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未唯への手紙

未唯への手紙

東征 熱狂を呼んだ背景

2015年01月11日 | 2.数学
『テンプル騎士団』より

教皇セルジウス四世(在位一〇〇九~一二)が十字軍による聖地占領を唱えた時にまったく反響がなかったのに対し、教皇ウルバヌス二世のアピールが全欧州の熱狂を呼んだ背景には、国王(ないし皇帝)の神権とその絶対性の消滅、そして教皇の世界統治権の確立がある。しかしこれを実際に行うためには、国王ないしは諸侯の持つ軍事力よりも大きな軍事力を持たなければならなかった。軍事は外政の一部であるとともに、軍事なき外政は考えられないからである。

十字軍は西欧文明の東方文化に対する積極的接触行動であるから、これは低文化の高文化との接触という意味での一つのモデルをなしている。教皇ウルバヌス二世のイェルサレム占領は、元来目標ではなかったビザンティン征服に至ったわけであるから、瓢箪から駒が出た結果となった。もちろん当時これを予知するものはだれ一人としていなかった。

このプロセスの生ずる前に、いちおう東西文化の落差について考えてみよう。欧州の接触した高文化は、ビザンティン(現在のギリシア、シリア、トルコ、バルカン、南イタリア)と、イスラム(スペイン、北アフリカ、近東、中東)である。

ビザンティンはチェザロパピズム(祭政一致)であり、皇帝は十三人目の使徒ならびに「神のこの世における代理人」(Eusebios)として登場する。欧州がフランス革命に至るまで封建制であったのに対し、ビザンティンはすでに四世紀に官僚国家を形成する。版図は四州に分かれ、東方(エジプト、小アジア、トラキア)、イリュリア(ギリシア、バルカン)、イタリア(南イタリア、ダルマチア、アフリカ)、ガリア(ブリタニア、ガリア、スペイン、マウレタニア)である。州は県に分割され、県は一つの軍管区として、軍管区長(Strategos)がその麾下の連隊(Thema)を統轄した。

もっともこのような「近代国家」の整備はビザンティンを始めとするのではなく、ペルシア帝国のダレイオス一世(在位前五二二~前四八六)を先駆とする。彼は官僚機構を創り上げ、州制度をつくって全土を二十のストラピア(州)に分け、税制を確立し、通貨「ダリコス」を定めた。ローマ帝国はこれを模倣する。ちょうど木造建築しか知らなかったギリシア人が傭兵としてエジプトに行き、石造建築技術を学んで、ドーリア式神殿をつくったように。

中央集権的官僚制度には、迅速な交通が必要であり、ダレイオスは全土にわたる舗装道路を設ける。ローマ帝国はそれをまねていわゆる「ローマ街道」をつくる。これによってローマ帝国はその大きな版図を制圧しえた。このような意図がいかに時代に先行するものであったかは、プロシアのフリードリヒ大帝(在位一七四〇~八六)ですら、村落は自給をたてまえとするのであるから街道の必要はない、村から村へと通ずる農道があれば充分である、といったことからもわかる。彼は国土縦貫道路は、生活必需品である塩を運搬する「塩街道」だけで足れりとしたのである。

欧州がビザンティン文化の栄光の背後にいかに賜跨していたかは、ビザンティン公主を母に持ち、絢爛たるオットー朝文化のなかに生まれたオットー三世(ドイツ王在位九八三~一〇〇二、神聖ローマ皇帝在位(九九六~一〇〇二)すらも、教皇シルヴェスター二世(在位九九九~一〇〇三)に対し、自らのザクセンという僻地出身ゆえの粗野を恥じ、ボエチウスの数学書を贈られた礼状に、ギリシア精神の導入を約しているのにみられる。

イスラム文化の水準に至らぬとはいえ、ローマ帝国の東方諸州(アジア)は、西方諸州(欧州)よりもはるかにその文化の程度を異にしていた。それは芸術、科学に留まらず、文明においても、ローマに次ぐ第二の都市はシリアのアンティオキアであり、エジプトのアレキサンドリアであった。ローマ皇帝ハドリアヌスはギリシア文化をこよなく愛したが、米国と欧州や日本との関係のように、政治的にはローマ帝国はアジアを版図に収めても、文化的にはそれに吸収されることを予見していた。

たとえばアレキサンドリアを例にとってみよう。この都市はアレキサンダー大王(在位前三三六~前三二三)により建設され、彼の将軍プトレマイオス一世がエジプト王となった時、ここに続々とギリシアの学者、芸術家が集まり、今日でも有名な数学者ユークリッドもここに招聘されている。世界最初の図書館と博物館がここに創設され、その医学校は長い間、世界的権威であった。ナイル運河も作られ、商船はフランスのリヨンからセイロン島まで航行することができた。

しかし、ローマ帝国というギリシア文化圏からギリシア文化が次第に追放される。それはイスラム文化圏に居を移す。そして中世におけるギリシア文化の継承者は、欧州ではなく、イスラムとなる。

四八九年、エデッサの学園が閉鎖されると、学者たちはペルシアとシリアに散り、ここでギリシア哲学はアラブ語に翻訳される。これがエジプトとパレスチナではヘブライ語に再訳される。

それゆえ五二九年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス(在位五二七~五六五)が伝統あるアテネの学園を閉鎖した時に、ギリシア哲学はすでにイスラム文化圏に高度の伝統受託者を有していた。

アラブ語は当時の国際語であるから、たとえばペルシアの文献とか、マニ教の教典もアラブ語に翻訳される。九世紀のイブン・アルムカッフアとかバッサル・イブン・ブルトなどは著名な著述家であり、翻訳者であった。

神聖ローマ帝国のフリードリヒ二世(在位一二一五~五〇)はパレルモに居を定め、イスラム文化に浸り、自らターバンを巻き、カフタンを着て、アラブ人、ユダヤ人などを身のまわりに置き、哲学と数学の議論を異教徒と行ったゆえに、キリスト教世界からは異端者扱いを受けたが、その他、医学の国家試験制度などをイスラム文化圏から導入して、欧州の文化水準を高めた名君である。彼はギリシア語、ヘブライ語、アラブ語の文献を翻訳させ、自らの宮廷に一つのアカデミアを築き上げたばかりでなく、彼自身これらの言語に堪能であった。またラテン語でなく、イタリア語で作詩をし、作曲もした最初の人間であるがゆえに、ダンテはこれを詩祖として讃える。

