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未唯宇宙7.1.1

7.1.1「放り込まれた」

 生活編の最初は、考えるその動機が放り込まれた。コレってよく考えると凄いよね。この世界がどうなってるかよくわかんないから考える。ある意味では当たり前です。

 分からないから考える。単にそれだけです。

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哲学者の死にかた

『哲学者190人の死にかた』より

 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(一八八九-一九五一年)

  哲学史に対するウィトゲンシュタインの無知は伝説的である。そして残念なことに、彼の信奉者の多くにも同じような無知が認められる。それ故、彼らは優れた才気を欠いているのである。だが、ことによると『論理哲学論考』のなかに、死についてのエピクロスの考えに対する無意識的な共鳴を見出すことができるかもしれない。

   死は生の内にある出来事ではない。私たちは死を経験するまで生きながらえることはできない。もし、私たちが永遠を無限な時間的持続ではなく、無時間性の意味で捉えるならば、そのとき永遠の生は現在に生きる人間に属していることになる。私たちの生は、視覚の領野が限界を持たないのとまさに同じ仕方で、終わりがないのである。

  次の命題のなかで、ルクレティウスにわずかに近づいたウィトゲンシュタインは「謎はいくらかでも私が永遠に生きながらえることによって、解決されるだろうか?」とつけ加えている。

  死の二、三日前のちょうど六二歳の誕生日の後に、ウィトゲンシュタインはこの意見を友人のモーリス・ドルリーに詳説している。

   私はもう長くは生きられないとわかっているが、気づいてみたら「未来の生」について考えた経験がこれまで一度もなかったというのは変ではないか。私の興味のすべてはまだこの人生にあり、私にはまだ書くこともあるのだ。

  ウィトゲンシュタインは死ぬまで哲学の本を書き続け、霊魂消滅やあの世を予期することに悩まされることなく永遠を経験していた。末期癌と診断された後、どうやらウィトゲンシュタインは多くの援護で迎えられえたと言われており、医師のベヴァン夫妻と同居を始めたという。彼は「仕事ができなくなる前に、今、仕事をしておくつもりである」と手紙に書いている。彼の人生に残された二ケ月のあいだで、彼は『確実性の問題』として出版された原稿の全体の半分近くを書いている。『確実性の問題』の最後の断章は、四月二七日の日付がつけられており、その日は彼の死の前日であった。

  哲学者のG・E・ムーアがアメリカ旅行中に発作で苦しんだ後、ウィトゲンシュタインは一九四四年にムーアを見舞ったという逸話がある。医者からの指図を受けたムーアの妻は、友人の滞在が一時間半に制限されていると見舞い客たちに強調していた。だがウィトゲンシュタインだけがこの規則に腹を立て、議論はそれに相応しい終わりに達するまで遮られるべきではないと主張した。その上、ウィトゲンシュタインは、もしムーアが議論をしているあいだに息を引き取ったならば、そのときそれは「勇敢に」死ぬのにまさしく相応しい方法ではないかとつけ加えている。

  ウィトゲンシュタインは勇敢に死んだ。彼はベヴァン夫人との友情を深めた。二人は毎晩六時ともなると一緒にパブに行き、彼女はポートワインを飲み、ウィトゲンシュタインも観葉植物が映るくらいきれいにグラスを飲み干した。ウィトゲンシュタインの誕生日に、彼女は電気毛布をプレゼントし、そして「幾久しく、ご長寿をお祈りいたします」と言った。ウィトゲンシュタインは彼女の背中を見ながら、「次の誕生日は迎えられないでしょう」と答えた。

  ベヴァン夫人は彼が死ぬ夜、夜通し彼の傍にいた。そして、彼女が「ご友人が明日、お見舞いに来てくださるそうですよ」と言ったとき、彼は「彼らに言っておいてください。私の人生は素晴らしいものであったと」と答えた。

  奇妙なことに、ウィトゲンシュタインのためにケンブリッジでカトリック教会の葬儀が催された。カトリック教徒からはまさに遠いところにいたが、レイ・モンクが主張しているように、ウィトゲンシュタインが信心深く宗教的生活を送っていたことは疑いない。ウィトゲンシュタインの生と死は、私たちの時代の聖者の生と死に似ている。それは、厳格、質素、内的苦悩、深く悩ましい性との関係、そして完全な倫理的まじめさによって定義される。

