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市民にたいする戦争 根なし草にする

『ヨーロッパの内戦』より 市民にたいする戦争

二つの世界戦争は内戦の特徴を帯びるが、それはまずこれが全面戦争として行なわれたからである。一九一五年に現われたこの語は、あらゆる西欧言語で急速に一般化し、二〇年後、ドイツの将軍エーリヒ・ルーデンドルフの同音異義名の著作によって認知された。全面戦争は定義からして古典的な境界を越えて、伝統的に軍事的領域から除かれていた市民社会の場に侵入した。そうなると、もうたんに前線だけでなく、後方でも戦うことになる。潜水艦は戦いを海中に持ち込み、空爆は都市を襲った。大陸全体が軍事作戦の舞台になった。市民は戦争に巻き込まれ、軍隊のために生産し、敵の爆弾の標的にもなった。かくして、戦争は「生存競争」に変わり、ルーデンドルフからすると、そのため、それが真の「道徳的正当化」となる。第一次世界大戦で、経済は戦争経済に変わり、「自由放任」の自由主義的公準を再検討に付した。労働者は後方の活動的「労働民兵」となり、女性は、徴兵された男に代わって、祖国への義務の名において大挙して生産活動に入った。文化はプロパガンダに変わり、メディアは検閲に付され、写真報道や映画はュニオン・サクレ[神聖同盟。祖国防衛のための一種の大同団結]を守るため政府の管理下に置かれた。政府は宣伝情報事務局を創設し、イギリスの歴史家J・アーノルド・トインビーやイタリアのジョアッキーノ・ヴォルペのような知識人が「軍服」で勤務していた。一七九二年から、戦争の論理は国家総動員の論理である。「yuニオン・サクレ」は「十字軍理念の世俗化の試み」にすぎない、とジョン・ホーンは強調している。しかし、一九一四年は戦争の「国有化(総国民化)」、つまりたんに王朝だけでなく国民の問題であることにおいて、また軍事が市民的領域に伝染することにおいて敷居を越えた。この意味において、全面戦争は大陸全体に内戦(市民戦争)として課される。それはこれが、同じ共同体、同じ国家に属する敵対勢力を対立させるからではなく、関係諸国すべての市民社会に深く影響するからである。それゆえ、アレクサンドル・コイレは近代戦争を、その国家にもたらす社会的・経済的・政治的・人口的大変動のため「一種の革命」と見ていたのである。

以前あった戦闘員と市民の規範的区別を壊したのは、近代的な破壊手段の性質そのものである。一九一四年、中欧帝国は経済封鎖に見舞われ、紛争末期に多数のドイツ市民の命を奪うことになるが、その数は推計により異なり、四二四、〇〇〇~八〇〇、〇〇〇人である。前線に近い都市はすぐ軍事的標的になる。そして猛烈に爆撃されるか、ときには破壊される。それは、一九二四年、エルンスト・フリードリヒが小冊子『戦争には戦争だ!』で、多くの詳細な事実で示しているとおりである。占領地域の住民はしばしば義務労働を強いられるが、他方、敵対国の国民は潜在的な「第五列(スパイ)」と見なされ、望まざる外国人として拘禁される。かくして、フランス、ベルギー、ハプスブルク帝国のガリツィアにおいて、占領軍による住民の強制移送の最初の形態を見ることになる。市民にたいする戦争は「その目標が戦場の戦争とは異なる本物の戦争である」、とステファーヌ・オドワン=ルゾーとアネット・ベッケールは強調している。戦争が終わると、誰も、ヨーロッパ社会がどの程度このとてつもないトラウマに揺さぶられたか、無視することはできなかった。すなわち、ひと世代が塹壕で倒れ、国民は貧困化し、国家は借金を背負い、貴族的エリートは失墜し、外交・交易関係は断たれ、政治制度は大きく揺さぶられ、既存体制は反乱運動で異議を申し立てられたのである。

