『スティーブ・ジョブズⅣ』より 強敵サン・マイクロシステムズ
スコット・マクニーリ
スコット・マクニーリは、一九五四年一一月一三日、インディアナ州コロンバスに生まれた。姓のマクニーリ(McNcaly)からすぐ分かるように、血気盛んなアイルランド系の人である。
父親のウィリアム・W・マクニーリ・ジュニアは、一九二七年シカゴに生まれた。マサチューセッツ州グロットンのグロットン校を卒業後、ハーバード大学に入学した。卒業後、ハーバード・ビジネス・スクールで経営学修士(MBA)を取得した。スコット・マクニーリが生まれた頃は、アメリカン・モーターズ社の経営幹部で、やがて副社長となった。その後、父親は会社の内紛で追い出された後、アメリカン・マシン・アンド・フォンドリー社の最高執行責任者COOになった。二〇一四年五月一九日に亡くなっている。ゴルフ好きだった。
スコット・マクニーリの母親は、ウィスコンシン州生まれのマーマリー・ノフケである。人口統計の記載から見て一九二八年生まれと思われる。夫がアメリカン・モーターズ社辞職後4年で離婚している。
スコット・マクニーリは、この母親が好きで、ポルトラ・バレー市ブルーオークス・コート6番地の家に引き取って、よく面倒を見た。スタンフォード大学の裏の閑静な住宅地である。スコット・マクニーリは、母親ときわめて仲が良く、そのためかどうか結婚は遅く、一九九四年になってからである。
スコット・マクニーリの一家は、父親の仕事の関係からミシガン州ブルームフィールド・ヒルズに落ち着くまで、しばしば引っ越しをした。その関係でスコット・マクニーリには長続きする友人は、あまりできなかったようだ。尊敬する人や恩師というような存在もあまりできなかった。どちらかと言えば、あまり目立たず、人付き合いの良くない孤独な性格であったと言われている。スポーツでは、アイス・ホッケー、ゴルフ、テニスが好きだったようだが、面白い事に野球は嫌いだった。
スコット・マクニーリは、グラマー・スクールからカントリー・デイースクールに進んだ。後にマイクロソフトに入るスティーブ・バルマーも同じカントリー・デイースクールの3年下にいた。スコット・マクニーリは、大学進学のため名門のクランブルック・アカデミーに入学した。
スコット・マクニーリは、勉強はあまり熱心ではなかったようだが、大学進学適性試験(SAT)の数学分野で800点満点をとって周囲を驚かせた。これもスティーブ・バルマーと同じで面白い一致だ。
スティーブ・バルマーが、おんぼろのビュイックに乗っていたのに対し、スコット・マクニーリは、父から与えられた高価な装備が施されたスポーツタイプのグレムリンXの新車に乗っていた。ただし以後も輸入車には乗らず、米国車に乗っていた。
スコット・マクニーリは、フォード社の社長リー・アイアコッカやGMの会長ロジャー・スミスとビジネス戦略について話をしたというが、これは少し信じがたい話の様な気がする。むしろ父親と共にリー・アイアコッカとゴルフをしたというのが本当だろう。
スコット・マクニーリは、眼科医を志してハーバード大学医学部に入学するが、ウィリアム・ラダチェル教授の影響を受けて経済学部に移り、一九七六年に経済学士号を取得する。学位論文は『米国のトランジットバス製造業における競争とパフォーマンス』であった。
スコット・マクニーリは、ハーバード大学卒業後、ロックウェル・インターナショナルに入社し、イリノイ州、オハイオ州、ミシガン州などの自動車工場の現場主任として2年間勤務した。自動車の道を選んだのは父親の影響もあったかもしれない。UAW(全米自動車労働組合)の影響力の強い工場で、組合と対決したりした。
その後一九七八年にスタンフォード大学経営大学院に入学する。2度落ちた様だが、フォード社長のドナルド・ピーターソンの推薦をもらって入学したという。大学時代は遊び好きで学業にあまり打ち込まず、成績があまりかんばしくなかったからだろう。スコット・マクニーリは、一九八〇年に経営学修士(MBA)を取得する。
スコット・マクニーリは、恋人を追ってフード・マシナリー・アンド・ケミカル・コーポレーション(FMC)社に入社した。FMCは食品、化学、機械の各分野に渡る多角的総合企業である。FMCは、装甲兵員輸送車M113や装甲歩兵戦闘車M2ブラッドリーも作っており、スコット・マクニーリは、FMCのサンタクララの工場で、それらの製造指揮に携わった。
