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ユダヤ人、アレクサンドロス大王

『ユダヤ人、世界と貨幣』より

紀元前三三八年、アルタクセルクセス三世が暗殺され、ダレイオス三世がその後を継ぐ。しかし、それはペルシア帝国の最後である。経済力はペルシアからギリシアヘ移動した。地中海が覇権を握る。マケドニアのフィリッポス二世の息子、アレクサンドロス大王はアリストテレスの弟子であり、二〇歳で王になり、テーベとアテネの領主であったが、ヘレニズム連合の長となる。金貨や銀貨にその肖像を刻印することで、彼はアテネの貨幣システムを採用し、すべての地域にそれをたちまち普及させた。多数の軍隊によって、三三二年彼はダレイオス三世をレリアのイッソスで破る。エジプトヘのルートが彼に開かれ、そしてユダを通過する。アレクサンドロスはティルス(七力月)とガザ(ニカ月)を包囲させ、紀元前三三二年、ユダヤ人の歓声のもとエルサレムを通過する。たちまちのうちに、ギリシアの衣装が大人気となる。豊かなユダヤ人はギリシア語を話し、衣服、すなわち新しい支配者の生活様式を真似た。神殿の若い家僕でさえ体育場でスポーツをたしなむ。ギリシアとの同化はュダでもその他の地域でも進んでいく。

ギリシアは商業も支配する。販売期限、遠洋漁業への貸付、担保、抵当、抵当金、交換契約、保険でさえこの時代のギリシア人の船乗りや商人の活動の中で出現する。こうしてこの時代から、ギリシアは奴隷の逃亡に対する保障システムをつくり、それは奴隷の各所有者による掛け金の支払いによって融資された。

アレクサンドロスは、エルサレムを離れ、エジプトを攻略し、サマリアのゲリジム山の上に神殿を建設するため、ユダヤ人商人を伴っていた。彼は、商業港であり戦略的拠点としてアレクサンドリアを創設した。そこにはマケドニア人と同じ権利を持つ、大きなユダヤ人共同体がたちまちのうちにできる。ユダヤ人は新しい都市の三〇万人のほぼ半分を、一挙に占めた。そこから、ユダヤ教がギリシアのすべての世界に普及する。その他のユダヤ人共同体は、ヘレニズム化されたエジプトに設立される。しかし、「出エジプト記」が語っている(少なくとも神話的次元で)思い出をみると、エジプト人はギリシアの支配者と一緒に来たこうした商人たちをむしろよく扱わなかった。

ユダヤ人は「高利貸」か、さもなくば、「殺人者」であるという最初のイメージができあがるのが、この場所から、そしてこの時代からである。反ユダヤ主義は、ギリシア、アレクサンドロス的なものであり、後にキリスト教的なものになる。エジプト人は、以前にも明らかにユダヤ人を嫌っていた。ダモクリトスという人物は、ユダヤ人は七年おきに外国人を捕まえ、神殿に連れて行き、ばらばらに切り離して殺すと述べていた。アレクサンドリアのアピエンは、ユダヤ人は毎年ギリシア人を太らせて食べると書いていた。マネトンという、エジプトの神官は、ユダヤ人は、ライ病の人種で、モーセの時代にもエジプトから追い出されていたので、新たに追い出さねばならないと説明していた。

紀元前三三一年、アレクサンドロスはエジプトから去り、ユダとティルスを再び通って、メソポタミアに進み、ペルシアの都ペルセポリスを焼く(ダレイオス三世は彼の軍隊に殺された)。そして金のダリク貨幣をスタテール貨幣に取り換えた。ベルシア王の財宝は、貨幣に換えられた。それが商業交換を都合よくし、驚くべき経済発展を引き出した。その大部分は、ユダヤ商人によってなされた。紀元前三二七年、マケドニア人は現アフガニスタンのカブールやバーミヤンに行き、インドヘと進み、やがてバビロニアまで悲惨な旅をしながら砂漠を戻って来た。そこで彼は紀元前三二三年、三三歳で突然亡くなった。彼は貨幣の上に顔が刻まれた、神の特権にまで進んだ最初の人物であった。