イスラム文化と第一次十字軍によって接触したキリスト教世界は、ビザンティン文化といいこれといい、故国のキリスト教文化をはるかに凌駕する文化のあることを知り、キリスト教絶対主義が崩れてくる。第一次十字軍でオリエントに住みついた者は、フリードリヒニ世同様、現地の生活と現地の人々に溶け込んでしまい、十字軍兵士といい、巡礼者といい、イスラム文化に同化されてしまう。これは高文化に出合った低文化の当然のなりゆきである。

欧州はこの東西の出合いにおいて多くの文明をとり入れる。

--都市管理技術。その頃までは大都市はなく、都市というべきものは農村の大型のものにすぎなかった。たしかにローマ軍が、ガリア、ゲルマニアに駐留していた頃は、ケルン、トリア、オータンなど、その駐留地に都市を築き、城壁をめぐらし、橋をつくり、浴場を設け、空調のついた宮殿を建て、上水道をひいた。五世紀にローマ軍が撤退した時、先住民にはそれら文明の利器を使う能力がなく、水道を利用せず、泉を掘ってそこから水を供給する。ローマ時代の衛生設備はすべて忘却の彼方に去り、そのために人口が集中すると不潔のゆえをもって再三ペストが発生する。他方、イスラム文化圏には、イェルサレム、アッコン、アレキサンドリアはもちろん、スペインにも、トレドやコルドバのような今日でも通用するような近代都市があった。

--軍事技術。欧州には常備軍がなく、一種の官僚であった貴族たちがいったん緩急ある時は、騎士と歩兵をひき連れて参戦した。東方には統制のとれた常設騎馬隊または駱駝隊があった。

--シヴィル・エンジニアリング。ギルドとかロッジという同業組合の制度が東方にはあり、これが技術水準を維持してきた。西方には石造建築が少なく、城砦建築も石造のものは少なく、大規模な工人組織は必要でなかった。マイスター(親方)制度もここから輸入される。

--交通。イスラム世界の人々はマイモニデス(一一三五~一二〇四)などの例でわかるように、バグダッドからスペインの間、あるいは唐からアフリカに至るまで、実によく往来をしていた。欧州の移動はせいぜいイベリア半島のサンチアゴーデーコンポステラヘ、大西洋沿岸と、地中海沿岸をたどって巡礼することぐらいであり、それがアラブの移動性に刺戟されて、イェルサレム巡礼が喚起されるようになる。

このような文化格差のある時、西欧世界はイスラム文化圏へ「聖地奪回」の大義名分のもとに、十字軍を進発させるのである。

科学が宗教になる

2015年01月11日 | 2.数学
『奇跡を考える』より

ヨーロッパ近代が、脱キリスト教の壮大な実験を試みたことは、繰り返し述べてきたところである。逆にみれば、そうした実験を実行に移さなければならない必然性があった、と考えられるほど、ヨーロッパの歴史は、キリスト教という基本の枠組みの上に、繰り広げられてきた、と言えるだろう。陳腐な言い方になるが、近代市民社会の勃興が、この最も強固だった伝統的な基本枠組みを破壊してみる、という挙に出たのは、ほとんど必然であった。しかし、何を今さら、という感があるかもしれないが、ヨーロッパ近代が、伝統的な基本枠組みを破壊したのは、この場面だけではなかった。むしろ、数多くの場面で、ヨーロッパ近代は、伝統と考えられる基本の枠組みを破壊する運動を行ってきた。もとより、それらのすべてが、最初に述べた「脱キリスト教化」、もう少し一般的な言葉で言えば「世俗化」という大実験の部分を構成する、と考えることもできよう。

「脱キリスト教化」とは、「自然であること」への人間の挑戦である、とも言えることになる。一八世紀フランスの啓蒙主義者たちが、人間理性を至高のものと主張したのは、「神の御業」の上に「人間」を置くことであった。「文明」〈civilization〉という言葉がこの世紀に生まれたのも偶然ではあるまい。〈civilize〉(市民化=人間化)される対象の第一にくるものは、まさしく「自然」であったからである。ほかの機会(例えば『安全学』青土社)にも指摘したことだが、一八世紀以降当分の間、フランス語の〈naturel(le)〉は〈sauvage)つまり「野蛮な」と同義に使われる傾向にあった。人間の手によって制御ざれていない自然は、「野蛮な」もの、「文明化されていない」ものとして既められる。神の上に人間を置くという、破天荒なことを試みた以上、ここでもそうなることは、ほとんど必然であった。

社会的意識決定の場面でも、同じような現象が見られる。そもそもかつては王・貴族・平民・奴隷のような社会階級が「自然な」社会構造を生み出すと考えられていた。王権神授説などは、絶対王政の単なる自己合理化に過ぎないではあろうが、それでも「神の思惑」に訴えることが、ある種の説得性を持っていたことは明らかだろう。

いわゆる市民革命は、この階級構造を崩壊させたが、この伝統的な階級構造がなくなったときに、社会全体の意志決定は如何にしてなされるか。ホッブズ(一五八八~一六七九)のように、自然状態のままに放置できるのか、という問いが生まれるのも道理であろう。それまでは「自然法」という概念によって行動規範が与えられていたし、ここでの「自然」は、「神の手による」ということと同義でもあった。しかし、ホッブズの、あるいはそれを引き継いだロック(一六三二~一七〇四)の自然状態は、人間が理性を発揮して、何らかの政体を造るための「契約」を取り結ぶための前提状態(社会契約説)を指しており、すでに、フランス啓蒙主義における「自然な=野蛮な」の図式を予感させる概念である。