衰退しつつあるオスマン帝国下で、トルコ政府が「スパイ」行為をした廉で百万人以上のアルメニア人を虐殺したのは、こうした戦争の風土においてである。長い迫害の歴史は、トルコ民族主義を急進化し、外来少数民族への敵意を絶滅の企てに変えた全面戦争の文脈において、悲劇的なエピローグを迎えた。アルメニア人は、キリスト教徒として敵ロシアの同盟者であり、ロシア皇帝軍の共同国籍の徴募兵の連帯者であることを咎められたのである。この二十世紀最初のジェノサイドの形と手段は古風だが、その実行は一般化した暴力と全面戦争がもたらした大量死への慣れという危機的文脈から生じた。オスマン帝国内での社会的・経済的・文化的役割のため、アルメニア人は青年トルコ党が推進する民族的均質化過程の大きな障害となっていた。それは近代的民族主義の名において行なわれた最初のジェノサイドであり、多民族から成る旧帝国に代わって出現した西欧型の国民国家の出生証明書なのである。

同じような論理は、戦争末期、中央ヨーロッパとバルカン半島で起こった民族浄化大作戦にも働いている。これは、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』において示しているように、市民権や諸権利のない新しい範躊の人間を生み出した。難民と無国籍者である。一九一四年以前のヨーロッパの秩序が誇りにできた正当性は国民的ではなく、例外を除いて、王朝的、帝国的であった。その崩壊から立ち現われた国家の正当性は、とくに中央ヨーロッパでは、住民の宗教的・民族的・言語的・文化的増蝸に呼応するどころではなかった。国民国家モデルを軸とした新しい政治制度のなかで位置を見出せない少数民族は多かった。古い国際関係機構の分裂が戦後の危機を拡大し、内戦と革命の爆発的混淆を招いた。宗教戦争時代の先人、たとえばプロテスタントのヨーロッパに受け入れられたユグノーとちがって、二十世紀の無国籍者は孤立していた。一九一九年以降、中欧帝国の解体を是認する講和条約の帰結のひとつは、ほぼ一千万人の強制移動である。約百万のドイツ人が旧プロイセン帝国から奪われた領土(ポズナニ、ポンメラニ、高地シュレージェン)から追放されるか、内戦にさらされたバルト諸国から逃げ、二〇〇万のポーランド人が生地の外に新たにつくられた国家の境界内に移動、送還された。旧ロシア帝国の内戦は二〇〇万人以上のロシア人とウクライナ人の大移動を引き起こした。ルーマニア、チェコスログァキア、ユーゴスラヴィアに倣って、ハンガリーはハプスブルク帝国の解体から生まれた国から数十万の自国民を受け入れたが、他方、多数が内戦のためブダペストを離れ、その第一波はベーラークンの共産主義者から逃げ、第二波はホルティ元帥の抑圧を免れようとするものだった。住民の交叉した移動と強制大移動は旧オスマン帝国でもやはり重要だった。ローザンヌ条約(一九二三年)〔旧戦勝国とトルコ共和国のあぃだで締結された講和条約〕はトルコに住む二〇〇万人以上の正教徒のギリシア人とギリシアに住む四〇万のトルコ人の追放を定めている。ギリシアは難民に侵入され、以後人口の四分の一を占め、アテネとテッサロニキは人口が二倍になった。ヌイイー条約(一九二三年)〔パリ郊外のヌィィーで戦勝国とプルガリァのあぃだで締結された講和条約〕によって、五二、〇〇〇人がブルガリアからギリシアに移り、三万人が逆のコースをたどった。

ジェノサイドの生残りの三〇万人以上のアルメニア人は戦後トルコから出た。ドイツが始めて、次にソヴィエト・ロシアが白軍移民にたいして行なったように、多数の難民が出身国から国籍を剥奪されたので、一九二一年、国際連盟は難民高等弁務官事務所を創設し、ノルウェー人フリチョフ・ナンセンを長として、無国籍者に必要な書類を交付したが、とくにロシア人とアルメニア人がその恩恵にあずかった。この大量の故国喪失者に、一九三三年からはナチ・ドイツを逃れるユダヤ人が加わり、やがてオーストリアとチェコスロヴァキアのユダヤ人がつづき、その総数は、第二次世界大戦には約四五万人に達した。一九三九年、ほぼ同数のスペイン共和派がフランス国境を越えた。この大変動は、国境の再編で政治的対決と内戦の結果を承認したヨーロッパの危機の所産であった。

