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怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント

『隠れナチスを探し出せ』より 怪物か、悪の凡庸か--アイヒマンとハンナ・アーレント

アーレントが一九六三年に『イェルサレムのアイヒマン』を出版するやいなや、批判の集中砲火が浴びせられた。検事たちは当然ながら、アイヒマンに関する彼女の意見に賛成しなかった。「彼は命令に従っていただけだというハンナ・アーレントの考え方はまったくばかげている」とバッハは言い切った。ジェノサイドに情熱を燃やしていると見られていたからこそ、彼はホロコーストの間中、公安組織のなかでユダヤ人問題を任されていたのだとも語った。敗色が濃くなり、上官がホロコーストの物的証拠を隠そうとしはじめてからずいぶんたっても、ユダヤ人を殺そうというアイヒマンの意欲は衰えなかったと。しかし、マスコミや公開討論会でアーレントに反撃したのはほかの人々だった。

先頭に立った一人は、ニュルンベルクでアインザッツグルッベン裁判の裁判長を務めたマイケル・マスマノだ。マスマノはアイヒマンが逮捕されたあと、『アイヒマン特別部隊』を著し、エルサレムで行われた裁判では検察側の証人として証言もした。被告弁護人のゼヴァティオスに求められて、彼はニュルンベルクでの元ナチ幹部の発言について語った。ゲーリングは「ユダヤ人の絶滅計画に関してはアイヒマンが全権を握っていたとはっきり述べた……どのユダヤ人を殺すかについて事実上、絶対的な決定権を持っていたと」。これは自分にはなんの決定権もなかったというアイヒマンの主張に真っ向から反駁するものだった。

劇的な表現を躊躇せず使う人物だったマスマノは別の機会に、ニュルンベルクでアイヒマンの名前は「証言のなかで何度もくり返されたが、それはまるで人気のない空っぽの家を吹き抜ける風の囁き、屋根に枝がそっと触れて霊の訪問をほのめかすカサコソという音に似ていた」と述べてい

「ニューヨーク・タイムズ」からアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』の書評を依頼されたマスマノは、非常に大きな討論の場を得ることになった。彼は予想されたとおりの痛烈な批判を加え、アーレントの言うとおりなら「アイヒマンは心の底ではナチではなく、ヒトラーの計画を知らずにナチ党に入党し、ゲシュタポはユダヤ人のパレスチナ移住に協力的で、ヒムラーが(あのヒムラーが!)慈悲の心を持っていたことになる」として、彼女の主張を軽蔑もあらわに退けた。ユダヤ人を憎んでいたわけではないというアイヒマンの抗議など誰も信じなかったのに、アーレントは彼に同情し、嘘で固められた過去と考え方にまんまと騙されてしまったのだとも述べた。

マスマノが一番辛辣な言葉を投げつけたのは、「くり返し」アウシュヴィッツを訪れながら、「殺人設備」は見たことがなかったというアイヒマンの発言をアーレントが信じた点だった。「それはまるでナイアガラフォールズ市にくり返し滞在しながら、滝に気づかなかったと言うに等しい」。ユダヤ人会議に対する非難については、怒りを向ける相手が完全に間違っていると考えた人々と同意見だった。「アイヒマンが死の脅しを使ったせいでクヴィスリング(訳注 ドイツ占領下のノルウェーで首相を務めた)やラヴァル(訳注 ヴィシー政権で副首相・首相を務めた)などの〝親ナチ〟が生まれたことは、アイヒマンが犯した罪の恐ろしさを強調するだけだ」とマスマノは結論している。

この書評はアーレントの本に劣らず世間を騒がせ、読者も二手に分かれて著名人二人による戦いを見守った。「ニューヨーク・タイムズ」紙は続けて書評欄にアーレントからの反駁、マスマノからの〝反駁に対する反駁〟を、さらにはそれぞれの支持者から寄せられた熱のこもった手紙を掲載した。反駁のなかでアーレントはマスマノを書評家として指名した新聞社の「突飛な」選択をきびしく批判した。過去に彼女は全体主義とアイヒマンの果たした役割に関するマスマノの見解を「危険でくだらない」と退けたことがあったからだ。にもかかわらず、新聞社もマスマノもその事実を読者に知らせなかったのは「通常編集業務の目に余る失態」ではないかと非難した。書評については「わたしの知るかぎり、書かれも出版されてもいない本」に対する攻撃だと述べた。つまり、マスマノは本の内容を少しも正確に伝えていないというのである。

マスマノは「アイヒマン裁判の真実をミス・アーレントがいくつも間違って伝えている」ので、それを指摘するのは自分の義務であり、「いかなる種類の不正確さ」も責められる立場にないと反撃した。アーレント支持派はマスマノの書評を「過去最低の書評」「はなはだしい誤読」と呼び、「アーレントの巧みな皮肉が理解できない」のだと指摘した。反アーレント派は「事実関係を明確にしよう」と努力したマスマノを讃え、アイヒマンを理解することに「必死になる」あまり「史実に関して無知であるか無視を決めこんだ」アーレントを責めたてた。