社会契約説によれば、人間一人ひとりがパラパラで無秩序な自然状態を脱するために、契約によって特定の政治主体を選ぶことになるが、同時にその契約が十分に果たされていないと感じたときには、その政体を廃する権利も保持する。ロックのこの主張は、アメリカの独立宣言やフランス革命に、極めて大きな影響を与えたが、同時に「民主制」への依存度をも急激に高める結果となった。

「民主制」(democracy)は、古代ギリシャの都市国家で生まれたが、ソクラテスを殺したことからプラトンの失望を買い、結局は、その言葉の文字通りの意味、すなわち「大衆による政治」の持つ欠点が明瞭になった。そのため、「デモクラシー」という言葉は、一八世紀までの欧米では、ほとんど完全に忌避されていた。例えば、アメリカの建国に関わる「メイフラワー・コンパクト」においても、また、独立宣言においても、あるいは一九世紀におけるあのリンカーン(一八〇九~六五)が民主制の極意を「人民の、人民による、人民のための政府」という名文句で語ったゲティスバーグ演説においてさえ、一度も「デモクラシー」という言葉は使われていない。それを言いたいときには「共和制」(republicanism)あるいは〈civic goverment〉などが使われていたのである。

この状態に大きな変化をもたらしたのは、一九世紀フランスの思想家であり、行政、司法にも携わったトクヴィル(一八〇五~五九)の著作であった。彼はその著『アメリカのデモクラシー』において、アメリカでは、衆愚的な政治体制とされてきた「デモクラシー」が、とにもかくにも機能していること、その背後には、アメリカ社会特有の、人が自らの意志に基づいて他者と手を結んで、公共のことに当たろうとする態度があることを指摘した。彼はそれをアメリカ人の「協会」癖とでも言いたげで、彼らは、教育でも、趣味でも、宗教でも、日常茶飯のことでさえも、何かと言うと「協会」(association)を造りたがる、というのである。

さて、チャーチル(一八七四~一九六五)のように、「最悪の政治形態」(ただし、これまで試みられた他のすべての政治形態を除けば)かどうかはともかく、デモクラシーにおける意志決定の最終的な手札は、いわゆる多数決である。しかし、誰も、多数意見が常に正しいと思っていないことも明らかである。一人ひとりの有権者が、平等の一票を行使した結果を尊重しよう、というのは、その意味では偽善的な取り決めに過ぎない。しかも、そのように取り決め、その取り決めの下で社会を動かそうというのは、結局「人間中心」の近代思想のイデオロギーそのものであろう。かつてソクラテスは、神託を信じようとして、様々な人々を訪れた、とプラトンは書いた(『ソクラテスの弁明』)。最終の意志決定を神に任せようとするのは、多くの文化圏に共通している。我が国にも盟神探湯の習慣があった。

古代に王権が確立されると、宮廷には常に占星術師があって、天の意向を読み、王はそれを意志決定の指針とした。あるいは預言者(つまり神の言葉を預かる者)の声を聴く、という習慣もあった。そうした意志決定の方法と比較して、民主制における多数決主義が、決定的に優れていると断言できる人は幸せである。その人は完全な近代主義者だからである。ただ、すべてを人間に委ねた以上、人間である私たちは、決定に全責任を負わねばならない。私はあの決定には反対だった、だから、私には責任はない、という遁辞は許されなくなる。要するに、民主制における多数決主義が、結局は人間に究極の信頼を置く人間中心主義であることは、議論の余地があるまい。

インタープリターション

2015年01月10日 | 5.その他
ゲーム化からコミュニティ化

 ネット依存症からコミュニティに抜けることができるか。宗教しかできないのか。日本を覚醒させるには、考えないといけない。教育の分野でデジタルを使うというアイデア。

世界の美しい図書館

 フィンランド国立図書館:2006年にヘルシンキ大学図書館からフィンランド国立図書館の改称された。2004年に訪れています。地下のコーヒーショップでガラスカップのカプチーノを飲んでいた。

 見たことあると思ったら、名前が変わったんだ。螺旋で順に上がっていける。リナックスへの思いを感じていた。階段の上に、一冊の本があった。

スウェーデンモデル

 スウェーデンモデルを内から見ていくための本。特に女性の参画。パートナーも少しは感じていると思っている。そういう時代になったのか。「なったんです、さらに進めないといけない」と書いた途端に、メールダウン。メルトダウンの代わりにメールダウン。

メールの作法

 残り少ないけど、話を聞くことに徹しましょう。メールは同意だけにしましょう。オープンの疑問符で返すのはまずいでしょうね。相手にプレッシャーを与えます。クローズ系にします。

 それにしても、パートナーからのメールの意味を考えてしまいます。何を期待しているのかが不明です。何も期待していないので、返事を書かなければいいと思いながら、返事を書いてしまいます。

 メールでも、相手の思惑を考えすぎるのはよくない。本人が気づいていないことを応えると富んだものになります。相手はそれを避けようとします。気づかないふりをするのではなく、素直にこたえればいい。それを携帯のメールでやるのは、色々な訓練になります。ただ、その機会が少ない。相手からの発信に寄るから。

本のDNA

 本を読むときに、この人が何を言いたいのかの訓練に尽きるかもしれない。それがDNAです。それが分かれば、あとは読む必要はありません。自分の問題です。

 その一番端的なのは、池田晶子です。言いたいことは少ないけど、事例に合わせて色々と言います。そこに存在と言うDNAがあります。

インタープリターション

 インタープリターは翻訳と言う形で使っているけど、もっと、広大で本質的なカタチにしないといけない。

 自然に対する説明というカタチになっている。もっと、広い概念で。いかに自分たちの意見を吸い上げていくかに、インタープリテーションと言う言葉を使っていきたい。本来のインタープリターは橋渡し役と表現されることが多い。ツナギスト?