 マルティン・ハイデガー(一八八九-一九七六年)

  ウィトゲンシュタインは第一次世界大戦のとき、無謀にも危険な情況に自らを委ね、対ソ戦線で戦闘部隊に配属されたときには非常に喜んで監視所を占拠する最も危険な任務に志願した。彼は戦闘で非凡な勇気を示し、迅速に昇進した。ウィトゲンシュタインがカルパチア山でロシア兵にはじめて撃たれたとき、彼は次のように言明している。

   昨日、私は銃撃されました。なんと怖かったことか! 私は死を恐れました。私は今、生きたいという欲望を持っています。

  これとは対照的に、ハイデガーは大戦の最後の年に、最初はベルリンで、後にマルネで気象観測部隊に勤務し、天気を予想する危険な業務に従事した。そして、ルカーチやローゼンツヴァイクのように、ハイデガーもまた第一次世界大戦を通じてある種の転向を経験している。彼は「カトリック主義の教義体系」と自ら呼んだものと断交したのである。一九一九年に、南西ドイツにあるフライブルク大学でフッサールの助手に任命されたときから、彼は魅力的で独創的な連続講義と演習を開始し、それが一九二六年[一九二七年]の『存在と時間』の完成となって実を結んだ。この著作の中心は死についての省察であり、この議論は極めて多くの影響を与えている。

  この『存在と時間』は極めて長く、また伝説にもなるほどの難解な著作であるにもかかわらず、その基本となる考え方は極めて単純である。即ち、存在は時間である。つまり、人間にとって、生まれてから死ぬまでのあいだで、存在するということは時間的に実存するということである。存在は時間であり、時問は有限である。即ち、存在は死によって終わりを迎えるのである。それゆえ、もし本来的な人間存在の意味を理解したいならば、私たちは絶えず死の地平に向かって自らの生を企投していかなければならず、つまりハイデガーが「死へとかかわる存在」と呼んだものが不可欠なのである。雑に述べるならば、パウロやアウグスティヌスやルターやキルケゴールにとって、自己が自らを目`出すのは神との関係を通してであった。しかし、ハイデガーにとって、神の存在や非存在の問題は哲学的な問題と何の関連性も持たない。自己は死に直面することを通じて、私たちの有限性から意味を創ることによってのみ、本当に自己であるものになることができるのである。もし私たちの存在が有限であるならば、そのとき人間であることの意味は、ハイデガーが引用することを好んだニーチエの文章のなかの「単独である者になること」によって、この有限性を理解することに存するのである。

  ひどく凝った言葉の装飾にもかかわらず、ハイデガーの「死へとかかわる存在」の分析は、非常に直接的で説得力がある。とはいえ、それは以下のような異論を免れない。ハイデガーは本来的な死だけが自分自身のものであると議論している。ならば、他人のために死ぬことは、彼も書いているように、単純に「自己犠牲」ということになるだろう。この点で、ハイデガーにとって、他者の死は「私」の死に比べると二次的なものであり、「私」の死が主要な問題である。筆者の見解では(こうした批判は、最初にエーディト・シュタインやエマニュエル・レヴィナスによって練り上げられたものであるが)、このような死の概念は間違っており、道徳的に有害である。それどころか、死は親や仲間や子供のような身近な他者の死や、食糧不足や戦争に苦しむ名前さえ知らない犠牲者のような遠くの他者の死を通じて、私たちの世界にやってくると筆者は考える。死との関係は第一位のそして主要な「私」自身の消滅に対する「私」自身の恐怖ではなく、深い悲しみや嘆きの経験によって気が動転した存在についての「私」の意識である。

  また、ハイデガーの死への接近の議論には、驚くほど伝統的なヒューマニズムが働いているともいえる。彼の考えによると、植物や動物が単純に滅びるのに対して、人間だけが死ぬのである。筆者は専門的な知識を持ち合わせていないため、植物の死について語ることはできないが、経験的な調査は高等哺乳類--海豚や象だけでなく猫や犬も--もまた、自身の死と仲間の死の経験を持っていると確かに示しているように思われる。私たち人間は死の感情に心を痛める宇宙で唯一の存在ではないのである。