ハンナ・アーレントにとって、無国籍者の出現、この法的な認知・保護のない個人は近代性の逆説を示すものであった。彼らは啓蒙主義の哲学が公準とした抽象的な人間性を体現し、また同時に、「アウトロー」でもあるが、それは彼らが法に反したからではなく、たんに彼らを市民として認めうるいかなる法もないからである。「法の道具としての国家から国民の道具としての国家への変化」は無国籍者がたんに祖国を失っただけでなく、新しい祖国をもつことができなくなるという、前代未聞の状況を生み出した、と彼女は述べている。「数十万の無国籍者の到来によって国民国家にもたらされた最初の重大な侵害は、保護権、かつて国際関係の領域で人権の象徴として現われた唯一の権利が破棄されたことである」。それは、歴史の皮肉からか、エドマンド・バークのような保守派を正しいとするような状況である。一七九〇年から、彼は啓蒙哲学が説いた人間性という普遍的概念を意味のない抽象観念として批判し、これにたいして、「イギリス人の権利」、すなわち、英国貴族に代々遺産として伝わった具体的な特権を対置しな。政治的権利を奪われたので人間社会から追放された「アウトロー」として、無国籍者はしばしば収容所に拘禁された。またアーレントはこうつづけている。政治的共同体、より正確には国家という実体に属さないで存在することを唯一の欠陥とする、この人間集団の拘禁は、一九三〇年代のヨーロッパにおいて、この「余分な」存在をナチの絶滅収容所に送るというプロセスの第一歩であった。「ガス室を稼働させる前に、ナチは問題を綿密に検討し、いかなる国もこうした人びとを引き受けるつもりがないことを発見して大満足だった。知っておかねばならないのは、完全な権利剥奪の状況が、生存権が問題にされる前に生まれたことである」。

無国籍者の運命に関するこのアーレントの考察は、第一次世界大戦とヨーロッパの瓦解から生まれた文脈におけるュダヤ人ジェノサイドの前提を見定めている。しかしまた、歴史の舞台にこの大量の無国籍者が突然出現したことには、ヨーロッパの内戦の前兆がある。政治的共同体から追放されたアウトローとして、無国籍者は内戦における敵といくつかの特徴を共有するが、ただしそれは、戦闘員ではなく、保護のないアウトローという身分のため、彼らは先験的に犠牲者の役割を強いられるという違いを除いてである。それゆえ、彼らは、一九一四年から始まるヨーロッパの危機の象徴的存在となるのである。
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ドローンとカミカゼ

『ドローンの哲学』より ドローンとカミカゼ

ヴァルター・ベンヤミンはドローンについて考えていた。一九三〇年代中葉に軍事思想家たちがすでに思い描いていた遠隔操作飛行物体についてだ。この事例は、ベンヤミンにとって、近代産業を特徴づける「第二の技術」と、先史時代の技術にさかのぼる「第一の技術」との差異を示すものだ。彼によれば、両者を分かつものは、一方が他方にくらべて劣るとか古風かどうかにではなく、「傾向性の差異」にある。「第一のものは人間をできるだけ関わらせるのに対して、第二のものはできるだけ関わらせない。言ってみれば、前者について讃えるべきは犠牲をはらう人間だが、後者については、電波によって遠隔的に指令を受ける、パイロットのいない飛行機である」。

一方には、犠牲の技術が、他方には、遊戯の技術がある。一方には、全面的な関わりが、他方には、全体的な離脱がある。一方には、生を有した行為の特異性が、他方には、機械的な挙措の際限なき反復可能性がある。「一回かぎり--これが前者の技術の標語である(失敗すれば取り返しがつかなくなるし、成功すればその犠牲は未来永劫模範的となる)。一回などはどうでもよい--これが第二の技術の標語だ(その目標は、絶えず変化を加えつつ、使用経験を繰り返すことにある)」。一方には、カミカゼが、すなわち、一回かぎりたった一度の爆発で自壊する自爆攻撃犯が、他方には、何事もなかったかのようにミサイルを繰り返し放つドローンがある。

カミカゼでは戦闘員の身体が武器と融合しているのに対して、ドローンでは両者は根本的に分離している。カミカゼにおいて私の身体は武器である。これに対して、ドローンでは、私の武器は身体をもたない。前者は行為者の死を伴うが、後者はこれを絶対的に排除する。カミカゼの実行者にとって、死は確実であるのに対し、ドローンのオペレーターにとって、死は不可能である。この意味では、これらの二つは、死に晒されるという脅威についての二つの対立した極を表している。これら二極のあいだにいるのが、死の危険に晒された人間という古典的な戦争の戦闘員である。