 インタープリターを個人から組織への橋渡しにしました。これは2005年の愛知万博のブランティアの時に決めたことです。ファシリテーターが組織から個人への橋渡しだから、それと対の関係になります。

意識してから名前を聞くまで

 5年前に意識してから、名前を知るまで、2年掛かりました。感受性が低いのか。

「寄り添う」心の伝播

 私はパートナーに「寄り添う」。次はパートナーは販売店に「寄り添る」ればいいです。「寄り添う」ことは相手を変えることではない。気付かせることです。

 そして、言いたいことを言って、自分がどうするかを決めさせることです。ツールを入れることではない。それをどう使っていくかという問題にどう気付かさせるか。そこで助けれるものは助けていく。

スタバらしさ

 やはり、個人ごとのメッセージを書けるようにしておいた方が、スタバらしい。「私たちは戻ってきます」

消えたメッセージの謎解き

 消えたメッセージはやはり、フリクションでした。年賀状を冷蔵庫に入れておいたら、見えるようになりました。熱で消えたんですね。

東アジア共同体の夢

2015年01月10日 | 3.社会
『戦後70年 保守のアジア観』より 「平和の海」にできるか

日韓関係に目を転ずれば、韓流ブームが盛り上がったのも束の間、昨今の日本には「嫌韓」の出版物があふれ、町にはヘイトスピーチの行進が現れた。かつて余裕をもって見下ろすことのできた韓国が、いまや経済的にも文化的にも日本の水準に近づき、一部では追い越してしまった。それならもう、韓国の「反日」に反撃するのに遠慮はいらない、という意識の表れのように思える。とかく反日的な韓国の新聞記事が、インターネットの日本語版で普通に読めるようになったことも、嫌韓ムードを強める要因になった。

つまり、それだけ両国が近い存在になったともいえるのだが、政治の指導者がこうした空気を抑えるよりは乗っかり、あるいは煽っている面もなしとはしない。

二〇一五年は日韓の国交正常化から五十年という節目でもある。この間、両国は何度も危機的な局面にぶちあたった。それでも両政府の間には事態を収めようという強い意志があり、何とか危機を乗り越えてきた。それに比べて昨今は、政治のトップが相手を刺激して危機をつくりだしている。李明博の竹島行きも、小泉や安倍の靖国参拝も、そうだった。ナショナリズムの罠である。

二〇一四年十一月に北京で開かれたAPECに向けて、日中首脳会談の実現へと汗をかいたのも福田だった。北京で習近平と会談を重ねたのだ。その福田は常々「三つのアジア」を口にする。力強い「成長するアジア」と、高齢化の進む「老いるアジア」、そして「いがみあうアジア」である。成長にはエネルギーや環境汚染という国境を超えた課題も伴う。老いが進んでしまう前に「いがみあい」をやめてさまざまな分野で緊密に協力しあわないと、将来に大きな禍根を残すというのだ。その通りだと思う。

領土問題はいかにも悩ましい問題だが、竹島にしても尖閣にしても、かつて両国の指導者には必要以上に事を荒立てまいとする意思があった。本書で焦点をあてた通りである。

EUがドイツとフランスの紛争の元だった地下資源の共有を起源としているように、東アジアの領土問題もそうした発想で解決していくしかないのではないか。それは「東アジア共同体」を看板にした民主党の鳩山由紀夫の考えでもあったが、警戒したアメリカの反発にあった鳩山は、地に足のつかぬ宇宙人というイメージとともに退陣。中韓両国との対立激化によって「東アジア共同体」は口にするのもはばかられるような空気になってしまった。

しかし、一気に共同体とはいかずとも、東シナ海のガス田開発でいったん合意したような「共同開発」の発想を広げることは可能だろう。二〇〇六年に日中の「共同プレス発表」で「東シナ海を平和の海とする」ことで胡錦濤と合意したのは、誰あろう安倍だった。二〇〇八年には福田と胡錦濤の日中共同声明で「今や日中が、アジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っている」とまで表明した。両国が信頼を取り戻し、この自覚を再確認するなら、共同開発を尖閣周辺に広げていくことも不可能ではあるまい。習近平も島の領有問題は譲らぬとしつつ、資源の共同開発を進める意向を語っていると報じられている。

二〇一二年に台湾の馬英九が「東アジア平和プロセス」として提案した共同開発論は、大いに注目に値する。台湾も加わることによって日中間や日本国内の対立が緩和される可能性があるからだ。

この「むすび」を書いている二〇一四年十一月、中国漁船が赤珊瑚を密漁するため小笠原の領域まで大挙して押し寄せ、日本人の不安と反発を誘っている。まさに「平和の海」に逆行する話だが、これには強い取り締まりの姿勢をとる一方で、中国政府に対応を迫る必要がある。それにつけても政府間に基本的な信頼がなければ、話しあいにもならない。

東アジアには環境やエネルギーなど、手を携えて解決していかなければならない深刻な共通課題がある。一方で、中東やウクライナのような先鋭な宗教対立がなく、幸いにして経済的にも文化的、人的にも、さまざまなパイプが生きている。いまはナショナリズムが高まりを見せる各国ではあるが、政治指導者たちにアジアの大きな将来像を描く英知が戻ることを期待したいものである。

本書ではタイトルをはじめとして「保守」という言葉を多用してきた。自民党を中心とする政治勢力を「保守」と呼んだのだが、最近では右翼的で攻撃的な言動を特徴とする勢力が「保守」と呼ばれることも多い。しかし、本書で見てきたように、かつての保守勢力には思想的にかなりの幅があり、それを認めあう寛容さがまた保守の売りものだった。

マハートマ・ガーンディーとアヒンサー

2015年01月10日 | 4.歴史
『中村元の仏教入門』より 仏教の実践倫理

ガーンディーが独立運動をはじめた当時のインド人は、イギリスから搾取され、迫害されていました。しかし、それに対してイギリスの勢力を追っ払うのに武器を取るということを知らない。爆弾を使うことを知らなかった。というのも、もし爆弾を使うとすると人をあやめることになる。そうなれば理想は高くても、手段が悪いために無関係の人を殺してしまう。それでは結局自分も、自分たちを搾取し、迫害しているイギリス人と同じ罪を犯したことになる、というわけです。これがガーンディーの説くところでした。暴力を使わないで外からの圧迫に対抗できるかどうか、これは難しい問題ですね。