彼の部下だった将軍[ディアドコイ]が帝国を分割した。セレウコスはシリアとメソポタミア、エしゲ海がらアフガェスタンまでを支配した。プトレマイオスがエジプトとギリシアを簒奪する。セレウコスの統治のもとにあったユダは、すぐに二つのギリシア権力の間で不和の原因となる。実際賭けは商業ルートの支配であり、商業ルートはまだそこを通過していた。

アレクサンドリアの将軍である、プトレマイオス一世、ソテルは紀元前三一三年に、そこに首都を置き、ユダヤ人やギリシア人の知識人やユダヤ人銀行家の助けによって、灯台と図書館を建設した。彼はキプロスを取り、セレウコス一世がバビロニアに侵攻するのを助け、それと交換に、シリアを彼から受け取った。二人のギリシア人は二つの古いエジプト帝国とバビロニア帝国を意のままにする。

マケドニアの王アレクサンドロスの、驚くべき冒険に生き残った最後の人物であった、セレウコスは、ほぼ五〇年、紀元前二八一年まで、その首都に自分の名前をバビロンのすぐわきのチグリス河のセレウキアと付けて、統治する。彼の後、ギリシア人の王はバビロニアの権力を維持し、地方の、農民、商人、職人のユダヤ人共同体を支持する。彼らはパレスチナも統御する。そこでユダヤ人の間のさまざまの宗教グループの違いが明らかになり始める。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派。

サドカイ派は、大祭司の家族や貴族を代表し、政治・宗教の秩序に力を持った。彼らは税金、寄進、寺院、あらゆる金融的な回路を持った。

パリサイ派は、共同体の精神的案内人で、宗教指導者であり、世俗の指導者でもあり、素朴な生活を弁護し、祭司の富を批判し、自由な仲裁、永遠の生活へ、復活とメッシアヘの信仰を認めた。預言者エリヤは、貧困とは、神がその民に非常に美しい比喩をもって委ねた、最高の善であると宣言さえした。「赤い手綱が白い馬にうまく合うように、貧困はイスラエルに合う」。禁欲、そこから「パリサイ人」という言葉が生まれた)は、必ずしも救済を導かない。そしてそうだからといって、彼らは富が善のためになる限り、それを非難しない。

エッセネ派は、半修道僧のセクトで、富を拒否する点において、さらに過激である。彼らは所有、収入、食糧、衣服を平等にする。彼らは結婚や動物の生贅を拒否する。エッセネ派は、貞操、純潔を賞賛し、白い衣装を着ていた。

連帯の条件ははっきりする。共同体の各成員は、ツェダカに融資するために少なくともその資源の一〇分の一をつねに寄進しなければならない。共同体によって管理されることで、ツェダカは、貧しい娘への持参金、家族のない高齢者の収入、破産した者の労働の免除、利子のない貸付の授与、通過する外国人の受け入れ、奴隷の買戻し、最後に、とりわけ重要なことはすべての子供たちの教育の保障となる。

紀元前三〇一年、セレウコスの手に移ったユダは、プトレマイオスー世の手に移る。プトレマイオス一世は、シャバ″卜の日にエルサレムに入る。それはスキャンダルであったが、しかし神殿を再建し、国の内部のことにあまり口を挟まなかった。彼は毎年年貢を受け取ったが、にもかかわらず神殿の家僕の年貢は免除し、三年間はエルサレムのすべてのユダヤ人を免除した。認可された唯一の民族的権威である、大祭司だけが二〇分の一税をパレスチナやディアスポラで徴収する権利と、神殿の財宝の管理権を持った。

紀元前二八六年に父から王位を引き継いだプトレマイオスニ世(いわゆるフィラデルフォス〝兄弟愛〟という名称を持つ)は、パレスチナを支配し、以来紀元前二四六年までアレクサンドリアを支配した。エジプトは、その時代において、げっして力を持ってはいなかった。ヘレ三ズム化されたエジプトは次第に、新しい西洋の権力、ローマの影響のもとに入った。フィラデルフォスは『聖書』をギリシア語に翻訳しようとする。それがいわゆる「七〇人訳」といわれる『聖書』で、ギリシア語以外話さないユダヤ人にとって有用であった。