「自爆攻撃」と言われるが、その対義語はなんだろう。自分の生命を危険に晒すことなく爆発によって殺害を行なえる者を指す固有の表現はない。こうした人物にとっては、たんに、殺すためには死ぬことが必要ではないばかりでない。この場合には、殺しつつ殺されることが、不可能なのだ。

ペンヤミンが右の進化論的な図式に言及しているのは、実際にはそれをさらに転覆させるためにほかならないのだが、そうした進化論的な図式とは逆に、カミカゼとドローン、犠牲兵器と自己保存型兵器は、先史時代の後に有史時代が来て一方が他方を追い払うように、直線的な時系列上で一方の後に他方が来ているわけではない。逆に、両者は、二つの相対立する戦術が歴史的には相互に呼応しながら結合して出現している。

一九三〇年代中葉、無線通信会社RCAの技術者が日本の兵器についての記事を読み、極度の不安を覚えた。日本人が、自殺飛行機のためのパイロットの中隊を形成しはじめたことを知ったのだ。パール・ハーバーの悲劇的な奇襲のはるか前に、この技術者ツヴォルキンは、この脅威がどれはどのものかを捉えていた。「もちろん、この方法の実効性については論証の余地があるが、しかしこのような部隊で心理的な訓練が可能になれば、この兵器はもっとも危険なものとなるだろう。こうした方法がかの国で導入されるかどうかを予期するのは困難なので、われわれとしては、問題の解決についてはわれわれの技術的な優越性を信頼しなければなるまい」。当時のアメリカにはすでに、航空魚雷に使用できる「無線コントロール飛行機」の原型はあった。しかし、問題は、この遠隔操作マシンが盲目であることであった。「それらを操作する基地との視覚的なコンタクトが断たれてしまうと、その実効性は失われてしまう。明白なのは、日本人はこの問題への解決を見つけたということだ」。彼らの解決、それがカミカゼだ。パイロットには目がついており、死ぬ備えができているため、パイロットはマシンを最後まで標的に向かって導くことができるのだ。

しかし、ツヴォルキンは、RCAにおけるテレビ開発の先駆者の一人でもあった。そして、もちろんそこにこそ解決策があったわけだ。「自殺パイロットと同じ効果を実質的に得るための可能な手段の一つは、無線でコントロールした魚雷に電気の目をつけることだ」。そうなれば、オペレーターは標的を最後まで見届けることができ、無線指令によって接触点まで視覚的にその武器を導くことができるだろう。

飛行機のキャビンには、パイロットの電気的網膜だけを残し、身体のほうは、別のところ、敵の対空防衛兵力の射程外に遠ざけておくのだ。このような遠隔画像と遠隔指令された飛行機とを連結させる原理でもってツヴォルキンが発見したものこそ、のちになるとスマート爆弾ないし軍用ドローンと呼ばれることになる方式なのである。

ツヴォルキンの文書で特記すべきなのは、彼が、ドローンの祖先を反カミカゼとして構想していた点だ。しかも彼は、自分の理論的な考察の冒頭からそうしているのだ。それは論理的な、定義上の観点からばかりではなく、わけても戦術的な面でそうだ。すなわち、ドローンはカミカゼに対し解毒剤として呼応すると同時に、双子星としても呼応するというのだ。ドローンとカミカゼは、爆弾をその標的まで導くという同じ問題を解決する、対立した二つの実践的な選択肢を提示する。日本人が彼らの犠牲的道徳の優越性によって実現しようとしたもの、それをアメリカ人は彼らの物質的なテクノロジーの優位性によって成就しようとしたわけだ。前者が心理的な訓練や、英雄的な犠牲の道徳によって到達しようと期待したものは、後者にとっては、純粋な技術的な方策によって実現すべきものであった。ドローンの考えの起源は、生きるか死ぬかについての倫理的-技術的な経済のなかにある。そこで、テクノロジーの力が、もはや要求しえない犠牲の代わりをなすわけだ。一方には、大義のためには自らを犠牲にする備えをもった戦士という価値があるのに対し、他方には、もはや幽霊のようなマシンしか残らないのである。

今日、このようなカミカゼと遠隔兵器の対立がふたたび現れている。自爆攻撃と幽霊攻撃の対立だ。こうした極は、まずは経済的に設定される。そこで対置されるのは、資本とテクノロジーを所有する者たちと、戦うためには自分の身体しかもはや残っていない人々である。しかし、このような物質的かつ戦術的な二つの体制には、倫理的次元の二つの体制、すなわち一方の英雄的犠牲の倫理と、他方の自己の生命の保存の倫理が対応している。