  一九七五年の冬、ハイデガーが八六歳を迎えたとぎ、友人のハインリヒ・ペツェートは彼を訪ねたが、それが最後となった。ペツェートが去ろうとしたとき、ハイデガーは手を挙げ、そして「そうだ、ペツェート。死が今近づいてきている」と言った。一九七六年五月二六日、すがすがしい夜の眠りから覚めたハイデガーは、再び眠りにつき、そして亡くなった。
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中国における共産主義の勝利

『冷戦史』より

 一九四九年一〇月一日の中華人民共和国の建国宣言は、毛沢東をはじめとする中国共産主義運動の指導者たちにとって、大きな勝利を意味するものであった。というのも彼らは、その二〇年前、蒋介石率いる与党国民党に大敗し、追跡の対象となり、そして消滅寸前まで追い込まれていたからである。しかし中国建国が持った意味はそれだけではなかった。それは、冷戦の性質とその戦場を根本的に変化させ、戦略的にもイデオロギー的にも、また国内政治においても重要な影響を与えたのだ。

 第二次世界大戦中、アメリカのローズヴェルト政権は、巨額の軍事・経済支援を行って蒋介石が率いる中華民国政府を強化しようとしてきた。しかし蒋介石は、より多くの援助を求め、満足する様子を見せなかった。ローズヴェルトには中国軍を効果的な抗日武装勢力にすると同時に、蒋介石政権を、戦後アジア情勢を安定化させ、勢力均衡を維持する役割を担いうる、信頼できるアメリカの同盟国に転換したいと考えていた。こうした目的を果たすべく、ローズヴェルトは一九四三年にエジプトのカイロで蒋介石と会談したのであるが、その前後にイランの首都テヘランで開催された三巨頭会談に蒋介石は招かれてはいなかった。カイロ会談の際にローズヴェルトは、中国は世界大国であると持ち上げ、蒋介石に取り入ろうとした。その後ローズヴェルトは、中国は、アメリカ、ソ連、イギリスと並ぶ「四人の警察官」の一人として、戦後の平和維持に貢献する立場にあると述べてもいる。ローズヴェルトが、このように中国を持ち上げたのは、さまざまな思惑からであった。米中関係の強化を目指していたことに加えて、蒋介石が要求していた更なる物的支援を、アメリカが拒否したことを埋め合わせたり、中国の参戦を維持して、日中間の単独講和締結という悲劇が起こるのを阻止したりすることなどもその目的だった。しかしローズヴェルトが象徴的な外交パフォーマンスを行っても、大戦中に国民政府の首都であった重慶にアメリカが定期的に軍事・外交使節団を派遣しても、蒋介石の軍隊に実効的な軍事的貢献を行わせることはできなかった。

 一九四四年までにアメリカの政策決定者たちは、腐敗と賄賂の蔓延を許す無能な蒋介石政権が長期的に成功する可能性を、見限りつつあった。一方、国民政府の側では、自らの存続に対する主要な脅威は、日本ではなく、中国内の共産主義勢力だと確信するようになっていた。なぜなら、中国がアメリカに対して大規模な支援を行うか否かにかかわらず、同盟国アメリカが日本を打倒することは確実だったからである。一方、日本による占領期間中に毛沢東の優秀なリーダーシップのもと、中国の共産主義勢力は恐るべき軍事的・政治的勢力へと成長し、中国北部および中部の大部分を支配するようになっていた。蒋介石と彼の側近たちは、日本軍による侵略と戦うために人員と物資を割くのではなく、戦後必ず訪れると予想された共産主義勢力との対決に備えて、貴重な資源を節約することを選んだのである。

