『テンプル騎士団』より
教皇セルジウス四世(在位一〇〇九~一二)が十字軍による聖地占領を唱えた時にまったく反響がなかったのに対し、教皇ウルバヌス二世のアピールが全欧州の熱狂を呼んだ背景には、国王(ないし皇帝)の神権とその絶対性の消滅、そして教皇の世界統治権の確立がある。しかしこれを実際に行うためには、国王ないしは諸侯の持つ軍事力よりも大きな軍事力を持たなければならなかった。軍事は外政の一部であるとともに、軍事なき外政は考えられないからである。
十字軍は西欧文明の東方文化に対する積極的接触行動であるから、これは低文化の高文化との接触という意味での一つのモデルをなしている。教皇ウルバヌス二世のイェルサレム占領は、元来目標ではなかったビザンティン征服に至ったわけであるから、瓢箪から駒が出た結果となった。もちろん当時これを予知するものはだれ一人としていなかった。
このプロセスの生ずる前に、いちおう東西文化の落差について考えてみよう。欧州の接触した高文化は、ビザンティン(現在のギリシア、シリア、トルコ、バルカン、南イタリア)と、イスラム(スペイン、北アフリカ、近東、中東)である。
ビザンティンはチェザロパピズム(祭政一致)であり、皇帝は十三人目の使徒ならびに「神のこの世における代理人」(Eusebios)として登場する。欧州がフランス革命に至るまで封建制であったのに対し、ビザンティンはすでに四世紀に官僚国家を形成する。版図は四州に分かれ、東方(エジプト、小アジア、トラキア)、イリュリア(ギリシア、バルカン)、イタリア(南イタリア、ダルマチア、アフリカ)、ガリア(ブリタニア、ガリア、スペイン、マウレタニア)である。州は県に分割され、県は一つの軍管区として、軍管区長(Strategos)がその麾下の連隊(Thema)を統轄した。
もっともこのような「近代国家」の整備はビザンティンを始めとするのではなく、ペルシア帝国のダレイオス一世(在位前五二二~前四八六)を先駆とする。彼は官僚機構を創り上げ、州制度をつくって全土を二十のストラピア(州)に分け、税制を確立し、通貨「ダリコス」を定めた。ローマ帝国はこれを模倣する。ちょうど木造建築しか知らなかったギリシア人が傭兵としてエジプトに行き、石造建築技術を学んで、ドーリア式神殿をつくったように。
中央集権的官僚制度には、迅速な交通が必要であり、ダレイオスは全土にわたる舗装道路を設ける。ローマ帝国はそれをまねていわゆる「ローマ街道」をつくる。これによってローマ帝国はその大きな版図を制圧しえた。このような意図がいかに時代に先行するものであったかは、プロシアのフリードリヒ大帝(在位一七四〇~八六)ですら、村落は自給をたてまえとするのであるから街道の必要はない、村から村へと通ずる農道があれば充分である、といったことからもわかる。彼は国土縦貫道路は、生活必需品である塩を運搬する「塩街道」だけで足れりとしたのである。
欧州がビザンティン文化の栄光の背後にいかに賜跨していたかは、ビザンティン公主を母に持ち、絢爛たるオットー朝文化のなかに生まれたオットー三世(ドイツ王在位九八三~一〇〇二、神聖ローマ皇帝在位(九九六~一〇〇二)すらも、教皇シルヴェスター二世(在位九九九~一〇〇三)に対し、自らのザクセンという僻地出身ゆえの粗野を恥じ、ボエチウスの数学書を贈られた礼状に、ギリシア精神の導入を約しているのにみられる。
イスラム文化の水準に至らぬとはいえ、ローマ帝国の東方諸州(アジア)は、西方諸州(欧州)よりもはるかにその文化の程度を異にしていた。それは芸術、科学に留まらず、文明においても、ローマに次ぐ第二の都市はシリアのアンティオキアであり、エジプトのアレキサンドリアであった。ローマ皇帝ハドリアヌスはギリシア文化をこよなく愛したが、米国と欧州や日本との関係のように、政治的にはローマ帝国はアジアを版図に収めても、文化的にはそれに吸収されることを予見していた。
たとえばアレキサンドリアを例にとってみよう。この都市はアレキサンダー大王(在位前三三六~前三二三)により建設され、彼の将軍プトレマイオス一世がエジプト王となった時、ここに続々とギリシアの学者、芸術家が集まり、今日でも有名な数学者ユークリッドもここに招聘されている。世界最初の図書館と博物館がここに創設され、その医学校は長い間、世界的権威であった。ナイル運河も作られ、商船はフランスのリヨンからセイロン島まで航行することができた。
