって国境の重要性がなくなったという議論はこれでおしまいだ。
二番目に、国家に対するアイデンティティの役割について考えてみよう。人々は国境を越えた一体感と地元に対する連帯感をますます感じており、この間に挟まれて国民国家への愛着は薄れているのではないかとあなたは想像するかもしれない。どうやらそんなことはないようだ。国家に対するアイデンティティは世界の僻地においてさえも変わらず健在で、世界金融危機やその後に広がったポピュリストの反発を受けてそうなったわけではない。
国家に対するアイデンティティがいまでも健在であることを確認するために、ワールド・バリューズ・サーベイを見てみよう。これは五十七カ国に住む八万人以上を対象にした調査だ。この調査では、回答者は地方、国、世界に対して抱く愛着の強さに関して様々な質問を受ける。「私は自分自身を[国名]の国民と見なします」という言明に対して「同意」もしくは「強く同意」と答えた割合を計算することで、私は国への愛着の強さを測った。同様に、「私は自分自身を世界市民と見なします」という言明に「同意」もしくは「強く同意」と答えた割合から、世界への愛着の強さを測る。正規化を図るために、前の二つの言明に対する肯定的な答えの割合から、「私は自分自身を地元のコミュニティの一員と見なします」という言明に対する肯定的な答えの割合を差し引いた。つまり、地元への愛着との相対比較で国と世界への愛着の強さを測ったということだ。二〇〇四~○八年にかけて行われた調査の結果も参考にした。欧米の金融危機以前の調査結果であり、景気後退がもたらす紛らわしい影響を切り離すことができるからだ。
全世界、米国、欧州、中国、インドを個別に調査の標本とした結果を図2・1にまとめている。国家に対するアイデンティティの強さが「グローバル市民」としてのアイデンティティの強さを大きく上回ったのは、それほど目を見張るような結果ではない(ほぼ予想されていた結果だ)。驚くべき結果は、国の方が地元コミュニティよりも人々の共同体意識を取り込む力が明らかに強かったということだ。国家に対するアイデンティティを認める割合(正規化した数値)からそのことが読み取れるはずだ。これはすべての標本に当てはまることで、特に米国とインドでその傾向が最も強い。どちらかと言えば、地元への愛着が国家への愛着を上回ると予想された二つの大国だ。
そのほか印象的だったのが、欧州の市民がいかにEUに対してほとんど愛着を持っていないかということだ。欧州統合と制度づくりの長い歴史にもかかわらず、欧州の人々が抱くEUの一員としての意識は世界市民としての意識と同じくらい希薄なようだ。
二〇〇八年以降、世界への愛着がさらに薄れてきているとわかっても、特に驚くべきことではない。特に欧州の一部の国の間で、グローバル市民としての意識は大きく希薄化した。ドイツではマイナス十八パーセントからマイナスニ十九パーセントに、スペインではマイナス十二パーセントからマイナス二十二パーセントに下がった(二〇〇四~○八年の期間と二〇一〇年~二四年の期間の調査結果を比較した数字だ)。
これらの調査は、一般国民をさらに分類したサブグループの違いを見えにくくしていると反対する人もいるかもしれない。主に若くて専門的スキルを持ち、学歴の高い人々の方が国家の枠に縛られず、よりグローバルなものの考え方や愛着を持つことが予想されるだろう。これらの特徴を持つグループの人々には確かに予想された傾向が見られる。ところが」般国民との違いは思ったほど大きくはなく、全体像は変わらないのだ。大学で教育を受けた専門的スキルを持つ若い(二十五歳未満)人々の間でも、国家に対するアイデンティティが地元への愛着を上回り、世界に対する愛着をさらに大きく上回る。
最後に、二〇〇八年の世界金融危機後の経験で、国民国家がいまでも重要な存在であるのかという疑問に対して残った疑いは、完全に払拭されたはずだ。経済のメルトダウンを阻止するために介入しなければならなかったのは、国家の政策立案者だった。銀行を救済し、市場に流動性を供給し、財政刺激策を敢行し、失業手当を支給したのは政府だった。イングランド銀行のマーヴイン・キング総裁が記憶に残る言葉で表現したように、銀行の活動はグローバルだが、破綻するのは国内だ。
IMFや新たにメンバーを拡大して発足したG20は、単なる議論の場にすぎない。ユーロ圏において、危機をどのように収束させるかを決めたのはベルリンやアテネなど各国の首都で下された決断であり、ブリュッセル(やストラスブール)での行動ではなかった。そしてあらゆる過ちの責任を最終的に負った--またほんの少しの正しい政策の功績を与えられた--のは、各国の政府だったのだ。