 一九四五年二月のヤルタ会談でローズヴェルトは、アメリカの対中政策をめぐるジレンマを、異例の手段を用いて解決することを模索した。対日戦に消極的な蒋介石に完全に幻滅していたローズヴェルトは、ヨーロッパでの戦闘が終結してから三ヵ月以内に、ソ連が対日参戦するとの確約を得ることに成功した。スターリンが求めた代償--ソ連による、満洲と外モンゴルにおける帝政ロシア時代の利権の再獲得を支援するというローズヴェルトの約束--はローズヴェルトにとっては納得できるものだった。太平洋戦争の結末はきわめて悲惨な流血の事態になると予想されており、それゆえローズヴェルトは、ソ連参戦によってアメリカ人の死者数を最小限に抑えることを重視していた。八月一四日には中ソ友好同盟条約が締結され、この条約の中で蒋介石は、自らが率いる政府の法的主権をソ連が承認することと引き換えに、ソ連の利権を認めることに同意した。

 このような状況のもとで、中国の共産主義者たちが、彼らが同じイデオロギーを共有する同志と考えていたソ連の共産主義者たちに裏切られた、と感じたのも無理からぬところであった。スターリンが、ソ連の国益に関する打算を、共産主義革命の同志たちが掲げていた大義に対する感情的な思い入れよりも優先したことは明らかだった。実際、スターリンにとっては、統治するのが誰であろうと、強く、統一された中国よりも、弱く、分裂した中国のほうが望ましかった。中国の激しい民族主義勢力が権力を握った場合、すべての中国領に対する主権を主張し、スターリンが切望していた勢力圏を脅かすことになるかもしれない。このような懸念からスターリンは、中国の共産主義者たちがソ連に依存し、従属し続けるような状況を維持したいと考えていた。その一方、リスクを冒すことを嫌がる性格であったスターリンは、アメリカを挑発することも避けたいと考えていた。事実、スターリンは一九四五年八月にソ連軍を中国東北部に進出させて満洲を占領し、満洲その他の国境地帯において新たに獲得した商業上の権益を確保したことで満足していた。スターリンにとって毛沢東は、「マーガリンのような、まがい物」の共産主義者一派を率いる、やっかいで御しがたい新参者に過ぎなかった。それゆえ毛沢東の望みは、ソ連本国の利益よりも後回しにされたのである。

 日本が降伏した後、中国の政治情勢は次第に悪化していった。蒋介石と同じく、毛沢東も、共産党と国民党が真の和平を達成できる公算はきわめて低く、内戦は不可避だ、と読んでいた。八月一一日に出された共産党内部の指令において、毛沢東は、「内戦に備えるべく、力を結集する」よう、党幹部と軍指導部に命じた。一九四五年秋には、共産党軍と国民党軍が中国東北部で衝突し、共産党軍を駆逐するために蒋介石は、アメリカ製の装備と輸送車両を使って激しい攻撃を展開した。こうして、統一された、平和で親米的な中国を実現したいというアメリカの希望は確実にしぼんでいった。中国に駐留していた米軍小隊の司令官であったアルバート・ウェデマイヤー将軍は、蒋介石を徹底的に支援するようアメリカ政府に働きかけた。ウェデマイヤーは次のような見立てを示している。「もし中国がソ連の傀儡国家になるようなことになれば--それが中国共産党の勝利がまさに意味するところであるが--ソ連がヨーロッパ大陸とアジア大陸を実質的に支配することになるだろう」。しかし、アメリカ政府内部には、こうした悲観的な見方に反論する向きもあった。蒋介石が中国共産党を軍事的に敗北させることはできないから、共産党と国民党の交渉で和平を達成するより他には、内戦を回避する方法はない。内戦が発生すれば中国が不安定化することは確実であるから、アメリカの政策目標に重大な損害をもたらす。こうした考えに基づいて、蒋介石は共産党を打倒するのではなく、共産党と妥協する必要があると主張する者もアメリカ政府内部には存在した。そして一九四五年末に卜ルーマン大統領は、当時アメリカで最も尊敬され、かつ優れた軍人であったジョージ・マーシャル将軍を、国民党と共産党の内戦を平和的に解決するための調停役として中国に派遣したのである。