論争はそこで終わらなかった。ニュルンベルク裁判でロバート・ジャクソン判事のユダヤ人関係相談役を務め、のちにはイスラエルの国連代表団の法律顧問にも任じられたジェイコブ・ロビンソンがアーレントの主張を突き崩すためだけに一冊の本を書きあげた。『歪んだ見方を正す--アイヒマン裁判とユダヤ人の惨劇、ハンナ・アーレントの物語』は一九六五年に刊行された。弁護士で学者でもあるロビンソンにとっては、どんな細かな点も些細とはいえず、取りあげて争わずにはいられなかった。

当然、アーレントがホロコーストにおけるアイヒマンの役割は検察側による誇張だとしたことは槍玉に挙げられた。「ハンナ・アーレントが描くアイヒマン像を前にすると困惑せずにいられない」。「実際のアイヒマン」は「尋常ならざる活力を持ち、狭滑な詐欺の達人で、専門分野においては賢く有能であり、ヨーロッパから〝ユダヤ人を一掃する〟という任務に一意専心し、ひと言で言うなら、ユダヤ人絶滅計画の監督者としてこれ以上ない適任者」だったことが文書からもわかると彼は述べた。

ロビンソンが特に「仰天した」のは、ナチ占領下のヨーロッパにおけるユダヤ人会議の役割を論じた部分でアーレントが「史実を歪めた」点だった。ドイツ人がゲットーを治めるために利用したユダヤ人組織の起源を、ロビンソンは長々と説明し、ユダヤ人会議は「どんな状況でも共同体を物理的にも精神的にも存続させようと前向きな努力をした」と指摘した。彼らが「より大きな災難からコミュニティを守れると信じこみ、ナチの支配に公然と抵抗しないよう必死になった」ことは認めたが。さらに、ユダヤ人警察は強制移送のための一斉検挙にたびたび利用されたものの、そうした場合はドイツ人から直接命令を受けたとして、会議との関係を否定した。

そのような主張に納得しなかったのはアーレント一人ではなかった。ユダヤ人会議とユダヤ人警察の果たした役割について議論した、がらない風潮を、ジーモン・ヴィーゼンタールも批判し、真の悪者であるナチの罪が軽く見えてしまうという懸念を一蹴した。「われわれはこれまでユダヤ人がナチに協力した事実をほとんど糾弾せずにきた」「ユダヤ人を責める権利はほかの誰にもない--だが、われわれ自身がいつかその事実と向き合う必要がある」

しかし、こういう声は概して極端に少なかった。ロビンソンが多数派の考え方を要約して次のように述べている。「法的にも倫理的にも、ユダヤ人会議をナチの共犯として断じるのは、銃を突きつけられて店を明け渡した店主を武装強盗の共犯と断じるに等しい」

アイヒマンが象徴する悪の性質という問題になると、特に反アーレント派の声が大きくなる。少なくとも識者のあいだではその傾向があり、彼女はしばしば村八分に遭った。二〇一二年の映画『ハンナ・アーレント』で、ドイツ人監督マルガレーテ・フォン・トロッタは、アーレントが友人や同僚から見放され、両者のあいだで非難の応酬が激しさを増していく様子を描き出した。

しかし、アイヒマンを捕らえたイスラエル人工作員のなかにも、アーレントの考え方に共感を覚える者がいた。「ある意味、彼女は正しかった」と、ブエノスアイレスで工作班を指揮したラフィ・エイタンは語った。「アイヒマン自身はユダヤ人を憎んでいなかった--わたしはそう感じた。あれが悪の凡庸さなのだろう。あの男にフランス人を殺せと言ったら、同じく命令に従ったにちがいない」

アイヒマンが象徴するものをめぐる論争は何十年も続いている。二〇一一年、ドイツ人哲学者ベッティーナ・シュタングネトが、オランダ人ナチ・ジャーナリストのヴィレム・ザッセンによるインタビューの資料をはじめとして広範な追加調査を行い、本を刊行した。英語版は『エルサレム以前のアイヒマン--大量殺人犯の検証されていない人生』と題して二〇一四年に出版された。その内容はロビンソンらの主張を支持する証拠の集大成だった。

アイヒマンはたまたま大量殺人システムの重要な一部を担うことになった凡庸な官僚などではないと、シュタングネトは論じた。「全体主義思想に取り憑かれた」狂信的な反ユダヤ主義者で、どんな命令にもただ従っただけの男にはほど遠かった。「人の命を軽んじるイデオロギーは、伝統的な正義の概念や倫理観を否定する行動が合法化される場合、自称支配民族の一員にとってきわめて魅力的に映る」と彼女は記している。