紀元前二四五年、その継承者、プトレマイオス三世はユダを強化し、神殿を豊かにした。大祭司の機能は、義人シメオンという人物とその二人の兄弟によって確認されている。シメオンはこの頃こう書いている。「ユダヤ人にとって、世界は三つの柱からなる。律法、神への奉仕、そして愛の行為」。紀元前二二二年、プトレマイオス三世は、パレスチナのヘレニズム化を促進し、ユダヤ人と支配者とのすべての公的関係はギリシア語で交わされた。国の経済は、新しいエジプト帝国の経済に含まれた。パリサイ派とエッセネ派は豊かなサドカイ派に対立し、裁判所を再獲得しようとする。サンヘドリンのサドカイ派のメンバー自身パリサイ派に置き換わっていく。商業経済は繁栄し続けた。地方も再び繁栄する。ユダは将来ギリシア語で暮らす、ギリシアの地方となる。

紀元前二〇二年、新しい領主の変化が起こる。インドやアラブに至る侵略の長い旅によって、ギリシアのもう一人の王セレウシドーアンティオコス三世(紀元前二二三-一八七)は、マケドニアのフィリッポス五世と連合し、アジアの再獲得に乗り出す。彼はプトレマイオスからパレスチナを取り返し、ユダヤ人に信仰の権利を与える。

ギリシア都市の自由の商人の中で生まれた新しい力、古代ローマは、その商業力のためにますます近東に関心を持ち、アンティオコス三世の力の増大を心配する。ローマの盟主にとって、アジアルートは開かれたままでなければならない。マケドニアとセレウコス、プトレマイオスとローマの同盟が形成される。ユダは政治的にも商業的にもこの二つの間にあった。ディアスポラの共同体(プトレマイオス朝ではアレクサンドリアの、セレウコス朝ではバビロニアの、ローマ人ではローマの)は、ユダを別の権力者の保護に置いたことで、謀議を図ったとしばしば糾弾された。すでに二つのライバルの帝国の中で、ユダヤ人兄弟の共同体がそれぞれ存在することはユダヤ人は二重国籍者であるという批判を強めた。

ローマはますます軍事的にも、商業的にも、エジプトヘ展開していた。紀元前一九一年、執政官フラミニヌスが、エジプトのプトレマイオスと同盟し、マケドニアのフィリッポス五世と連合したセレウコスの軍隊と対決する。数の上では後者がはっきりと優越していた。しかしローマ人は、紀元前一八九年、テルモピュレ、そしてマグネシアを獲得する。アンティオコスはアパメイア条約にサインしなければならなくなる。これによって、彼はチグリス河を越えたアジアの所有をプトレマイオスに渡すことになる。敗北した王は非常に高い戦争の賠償金を支払うよう要求されたので、彼はそれを払うのに、あらゆる宗教の大祭司の領地を売るが、エルサレムからバビロンまで、近くにあるすべての州のすべての神殿から略奪するしかなかった。紀元前一八七年、スサのバールの神殿を略奪しようとして不意を突かれたアンティオコスは、そこで暗殺された。

ユダは、あらゆる軍の通過を許し、たえず主人を替えながら、大いに繁栄していた。土地では小麦、大麦、果実、ワイン、オイル、イチジクが生産された。牧畜は生贅の動物を供給した。漁業は、アクラやジャファの港で発展した。国土には金属が少なかったが、建築用の石は多くあった。羊という家畜がそこで多くの羊毛を産出した。建築や繊維の家内工業が発展した。僧侶は、利子付貸与で貸すことへの禁止を恐れながら、農業、漁業、アトリエに融資した。両替商は遍歴の旅に出た。その仕事が何であろうと、支配者のための徴税官として豊かになる者は、わずかだがいた。ディアスポラは国の再建、それとますます多くの祭司を神殿のまわりに住まわせるための企画に融資した。

エルサレム、バビロニア、アレクサンドリア以来、裁判所と宗教学校が律法を明確にする。教師と学生はいわゆる「ミシュナ」あるいは「反復」(それは暗記されていた)という講義ノートを編集しようとした。彼らは道徳的問題について、さらに財政、価格、企業、社会生活、連帯、環境といった経済的問題についての裁判所の決定を要約する資料を集めた。彼らは(彼らが退廃だと考えていた近隣のギリシアの社会と違って)肉体労働を賞賛し、「公正価格」を決め、利潤を制限し、組合的組織を統御し、町の通りにさまざまの職業団体を配置し、とりわけ道徳的退廃の疑いありとされる、香水のような女性用の商品に特化したある種の職人を監視し、皮のなめし、採堀、汚物の収集(悪臭のため)のような屈辱的だと考えられるある種の仕事を行っている者を排除し、彼らとの離婚を認めた。