しかし、ローマ帝国というギリシア文化圏からギリシア文化が次第に追放される。それはイスラム文化圏に居を移す。そして中世におけるギリシア文化の継承者は、欧州ではなく、イスラムとなる。
四八九年、エデッサの学園が閉鎖されると、学者たちはペルシアとシリアに散り、ここでギリシア哲学はアラブ語に翻訳される。これがエジプトとパレスチナではヘブライ語に再訳される。
それゆえ五二九年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス(在位五二七~五六五)が伝統あるアテネの学園を閉鎖した時に、ギリシア哲学はすでにイスラム文化圏に高度の伝統受託者を有していた。
アラブ語は当時の国際語であるから、たとえばペルシアの文献とか、マニ教の教典もアラブ語に翻訳される。九世紀のイブン・アルムカッフアとかバッサル・イブン・ブルトなどは著名な著述家であり、翻訳者であった。
神聖ローマ帝国のフリードリヒ二世(在位一二一五~五〇)はパレルモに居を定め、イスラム文化に浸り、自らターバンを巻き、カフタンを着て、アラブ人、ユダヤ人などを身のまわりに置き、哲学と数学の議論を異教徒と行ったゆえに、キリスト教世界からは異端者扱いを受けたが、その他、医学の国家試験制度などをイスラム文化圏から導入して、欧州の文化水準を高めた名君である。彼はギリシア語、ヘブライ語、アラブ語の文献を翻訳させ、自らの宮廷に一つのアカデミアを築き上げたばかりでなく、彼自身これらの言語に堪能であった。またラテン語でなく、イタリア語で作詩をし、作曲もした最初の人間であるがゆえに、ダンテはこれを詩祖として讃える。
イスラム文化と第一次十字軍によって接触したキリスト教世界は、ビザンティン文化といいこれといい、故国のキリスト教文化をはるかに凌駕する文化のあることを知り、キリスト教絶対主義が崩れてくる。第一次十字軍でオリエントに住みついた者は、フリードリヒニ世同様、現地の生活と現地の人々に溶け込んでしまい、十字軍兵士といい、巡礼者といい、イスラム文化に同化されてしまう。これは高文化に出合った低文化の当然のなりゆきである。
欧州はこの東西の出合いにおいて多くの文明をとり入れる。
--都市管理技術。その頃までは大都市はなく、都市というべきものは農村の大型のものにすぎなかった。たしかにローマ軍が、ガリア、ゲルマニアに駐留していた頃は、ケルン、トリア、オータンなど、その駐留地に都市を築き、城壁をめぐらし、橋をつくり、浴場を設け、空調のついた宮殿を建て、上水道をひいた。五世紀にローマ軍が撤退した時、先住民にはそれら文明の利器を使う能力がなく、水道を利用せず、泉を掘ってそこから水を供給する。ローマ時代の衛生設備はすべて忘却の彼方に去り、そのために人口が集中すると不潔のゆえをもって再三ペストが発生する。他方、イスラム文化圏には、イェルサレム、アッコン、アレキサンドリアはもちろん、スペインにも、トレドやコルドバのような今日でも通用するような近代都市があった。
--軍事技術。欧州には常備軍がなく、一種の官僚であった貴族たちがいったん緩急ある時は、騎士と歩兵をひき連れて参戦した。東方には統制のとれた常設騎馬隊または駱駝隊があった。
--シヴィル・エンジニアリング。ギルドとかロッジという同業組合の制度が東方にはあり、これが技術水準を維持してきた。西方には石造建築が少なく、城砦建築も石造のものは少なく、大規模な工人組織は必要でなかった。マイスター(親方)制度もここから輸入される。
--交通。イスラム世界の人々はマイモニデス(一一三五~一二〇四)などの例でわかるように、バグダッドからスペインの間、あるいは唐からアフリカに至るまで、実によく往来をしていた。欧州の移動はせいぜいイベリア半島のサンチアゴーデーコンポステラヘ、大西洋沿岸と、地中海沿岸をたどって巡礼することぐらいであり、それがアラブの移動性に刺戟されて、イェルサレム巡礼が喚起されるようになる。
このような文化格差のある時、西欧世界はイスラム文化圏へ「聖地奪回」の大義名分のもとに、十字軍を進発させるのである。