 一九四六年初頭にマーシャルは、一時的な停戦の実現に成功したが、すぐにそれは破綻することになった。蒋介石と毛沢東を互いに妥協させ和解を図るというマーシャルの試みは、究極的には、共産党と国民党の双方が参加する連立政権において、両党が権力を共有することが可能なはずだという幻想に基づくものであった。マーシャルは中立的な立場を維持したが、互いに相手を信頼せず、権力を共有するつもりもない共産党と国民党との間にはどうしようもなく深い溝があったため、彼の試みは失敗に終わった。一九四六年の末までにマーシャルは、この対立を解決する手段は武力しかなく、おそらく蒋介石に勝ち目はないとの結論に至ったが、この見立ては正しかった。トルーマン政権は蒋介石政権に対する支援を続けており、それは日本の降伏から一九五〇年までの間に総額二八億ドルにのぽった。だがそれは、アメリカの支援がなければ、劣勢にある国民党軍が挽回を図ることができないという考えに基づいて行われたものではなかった。むしろ、それは議会とメディアの中国国民党支持者(いわゆる中国ロビー)による攻撃から、トルーマン政権の政治的立場を守るためのものであった。

 一九四八年末までに国民党は敗北し、蒋介石とその側近たちは中国本土から台湾へと逃亡した。一九四九年一〇月に毛沢東は、北京の天安門で中華人民共和国の建国を劇的に宣言したが、このことは単に、多くの専門家たちによって、ずっと以前から予想されていた結末が公式のものとなったことを意味したにすぎなかった。

 中国内戦における共産党の勝利は、基本的には、中国国内のさまざまな潮流が複合的に作用した結果であった。しかし、それは不可避的に、冷戦に対しても大きな影響を与えた。アメリカと蒋介石の関係は不安定で、互いに対する不信感に満ちていたし、ソ連と毛沢東の関係も同様であった。しかし、それでもアメリカが支援する国民政府が、ソ連が支援する共産主義運動の前に敗北を喫したのである。中国での事態の展開に関心を持っていたアジアやヨーロッパ、その他の地域の第三国は、中国内戦の結末は西側にとって大きな敗北であり、反対に、ソ連と世界の共産主義にとって歴史的な勝利だという評価をすぐに下した。またアメリカ国内には、トルーマン政権が、裏切りとは言わないまでも、熟慮の足りない政策によって中国を喪失させたと批判していた勢力がいたが、こうした人々の見方も同様であった。一方、トルーマン政権の政策決定者たちは、中国共産党の勝利は、アメリカにとって大きな鎚鉄ではあったものの、戦略上の大失敗ではないと判断して、その結果をある程度冷静に受け止めていた。第一に、ディーン・アチソン国務長官とその側近たちは、戦争によって破壊され貧困にあえぐ中国を--少なくとも当面の間--世界の勢力均衡において決定的に重要な国だと考えてはいなかった。そのため、中国におけるアメリカの利害は、ヨーロッパや日本はもとより、中東におけるそれと比べてすら、同じような重要性を持つものではなかったのである。第二に彼らは、共産主義体制下の中国が、必ずしも、統一された中ソ・反米ブロック勢力へと変化していくとは限らないと結論づけていた。外交戦略に携わるアメリカ政府高官たちは、スターリンのソ連と毛沢束の中国は、互いに対立する地政学的な野心を持っているから、それが両国間に強い結束が発展する可能性を阻害するとも考えていた。そして最後に、アチソンとその側近たちは、中国は喉から手が出るほど経済支援を必要としているため、そのことがアメリカにとっては、中ソ二つの共産主義勢力の間にくさびを打ち込む好機となると考えていたのである。