その活動が環境や経済以外に悪影響を与えるならば、それを禁止することをある種の裁判所は行うようになる。たとえば、小さな家畜の飼育、とりわげヤギは、禁止されていた。その理由は農地を荒らすからである。別の判断では、町の境界から五〇クデ[二五タートル]以内に麦うち場を作ることを禁じた。それは、風によって運ばれる麦の皮が住民の健康に被害をもたらす恐れがあるからである。同様に、多くの煙を排出する竃を作ってはいけないし、神殿の祭壇の上でオリーブの木、ブドウの木、ナツメヤシの木を燃やしてもいけないし、すぐにナフサのランプに火を入れてもいけない。「なぜなら、自然の価値を損なうからである」。新しい町には、そのまわりに、木もない、畑もない、企業もない緩衝地帯をつくることが課せられた。

裁判所は、状況が不安定になった場合、すぐに出発する用意をしておく必要性から、次の教訓を引き出し、遺産の管理を行っていた。「人間は富を三つの形態で持っておくべきである。土地、家畜、金をそれぞれ三分の一ずつ」。裁判所は、貧民、未亡人、孤児、外国人、病人や債権者に支払われる援助の条件を明らかにする。

すべての借り手を貧民にし、解決不能にする危険があるので、利子付貸付は禁止された。利子は嘘や横領と同じであった。「もしあなたが貨幣を誰か同国民、あなたのところにいる貧民に貸すとすれば、借り手から担保を取ってはならないし、利子を課してはいけない」(「出エジプト記」二二章24節「人道的律法」、「レヴィ記」二五章37節「「安息の年とヨペルの年」])。利子付で借りたり、貸付行為をしたり、証文に判を押させたりすることも禁止されていた。同時に、債権者が貸付で間接的に利益を得るような、すべての行為も禁じられた(avaq ribbit 文字通り「利子は埃」)。実際には、こうした一般的な禁止にもかかわらず、テキストを詳細に検討することで、ある行為を裁判所に認めさせることになる。裁判所は、貧民に関する唯一の貸付である消費者への貸付を制限した。投資への貸付は非常にはっきりとしたメカニズムで承認された。たとえば、利子なし貸付の担保となった財は、借り手の支払いが終わればすぐに買い戻される。ただし利子に等しい手数料を取られる。しかしながら担保は、原理的には厳しく制限されていた。「すべての人は持っている財の場所に戻り、家庭に戻る」(「レヴィ記」二五章23~31節[「安息の年とヨベルの年」一)。すべてのものが、時間無制限に担保となりうる。ただし住居は別で、借り手は一年が過ぎると取り戻すことができる。貸し手に家族とともにそこに住むことを認めねばならない。

連帯と慈善を求める共同体の外では、利子は承認される。なぜならそれは非道徳的ではないからだ。「外国では、利子付で貸すこと、借りることができる」(「申命記」二三章20節[「利子比」。外国人は潜在的に貧民でない。非ユダヤ人は追放される危険がないからだ。

実際には(非常に微妙な判断の共同体からの排除以外は)どんな処罰もないので、裁判所はたえず遵法を呼びかけねばならない。そしてユダヤ人の直接の利子付貸与も多くあった。紀元前五世紀には、アスワンの前にある小さな島、エレファンティネス島のユダヤ人共同体によってエジプトで書かれたパピルスは、それを証明している。

ユダヤ人に対して発せられたスパイという批判は、継続していた。それがとりわけ劇的な形をとるのは、紀元前一八七年、東を支配するアンティオコス四世エピファネスが、メソポタミアとパレスチナのユダヤ人は、プトレマイオスやローマの側を通過しているではないか、と批判したときであった。彼はユダヤ人を認めたアンティオコス三世の法を廃止し、ユダヤ人根絶の最初の計画として、ユダのすべてでその信仰を禁止し、神殿の祭壇にゼウス像を建てさせ、割礼行為を死刑にし、ユダヤ人がギリシアの祭典に参加することを強制し、エルサレムをアソティオコスという名に変更した。

ユダにおけるユダヤ教の残存は、脅威を受けたわけではなかった。ユダヤ人はやがてローマに向かい、ローマか彼らを助けると考え、ローマに向かう。それは彼らの失敗になるだろう。
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