ドローンとカミカゼは、道徳的感性についての二つの対立したモチーフのように、たがいに呼応しあう。鏡で向かいあう二つのエートスだ。それぞれは他方のアンチテーゼであり、悪夢であるというわけだ。少なくとも表面的に見て、この差異においては、死に対する関係をどう考えるかが重要だ。自分の死か他者の死か、犠牲か自己保存か、危険か勇気か、脆弱性か破壊性か。一方は死を与え、他方は死に身を晒すという、死に対する関係についての二つの政治的-情感的な経済だ。しかしそれはまた、恐怖についての対立した考え方でもある。つまり、二つの恐怖の見方だ。

『ワシントン・ポスト』紙の編集者であるリチャード・コーエンは、次のような見方を示している。「タリバンの兵士に関しては、彼らは自分の生命を大事にしないだけではない。それだけでなく、彼らは自爆攻撃で自分の命を無駄に浪費しているのだ。アメリカのカミカゼを想像するのは困難だ」。さらにこう主張する。「アメリカのカミカゼなど存在しない。われわれは、自爆攻撃の実行犯を讃えたりはしないし、テレビカメラで子どもたちの行進を写して父親の死についてほかの子どもたちが嫉妬するように見せつけることもしない。われわれにとって、それは厄介なことだ。ひるんでしまう。率直に言って、おぞましいことだ」。さらに愛想よくこう付け加えている。「しかし私たちはあまりにも生命を大事にしようとしすぎているのかもしれない」。

「厄介」で、「ひるんでしまう」、「おぞましい」こと、それはつまり、戦いのなかで死ぬ備えができていること、それを誇りとすることである。兵士の犠牲という古き偶像は台座を失い、直接敵の懐へと落ちてゆき、最悪の引き立て役、道徳的な恐怖の極みとなる。自己犠牲は理解できない下劣なものとなり、もしかすると、そこにはむしろ死をものともしない態度があるのではないかと考えもせず、即座に生命の軽視と解釈される。これに対して、生命への愛という倫理が対置されるわけだIそして、ドローンはおそらく、その完璧な表現なのだ。究極の愛嬌というべきか、「われわれ」こそ、しばしば過保護すぎるかもしれないが、雛を温めるように生命をこんなにも大事にしていると自分で認めているのだ。これはどの自己満足が虚栄心を疑わせるのでなければ、こうした過度の愛はたしかに大目に見ることのできるものかもしれない。というのも、著者が掲げるのとは異なり、「われわれ」が大事にしているのは、われわれの生命なのであって、すべての生命一般ではないからだ。思考可能なものの地図のなかの空白のIコマのように、アメリカのカミカゼを思い描けない理由は、それが撞着語法だからだ。そこでは、生命は自らを否定することはできない。なぜなら、否定できるのは他者の生命だけだからだ。

ガザの精神衛生プログラムの責任者であるエヤド・エル=サラジは、あるジャーナリストから「パレスチナの人々は、自分の近親者の生命であっても、人間の生命を大事にしないというのは本当なのでしょうか」と問われ、次のように返答している。「もしあなたが敵にも人間性があると信じなければ、自分自身に人間性があるとどうして信じることができるでしょうか」。

恐怖には恐怖を。自分の生命を失う危険に身を晒すことなく人を殺すことは、自らが手にかけた犠牲者と運命を共にしつつ人を殺すことよりも、どの点でおそるべきことではないのだろうか。いささかの危険もなく殺人を可能にする武器は、その反対物よりも、どの点でおぞましくないのだろうか。ジャクリーヌ・ローズは、「クラスター爆弾を上空から投下することは、西洋の指導者たちにとっては、よりおぞましくないだけではなく、道徳的に優位なものと考えられている」ことに驚愕し、こう問うた。「自らが手にかけた犠牲者と共に死ぬことが、犠牲者を死なせつつ自分自身だけそこから免れることにくらべて、いっそう罪が重くなる理由は、明白なものではない」。ヒュー・ガスターソンは次のように付け加えている。「火星からきた人類学者ならば、中東では多くの人々が、アメリカのドローンによる攻撃を、リチャード・コーエンにとっての自爆攻撃とまさに同じようにして感じとっていると指摘できるだろう。そこでは、ドローンによる攻撃は卑怯な行為と広くみなされている。というのも、ドローンの操縦士は、自分が攻撃する人々から殺されるリスクを微塵ももたずに、ネヴァダ州のエアコンの効いた温室という安全な場所から、地上の人々を殺しているのだから」。