けれど、ガーンディーはとにかくそれをやりとげたわけです。まず不買運動をやりました。イギリスのものを買わないようにしたわけです。イギリスのものを買わないということを、なぜしたか。インドは人口が多いから、何億人といるから、イギリスはマーケットとしてインドを占領したわけです。イギリスのランカシャーの紡績製品を売り込んだのです。しかし、ガーンディーはそれを買わないようにしました。しかし、買わないといっても裸でいるわけにはいかない。インドは暑い国だから、半分裸でも暮らせますけれど、まったく裸というわけにはいかない。では、どうするか。自分たちの手で紡ぐということをした。

もちろん以前にはインドでも織物工場はあったわけです。ムリシダーバードというところがベナレスの近くにあります。そこは織物工業の中心地でした。ペナレスは昔から良い織物が作られるところで、歴史の上でも有名です。イギリスは自国の製品を売るために、それを破壊したわけですね。ムリシダーバードの熟練した織物工の指を、理屈をつけて切ってしまったとか、そのようなことが歴史書に書かれています。織物工が全滅してしまったために、織物はすっかりだめになってしまった。インドの織物工業は全滅したのです。

ガーンディーは、その状況下において織物工業を復興させるにはどうしたら良いか考えました。インドに余っているものは労働力ですね。資本はない。技術もない。けれど人間だけは残っている。この人々を生かしたら良いのではないか、と考えたわけです。そこで、各家庭で糸を紡ぐということを勧めました。家内工業ですね。インドは綿が取れます。その綿を持ってきて糸に紡ぐわけです。この綿を紡ぐ機械のことをチャルカと言います。がIンディーは、このチャルカで糸を紡ぐことを、神聖な勤めとしたわけです。彼の教えは、インド人の間に瞬く間に普及しました。

インドが独立して最初の大統領はラージェーンドラ・プラサード(一八八四~一九六三)という人でしたが、この方が日本に来たときに飛行機の中にこのチャルカを持って入って、それを回して紡いでいたといいます。彼は日本に来ても毎日やっていたのです。わざわざそういうことをする必要もないのでしょうけれど、一種の宗教的な勤めだったのです。それほど重んじましたから、インドが独立したときに国旗にチャルカをあしらおうという意見がありました。けれどチャルカには国旗の模様としては、ちょっと問題があった。つまり左右の釣り合いが取れないわけです。そこで落ち着かないからやめましょう、ということで取りやめになりました。それで、今見られるような仏教の法輪にしたわけです。この法輪は、仏教ばかりではなく、ジャイナ教もヒンドゥー教でも使う、一種のシンボルです。輪が回るということが活動を示す。車の輪と考えても良いわけです。教えを説くことを転法輪、法の輪を回すと言います。

このようにガーンディーは糸を紡ぐことを人々に教えました。またインドは貧しくて栄養が不足していましたから、牛乳を飲むことを勧めました。しかし、牛を飼うことはゆとりがないとできない。そこで安く手に入る山羊の飼育を勧めた。安価な山羊なら普通の農家でも飼うことができるわけです。そこで牛の代わりに山羊の乳を飲むことを勧めた。彼は、当時のインド人に実行可能な方法を考えたのです。このような努力と工夫の上に、暴力を用いないでイギリスを駆逐するという運動をやったわけです。それがガーンディーのアヒンサーでした。

ガーンディーが育ったところは西インドのカーティアワール半島のポルバンデルという港町です。彼の家はその地域の藩王、殿さまの宰相の家だったといいますね。その辺りはジャイナ教の感化がひじょうに強いところです。このジャイナ教という宗教は、仏教とほぼ同じ時代に、同じ地域で並んで興って、広がった教えですから、元々はベンガルを中心としたものです。皆さんが仏蹟巡礼をするあの辺りに、ジャイナ教も広がっていたのです。

ところがその後、勢力の消長がありまして、仏教は消えてしまったけれど、ジャイナ教には一三世紀にヘーマチャンドラという、立派な精神的指導者が出ました。この人が、西インドの方の王さまの帰依を受けてジャイナ教を広めた。ですから現在では、ジャイナ教の本拠地はムンバイ(ボンベイ)のあるマハーラーシュトラ州、その北のグジャラート、その北のラージャスターン、どちらも砂漠の多い所です。そういう所がジャイナ教の中心地です。ガーンディーはその影響を受けているから、アヒンサーということを言ったわけです。少なくとも自然と彼の口から出てきたわけです。このアヒンサーの理想というのはある意味でグローバルな意味を持っています。

少なくとも、それに感化を受けた運動が二つあります。一つはアメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師(一九二九~一九六八)の黒人公民権運動、人権運動です。当時のアメリカは黒人が不当な待遇を受けていました。彼は、黒人の権利を認めさせるために、白人への対抗運動を組織しました。しかし、その際に暴力を使ってはいけない、ということで非暴力運動を展開しました。もちろんデモはやりましたけれど、その際暴力を使わないでデモをやったのです。つまり、非暴力の精神で自分たちの権利を回復するということをやったわけです。この運動はある程度成功を収めています。

もう一つは東ヨーロッパのハンガリーで、やはり民主化運動が起きたのですが、それは失敗に帰しました。近くに共産主義の大国があったからでしょう。戦車に乗って一斉に入ってきて粉砕したのです。だから非暴力の運動が、簡単に成功するという性質のものではないのですね。東ヨーロッパで失敗したということは考えねばならないことです。

ガーンディーが非暴力運動で成功したということについて、ガーンディーは生き神さまみたいにインドでは見られています。それはそれでいいのですが、しかし、これを世界史的に見ると、つまり客観的にみるといろいろな問題があります。つまり、その程度の抵抗運動だけでイギリスを叩くことができたかどうか、ということですね。

インドの独立には、日本がイギリス軍を叩いたということが一つの理由にはなっている、と言えるでしょう。と同時にイギリスが、ちゃっかりと合理主義で懸命に考えたということもあります。ここまでイギリスの軍事力が弱っている、それならここでがんばっていたってしようがない、と見切りをつけたのです。インド人に独立を与えた方がいい、四億から五億の人間を敵にまわすより、味方につけたほうがいい。そう考えて、イギリス人は見切りをつけてインドに独立を与えてすぐに引いた。だからイギリス人はあれだけ悪いことをしていながら、今インド人からそれほど嫌われていないのですよ。