教皇セルジウス四世(在位一〇〇九~一二)が十字軍による聖地占領を唱えた時にまったく反響がなかったのに対し、教皇ウルバヌス二世のアピールが全欧州の熱狂を呼んだ背景には、国王(ないし皇帝)の神権とその絶対性の消滅、そして教皇の世界統治権の確立がある。しかしこれを実際に行うためには、国王ないしは諸侯の持つ軍事力よりも大きな軍事力を持たなければならなかった。軍事は外政の一部であるとともに、軍事なき外政は考えられないからである。
十字軍は西欧文明の東方文化に対する積極的接触行動であるから、これは低文化の高文化との接触という意味での一つのモデルをなしている。教皇ウルバヌス二世のイェルサレム占領は、元来目標ではなかったビザンティン征服に至ったわけであるから、瓢箪から駒が出た結果となった。もちろん当時これを予知するものはだれ一人としていなかった。
このプロセスの生ずる前に、いちおう東西文化の落差について考えてみよう。欧州の接触した高文化は、ビザンティン(現在のギリシア、シリア、トルコ、バルカン、南イタリア)と、イスラム(スペイン、北アフリカ、近東、中東)である。
ビザンティンはチェザロパピズム(祭政一致)であり、皇帝は十三人目の使徒ならびに「神のこの世における代理人」(Eusebios)として登場する。欧州がフランス革命に至るまで封建制であったのに対し、ビザンティンはすでに四世紀に官僚国家を形成する。版図は四州に分かれ、東方(エジプト、小アジア、トラキア)、イリュリア(ギリシア、バルカン)、イタリア(南イタリア、ダルマチア、アフリカ)、ガリア(ブリタニア、ガリア、スペイン、マウレタニア)である。州は県に分割され、県は一つの軍管区として、軍管区長(Strategos)がその麾下の連隊(Thema)を統轄した。
もっともこのような「近代国家」の整備はビザンティンを始めとするのではなく、ペルシア帝国のダレイオス一世(在位前五二二~前四八六)を先駆とする。彼は官僚機構を創り上げ、州制度をつくって全土を二十のストラピア(州)に分け、税制を確立し、通貨「ダリコス」を定めた。ローマ帝国はこれを模倣する。ちょうど木造建築しか知らなかったギリシア人が傭兵としてエジプトに行き、石造建築技術を学んで、ドーリア式神殿をつくったように。
中央集権的官僚制度には、迅速な交通が必要であり、ダレイオスは全土にわたる舗装道路を設ける。ローマ帝国はそれをまねていわゆる「ローマ街道」をつくる。これによってローマ帝国はその大きな版図を制圧しえた。このような意図がいかに時代に先行するものであったかは、プロシアのフリードリヒ大帝(在位一七四〇~八六)ですら、村落は自給をたてまえとするのであるから街道の必要はない、村から村へと通ずる農道があれば充分である、といったことからもわかる。彼は国土縦貫道路は、生活必需品である塩を運搬する「塩街道」だけで足れりとしたのである。
欧州がビザンティン文化の栄光の背後にいかに賜跨していたかは、ビザンティン公主を母に持ち、絢爛たるオットー朝文化のなかに生まれたオットー三世(ドイツ王在位九八三~一〇〇二、神聖ローマ皇帝在位(九九六~一〇〇二)すらも、教皇シルヴェスター二世(在位九九九~一〇〇三)に対し、自らのザクセンという僻地出身ゆえの粗野を恥じ、ボエチウスの数学書を贈られた礼状に、ギリシア精神の導入を約しているのにみられる。
イスラム文化の水準に至らぬとはいえ、ローマ帝国の東方諸州(アジア)は、西方諸州(欧州)よりもはるかにその文化の程度を異にしていた。それは芸術、科学に留まらず、文明においても、ローマに次ぐ第二の都市はシリアのアンティオキアであり、エジプトのアレキサンドリアであった。ローマ皇帝ハドリアヌスはギリシア文化をこよなく愛したが、米国と欧州や日本との関係のように、政治的にはローマ帝国はアジアを版図に収めても、文化的にはそれに吸収されることを予見していた。
たとえばアレキサンドリアを例にとってみよう。この都市はアレキサンダー大王(在位前三三六~前三二三)により建設され、彼の将軍プトレマイオス一世がエジプト王となった時、ここに続々とギリシアの学者、芸術家が集まり、今日でも有名な数学者ユークリッドもここに招聘されている。世界最初の図書館と博物館がここに創設され、その医学校は長い間、世界的権威であった。ナイル運河も作られ、商船はフランスのリヨンからセイロン島まで航行することができた。