 歴史家の中には、この重要な局面でアメリカは、中国と友好的、もしくは少なくとも実務的な関係を築くための好機を逃したと考える者もいる。実際、中国共産党政府の内部には、復興に必要な支援を獲得し、ソ連に対する過剰な依存を避けるため、アメリカと前向きな関係を築いたほうがいいと考える勢力もいた。一方アメリカ側のアチソン国務長官は、国民党の敗北で生じた「混乱が収まれば」、アメリカ政府は北京政府を外交的に承認し、内戦で損なわれたアメリカの利益をいくらかでも救い上げることができると考えていた。しかし近年公開された中国側の証拠資料を見れば、そのような「失われたチャンス」が実際には存在していなかったことが明らかである。毛沢東は、中国を立て直そうという決意--長期にわたって中国を揉鋼してきた欧米の帝国主義勢力に対する激しい怒りがそこに油を注いでいた--に突き動かされていたし、国内では、自身の大きな革命的な野心に対して一般国民の支持を取り付けるため、外敵を必要としていた。それゆえ、毛沢束は自然にソ連陣営へと傾いていったのだ。また毛沢東が、アメリカに対して中国側から和解を申し出るべきであるという部下の提案を、ことごとく拒否したのもそのためである。そのかわりに毛沢東は一九四九年一二月にモスクワを訪問した。そして依然として[中ソ関係の拡大に]慎重な姿勢を崩さなかったスターリンから冷淡な処遇を受けながらも、中ソ友好同盟相互援助条約に関する交渉にこぎつけた。この中ソ条約は、どちらか一方が第三国から攻撃を受けた場合、もう一方が援護に駆けつけることを義務づけるものであった。この条約はおそらく、この時までにはすでにアジアにしっかりと根をはっていた冷戦の存在を、最も不吉な形で象徴するものだったといえるだろう。
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ベーシックインカム導入で人々は働かなくなるか?

『怠ける権利!』より ベーシックインカム導入で人々は働かなくなるか?

 「フリーライダー」大歓迎--九割の労働が必要なくなる未来
  二〇一〇年ごろのBI論議は、当時表面化していた貧困の問題と深くかかわるものでした。しかし、この当時のBI論議は、具体的な政策論争というよりは、賛否様々な立場からの、思考実験という性格の強いものでした。一部のマスメディアでも取り上げられ、堀江のような有名人の発言が話題を呼んだにせよ、BI論議が繰り広げられた空間は、ネットや、そうでなければ、『POSSE』、『現代思想』等々の、実践家や知識人が読む雑誌に局域化されていたと述べて過言ではありません。
  二〇一〇年代後半になって再び活性化してきたBI論議は、本章の冒頭でもみたように、将棋の名人をも打ち負かすようなAIの急速な発達に促されたものでした。この時代には、AIが発達して、人間の労働が必要とされなくなる未来を見据えてのBI論議が展開されています。メジャーな出版社からBI関連の書物が、次々と出版されています。BIということばは、二〇一〇年をはさむ時期よりも、一層広く人口に膀戻するようになっていきました。二〇一七年のI〇月に行われた衆議院総選挙において、小池百合子率いる希望の党は、「ユリノミクス」の柱のIつとして、BIの実現を選挙公約に掲げています。
  日本銀行の政策審議委員を務めた原田泰は、「ばらまきは正しい経済政策」であると述べています。現在の経済の停滞はお金の不足から生じている。生活保護は必要としているすべての人に行き届かず、公共事業は多くの無駄を伴い、国家に代わって社会福祉の多くの部分を担わされていることが、日本企業にとって大きな足かせとなっている。個々人に無条件でお金を配るBIを実施すれば、社会保障も、公共事業も大幅に削減できるし、企業も福祉の負担から解放されるようになる。所得税を一律三〇パーセントにすることで、BIの財源は、十分確保できると原田は言います。日銀の要職にあった人物が、具体的な財源までをも示して、BIを提唱したことは注目に値します。
  人工知能にも詳しい経済学者の井上智洋は、将棋ソフトのような「特化型BI」だけではなく、人間とほとんど変わらぬ知的活動を担える「汎用型BI」が、二一世紀の前半には実現するという見通しを立てています。「汎用AI」の出現は、①蒸気機関、②内燃機関、③IT技術の出現につぐ「第四の産業革命」をもたらすと井上は言います。従来の経済のあり方を井上は、「機械化経済」と呼びます。「機械化経済」においては、生産過程に人間の労働がかかわっていました。しかし、「汎用型AI」の出現によって、人間が生産過程から完全に排除される、「純粋機械化経済」の時代が到来します。「純粋機械化経済」下において人間の力は、わずかに研究開発の分野で必要とされるに過ぎません。そのため、最大で九割の労働力が不要になる。それらの人たちを養うためにはBIが必要となりますが、「純粋機械化経済」によって飛躍的に生産性が向上し、経済の高い成長率が実現すれば、BIを実施してもなお有り余る税収を得ることができると井上は言い軋対。
  原田と井上の議論で特徴的なことは、働いて税金を納めることなく、BIの制度に寄生する「フリーライダー」が問題とされていないことです。原田にとっては、BIが実施されて働かない人が出ることは、国や企業が人々のために仕事を創り出す義務から解放されますから、むしろ好ましい。井上の予測によれば最終的には九割の労働力が不要になります。人工知能やロボットは消費をしてくれませんから、経済をまわすためには、仕事をしないで消費だけしてくれるフリーライダーの存在が、不可欠だということになります。原田も井上もともに、「怠ける権利」に寛容です。いまの日本には無駄な労働(仕事)が多すぎると原田は考えており、これからの社会において労働はどんどん必要なくなっていると井上は考えているのです。「怠ける権利」への賛同は、筆者にとって心強いものです。しかしながら、「純粋機械化経済」という井上の議論は、夢物語のようにも感じます。そして原田の「怠ける権利」の容認は、雇用と社会保障の大幅な切り捨てと、すなわち大量の「棄民」の創出と、セットになっているという疑念を禁じえないのです。