タラル・アサドは、「西洋」社会において自爆攻撃が引き起こした恐怖は以下の点に基づくと述べている。すなわち、自爆攻撃の実行犯は、その行為によって、配分的正義のメカニズムをすべてアプリオリに禁じてしまう、という点だ。つまりこういうことだ。それは、自らが手をかけた犠牲者と共に死ぬこと、たった一度の行為で罪と罰とを凝結させることであるが、それによって罰を与えることが不可能になり、それゆえ、刑法的に考えられる正義の根本的な権限が無効になってしまうのである。「自分がしたことを償う」ことができなくなるのだ。

操縦士なきマシンによって引き起こされる管理された死という発想がもたらす恐怖は、おそらくその類似物にも関わるだろう。ガスターソンは次にように述べている。「ドローンの操縦士が自爆攻撃の鏡像であるのは、それが、われわれの典型的な戦いについてのイメージから--方向は逆なのだが--逸れているという意味において慾」。
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第二次ポエニ戦争とイベリア半島

『B.C.220年帝国と世界史の誕生』より ローマ帝国の形成とスペイン 前三世紀のローマとイベリア半島

戦争前から先住民と接触があったのは、カルタゴ人である。前出のハスドルバルは、早くからイベリア人と友好的な関係を築くことに心を砕いていた、と伝えられる。彼はイベリア人のある部族長の娘と結婚し、全イベリア人から「至上の将軍」または「王」と呼ばれた。また、前にも述べたとおり、カルタゴ・ノウァを建設した。そしてそこに、カルタゴとの往来に至便な大規模港湾施設を整え、さらに「王宮」を造営した。

ハスドルバルはまた、前二二六年頃にローマとのあいだに、イベリア半島の勢力範囲をめぐる条約を結んだ。この条約の内容や意図については、現在も論争が続いている。しかし、どうやらカルタゴ人は半島東部のエブロ川を、武器を携えて渡河しないと約定したらしい。ピレネー山脈と並行して南下し、地中海にそそぐエブロ川は、その西にイベリア半島のほぽ全域を控えている。他方、その東でピレネーの切れ目を越えればガリアの地(現在のフランスなど)だ。条約の目的は措くとして、ローマもイベリア半島におけるカルタゴの勢力を承認していたということは確かなようである。このように、すでに第二次ポエニ幟争勃発より一〇年ほど前から、バルカ一門はイベリア半島南部において一門の地歩を確立し、さらに半島のほかの部分に勢力を拡張しつつあった。

とはいえ南部以外では事情は異なった。

ハスドルバルの死後、義弟のハンニバルが後継者となり、ハスドルバルの方針を引き継いだ。ハンニバルもまたイベリア人部族長の娘を妻とし、半島南部で先住民との良好な関係構築に腐心した。その一方で、ハンニバルは前二二一年から軍を率いて北上し、ドゥエロ川とエブロ川のあいだのケルトイベリア人ウァッカエィ族などを攻撃して降伏させている。彼のこの行動は、ハスドルバルが生前から立てていた方針を踏襲したものだった。北部の先住民(おもにケルトイベリア人)は、軍事力で服属させるべき相手だったのだ。カルタゴ人は、イベリア半島内部の小世界ごとに対応を変えていたということである。

ところで、前二一八年の宣戦布告後、ローマの将軍プブリウス・スキピオがいったんイベリア半島に向かったが、イタリアに進軍したハンニバルを追って、自分もイタリアに戻ったことはすでに述べた。しかしこの時彼は、軍の大部分をイベリア半島に向かわせ、自分の兄グナエウスにその指揮を任せた。そして結局は、プブリウス自身も前二一七年にはイベリア半島に戻り、イタリアでのハンニバルの席巻を尻目に、イベリア半島で作戦を継続することになったのである。これはなぜだろうか。