いずれにしてもアヒンサーというのは、本当に崇高な理想、最高の理想で実現すべきである。だけど現実は必ずしも甘くないということです。

目的の王国

2015年01月10日 | 1.私
『はじめての哲学・宗教』より カントの「コペルニクス的転回」

目的の王国

 人格の完成を目指す主体は、同様に人格の完成を目指す他の主体に対しても敬意を払う必要があります。定言命法の形式をとって言えば、他の人格は人格であるというただそれだけによって尊敬されるべきだ、ということです。

 カントはこれを、問題の資料文にあるとおり、「汝の人格および他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」と表現しました。

 例えば、「情けは人のためならず」と言います。情けをかけるのはその人のためにならないから良くない、というように誤解されることもありますが、本来は、人にかけた情けはめぐりめぐって自分に戻ってくる、だから人のためにするのではなく自分のためにするのだ、という意味です。しかし、カントはそうした他人を自分のための〈手段〉とする行為を否定します。他人そのものを〈目的〉とせよ、と言うのです。

 以上の内容を踏まえて、選択肢の具体例を検討しましょう。①は、「こうした意図で相手を手段と見なす意図」による結婚は決してすべきではない」とするなら、「互いを尊重し合」う、つまり、互いが互いを「目的」として扱う機会さえ失われてしまいます。カントは「単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」と言っているのであって、手段とする行為がすべてダメだと言っているわけではないことに注意してください。

 ③も同様に、「アルバイトをしてお金を貯め、必要なものは自分で購入すべき」と自己完結している点で誤りです。また、④も「自分の教養を高めるという純粋な動機」で大学に行けと、良いことを言っているような感じがしますが、他者が出てこない時点で最初から問題の条件を満たしていません。

 これらに対し、②は「施設の子どもや老人を自己宣伝の手段にする」だけでなく、「大切にする」、つまり、「目的」として扱う姿勢を伴っている必要があると述べられており、正解と判定できます。

 カントは、各人が互いの人格を尊重し合う理想の共同体を、「目的の王国」と呼びました。そして、それを国際社会に押し広げて、道徳法則を体現した国際平和機関の設置による世界共和国の実現を、著書『永遠平和のために』で構想しました。現実の世界は、国連まではいきましたが、各国の自己愛が邪魔をして、世界共和国は夢のまた夢です。

あとがき

 プラトンを〈哲学=考える〉の道に誘ったのがソクラテスの死であったように、筆者が〈哲学=考える〉営みの真髄を見せつけられたのは、池田晶子さんの死によってでした。

 難解な哲学用語を振り回すことなく、平易な言葉で「私」という存在の不思議さを語ってみせた、文字どおり〈哲学者=考える人〉であった池田さんが、腎臓がんにより四六歳の若さで亡くなったのは、二〇〇七年のことです。死の直前まで精力的に執筆活動を続けており、その研ぎ澄まされた文章には忍び寄る死の影などまったく感じられませんでしたから、誰もが死に際しても決して動じることのなかった鋭敏な思考に驚嘆しました。

 雑誌での連載の最後となった、その名も「墓碑銘」と題された一節で、池田さんはこう語っています(『人間自身 考えることに終わりなく』新潮社所収)。私の墓碑銘として、「さて死んだのは誰なのか」はどうだろう--こんな言葉を残して旅立たれたら、〈哲学=考える〉しないわけにはいかないではないですか。池田さんは、「無知の知」の逆説をその身で生き抜いた、現代のソクラテスでした。

 それ以来、〈哲学=考える〉の本を書くことは、筆者の目標であり続けました。途中、図らずも東大日本史の本が多くの読者を獲得し、寄り道をしてしまったようです。ですが、それも機が熟すのに必要な準備期間だったということなのでしょう。

 これで、池田さんの夫であり、NPO法人「わたくし、つまりNobody」理事長である伊藤貢さんとの約束は、半分は果たせたでしょうか。不義理にしてしまいましたが、やっと書き上げました。しかし、残りの半分の約束を、筆者は忘れていません。酪酎状態で言われた、「相揮くん、死を味わい尽くすんだ」という言葉は、つねに頭の片隅にあります。ですが、その約束を果たすのには、もう少し時間がかかりそうです。

豊田市図書館の30冊

2015年01月09日 | 6.本
914.6『迷える大人女子の人生相談ラウンジ』

674『テーマで学ぶ 広告コピー事典』

311.07『政治学の方法』

304『未来予測を嗤え!』

012『世界の美しい図書館』

493.74『不安もパニックもさようなら』不安障害の認知行動療法

289.1『吉田松陰』異端のリーダー

121.5『日本の覚醒』岡倉天心 英文収録

191.17『奇跡を考える』科学と宗教

180『中村元の仏教入門』

488.66『PENGUIN LAND』--ペンギンの国--

100『はじめての哲学・宗教』センター倫理でびっくりするくらいよくわかる

543.5『プロメテウスの罠』決して忘れない! 原発事故の悲劇

304『愛国論』

131.3『やさしく読めるプラトンの世界2』ソフィストたち

230.45『テンプル騎士団』

493.74『パニック障害と過呼吸』 姪の玲ちゃんのパニック症候群を調査。過呼吸はあったけど、ストレスと記憶障害はなかった。

493.93『インターネット・ゲーム依存症』ネトゲからスマホまで

367.7『高齢者のこころとからだ事典』

581『定年後のかしこい人生設計』これからはじまる「満足生活」

336.2『安田式時間ルール35』成功と自由を手に入れる

319.1『戦後70年 保守のアジア観』

336.2『なぜ、自分の予定を優先する人は仕事ができないのか』

336.49『外資系エリートのシンプルな伝え方』

748『往生写真』

375.19『デジタル教育宣言』スマホで遊ぶ子ども、学ぶ子どもの未来

367.23『男女機会均等社会への挑戦』おんなたちのスウェーデン

281.04『日本史 ほんとうの偉人列伝』

673.97『やきとりと日本人』屋台から星付きまで

181.6『善の根拠』


マルチであること

2015年01月09日 | 1.私
何も考えていない

 このICレコーダー側の記憶のフォルダーを消してしまった。二重・三重にコピーしているので、昨日までの部分はあります。本当に何も考えないことが増えている。

個人が自分で考える

 その形態にしたときに、NPOで感じたのは、組織のマネして作っていること。だから、理事とか、勤務時間とか、事務処理に寄っている。

 正規軍ならば、それらは必要だけど、ゲリラにはそれは必要でない。チェにとって、そんなものを超えたところ、個人が色々なことをやる世界、上になったり、下になったりする世界。あくまでも、目的に向かって、どういう活動したらいいかを自分で考えて、つるんでいく世界。そこでの組織、そのものの考えが否定される。

