goo

ゴルバチョフとエリツィン

『ゴルバチョフ』より 瓶の中の二匹のサソリ一九八七年
 ゴルバチョフによれば、エリツィンには一九八五年以前から「懸念」を抱いていた。中央委員会がスヴェルドロフスク州の農業を調査する要員を派遣したことがあった。エリツィンは調査の後でゴルバチョフに、批判的な調査結果を中央へ報告せずに、スヴェルドロフスク州当局に自ら誤りを正させてほしい、と要望した。ゴルバチョフは同意した。だがエリツィンはそれを実行しなかったので、調査担当者とエリツィンの間で非難の応酬を招いた。ゴルバチョフは、エリツィンが「自分に対する意見に適切な反応をしなかった」と記している。このような遠回しな言い方をエリツィンは好まない。ゴルバチョフもエリツィンが酔った状態で最高会議に現れたと聞いた時、嫌悪感を催した。ゴルバチョフは禁欲的な人物だった。
 アンドロポフがエリツィンを評価していたので、ゴルバチョフも一定の影響を受けた。エリツィンを中央委員会建設部長に推挙したのはリガチョフだった。アンドロポフは死の数週間前に、その人事を裁可したが、チェルネンコ書記長のもとでは実現しなかった。アンドロポフがエリツィンヘ寄せた期待は限定的だった。アンドロポフにとってエリツィンは、特に優れた地方指導者でもなく、ソヅィエトの将来を担う逸材でもなく、「優秀な建築家」でしかなかった。ゴルバチョフはモスクワ市第一書記に据えたエリツィンを、「活動的で決断力があり、革新の気概を持つ」部下として当初は評価した。エリツィンはグリーシンが残した混乱も見事に収拾した。グラチョフによれば、ゴルバチョフは「エリツィンを政治のチェスで重要な駒とみなしてはいなかった」。グラチョフはいかにして、そのようなゴルバチョフの胸中を知ったのだろうか?ゴルバチョフ家では毎晩のように、クレムリンの政治家たちをめぐり人物談義が交わされていた。娘のイリーナがグラチョフに語ったところによると、その場でエリツィンの名は、ごく稀に出る程度だった。
 ゴルバチョフは要人深く慎重だった。エリツィンは衝動的で危険を恐れなかった。ゴルバチョフの所作は穏やかだった。あるいは穏やかに見えた。エリツィンは好き嫌いが激しく、それを隠さなかった。ゴルバチョフは生来の民主主義者だった。エリツィンは権威主義的なポピュリストだった。ゴルバチョフは人文科学に造形が深く、哲学者と結婚した。エリツィンは建設畑で鍛えられ、技師と結婚した。ゴルバチョフは如才なく、エリツィンは荒々しかった。ゴルバチョフは説得に長け、エリツィンはすぐに怒鳴り散らした。ゴルバチョフは饒舌で話が長かった。一つの主題の周囲を幾度も巡り、自説を繰り返した。喋りながら考えをまとめているような印象を与えた。エリツィンは多くを語らなかった。しばしば「第一に、そして第二、第三に」と要点のみを挙げた。ゴルバチョフは妻との長い散歩を好んだ。エリツィンは若い時は優れたバレーボールの選手で、最初の心臓発作を起こした後もテニスを楽しんだ。音楽の趣味も異なっていた。ゴルバチョフは交響楽やオペラを愛した。民謡を上手に歌った。エリツィンはポップスが好きだった。
 このような相違が、二人の相互理解を強く妨げた。だが、共通点もあった。二人とも農村の出身だった。ソヴィエトの指導者は大部分が地方出身者だった。モスクワ出身者は賢明すぎて政治家には向かないのかもしれない。二人とも祖父がスターリン時代にテロルの犠牲となった。二人ともほぼ同じ年頃に、親の暴力を自力で阻止した。ゴルバチョフの場合は相手が母で、エリツィンは父だった。しかし、これらの共通点は二人を結ぶ絆にならず、むしろ互いに反発を強める方向へ作用した。互いに高め合うこともなく、不快感ばかりが募った。
 エリツィンが九月一二日付で出した書簡に、なぜゴルバチョフはすぐに反応しなかったのだろうか?エリツィンは、ゴルバチョフが何らかの行動を起こす、と期待していた。「電話で面会を求めてくるだろうか?今の仕事をそのまま続けてほしいと、電話越しに告げるのではないか?」。あるいはゴルバチョフが「緊急的措置」に踏み切り、「政治局で健全で建設的な態度をとる」のではないか?エリツィンは、ゴルバチョフが自分とリガチョフを交代させるとでも考えたのだろうか?ゴルバチョフは上位に立つ者の視線で、エリツィンの書簡は彼とリガチョフの川の「つまらぬ揉め多」に起因する、と片付けてしまった。「革命七〇周年へ向けて、重要で機微に触れる準備」に取り組んでいる時、そのような雑事は構っていられない、と考えた。
 栄光を夢見たエリツィンの白日夢とは対照的に、九月の時点でゴルバチョフには、もっとマキャヴェリ的な思惑が働いていた、との指摘もある。改革派のエリツィンをリガチョフと措抗させ、理性的な中道路線を歩む環境を整えるためだった、との見方もある。ゴルバチョフはのちに、ヤコヴレフがまさに、そのような策を進言した、と証言している。また一説によれば、保守派に恩を売るため、さらに時期を待ってから大々的にエリツィンを排除したほうが、静かに引退させるより得策との判断があったともいう。しかし、怒りやすく手に負えないエリツィンに構っている余裕が、ゴルバチョフにはなかった。それが実態である。致命傷を負わずに事を片付けられる時機を、彼は逃してしまった。ゴルバチョフは一〇月二一日、なぜエリツィンが発言するように仕向けたのだろうか?エリツィンが自分の非を認めるだけではなく、リガチョフを陥れる発言をすると期待した、という見方もできる。事実、ゴルバチョフの同僚には、この説を唱える者もいる。ゴルバチョフがそのように考えても不思議ではなかった。エリツィンがゴルバチョフに深い痛手を負わせられる状況ではなかった。とすれば、中央委員会での発言を禁じる必要が果たしてあったであろうか?