続いてスコット・マクニーリは、一九八一年にはサンノゼのUNIXを搭載した小型コンピュータ製造会社のオニックス・システムズ社で製造管理者の職を得る。ウィリアム・ラダチェル教授の引きであったという。こうしてスコット・マクニーリは製造管理の経験を豊富に積んだ。ただ意外な事に本人の語るところによれば、この頃のスコット・マクニーリは、コンピュータのハードウェアやOSについての知識は皆無であったと言う。
吝嗇で有名なビノッド・コースラは、スコット・マクニーリに会い、近くのマクドナルドに連れて行った。人材のスカウトにマクドナルドを使うとは、いかにも吝嗇だが、これがビノッド・コースラの長所でもあり、短所でもあった。幸いスコット・マクニーリはハンバーグ好きで、新会社に参加することになった。
3人はサン・マイクロシステムズを設立した。当初の社名はサン・ワークステーションだったという。
3人は3か月でワークステーションSUN-1を開発したが、OSとしてのUNIXには完全に満足していなかった。そこで3人はカリフォルニア州立大学バークレー校(UCバークレー)に行き、ビル・ジョイを口説いた。ビル・ジョイはすぐに参加した。
ビル・ジョイ
ウィリアム・ネルソン・ジョイ(以下ビル・ジョイ)は、一九五四年一一月八日にデトロイトに生まれた。
ビル・ジョイの両親は、デトロイトにあるウェイン州立大学で出会い、2人ともデトロイトで教師となった。
ビル・ジョイは早熟な子供で、3歳の時から本を読み始めたので、父親は小学校に連れて行った。人より早く学校に入り、飛び級をした。いつも本を読み、たくさんの質問をする子供だった。
デトロイトの環境が悪化すると、一家はデトロイト郊外のファーミントン・ヒルズに移った。
両親が教師であったので、家庭は知的な環境で、TVの視聴は厳しく制限されていた。ビル・ジョイが初めてTVを見だのは、一九六三年一一月にジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された時であるから、9歳になるまではTVを視聴していなかったようだ。毎週木曜の夜は両親がボーリングに行くので、子供達は留守番となり、TVでジーン・ロッデンベリーの『スター・トレック』を夢中になって見た。読書ではSF(サイエンティフィック・フィクション)に傾倒し、ロバート・ハインラインやアイザック・アシモフに魅了された。よく母親がSFに文句をつけなかったものだ。もっともビル・ジョイは、SFに刺激されて望遠鏡で宇宙の星を見たいと思ったが、買うお金も作るお金もなく、図書館で望遠鏡の製作法を調べただけで終わった。だから母親もSFまで読むなとは言えなかったのだろう。
またビル・ジョイは、少年時代、アマチュア無線をやりたいと思ったらしい。ただアマチュア無線の機器を買うお金も自作するお金もなかった。それに当時のアマチュア無線は現在のインターネットのようなものだったから引きこもりになりやすいし、それでなくとも非社交的なのだからと母親に反対されて潰されてしまった。スポーツはと言えば、アイス・ホッケーや野球に夢中になっていた。
ビル・ジョイは、高校時代は数学が得意であり、文学や歴史書もよく読んだ。大学進学適性試験(SAT)の数学分野で800点満点を取った。
ビル・ジョイは、一九七一年に17歳でミシガン州立大学電気工学科に入学し、一九七五年に卒業した。数学の科目をたくさん取っていたようだ。インド人の有名な天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンやポール・エルディッシュの講義も取ったようだ。
ミシガン州立大学では最初DECのVAXに触った。文化人類学科のためにデータベースを作るアルバイトもしたようだ。またクレイ1やCDCスターのようなスーパー・コンピュータにも触った。教授の手伝いをして有限要素法で機械システムのシミュレーションもおこなったという。
一九七五年、ビル・ジョイはミシガンを離れて西海岸のUCバークレーの電気工学およびコンピュータ・サイエンス学科の修士課程に入学し、一九七五年に修士課程を修了した。
サン・マイクロシステムズの躍進
