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坂道合同オーディションは最終日

坂道合同オーディションは最終日

 坂道合同オーディションは今日が最終日。彼女らはすごいです。特に中学生の連中。忍耐強く、アピールしてます。その姿にローマ共和制を感じる。大スキピオは演説でもって、民衆を味方にした。そこから対ハンニバル戦争を始めた。

 ショールームには中毒性があるみたいです。朝早くからショールーム 開いて、それに1万人ぐらい集まる。それを毎日行なっている。

 これほど個人をアピールするもの。それらをスマホで 聞きまくる連中。ここで完成されたコンテンツは政治に利用される。むしろ今地道に活動している者たちにはこういうアイデアがない。自己満足だけの世界になっている。

 文休みの新刊書は期待できない

 今日は新刊書の日だけど、新刊書はほとんどないでしょう。盆休みでルートが閉じている。TRCがどうでるか?
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OCR化した4冊

『精神現象学』

 思想界の現況=ヘーゲル哲学誕生の必然性

 ヘーゲル哲学の核心=真理をどう見るか

『音大生のキャリア戦略』

 生き延びるためのスキル・資質・やる気

 音楽文化産業における創造

 オーストラリアにおける雇用とエンプロイアビリティ

 オーストラリアにおける音楽職業教育

 重要なスキルと資質

  ビジネスと起業

  コミュニケーション力

  演奏とやる気

 おわりに

『時の余白に』

 自分の頭で考えてくれ

『市民自治の育て方』

 ひととまちの新しい関わり方 個人の活動を束ねる「まちづくり」

  はじめに

  コミュニティとは

  様々な地城コミュニティ

  まちと住民像

  現在社会のコミュニティ

   アトリエ Flat (花村周寛氏)

   納屋工房(長谷川香里氏)

   Common cafe 山納洋氏

  ひととまちの新しい関わり方
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個人の活動を束ねる「まちづくり」

『市民自治の育て方』より ひととまちの新しい関わり方 個人の活動を束ねる「まちづくり」

コミュニティとは

 コミュニティとは、一般的には「地域共同体」のことをさす。その代表格が町内会や自治会といった[地緑コミュニティ]である。

 住民が「まちづくり」の様々な場面で参画をもとめられる背景には、近年の行政側の経済面が理由としてあげられることもあるが、自分たちのまちを公共的視点に立って考え、ハードのまちづくりに自ら協力することが重要であり、これがハードのまちづくりの基本となる考え力であるからだ。また、まちのことを[一番よく知っている住民]が、自分たちでまちのことを考えることにより、まちへの愛着が強まり、住民がまちへ働きかけることによりスパイラル的によいまちができ、住民の生活力嗜かになる、と考えられている。

 歴史的にみても、実際、日本の多くのまちで、自らが住むまちの環境整備を住民の手によって行って来た。住民が自らの所有する上地を手放して造られた道路、住民の寄付金や寄贈によって作られた小学校や橋などが、数え上げればきりがない。また、1970年代以降は、高皮経済成長にともない発生した公害問題など、地域の存統を左右するような人:きな課題に遭遇した地域では、地域住民が結束して住環境整備を訴えるなど、現化の住民参加まちづくりの元となるような運動が各地で発生した。現在は、所有する資産である住宅地の価値を上げるためのガイドラインや建築協定づくりなどを住民主体で行っている地城も多い。住環境整備の形は地城の住環境から、地域の資産価値向hにベクトルが向いているようなところもある。その一方で、行政が活動袖助金を支出することにより、地域のおける公益的な活動を支援し、地域のコミュニティ活性を期待する施策も行われている。行政は、さまざまな人的、金銭的支援を行いながら地域コミュニティの活性を図っているのである。

 まちづくりへ住民の参加、参画を求める行政の後ろ盾として、先ほど豊中市の事例を挙げたが、豊中市を含め多くの市町村で自治推進条例やコミュニティ条例などが策定されている。行政が「自分たちのまちは、自分たちで考え、自分たちでっくる」ことを基本として住民のまちづくりへの参画、参加を義務とし、条例化しているのである。「住民参加」においては、都市計画(行政の言うところの「まちづくり」)に限らず行政の全ての計画策定や事業に対し、市民の参画がもとめられ、市民公募委員、パブリックコメントなど様々な形で住民参加の機会が設けられている。にもかかわらず、人々の関心は低く、行政は市民公募委員の応募者集めに苦労することも多い。住民説明会を実施しても人も集まらないし、パブリックコメントも集まらない。いずれにせよ、どのような行政も地域の住民による自治組織に期待し、地域まちづくりへの参画を義務とみなし、パートナーを求めている。