 一〇月二一日のエリツィン発言に、ゴルバチョフがあれほど激した理由はどこにあるのだろうか?その後のゴルバチョフは、エリツィンの言動が攻撃的であろうがなかろうが、いつも過剰な反応を示した。それはいかなる理由によるのだろうか?一〇月二一日のゴルバチョフは、こみ上げてくる怒りを制御しようと努力した。それでも憤怒が顔を「紫色」に染めた。ボルディンによれば、ゴルバチョフはしばらくの間は「落ち着きを保っていた」。だが、その後で逆上した。グラチョフが語る。エリツィンに「政治の第一線」へもう戻さないと言い渡した時のゴルバチョフは、既に感情の虜となっていた。
 今に至るもゴルバチョフがエリツィンに抱く怒りは収まっていない。改革はゴルバチョフの旗印だった。エリツィンはそれを奪って、自分のものにしようとした。ゴルバチョフの欠陥を、あからさまに指摘した。はっきりと戦略を示さず、説明に明確さが欠ける、と批判した。話が長く、できない約束までしてしまう、と非難した。ゴルバチョフはエリツィンと接して、かつてスタヴロポリ時代に軽蔑した粗野な同僚たちを思い出した。だが二人には共通の欠陥があった。傲慢で虚栄心が強く、誇り高かった。ゴルバチョフは自分の欠点を十分に知り、隠そうと努めていたのに、エリツィンが全て暴露してしまった。ゴルバチョフはエリツィンの行為を、ペレストロイカの大義を傷つける許しがたい暴挙とみなした。だが怒りの一部は自分自身に向いてもいた。
 エリツィンがライーサに示した態度、ライーサのエリツィンに対する姿勢も事態を険悪にするばかりだった。ライーサは、赤の広場に面するデパートのGUMを、美術館に変えようと提案した。モスクワ市の第一書記だったエリツィンは、すげなく却下した。そして夫のゴルバチョフを相手に、ライーサの行為をなじった。ゴルバチョフは激怒した。ライーサのエリツィン嫌いが、ゴルバチョフの怒りをさらに煽った。ゴルバチョフは感情が激しやすい性格だった。映画を見て泣くような男だった。だが政治に取り組む時は、感情に流されて判断を誤ってはならない、と厳しく戒めてもいた。だからエリツィンヘの怒りも抑制しようと努力し、実際の態度でも示した。例えば一〇月二一日にエリツィンを招いて、発言の機会を与えもした。猛烈な逆襲を加える前に、たとえ短時間でも我慢をし、一一月一一日にはエリツィンの腕を自ら支えもした。回想録では、その日のエリツィン攻撃は苛烈に過ぎたと後悔の念を記し、エリツィンは「真の男」として立派に耐えた、と賞賛している。
 なぜゴルバチョフはエリツィンを、モスクワの政治の舞台から放逐せずにおいたのだろうか。ゴルバチョフが下した様々な判断の中でも、粗野で冷酷な指導者ばかりを見てきたロシア人が最も理解に苦しんだのは、このようなエリツィンヘの処遇である。その謎は今も解けてはいない。ゴルバチョフ自身ものちになって、エリツィンは追放しておくべきだった、と認めている。グラチョフや他の補佐官は、エリツィンの排除を進言した。ゴルバチョフは、「君たち、それはだめだ。問題外だ。彼は根っからの政治家だ。簡単に放り出すわけにはいかない」と述べた。KGBのクリュチコフ議長には「よく見ておきたまえ。奴の頭が禿げたら、君の責任だぞ」と言った。ブルテンツによれば、ゴルバチョフはエリツィンを制御できる自信があったので、いかにエリツィンが自分にとって危険な政敵であるか認識が足りなかった。おそらく、それが真実であろう。だが良心と信念に照らして、最も正しいと考える選択をしたと言っても間違いではないだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« フェイスブッ... キューバ革命... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。