 ベーシックインカムを可能にする国民的合意とは?

  ダグラスは、ヴェブレンと同時代に活躍したアメリカの経済学者です。約一世紀以前の昔に、ダグラスが提唱した政策が現代にも果たして有効なのかは、疑問符のつくところです。機械による生産が経済を動かしていたダグラスの時代とは異なり、現在は電子情報が経済活動に大きな影響を及ぼしています。また、ダグラスが「社会信用論」を提唱した、二〇世紀の前半には、確たる「国民経済」が存在していました。他方、今日では経済活動はグローバルな規模で営まれています。
  コンピュータ技術の目覚ましい発達は、ビットコインに代表される種々の仮想通貨を生みました。ブロックチェーンと呼ばれる、ウエッブ上の分散型の帳簿に基づいて決済の行われる仮想通貨は、国家(中央銀行)のような管理の主体を持ちません。ユーロ通貨危機によって、国家による信用保証が大きく揺らいだ二〇一〇年代に、仮想通貨の発行量は飛躍的に増大していきました。現在のところ仮想通貨は、主に投機目的で遣われており、特に日本では投機の比率が九九%を超えています。国家の管理の及ばない空間で、投機目的の通貨の発行を可能にするテクノロジーが存在する中で、「信用の社会化」は果たして可能かという疑念を禁じえません。
  グローバル化の結果、資金の流れも経済活動も、ダグラスの時代とは比較にならないほど複雑化しています。コンピュータの能力が、将棋の名人に勝つほど高まっているとはいえ、「安定価格」を実現しうる、公共通貨の供給額を正確に計算することは、果たして可能なのかという疑問も生じてきます。ダグラスの主張に関して筆者が抱く最大の疑問は、次の点にあります。銀行が信用創造の特権を手放すことがあるのだろうかという疑問です。
  格差が拡大していく中で、フランスの経済学者、トマ・ピケティの『二一世紀の資本』が大きな反響を呼びました。ピケティは膨大な経済史的データに基づいて、資本収益率は常に経済成長率を上回るから、総力戦と高度経済成長の特殊な一九三〇年からの四〇年間を例外として、資本家とそれ以外の人たちの経済的格差は広がる傾向があり、格差は相続によって維持・拡大されると述べています。格差解消の処方としてピケティが提示したのが、富裕層に対する国際的な資産課税でした。「信用の社会化」に比べればはるかに穏当なピケティの主張ですが、どこの国でも政治権力を掌握している富裕層が、この提案を受け容れるのかは疑問です。
  BIはかつての「思考実験」の域を脱して、「社会実験」の段階に進んできたと言えそうです。世界的なBIへの関心の高まりは、ポピュリスト的な政治家たちの扇動の結果生まれたものではなく、勤労によって生きるに足る報酬を得ることが困難になりつつあるという、庶民の実感から発したものなのです。財源の問題をはじめ、BIの火現のためには、克服すべき多くの課題が横だわっています。何よりもまず克服されなければならないのは、途方もない富の偏在を許容している「道徳的に病める状況」なのではないでしょうか。
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