 NPOという名前の持つ、従属的な考え方から抜け出さないといけない。その為に、お互いを知ることで、自分の行動を決めて、相手に対して、要求する。相手も全人格をそこに置くのではなく、色々なところに色々なポインターを持って、個人の中で熟成していく。

私の強さ

 相手が強くなれば、強くなるほど、私も強くなれます。何も考えていない相手に対しては無力です。

マルチであること

 マルチであることが望まれた時代。研究開発部署で井上さん。足りないのは、「数学」と「人間工学」。その感覚で専門家を集めてきた。

 私に最初に行ったのは、「職場でお茶ができないか」。皆、心を病んでいる。それを和ませるたまに、お茶席を作りたい。システム設計した時に、人間的な観点で、日本的な観点でお茶に求めた。同じように考える人がここにも居た。

 専門、やるならヤルで、そういうものとポインターをつけていかないといけない。一人の人が何倍にも動ける時代。それらがリンクする時代。存在の力がなす。存在の力で、組織そのものを分解していく。

自由に動ける個人の強さ

 ゲリラで個別に動けるものに対して、正規軍は勝てない。自分たちに縛られてしまう。

 ペルシャに対して、アレキサンダーとか、ジンギスカンが取った戦略である。織田信長もそれを真似た。ただし、それがなした後の世界を考えると、単にゲリラ的だけではダメです。自分たちをいかにつなげていくのか、何から絡めていくのか。

時間の経過

 それにしても、よく分からないのは時間です。パートナーのレポート作成に四苦八苦した、6月から早くも半年が経っています。そして、パートナーも41歳を超えました。20歳代から一気に跳んでいます。

 研究開発部署の時に考えた、時間が縦軸に流れる感覚。朝、いつもそういう感じです。時間は流れるものではなく、タテにあるもの。誤解の上に成り立っているもの。

 この間に至ったのは、<今>と<自分>しか居ないということです。「いいね」と言った人が、どこまでわかっているのか。まあ、他者の承認を求めないから、楽だけど。承認を求めようとする人は大変でしょうね。池田晶子さんに感じるのは、承認を求めないということです。だから、言い切れるんです。

パートナーの武器

 思い出しました。「ストロベリー・ナイト」竹内結子。赤のトートバック。エルメスのパーキン。中古でも85万円とは。パートナーの白いコートとの組み合せると最強の武器になる。闘うための武器を渡したい。

キーワード空間

 キーワードをつなげることで、概念ができるかどうか。これ冒険です。だから、キーワード空間を作ったのかもしれない。

オープン形式のメッセージ

 パートナーから「山梨」の件で、メールがあった。それに対して、オープン形式の答えを書いたけど、やはり、返ってきません。メールは常にすれ違い。パートナーに対しては、クローズドにしましょう。

図書館の風景

 図書館で本を借りた時に、事務室の間で、市民同士がトラブっていました。言い合いです。

 日野の図書館を思い出します。児童室で新聞を読んでいた、オヤジと言い合いになりました。日野の図書館長の部屋に連れて行かれて、宥められました。私が図書館長に言いたかったのは、「日野市図書館ともあろうともが、それでいいのか」

 今だったら、必ず、ICレコーダを使います。「言った、言わない」をなくします。

パニック症候群を調べた

 姪はパニック症候群ではない。ストレスと記憶喪失が前面に出てきていない。多分、別の病気です。とりあえず、「過呼吸」と一般的な認識行動の本を借りました。あと、2冊しか借りられないから。

 参考の本を全て、揃えてくれました。豊田市図書館もここまで来たんですね。2000年にLAPL(ロサンゼルス公共図書館)で感激したことを覚えています。

組織でないNPO

2015年01月08日 | 3.社会
組織でないNPO

 組織でないNPO。スタバとか図書館をそのままで使えばいい。事務室を作ったり、事務処理をしない。完全なゲリラ的なスタイルです。英会話教室をスタバを拠点でやるような形です。

 図書館のNPOと言っても、個人が参加することで成立するだけです。それをどういうカタチでやるか、個人の状況をいかに把握するのか。それがバーチャルのコミュニティ。

 そのために、図書館クラウドの仕組みの中に入れ込んでしまえばいい。一カ所での成功事例を日本全国に展開できます。それが、SFDCのNPO支援プログラムを使えば、タダでできます。

 そして、アピール・アンケートで合意形成を行っていけます。組織としての縦組織を持たない。個人をいかに活性化するか。活性化したものを会員にしていく。

スタバでの利益

 スタバには、かなりの利益をもたらすことができます。スタバでの経験をもとにして、マクドナルドあたりを傘下に収めます。そうなると、NPOという非営利団体と言う名前自体の概念を変えないといけない。

スタバの最終日

 スタバの最終日が終わりました。何しろ、満杯です。

 リニューアルのポイントを知りたい。カウンターは一枚板になるそうです。

マルチな個人

 マルチであることが一番重要かもしれない。習慣を破るものです。次元を超えるものです。カオスでないけど、色々なポインターがあって、それで空間を作り出す。多くの人が生きるために、その様相、これが最初にイメージしたものです。

非順序集合

 ハイアラキーをなくして、その断面だけの順列です。非順序集合です。

先人の夢

 それをこなすためのツールが整ってきた。先人はそれを夢見てきた。夫々が断片であるので、ある人は儲け、ある人は知恵、ある人は慈善と捉えられている。そういう形で全体が見えなくなっている。私の役割は、それらを見えるようにしていくことです。

パートナーのポリシー

 販売店のキーマンを作るために、自分がポリシーを持てばいい。そうすれば、自然に集まってくる。とりあえずは二人の社長を相談相手にすることです。

 富山は年頭あいさつで「寄り添う」という言葉を使いました。そこだけが、ちょっと、異色な言葉になっています。私からのパクリですね。

 重要なのは、お客様との関係を「寄り添う」カタチにする。そのイメージを持って、具体的にすることです。元々は、「寄り添う」ブッダという概念から来ています。

 100年目を無事迎えられて、お客様と共に、富山にSグループがあって、よかったと皆に思ってもらう。その為に、何をしていくのか。スタッフをどう変えていくのか、また、スタッフからどう変えていくのか。

カウンターでの10分の会話

2015年01月07日 | 7.生活
春の恰好

 あと、一ヵ月、悠々自適に過ごします。だから、スーツは要らない。何しろ、春の恰好です。ネクタイがあるかないかだけです。

プレゼント

 エルメスの真っ赤なトートバックを本当は送りたい。パートナーが勇気を持って、闘うために。それこそ、ジャンル・ダルクの鎧です。

朝のIさん 約7分

 「おはようございます」「DVD、持ってきたんですよ」「見てもらって」(二胡のビデオ)「では、これ、入れておきます」「いつでもいいですよ」「全然、大丈夫です」

 「明日までですね」(2月15日は)「朝は7時半なんですよ」「ずーっと、昔からのルールで10分前に開けているじゃないですか」「常連の方は10分前だと思っている」「朝、忙しいけど、頑張って開けます」

 「この日は予定しないとまずいんじゃないですか」

 (最終出勤日を決めようとしている)「いつになりそうですか」「2月になりそうですか」「頑張って、2月15日は出勤に○を付けておきます」

 「こういうカタチでは、最後です」「張りがなくなるのは、残念ですけど」「レジは三台みたいです」「もっと、寄るみたいです」「しばらくは、そのお店で自分がウロウロしそうですけど」

 (来週の予定)「13が入っていました」「火曜日に、モールに、朝」「モールは朝、お客様が居ないみたいで、短いみたい」「その都度、お伝えしようと」「基本的に、朝、入っています」

 「モールはゆっくりしているから、話は大丈夫だと思います」「ゆっくり、しゃべれると期待しているんです」

消えた年賀状メッセージ

 消えた年賀状メッセージは多分、フリクションでしょう。そうとしか考えられない。

 だとすると、問題はいかに熱を与えたかです。

スタバのリニューアル・メッセージ

 リニューアル中のコメントを来店されたお客様ができるような仕掛けがあると、スタバらしい。バリストから「We shall RETURN」です。「Rebirth」でもいいかな。

未唯宇宙の構造

 各レベルに言葉がある。ハイアラキーとは別の世界。配置の世界。部分が全体よりも大きい、順列の世界をいかに表現するか。

昼のIさん リニューアル閉店の最終 約10分

 「めっちゃ、早いんですね」「大丈夫ですか」

 「ザッハ・トルテはありますよ」「今年の記憶ですか」「今年はこんな感じですよ」「原材料が高騰しているから」「上げてくれないと、従業員の給料を下げられては困るんです」「庶民には恩恵がまだまだ」「ですよね。本当にそう思います」

 「来年から、厚生年金のパートが拡大されたり」「扶養控除が外されそうになり」「どうしようという感じです」「頑張って、投票には行っているんだけど」

 (スウェーデン方式)「そうですね」「2030年ですか」

 「ここでは最後なんですね」「気分はもう、営業終了になっている」「何となく」

 (ロードの良さ)「モールに行くとですか」「本当に思いますよ」「ヘルプに行っても、泣きそうになってくる。ホームは本当にあったかい」

 (リニューアルメッセージボード)「なるほどね」「そうですね」「そういう提案すればよかった」

 「退職されたら、スタバで一緒に働きませんか」「いいお店とか、地域とか作っていけそうな気がします」

 (お客様ひとりを習った)「最初に、何を持っているのと言ってくれたことが、インパクトになった」「それまで、常連のお客様に話したことがなくて、自分のオペレーションに必死で」「あの辺りから、話ができるようになって」「あの時もありました」

 (いつから意識したのか)「リュックの中に何が入っているのと言われた時から」「5年前でしたよね」「入って、1年ぐらい経った時です」「最後の日はリュック付けてやりたかった」「リュック自体がないから」「懐かしい。本当にあれが最初で」

 「ここから、こうやって出すのは最後なんですね」(とりあえずの握手)「本当にありがとうございます」

スタバで一緒の働く

 本当にスタバで働きたいです。と言っても、あまり、動けないから、店の雰囲気づくり、お客様ひとりに対してのサポート。そして、地域への貢献。

 スタバで、バリスタのエンパワーメントができるなら、お金は要らないから、働きたいです。スタバの経費の月2万円をチャラにしてもらえれば、十分です。

 存在の力を発揮する拠点としてのスタバでの実験ができれば、未唯宇宙に近づきます。

ガソリンのチャージ

 ガソリンランプがパカパカしています。ヤバいですね。

 10リットルを補給。店員が二人もついた。奥さんに明細書を渡したら、安くなっていると言っていた。そうなんだ。

存在を意識する

 Iさんとの出発点が5年前にあったとは。あの時の一言をしっかり、覚えていた。それから変わったと言います。不思議なもんです。私も言った時の風景は覚えています。

 ものすごく、ショルダーを持って、頑張っていたイメージがありました。あの時点で、31歳だったんですね。リスタートだと言っていた。心機一転なんでしょう。

 そのかばんの中には何が入っているの? 「おにぎり」とのこと。意外な言葉だった。

パートナーからの電話

 パートナーから1か月ぶりの電話。またしても予想外です。54分。少しは落ち着けたのかな。明日から、販売店訪問が始まります。