こうして一九八二年に設立され、UNIXのBSD版の主開発者であるビル・ジョイを副社長に抱えたサン・マイクロシステムズは、UNIX用ワークステーションの市場でシェアを伸ばし続け、一九八〇年代中期には最大のシェアを獲得するに至る。
ビル・ジョイは、UCバークレー時代の友人でケーブル会社の営業担当として経験豊富なジョン・ゲイジを雇った。若い時は反戦反体制にかぶれたヒッピーだったようだ。ビノッド・コースラとスコット・マクニーリは共に吝嗇ではあったが、マーケッティングとセールスについては無知だったようだ。
この創業者達は、マイクロソフトのスティーブ・バルマーと面白い因縁がある。ビノッド・コースラは、スティーブ・バルマーのスタンフォード大学大学院の同級生であり、ビル・ジョイは、スティーブ・バルマーとミシガン州ファーミントン・ヒルズの同郷であり、スコット・マクニーリは、クランブルック・アカデミー、ハーバード大学、スタンフォード大学大学院でのライバルであった。
サン・マイクロシステムズの最初のワークステーションSUN-1は、一九八二年五月に発売された。コスト節減のために既製品を多用する事になり、CPUには高性能だが人気がなく、安価だったMC68010を採用していた。サン・マイクロシステムズは、以後3世代に渡って68000系列のCPUを使用した。SUN-1は100台売れたとも200台以下だったともいう。こういう台数は概数で桁だけ抑えておけば良いと思う。
一九八二年後半にサン・マイクロシステムズは本格的なワークステーション製品SUN-2を発売した。SUN-2は、ビル・ジョイのBSD版UNIX、TCP/IP、イーサネットを3本の柱としていた。
当時これだけ優れた見通しを持っていたら、負けるわけがない。ただ外部から調達した19インチのCRT表示装置は強い静電気を発生し、この問題にはバーニー・ラクルートとHP出身の技術者2人が当たり、解決には1年を要したようだ。
SUN-2は、数千台売れた。SUN-2はコンピュータ・ビジョン社に売り込み、アポロと激しく競った。結局サン・マイクロシステムズは、コンピュータ・ビジョンと4000万ドルの3年契約を結ぶことができた。契約にはコンピュータ・ビジョンが製造と再販をおこなうことも含まれていた。
ビノッド・コースラは、人間をうまく使えなかった。無愛想で干渉がましく嫌われた。
一九八三年三月新社長としてオーウェン・ブラウンが採用されたが、ビノッド・コースラと対立し、一九八四年二月に退職を余儀なくされた。そこでスコット・マクニーリが社長を引き継ぎ、一九八四年一二月、ビノッド・コースラは退任させられ、スコット・マクニーリが暫定最高経営責任者CEOとなった。
一九八四年に発表された創立2年目の一九八三年のサン・マイクロシステムズの決算では、売上げ高は3900万ドルとなった。一九八七年には5億3700万ドルになった。一九九〇年には25億ドルであった。
一九九〇年のネクストの売上げ高は、2800万ドルで、100分の1以下だった。
サン・マイクロシステムズは、一九八四年一一月分散ファイル・システムであるネットワーク・ファイル・システム(NFS)を発表した。
サン・マイクロシステムズの5番目の社員ジョン・ゲイジは「ネットワークこそコンピュータだ」というスローガンを思いついたという。しかし、これには多くの異論もあり、誰が思いついたかは正確には分からない。
一九八七年にはサン・マイクロシステムズはRISC(縮小命令セット・コンピュータ)アーキテクチャのスパーク(SPARC)を製品化して注目を浴びる。インテル系のCISCに対してサン・マイクロシステムズのSPARCワークステーションが優勢を誇った。
ともかく客観的には、サン・マイクロシステムズが最初の製品SUN-1を一九八二年五月に発売しているのに、ネクストのコンピュータの発表は一九八八年一〇月であり、発売は一九八九年半ばであった。
サン・マイクロシステムズに7年も大きくリードされたネクストには、もはや勝ち目はなかった。マラソンでもそうだが、先頭集団に遅れると、なかなか追いつけない。
しかし、どこかネクストとスティーブ・ジョブズには楽観的なムードがあった。無敵スティーブ・ジョブズの神話が生きていた。スティーブ・ジョブズは、コンピュータとは別な意外なサイドビジネスに乗り出そうとしていた。
スコット・マクニーリ