理由は、イタリア半島のハンニバル軍にとっての主要な輯重補給源が、なんといってもイベリア半島だったことにある。具体的にはまず武器、食糧、金銭である。ハンニバルは先のイベリア半島制圧の過程で、降伏した諸都市の居住地から、多くの食糧、金銭を略奪するか、あるいは供出させていた。もう一つ、バルカー門がイベリアぶで開発した鉱山がある。ここから産出される銀は、カルタゴの幟賢を賄石た。ハンニバルは、イベリア半島からこれらをイタリアに輸送させようとしていた。もう一つ重要なのは、イベリア半島が、戦闘に必要な人員をカルタゴ側に供給していたことである。ハンニバル軍には、アルプスを越えてイタリアにはいった時点で、一万二〇〇〇人のカルタゴ歩兵とならんで八○○○人のイベリア人歩兵がいたという。またハンニバルはイベリア防衛のために半島に残した弟ハスドルバル(義兄と同名の人物)の手元に、五七隻の軍艦、二一頭の軍象、一万二六五〇人の歩兵を残したが、そのなかにも多くの先住民がいた。さらにアフリカ本国の防衛のためにも、多くのイベリア先住民が派遣されている。これらイベリア出身の兵は、一部はカルタゴの要請に応じて各部族から供出され、一部は傭兵としてカルタゴに雇われていた。

このように、戦争中もイベリア半島は、ハンニバルにとって重要な意味をもった。したがって、先住民との関係維持も、戦争に勝つために必要不可欠なものであった。しかしその関係が単純でないこともわかる。相手によっては供出される兵を頼り、または傭兵として雇用関係を結びつつ、別の相手とは彼らの都市から金品を略奪したり、人質をとったりしている。こうした相違は、基本的に南部のイベリア人と、北部のケルトイベリア人とのそれぞれの小世界に対応している。しかしそれぞれのなかでも部族単位で、友好的関係と軍事力による強制の微妙なバランスの違いがあった。第二次ポエニ戦争中のカルタゴ人とイベリア先住民の関係を見渡していえることは、少なくともこの時点でカルタゴがイベリア半島全体を統治しているとか、先住民を一律に支配したとかといった状況は、そこにはなかったということである。

これは、イベリア半島に本格的に進出してきたローマ人にもあてはまる。みてきたとおり、ローマ軍がイベリア半島で作戦を展開したのは、戦略上の必要性があったからだ。この段階で、イベリア半島を恒常的に支配しようという意図はない。はじめて足を踏み入れるイベリア半島で、スキピオ兄弟がまず取り組まねばならなかったのは、現地住民のなかに作戦上の協力者を見出すことであった。

最初にイベリア半島に上陸した兄のグナエウスは、まず沿岸部の先住民諸部族の居住地を攻略した。しかしその後は、住民を懐柔し、そこから兵員を得てエブロ川流域への進軍をおこなっている。弟のプブリウスが到着して、前二一七年の夏頃までめざましい勝利をあげたのち、ハスドルバルの人質となっていた先住民の有力者子弟が、スキピオ兄弟のもとに逃亡してきた。遅くとも前二二二年までには、口ーマ人もまた現地住民を傭兵として雇い入れていたようである。逆に前二一六年にはハスドルバルに対して、本拠地であるグアダルキヴィル川流域の諸部族(つまりイベリア人)が、反乱を起こしている。この年、カルタゴ本国がハスドルバルに対し、兄を援護するためにイタリアに渡るよう指令を送った。しかし、ハスドルバルは断った。理由は、自分がイベリア半島を離れるという噂が流れただけで、カルタゴ側にとって致命的な打撃になるであろう、というものであった。つまり先住民の、ローマ側への寝返りの怖れがぬぐえないということである。

しかしそれは、先住民が全面的にローマ人側に味方したということではない。スキピオ兄弟は、そのことを極めて厳しいかたちで思い知らされた。前二一一年、すでにグアダルキヴィル川流域にまで迫っていた彼らは、別動作戦をとっていた。この時、ハスドルバル軍に対峙していたグナエウスのイベリア人傭兵が、ハスドルバルの扇動によっていっせいに脱走し、グナエウスは後退せざるをえなくなった。一方、プブリウスの軍は、カルタゴと同盟関係にあったヌミディア王国(現在のアルジェリア北部一帯)の軍に包囲されていた。そこへ、ハスドルバルに与するケルトイベリア人スェセタニィ族とイレルゲテス族が、ハスドルバルの救援に近づいているという情報がはいった。プブリウスがこれを迎え撃とうと陣を離れたタイミングで、ヌミディア軍が彼の軍を急襲した。ローマ軍は敗北し、プブリウスは戦死した。さらに、弟と合流しようとして移動中だったグナエウスの軍も追撃されて、潰走のなかでグナエウスも戦死した。