しかし、ローマ帝国というギリシア文化圏からギリシア文化が次第に追放される。それはイスラム文化圏に居を移す。そして中世におけるギリシア文化の継承者は、欧州ではなく、イスラムとなる。
四八九年、エデッサの学園が閉鎖されると、学者たちはペルシアとシリアに散り、ここでギリシア哲学はアラブ語に翻訳される。これがエジプトとパレスチナではヘブライ語に再訳される。
それゆえ五二九年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス(在位五二七~五六五)が伝統あるアテネの学園を閉鎖した時に、ギリシア哲学はすでにイスラム文化圏に高度の伝統受託者を有していた。
アラブ語は当時の国際語であるから、たとえばペルシアの文献とか、マニ教の教典もアラブ語に翻訳される。九世紀のイブン・アルムカッフアとかバッサル・イブン・ブルトなどは著名な著述家であり、翻訳者であった。
神聖ローマ帝国のフリードリヒ二世(在位一二一五~五〇)はパレルモに居を定め、イスラム文化に浸り、自らターバンを巻き、カフタンを着て、アラブ人、ユダヤ人などを身のまわりに置き、哲学と数学の議論を異教徒と行ったゆえに、キリスト教世界からは異端者扱いを受けたが、その他、医学の国家試験制度などをイスラム文化圏から導入して、欧州の文化水準を高めた名君である。彼はギリシア語、ヘブライ語、アラブ語の文献を翻訳させ、自らの宮廷に一つのアカデミアを築き上げたばかりでなく、彼自身これらの言語に堪能であった。またラテン語でなく、イタリア語で作詩をし、作曲もした最初の人間であるがゆえに、ダンテはこれを詩祖として讃える。
イスラム文化と第一次十字軍によって接触したキリスト教世界は、ビザンティン文化といいこれといい、故国のキリスト教文化をはるかに凌駕する文化のあることを知り、キリスト教絶対主義が崩れてくる。第一次十字軍でオリエントに住みついた者は、フリードリヒニ世同様、現地の生活と現地の人々に溶け込んでしまい、十字軍兵士といい、巡礼者といい、イスラム文化に同化されてしまう。これは高文化に出合った低文化の当然のなりゆきである。
欧州はこの東西の出合いにおいて多くの文明をとり入れる。
--都市管理技術。その頃までは大都市はなく、都市というべきものは農村の大型のものにすぎなかった。たしかにローマ軍が、ガリア、ゲルマニアに駐留していた頃は、ケルン、トリア、オータンなど、その駐留地に都市を築き、城壁をめぐらし、橋をつくり、浴場を設け、空調のついた宮殿を建て、上水道をひいた。五世紀にローマ軍が撤退した時、先住民にはそれら文明の利器を使う能力がなく、水道を利用せず、泉を掘ってそこから水を供給する。ローマ時代の衛生設備はすべて忘却の彼方に去り、そのために人口が集中すると不潔のゆえをもって再三ペストが発生する。他方、イスラム文化圏には、イェルサレム、アッコン、アレキサンドリアはもちろん、スペインにも、トレドやコルドバのような今日でも通用するような近代都市があった。
--軍事技術。欧州には常備軍がなく、一種の官僚であった貴族たちがいったん緩急ある時は、騎士と歩兵をひき連れて参戦した。東方には統制のとれた常設騎馬隊または駱駝隊があった。
--シヴィル・エンジニアリング。ギルドとかロッジという同業組合の制度が東方にはあり、これが技術水準を維持してきた。西方には石造建築が少なく、城砦建築も石造のものは少なく、大規模な工人組織は必要でなかった。マイスター(親方)制度もここから輸入される。
--交通。イスラム世界の人々はマイモニデス(一一三五~一二〇四)などの例でわかるように、バグダッドからスペインの間、あるいは唐からアフリカに至るまで、実によく往来をしていた。欧州の移動はせいぜいイベリア半島のサンチアゴーデーコンポステラヘ、大西洋沿岸と、地中海沿岸をたどって巡礼することぐらいであり、それがアラブの移動性に刺戟されて、イェルサレム巡礼が喚起されるようになる。
このような文化格差のある時、西欧世界はイスラム文化圏へ「聖地奪回」の大義名分のもとに、十字軍を進発させるのである。