様々な地城コミュニティ

 コミュニティと言っても、その地域によって在り方は多様である。1999年、デビット・ラドリンの”Building the 21st Century Home: The Sustciinable Urban Neighbourhood”では、コミュニティを三つのタイプで説明している。「村コミュニティ」、「街路コミュニティ」、「郊外コミュニティ」である。一つ目の「村コミュニティ」は先の述べた「地域共同体」である。二つ目の「街路コミュニティ」は、既成市街地での道を挟んだコミュニティで、ジェーン・ジェイコブスが「アメリカ大都市の生と死」でも著しているように、そこには行き交う人々、店を営む人々など多くの人の目があり、そのことが安全な街路を生み出すそのような都市的コミュニティが「街路コミュニティ」である。三つ目の「郊外コミュニティ」は、新たに造られた郊外住宅地のコミュニティのことである。これを閉鎖的コミュニティと説明している。日本以外の多くの国では、大規模な戸建て住宅団地を高い塀で囲み、ゲートを作り、ガードマンを立てて居住者以外の人が住宅地内に入ることを厳しく取り締まっている、そんな住宅地を多く見ることができる。日本では、公道を使う人に制限をかけることができないため、戸建て住宅地を囲い込むことはできない。したがって、閉鎖的な戸建て住宅地で作ることは難しい。それでも共有地を持つことで管理組合を設立し、閉鎖的な戸建て化宅地は作られている。計画的に開発された住宅地は、用途混在を許さないし、同じ規模の住宅が行っているという点で、物理的には開放されていても、空間的には閉鎖的な住宅地、ある種の人たちだけのコミュニティになっている化宅地が多い。日本人の戸建て住宅地での島国的安全神話に対し、外国のように強いセキュリティラインを持つ戸建て住宅地を作るべきだと主恨する研究者もいる凡人の目により安全線が保たれているなどと過信することは危ないとの指摘もあるが、私はこれに対しては懐疑的で、物理的ゲーティッドコミュニティには賛成できない。欧米のゲーティッドコミュニティは、住七地を堺で囲む代わりに、各戸建て住宅の塀は取り払い、窓を開け放ち、庭で安令に過ごすことのできる解放的な住まいを得ている。日本では、戸建て住宅を高い塀で囲まなくてもこれまでは安全が確保されているのであるからその環境を守る努力をすべきである。

 一方、戸建て住宅地ではなく、マンションなど分譲の共同住宅では、敷地を塀で囲むことにより物理的に閉鎖的や問を作っている場合が多くみられる。敷地内の共用空間は、マンシ日ンの居住者に限られる。自分たちが所有した敷地だから当たり前として占有する。また、タワーマンションはその最たる例である。閉鎖性がきわめて高い住戸がドアーつで共用廊下に而しており、その共用廊下に入るためにオートロックが川いられている。自身が住む附にしか行けないよう、エレベーターにロック機能を川いている場介もみられるようになっている。このような住まいにコミュニティといわれるものが形成されているかは極めて疑問である。物理的に他人を排除しているはずのゲートも、鍵を持っている居住者についていけば入ることができるし、だれもどの人がこのマンションの住人かを見分けることができないから、ゲーティッドコミュニティが成立しているとは言いがたい。

 このようにラドリンのコミュニティの説明は、家の集まり方によって、人々のつながり方を説明しているのでわかりやすい分類とはなっているが、そのまま日本におけるコミュニティの単位と考えることは難しい。

ひととまちの新しい関わり方

 私たちの住まいは、まちとの関係を保ち、っくるようにできていた。例えばまちをっくっていた町家や、借家である長屋はいずれも道路境界線いっぱいに建物が建ち、軒は道に飛び出していて、家の外と中の間には格子戸がはめられており、家の外からは中が見にくく中からは外が見えるようにできていた。外からやってくる人は、インターホンなどは使わずに、まず格子戸を開けて、土間まで入って中に向かって声をかけていた。町家や長屋の土間は、外の人たちが人ることのできる空間として存在していた。そのような家のつながりが、日本的ストリート型コミュニティであり、地域コミュニティを支えていきた。

 しかし、住まいが都市から離れるにっれて、家と道、家とまちの間は離れていき、前庭ができ、塀ができていく。それでも町とそれぞれのすまいは繋がりをもっていた。戸建て住宅地でも家の前の道はその家に住む人が掃除をしていた。それが、共同住宅になると大きく離れることになった。間には、共同住宅に住む人たちの共用部分ができ、その部分を外から切り離すためのゲートができた。タワーマンションになると、共川空間を共用する世帯数、人の数が膨大になり、誰が同じマンションに住む人なのかそれもわからなくなってしまった。共用部分は誰が通るかわからない空間であるのに、まちからはきりはなされるとう状態になっている。そのような住まいで暮らしながら、人がどのようにまちにかかわるのか、これは難問である。そのような家や地域では実現できない人とのつながりが、新しい場所で作られようとしているのだと考える。

 新しい「まちのコミュニティ」はどのように作られるのか。その大前提は、人が個人としてまちに関わることである。行政側は考えを変える必要がある。まずは、家単位の参加から個人の参加に切り替えること。個人の興味や関心をひきだすのである。次に、市民全員の参加や満足を求めず、2割の人の積極的参加をめざすこと。この後ろには2割の人が参加している姿を目にする6割の人がいる。残りの2割は全く関心を示さないかもしれないが、そのことは気にしない。最後に、楽しいことで人を集めることである。堅苦しい会議ではない。出ると楽しいことがある、そのような機会をつくることである。

 そのための仕掛けづくりには2つの方法がある。その一つは、「人々の居場所づくり」。先に示したような、凝った空間である必要はないが、居心地のいい空間であること、人がいて話を聞いてくれる場所もあれば、誰もいないただ椅子だけがある場所でもよい。居場所を選択できることも大事であるが、まずはまちに顔を出すきっかけを作るのである。そこから次の繋がりが始まるはずだ。2っ目は、「人々の“やりたい”を支援する」。例えばある場所を整備する場合、どう整備するかを話し合うのではなく、その人個人が何をしたいかを聞き出し、その実現に向けて知恵をだしあうのだ。これが個人の活動を束ねる「まちづくり」を生み出すのである。
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