このように、先住民の動向いかんによっては、ローマ軍が破滅する結果にもなったのだ。戦況自体は、前二一○年にプブリウス・スキピオの同名の息子がイベリア半島に着任して、ローマ側に好転した。このスキピオが、のちにカルタゴ本拠地を叩いて、長く苦難の連続だった第二次ポエニ戦争をローマの勝利に導いた人物である。彼はその功績を讃えられ、スキピオー・アフリカヌスと呼ばれた。しかし、やはりアフリカヌスと呼ばれた養孫、小スキピオと区別して「大スキピオ」とも呼ばれるので、ここでも彼をそう呼ぶことにしよう。大スキピオはギリシア圏の夕ラコ(現タラゴナ)を拠点としつつ、カルタゴ・ノウァ攻略に成功し、カルタゴ軍を一気にグアダルキヅィル川流域に押し返した。ついで前二〇八年には、グアダルキヴィル川上流バエクラ(現在のカスロナ近く)でのハスドルバル軍との戦闘を制した。さらに前二〇六年初頭にイリパ(現在のセヴィリア近く)の戦いで、カルタゴ軍の最後の抵抗を打ち破った。

ここで大スキピオ着任以降の、先住民の動向をみておこう。大スキピオがカルタゴ・ノウァを攻め落とした時点で、カルタゴ側に味方していた先住民のなかからローマ側に走る者が続出した。例えば、父のプブリウス敗死の際には、ハスドルバル側たったイレルゲテス族もそうである。大スキピオは彼らに、カルタゴ・ノウァの戦闘で確保した、同族の女性たちを返還したという。彼女たちは、おそらくハスドルバルに人質として差し出されていたものであろう。バエクラの戦いを制した大スキピオのもとには、さらに多くの諸部族が集まった。彼らは大スキピオを、自分たちの王と呼ぼうとした。大スキピオはこれを断って、「将軍」と呼ぶように求めた。

しかし、すべての先住民が彼の側についたわけではない。イリパの戦いでは、スキピオ側には、ケルトイベリアのある部族の首長クルカスなる人物がいた一方で、カルタゴ軍のかたわらには、グアダルキヅィル川流域のトゥルデタニィ族が並んでいた。史料でトゥルデタニィ族と呼ばれる人々のなかには、その実さまざまな部族が含まれていたと考えられている。グアダルキヴィル川流域の広範川なイベリア人が、カルタゴ側についたということであろう。ローマの勝利が明らかになった時、トゥルデタニィ族の首長らは、カルタゴ側将軍に対して、夜陰にまぎれて撤退するように助言したという。この助言に従った将軍たちは、わずかな兵員とともにかろうじてスキピオの追撃を逃れ、アフリカに逃げた。イベリア半島における、ローマのカルタゴに対する勝利が決定したのであった。大スキピオは翌年に帰国して執政官に就任し、その後前一八○年代半ばまで、元老院最大の発言力を保ち続けた。

ここまで、第二次ポエニ戦争のイベリア半島における、カルタゴ人、ローマ人と先住民との関係を追ってきた。以上からみえるのは何よりも、第二次ポエニ戦争中に先住民はカルタゴ人、ローマ人双方に対して多様な関係を結んでいたということである。地域による違いもあっただろう。また、カルタゴ人の場合はとくに、戦前の関係も影響したようである。しかし戦前からカルタゴ人と友好関係にあったグアダルキヴィル川流域のイベリア人ですら、場合によっては反乱を起こしている。どちらの陣営とどんな関係を結ぶかは、最終的には状況に応じて部族ごとの判断で決められていたようである。彼らはカルタゴ人に与して、カルタゴ人のリーダーを「王」と呼ぶこともあったが、ローマ側が優位に立つとローマ側に走り、その将軍をまた「王」と呼ぼうとした。日和見といえばそうであろう。しかし別の見方をすれば、第二次ポエニ戦争前および戦争中のイベリア人諸部族は、他者とどう向き介うのか自律的に決めつつ、部族の利害を護っていたということである。カルタゴ人もローマ人も、その先住民を支配していたとはいいがたい。彼らにできたことは、そうした先住民諸部族とどう向き合い、どう利用することができるのかを考え、行動することであった。それを読み誤れば、スキピオ兄弟のように破滅を招くことになったのだ。
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