スコット・マクニーリは、一九五四年一一月一三日、インディアナ州コロンバスに生まれた。姓のマクニーリ(McNcaly)からすぐ分かるように、血気盛んなアイルランド系の人である。
父親のウィリアム・W・マクニーリ・ジュニアは、一九二七年シカゴに生まれた。マサチューセッツ州グロットンのグロットン校を卒業後、ハーバード大学に入学した。卒業後、ハーバード・ビジネス・スクールで経営学修士(MBA)を取得した。スコット・マクニーリが生まれた頃は、アメリカン・モーターズ社の経営幹部で、やがて副社長となった。その後、父親は会社の内紛で追い出された後、アメリカン・マシン・アンド・フォンドリー社の最高執行責任者COOになった。二〇一四年五月一九日に亡くなっている。ゴルフ好きだった。
スコット・マクニーリの母親は、ウィスコンシン州生まれのマーマリー・ノフケである。人口統計の記載から見て一九二八年生まれと思われる。夫がアメリカン・モーターズ社辞職後4年で離婚している。
スコット・マクニーリは、この母親が好きで、ポルトラ・バレー市ブルーオークス・コート6番地の家に引き取って、よく面倒を見た。スタンフォード大学の裏の閑静な住宅地である。スコット・マクニーリは、母親ときわめて仲が良く、そのためかどうか結婚は遅く、一九九四年になってからである。
スコット・マクニーリの一家は、父親の仕事の関係からミシガン州ブルームフィールド・ヒルズに落ち着くまで、しばしば引っ越しをした。その関係でスコット・マクニーリには長続きする友人は、あまりできなかったようだ。尊敬する人や恩師というような存在もあまりできなかった。どちらかと言えば、あまり目立たず、人付き合いの良くない孤独な性格であったと言われている。スポーツでは、アイス・ホッケー、ゴルフ、テニスが好きだったようだが、面白い事に野球は嫌いだった。
スコット・マクニーリは、グラマー・スクールからカントリー・デイースクールに進んだ。後にマイクロソフトに入るスティーブ・バルマーも同じカントリー・デイースクールの3年下にいた。スコット・マクニーリは、大学進学のため名門のクランブルック・アカデミーに入学した。
スコット・マクニーリは、勉強はあまり熱心ではなかったようだが、大学進学適性試験(SAT)の数学分野で800点満点をとって周囲を驚かせた。これもスティーブ・バルマーと同じで面白い一致だ。
スティーブ・バルマーが、おんぼろのビュイックに乗っていたのに対し、スコット・マクニーリは、父から与えられた高価な装備が施されたスポーツタイプのグレムリンXの新車に乗っていた。ただし以後も輸入車には乗らず、米国車に乗っていた。
スコット・マクニーリは、フォード社の社長リー・アイアコッカやGMの会長ロジャー・スミスとビジネス戦略について話をしたというが、これは少し信じがたい話の様な気がする。むしろ父親と共にリー・アイアコッカとゴルフをしたというのが本当だろう。
スコット・マクニーリは、眼科医を志してハーバード大学医学部に入学するが、ウィリアム・ラダチェル教授の影響を受けて経済学部に移り、一九七六年に経済学士号を取得する。学位論文は『米国のトランジットバス製造業における競争とパフォーマンス』であった。
スコット・マクニーリは、ハーバード大学卒業後、ロックウェル・インターナショナルに入社し、イリノイ州、オハイオ州、ミシガン州などの自動車工場の現場主任として2年間勤務した。自動車の道を選んだのは父親の影響もあったかもしれない。UAW(全米自動車労働組合)の影響力の強い工場で、組合と対決したりした。
その後一九七八年にスタンフォード大学経営大学院に入学する。2度落ちた様だが、フォード社長のドナルド・ピーターソンの推薦をもらって入学したという。大学時代は遊び好きで学業にあまり打ち込まず、成績があまりかんばしくなかったからだろう。スコット・マクニーリは、一九八〇年に経営学修士(MBA)を取得する。
スコット・マクニーリは、恋人を追ってフード・マシナリー・アンド・ケミカル・コーポレーション(FMC)社に入社した。FMCは食品、化学、機械の各分野に渡る多角的総合企業である。FMCは、装甲兵員輸送車M113や装甲歩兵戦闘車M2ブラッドリーも作っており、スコット・マクニーリは、FMCのサンタクララの工場で、それらの製造指揮に携わった。
