goo

未唯宇宙10.8.1~10.8.4、10.3.1~10.3.4

未唯宇宙のノートを埋める

 今週はスタバと図書館で未唯宇宙のノートを埋めましょう。家では書けないことが判明した。

いくちゃんがワープした模様

 いくちゃんは昨日、予言通りにワープした。名古屋の昼公演3時間から大阪のアンコールに現れた。その瞬間に会場は紫から黄色に一変した。

 その状況で、若月はいつもの「やっぱ、乃木坂だな!」を「やっぱ、いくちゃん!」に切り替えた。機転が利きます。これこそ乃木坂コミュニティの底力。

 名古屋ドーム公演はムリかも知れない。次のライブビューイングを目指して、前日のグッズ販売に並ぼうか。

10.8.1「独我論」

 独我論に至るまでは窮屈だった。自分というモノが見えず、周りが勝手に動いているという感覚。そして、無へのトラウマ。

 真理を求めて数学へ行った。真理は考えることだと知った。地球原理から、用意されている偶然が見えてきた。生まれてから多くのことが準備されていた。

 哲学・数学・歴史を考えると独我論に至る。天動説から地動説に転換した。独我論は当然、宇宙を超える。自分と宇宙が同等に思える。

 独我論を他者に語ることはしない。それぞれが存在を掛けて考えればいい。

10.8.2「宇宙に旅立つ」

 内なる世界に対して、他者の世界があると思っていた。一時期、それは壁のように思えた。その向こうに何があるか分からなかった。

 パートナーからの仕事の相談のほとんどがその壁について。その時は外の世界の先にあるものを装丁するように言っている。仮にそれを宇宙とすると、宇宙と自分で他者の層を挟むカタチをイメージして下さい。他者が消えていく。これを三段階ロジックとしている。

 これを私の世界で表現したのが未唯宇宙。これで他者の世界を溶解する。そして、宇宙とつながる。宇宙そのものは多重になっている。無限次元空間だから、その中に個人の三次元を作り出すのは容易にできる。

10.8.3「「存在の無」

 自分の中に存在と無が並立すると思ったところから思考を始めた。この不思議な感覚。この感覚を他者と共有することはなかった。皆、当たり前と思っているのでしょう。孤立と孤独の世界で考えてきた。

 「存在」と「無」は別物と考えてきた。それぞれの真理を求める。なかなか先には進めなかった。答えは「存在の無」にあった。存在自体が無を為している。<今>ここも無なんです。

 そう考えたところで「私は存在する」とは何か。<今>ここだけで存在していると思っているのは私だけ。大いなる意思はこの状態を作り出して、何をする気なのか。

10.8.4「どうでもいい」

 大いなる意思がどういうつもりなのかはどうでもいいこと。点と全体が同値ということに存在を掛ける。

 生まれてきたことにどれだけ多くの人が悩んだことか。0歳児と2歳児を見ていてもそれが感じられる。現世の次元で悩むことになる。先の次元から考えて、動くことを期待する。種の保存の意味はその次元にある。

 死ぬことから存在を考えたハイデガー「存在と時間」は未完だった。その先を考えて欲しい。自己肯定するのは錯覚ではなく、生まれてきた、放り込まれたことへの意趣返しです。

10.3.1「存在は無」

 数学の世界では0=1は成り立つ。これは無=存在を意味する。後追いになるけど、それが数学を目指した理由。当時はそこまでの意識はなかった。

 現実の数学科は常識にあふれていた。微分方程式の演習は嫌いだった。大学紛争時の自主講座の「数学とは何か?」で少し目覚めた。

 地上という空間で<今>ここが存在の意識。宇宙空間は無そのものです。数学の特権はベースの空間を自由に変えられることです。

 一番気に入ったのは、フーリエ変換での無限次元空間です。軸が無限にあるって、すごい!

 その上、リーマン予想が成り立つのであれば、無限次元空間の任意の三次元が個に与えられる。なぜ、そうなったのかは今となっては不明。無が全てとはこのことを指す。

10.3.2「集合は点」

 デカルト平面は次元が固定されてしまう。それに対して、トポロジーは同一次元をつなぐので、多重化して空間を定義できる。

 それに次元の拡大・縮小ができる。集合は点になり、点は集合になる。これは人間社会では当たり前の考え方で組織で多用されている。

 全体と個は同一になる。そこでは中間の存在が意味を持つ。個人-市-県-国みたいな固定されたモノではダメです。

 個にとって、中間の存在のみが実体である。それを活用したのが、技術者の考えであるヘッドロジックであり、その有用性を証明していく。

10.3.3「超国家は個人」

 歴史において、現在は国民国家の最終形態である。国民国家は19世紀に完成された後に、国民と技術で社会を変えようとした。

 その結果、国民同士を戦わせる総力戦を引き起こした。国家を最終形態とすることの悲劇。その反省から、EUなどの超国家がかんがえられている。

 国家を中間の存在のひとつにすることで、安定を図る。これは数学での最適解に当たります。

 組織の元の個人という位置づけが変わってくる。偶々、その国に配置されただけという意識で動ける。

10.3.4「点としての個人」

 個人は配置された点という意識。組織(座標)ありきではない。そのように誤解させようとするものは多い。新しく生まれてきたものに「日本」を刷り込む。

 点の意識を持てば、組織を気にしなくて済む。家族も同様である。

 個人は超国家のようなものに大枠で守られる。組織を構成している家族・教育・仕事に素直に対応することになる。

 家族制度は昔からあるのではなく、出来上がったのは19世紀以降です。枠を作り、その中での自由の妄想を為すために作られた。

 20世紀の総力戦への動員で役割を終えた。今後の平等社会のために組替えられる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )