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ヘーゲル哲学の核心=真理をどう見るか

『精神現象学』より ヘーゲル哲学の核心=真理をどう見るか

〔真理は主体であるという命題を真理は全体であるという命題で言い換え説明してみたが〕この事は又「理性は合目的的行為である」という風にも表現できる。〔しかし、これを正しく理解するためには目的という概念について正しく理解しておかなければならない。しかるに、最近の様子をみると〕自然と思考とを誤解した上で自然の方が思考より高いのだとする説が出たり、あるいはもっとも手近なところでは〔啓蒙派の〕外的合目的性〔の見地〕を〔カントが批判して〕追放したりしたために、〔目的概念の誤った使用のみならず〕目的という形式〔概念〕が一般に信用されなくなってしまった。しかし、アリストテレスも自然を合目的的行為と規定しているように〔目的概念や目的論的見方は決して全面的に排除されるべきものではないのであって〕、目的とは、無媒介のもの、静止しているもの、〔他者を〕動かしながらそれ自身は動かないもの〔不動の動者〕である。だからそれは主体なのである。目的の持つ動力を抽象的〔論理的〕に取るならば、それは自己分裂であり、あるいは純粋な否定性である。〔目的論的関係において〕結果が始まりと同じなのは、その始まりというのが目的〔結果において実現されるべきもの〕だからにすぎない。あるいは、実現されたものがその概念〔観念=出発点〕と同じなのは、〔出発点に〕目的として無媒介に立てられたものの中に、自己あるいは純粋な現実〔実現されるべきもの〕が含まれているからにすぎない。実現された目的、あるいは現れ出た現実とは〔その生成〕運動であり、その生成過程を展開したものである。しかし、この生成運動こそその〔目的の〕自己にほかならない。その自己がかの無媒介で単純な〔純粋な〕始まり〔をなした目的〕と同じなのは、その自己が結果であり、自己の内へと還帰したものだからであり、又自己内に還帰したものがその自己であり、その自己は自己関係する相等性であり単一性だからである。

〔これまで、(1)真理は実体である、(2)真理は主体である、(3)真理は全体である、(4)真理は目的であると、同一の内容を持つ四つの捉え方で考えてきたが、続いて今度はこの内容を正しく表現する方法の問題を考えてみようと思う。〕絶対者を主体として表現しようと考える人々の中には「神は永遠なものである」とか「神は道徳的世界秩序である」とか「神は愛である」といった命題を使う人がいた。〔これを検討してみると〕これらの命題では真理がいきなり主語〔主体〕として定立されているだけで、〔言葉によって主体だと言われているだけで、実際に認識の運動によって〕自己自身へと自己反省する運動〔つまり主語の運動=主体〕として表現されていない。この種の命題は「神」という防で始まる。〔しかるに〕この神という語もそれだけでは無意味な発音であり、単なる名前にすぎない。それが何であるかは述語が初めてそれを示すのであり、〔したがって〕述語こそ〔空虚な〕主語を充実させ、それに意味を与えるものである。主語においては空虚なものとして始まったこの知が本当の知〔意味をもった知〕になるのは、その終点の述語においてでしかない。だから、それならなぜ無意味な発音〔にすぎない主語〕を付け加えたりしないで、永遠なものとか、道徳的世界秩序とか、あるいは古代ギリシャ人がしたように、存在とか一者といった純粋な概念について、要するに意味を持つものだけについて語らないのかという疑問はいつまでも残るのである。

しかし、〔これらの命題を立てる人の考えをもう少し好意的に考えてみると〕この神という語〔を主語として立てること]が示していることは、そこに定立されているものは存在とか本質とか普遍者一般とかではなく、自己内反省したものつまり主体なのだということであろう。しかし、〔そうだとしたら、それを命題という形で主張するのは拙いやり方で、それでは主体が定立されていることが証明されたことにならず〕それはただ先取りして断言されているにすぎない。〔というのは、このやり方では〕主語〔とされた神〕は固定した点として仮定され、それを自己の支えとして述語が付加されるのだが、〔その時〕その述語を主語に付加する運動がこの主語を知っている人の行う運動〔認識主観の運動〕にすぎず、その主語自身の運動とは考えられていない〔からである〕。しかるに、この述語を主語に付加するこの運動を主語自身の運動としない限り、この内容が〔実際に〕主体として表現されることはないのである。この運動がこのように外部で主語を知る者の運動とされている限り、それは主語自身のものにはなりえない。しかるに、〔主語として〕固定した点を前提する限り、この運動はこれ以外のものにはなりえず、主語に内在するものにはなりえないのである。したがって、絶対者が主体であるということを先取りして断言するだけのこのようなやり方は主体概念の本当のあり方でないばかりでなく、それを不可能にさえしてしまうものである。この先取りは主体概念を静止した点として立てるが、本当の主体概念は〔自己反省的〕自己運動なのである〔したがって、主体概念を確立するためには認識と叙述の方法についても考え直し、正しい方法を見出さなければならないことになる。次にこの点について批判的・否定的にではなく、積極的・肯定的に私見を述べておこう〕。

上に述べたことから出てくる多くの帰結の中で特に取り出して述べたいことは、知は科学となり「体系」となることによってしか本当のものにはなりえないし、本当には叙述されえないということである。言い換えるなら、哲学のいわゆる根本原則とか原理とかは、たとえそれが〔それ自身としては〕真であっても、それが根本原則ないし原理にすぎないという理由だけで、すでに偽でもあるということである。だから、根本原則を反駁するのは容易なのである。反駁というのはその欠陥を示すことだが、根本原則は〔抽象的〕普遍にすぎず原理にすぎず始まりにすぎないが故に、欠陥を持っているからである。その反駁が根本的なものであるなら、それはその根本原則自身から取り出され展開されたものであって、それと反対の断言や〔その根本原則とは無関係な〕思いつきを外から対置したりしたものではない。だから、その反駁は〔反駁という〕「否定的な」行為であるばかりでなく、〔根本原則を〕前進させた結果であるという点で肯定的な面も持っている。この点を見るならば、〔根本原則の〕反駁とは、原則を展開し、その原則の持つ欠陥〔不十分性〕を補うことなのである。

始まり〔原理〕を遂行する本当の肯定的なやり方は、同時に、逆にその始まりに対して、つまりそれが初めはまだ直接的にすぎず目的にすぎないという一面的な形式に対して否定的に振る舞うことでもあるのである。だから、それ〔原理の展開〕は体系の根拠となるもの〔原理〕の反駁と見ることもできるのだがしかし体系の根拠とか原理は実際には体系の始まりにすぎないことを示しているのだと取る方が正しいだろう。

〔この段落では私見を積極的に要約して述べてきたが、終りにあたって、私見は私がまったく新しく主張するものではなく、キリスト教の考えの中に潜在していたものを純化したものであることを述べておきたいと思う。〕真理は体系となることで初めて本当の姿となるとか、実体は本質的には主体であるという考えは、絶対者〔神〕を「精神〔霊〕」と捉える考え方に表現されている。精神という概念は最も崇高な概念であり、〔キリスト誕生以降の〕比較的新しい時代とその宗教〔キリスト教〕に属する概念である。精神的なものだけが「現実的な」ものである。それは〔まず第一に〕本質あるいは潜在態である、〔第二に〕それは振る舞い、規定されており、他在であり、自覚的・顕在的である。そして〔第三に〕この規定されたあり方、自己の外へ出たあり方の中にあってなお自己自身の内にとどまる、つまり絶対的である〔精神的なものが現実的であるとはこういうことである〕。

しかし〔精神的なものはこれら三つの契機を同時に持つといっても、それ自身が潜在的なことであって、いつでもどこでも顕在的にこの三契機が共に前面に出ているわけではない。つまり〕この精神的なものが絶対的であるということは、最初は我々〔哲学者〕にとってあるいは潜在的にそうであるにすぎない〔第一段階}。つまりそれは精神の「実体」であって〔精神の主体となったあり方ではない。したがって〕、それは自覚的にも絶対的にならなければならず、精神的なものの知となり、自己を精神として知らなければならない〔第二段階〕。つまり自己を対象としなければならないのだが、それが又ただちに止揚され自己内反省した対象でなければならない〔第三段階〕。〔第一段階でも〕精神の内容が精神自身によって産出されたものである限り精神は自己に対面しているのだが、〔第一段階では〕それも我々にそうと知られているだけである。しかし、〔第二段階で〕精神がそれを自覚するようになると、この精神の自己産出つまり純粋な概念が、同時に精神が対象世界に存在するための地盤にもなる。かくして〔第三段階の〕精神は自こ刀存配乃中で自覚妁に自己内反省した対象である、ということになるのである。

そのように自己を展開し自己が精神であることを知った精神が科学〔ヘーゲルの論理学〕である。それは精神の本当の姿であり、精神が自己固有の地盤の中に打ち立てる王国である。
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やっぱり9番はがんばってます。

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