続いてスコット・マクニーリは、一九八一年にはサンノゼのUNIXを搭載した小型コンピュータ製造会社のオニックス・システムズ社で製造管理者の職を得る。ウィリアム・ラダチェル教授の引きであったという。こうしてスコット・マクニーリは製造管理の経験を豊富に積んだ。ただ意外な事に本人の語るところによれば、この頃のスコット・マクニーリは、コンピュータのハードウェアやOSについての知識は皆無であったと言う。
吝嗇で有名なビノッド・コースラは、スコット・マクニーリに会い、近くのマクドナルドに連れて行った。人材のスカウトにマクドナルドを使うとは、いかにも吝嗇だが、これがビノッド・コースラの長所でもあり、短所でもあった。幸いスコット・マクニーリはハンバーグ好きで、新会社に参加することになった。
3人はサン・マイクロシステムズを設立した。当初の社名はサン・ワークステーションだったという。
3人は3か月でワークステーションSUN-1を開発したが、OSとしてのUNIXには完全に満足していなかった。そこで3人はカリフォルニア州立大学バークレー校(UCバークレー)に行き、ビル・ジョイを口説いた。ビル・ジョイはすぐに参加した。
ビル・ジョイ
ウィリアム・ネルソン・ジョイ(以下ビル・ジョイ)は、一九五四年一一月八日にデトロイトに生まれた。
ビル・ジョイの両親は、デトロイトにあるウェイン州立大学で出会い、2人ともデトロイトで教師となった。
ビル・ジョイは早熟な子供で、3歳の時から本を読み始めたので、父親は小学校に連れて行った。人より早く学校に入り、飛び級をした。いつも本を読み、たくさんの質問をする子供だった。
デトロイトの環境が悪化すると、一家はデトロイト郊外のファーミントン・ヒルズに移った。
両親が教師であったので、家庭は知的な環境で、TVの視聴は厳しく制限されていた。ビル・ジョイが初めてTVを見だのは、一九六三年一一月にジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された時であるから、9歳になるまではTVを視聴していなかったようだ。毎週木曜の夜は両親がボーリングに行くので、子供達は留守番となり、TVでジーン・ロッデンベリーの『スター・トレック』を夢中になって見た。読書ではSF(サイエンティフィック・フィクション)に傾倒し、ロバート・ハインラインやアイザック・アシモフに魅了された。よく母親がSFに文句をつけなかったものだ。もっともビル・ジョイは、SFに刺激されて望遠鏡で宇宙の星を見たいと思ったが、買うお金も作るお金もなく、図書館で望遠鏡の製作法を調べただけで終わった。だから母親もSFまで読むなとは言えなかったのだろう。
またビル・ジョイは、少年時代、アマチュア無線をやりたいと思ったらしい。ただアマチュア無線の機器を買うお金も自作するお金もなかった。それに当時のアマチュア無線は現在のインターネットのようなものだったから引きこもりになりやすいし、それでなくとも非社交的なのだからと母親に反対されて潰されてしまった。スポーツはと言えば、アイス・ホッケーや野球に夢中になっていた。
ビル・ジョイは、高校時代は数学が得意であり、文学や歴史書もよく読んだ。大学進学適性試験(SAT)の数学分野で800点満点を取った。
ビル・ジョイは、一九七一年に17歳でミシガン州立大学電気工学科に入学し、一九七五年に卒業した。数学の科目をたくさん取っていたようだ。インド人の有名な天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンやポール・エルディッシュの講義も取ったようだ。
ミシガン州立大学では最初DECのVAXに触った。文化人類学科のためにデータベースを作るアルバイトもしたようだ。またクレイ1やCDCスターのようなスーパー・コンピュータにも触った。教授の手伝いをして有限要素法で機械システムのシミュレーションもおこなったという。
一九七五年、ビル・ジョイはミシガンを離れて西海岸のUCバークレーの電気工学およびコンピュータ・サイエンス学科の修士課程に入学し、一九七五年に修士課程を修了した。
サン・マイクロシステムズの躍進
こうして一九八二年に設立され、UNIXのBSD版の主開発者であるビル・ジョイを副社長に抱えたサン・マイクロシステムズは、UNIX用ワークステーションの市場でシェアを伸ばし続け、一九八〇年代中期には最大のシェアを獲得するに至る。
ビル・ジョイは、UCバークレー時代の友人でケーブル会社の営業担当として経験豊富なジョン・ゲイジを雇った。若い時は反戦反体制にかぶれたヒッピーだったようだ。ビノッド・コースラとスコット・マクニーリは共に吝嗇ではあったが、マーケッティングとセールスについては無知だったようだ。
この創業者達は、マイクロソフトのスティーブ・バルマーと面白い因縁がある。ビノッド・コースラは、スティーブ・バルマーのスタンフォード大学大学院の同級生であり、ビル・ジョイは、スティーブ・バルマーとミシガン州ファーミントン・ヒルズの同郷であり、スコット・マクニーリは、クランブルック・アカデミー、ハーバード大学、スタンフォード大学大学院でのライバルであった。
サン・マイクロシステムズの最初のワークステーションSUN-1は、一九八二年五月に発売された。コスト節減のために既製品を多用する事になり、CPUには高性能だが人気がなく、安価だったMC68010を採用していた。サン・マイクロシステムズは、以後3世代に渡って68000系列のCPUを使用した。SUN-1は100台売れたとも200台以下だったともいう。こういう台数は概数で桁だけ抑えておけば良いと思う。
一九八二年後半にサン・マイクロシステムズは本格的なワークステーション製品SUN-2を発売した。SUN-2は、ビル・ジョイのBSD版UNIX、TCP/IP、イーサネットを3本の柱としていた。
当時これだけ優れた見通しを持っていたら、負けるわけがない。ただ外部から調達した19インチのCRT表示装置は強い静電気を発生し、この問題にはバーニー・ラクルートとHP出身の技術者2人が当たり、解決には1年を要したようだ。
SUN-2は、数千台売れた。SUN-2はコンピュータ・ビジョン社に売り込み、アポロと激しく競った。結局サン・マイクロシステムズは、コンピュータ・ビジョンと4000万ドルの3年契約を結ぶことができた。契約にはコンピュータ・ビジョンが製造と再販をおこなうことも含まれていた。
ビノッド・コースラは、人間をうまく使えなかった。無愛想で干渉がましく嫌われた。
一九八三年三月新社長としてオーウェン・ブラウンが採用されたが、ビノッド・コースラと対立し、一九八四年二月に退職を余儀なくされた。そこでスコット・マクニーリが社長を引き継ぎ、一九八四年一二月、ビノッド・コースラは退任させられ、スコット・マクニーリが暫定最高経営責任者CEOとなった。
一九八四年に発表された創立2年目の一九八三年のサン・マイクロシステムズの決算では、売上げ高は3900万ドルとなった。一九八七年には5億3700万ドルになった。一九九〇年には25億ドルであった。
一九九〇年のネクストの売上げ高は、2800万ドルで、100分の1以下だった。
サン・マイクロシステムズは、一九八四年一一月分散ファイル・システムであるネットワーク・ファイル・システム(NFS)を発表した。
サン・マイクロシステムズの5番目の社員ジョン・ゲイジは「ネットワークこそコンピュータだ」というスローガンを思いついたという。しかし、これには多くの異論もあり、誰が思いついたかは正確には分からない。
一九八七年にはサン・マイクロシステムズはRISC(縮小命令セット・コンピュータ)アーキテクチャのスパーク(SPARC)を製品化して注目を浴びる。インテル系のCISCに対してサン・マイクロシステムズのSPARCワークステーションが優勢を誇った。
ともかく客観的には、サン・マイクロシステムズが最初の製品SUN-1を一九八二年五月に発売しているのに、ネクストのコンピュータの発表は一九八八年一〇月であり、発売は一九八九年半ばであった。
サン・マイクロシステムズに7年も大きくリードされたネクストには、もはや勝ち目はなかった。マラソンでもそうだが、先頭集団に遅れると、なかなか追いつけない。
しかし、どこかネクストとスティーブ・ジョブズには楽観的なムードがあった。無敵スティーブ・ジョブズの神話が生きていた。スティーブ・ジョブズは、コンピュータとは別な意外なサイドビジネスに乗り出そうとしていた。
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