シュタングネトは、アーレントがホロコースト研究の初期に大いに必要だった議論を始めた点は評価している。アーレントの本は「ソクラテスの時代からの哲学者の目標を達成した。理解のための論争である」。しかし、アーレントは主題とした人物の嘘で固めた話に臨されてしまった。「エルサレムのアイヒマンは仮面にすぎなかった」とシュタングネトは記している。「彼女はそれに気づかなかった。自分が望むほどには研究対象を理解できていないと、強く自覚していたにもかかわらず」

アイヒマンの取調べ記録と裁判後半での本人の証言をおもな論拠としたアーレントが、ユダヤ人に個人的憎しみは抱いていなかった、自分は従属的役割を演じただけだという彼の異議申し立てを額面通りに受け取ったのはほぼ間違いない。確固たる自信のない凡庸な人間を、全体主義体制が巧みに利用したという自説を証明したくてしかたがなかったのだろう。傲慢さも否定できない。アイヒマンはどうしてあんなことができたのか、その精神構造を正しく突きとめられたのは自分だけだと彼女は確信していた。

しかし、感情的になった批評家のせいでアーレントの見解が原形を留めないほど歪められたというのは確かで、彼女は『イェルサレムのアイヒマン』の出版から十年間ほど、ドイツやフランスのインタビュー番組で反撃した。彼女の発言は誤解されやすく、混乱の原因となった文句をくり返したところで状況は改善されなかった。初期のインタビューでは、アイヒマンは「道化」だったとくり返し、取調べ記録を読んだときに「声をあげて笑ってしまった」と述べている。

その後のインタビューでは、意味するところをもう少しわかりやすく説明するようになった。ドイツ人歴史学者ョアヒム・フェストとの対談で、〝凡庸な行動〟という言葉にはなんら肯定的な意味がないことを指摘した--正反対である。自分は命令に従っただけなので大量殺人の責任を負う立場にない、無罪だと主張したアイヒマンやニュルンベルク裁判の被告を、アーレントは「詐欺師」だと激しく非難した。「どうしようもないほどばかばかしい」「何もかもが滑稽としか言いようがない!」インタビューのなかで彼女が使った「滑稽」は決して〝面白い〟という意味ではなかった。

とはいえアーレントは、アイヒマンは「単なる役人」であり、彼のとった行動にイデオロギーは大きな意味を持たなかったという自説については固持した。彼女を批判した人々の多くはアイヒマンを怪物、悪魔の化身と考えたが、その解釈はドイツ人がとった行動に言い訳を与えることになるのできわめて危険だと、彼女は言った。「奈落に潜んでいた獣に屈服したほうが、アイヒマンのようなごくふつうの男に屈服したよりも、当然ながら罪はずっと軽くなる」。だからこそ、アーレントはアイヒマンとその同類を悪魔と見なす説明を退けつづけたのだ。

アイヒマンの解釈についてはきわめて如才ない議論を展開し、興奮した反対派を黙らせる一方で、ナチに協力したユダヤ人に対する責任追及の論調はほとんど緩めなかった。それでも、当初よりは理解を示すようになり、ユダヤ人会議の指導者は「犠牲者」だった、いかに問題となる行動をとったにしても、彼らは決して加害者ではなかったと述べた。これは当初の意見があまりに批判的すぎると受け取られたことに対する間接的な譲歩だった。

『イェルサレムのアイヒマン』で見過ごされてしまった部分を読むと、アーレントは、彼女を批判した人々がしばしば言い張ったのとは異なり、犠牲者を責めていたわけではないことがわかる。バッハが指摘したように、イスラエルの指導部が裁判を行った目的の一つは、若い世代にドイツのやり方、すなわち犠牲者に最後の最後までありもしない期待を抱かせつづけたことを明らかにするためだった。アーレントはユダヤ人が「羊のようにおとなしく殺された」と言いながらも、次のように記している。「しかし、残念なことに、ここで誤解が生じてしまった。なぜなら、ユダヤ人以外のどの人種であろうと、まったく同じ行動をとったはずだからだ」。この点ではアーレントも反アーレント派も意見が二致していたのである。

半世紀後に振り返ってみると、アイヒマンは相反する特性、つまりアーレントが主張した特性と反アーレント派が主張した特性のいずれも併せ持っていたと考えるのが妥当だろう。彼は全体主義体制のなかで上官を喜ばせるためなら何でもする出世主義者であったと同時に、人々を死に追いやることに無上の喜びを覚え、ナチの手を逃れようとする者は一人残さずつかまえる悪意に満ちた反ユダヤ主義者だった。アーレントは認めなかったが、彼は意図的に悪を行い、なおかつアーレントの考える悪の凡庸さを体現していた。この二つは必ずしも相反する考え方ではない。アイヒマンは極悪非道の体制のもと、極悪非道なことをしたが、彼に怪物というレッテルを貼ってしまうと、多くの人間が罪に問われなくなり、専制的な体制の下では平凡な市民が簡単に犯罪行為に走るという事実を無視する結果になってしまう。
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