未唯への手紙
未唯への手紙
人民のための軍隊 国家の存在意義
『〈軍〉の中国史』より 人民共和国への道 共産党の軍隊
毛沢東の擾頭
毛沢東(一八九三~一九七六)が軍事的・政治的権威を確立しはじめるのは、日中戦争が激化して国民党からの圧迫がめだってくる一九四〇年代であった。
共産党創立当初(一九二一年)には、出身地・湖南省の代表にすぎなかった毛は、第一次国共合作時に、国民党員として農民運動の指導に成果をあげ、しだいに頭角をあらわした。合作崩壊後は、湖南省と江西省とのさかいにある井肖山にさいしょの革命根拠地をつくり、先述の両省だけではなく、福建省西部方面にも勢力をのばした。しかしその功績がありながら、毛はコミンテルンやソ連から評価されなかった。なぜならば、都市労働者を糾合するのが共産主義革命の基本であるのに、毛は貧しい農民や小作農を糾合したばかりか、山間部の匪賊にまで根拠地建設に協力させ、なおかつ根拠地に「革命」の名を冠したからである。
共産主義理論に反する行動がおおかった毛は、ソ連の最高指導者・スターリン(一八七八~一九五三)からきらわれた。スターリンは、中国共産党の指導者としての地位を毛にみとめなかったばかりか、軍事指揮権すら途中から剥奪した。かわりに、ソ連に留学した中国人党員たちを要職につけ、自分の命令どおりに共産党をうごかそうとした。
毛がスターリンのくびきを脱したのは、一九三九年の第二次世界大戦勃発後、とりわけ一九四一年の独ソ戦開始以降であった。ぞもそも一九三七年の日中戦争勃発をうけて、ソ連への日本軍進攻をおそれたスターリンは、第二次大戦勃発直前にナチス・ドイツと相互不可侵条約をむすび、西側から侵略される不安を払拭した。しかし一九四一年三月になると、ドイツのおもな攻撃対象であったイギリスにアメリカが武器援助を開始したため、ドイツはヨーロッパでそれ以上に勢力を拡大できなくなった。局面打開の反転攻撃は、ソ連へとむかった(同年六月)。ソ連は大戦のうずにいやおうなくまきこまれ、中国共産党にあまり干渉できなくなった。一九四三年にはコミンテルンも解散し、「コミンテルン中国支部」という制約がなくなったため、中国共産党がスターリン人脈をトップにすえる必要もなくなり、毛沢東の自主性がさらにたかまった。このころから、抗日(日中)戦争をたたかう軍事指揮権を掌握し、スターリン人脈をおいおとし、政治的権威をも上昇させていった。毛にとっての日中戦争とは、ソ連との上下関係を清算して中国共産党内での権力闘争をかちぬき、自分の権威を確立する、重要な契機だった。敵は日本や、圧迫をくわえてくる国民党だけではなかったのだ。
人民のための軍隊
一九四五年四月、毛沢東は中国共産党第七回全国代表大会で、「聯合政府について」という政治報告をおこない、抗日戦争の歴史を総括し、今後のみとおしをのべた。かれはこのなかで、抗日戦争は「人民戦争」でもあるとのべている。それは八路軍・新四軍ほか共産党系の軍隊が、「広範な人民大衆の利益のため」に「団結してたたかっているから」で、また「この軍隊の唯一の根本理念」は、「中国人民とともにしっかりとたちあがって、誠心誠意、中国人民に奉仕すること」であるとも断言している。そしてこのように人民とつよくむすびついた軍隊であるから、「最後には日本の侵略者をうちやぶることができる」とものべている。
先述したとおり、日本軍だけではなく国民政府の圧力ともたたかわねばならなかった共産党は、全中国から見れば華北のごく、一部にすぎない「辺区」におしこめられ、長期戦による疲弊と食糧不足とにくるしんでいた。報告では、「中国人民の抗戦を破壊し中国人民の国家をあやうくしているのは、まさか国民党政府でないというわけではあるまい」、つまり国民「党」政府が抗戦を妨害し、国家存立の危機をもたらしているとのべている。
共産党がいきのこっていくためには、まずかれらの軍隊の存在意義を、つよくうちださなければならなかった。そのための有効なロジックが、「人民のための軍隊」だったと筆者はかんがえる。つぎに、重慶国民政府による日本への抗戦と人民の防衛とがいかに有名無実であるか、さらには、いかに有害であるかを印象づける必要もあった。弱小ながら、「人民のための軍隊」であろうとしてきた共産党の軍隊だけが、そしてその最高指導者である毛沢東だけが、抗戦をまっとうして日本に勝利し人民をまもれるのだと強調することも、この報告の眼目であった。つまり、共産党の軍隊はもはや国民革命軍の一部ではなく、毛沢東の指揮下にあって、「人民」全体の軍であると宣言したにひとしい。
共産党が、八路軍・新四軍そのほか、協力する各種武装勢力もふくめて「中国人民解放軍」を正式に編制するのは、国共内戦時(一九四六~一九四九年)であったとされるが、その構想は日本の無条件降伏以前、抗戦末期にはすでにあったとみてよいだろう。周知のとおり、内戦に勝った共産党が人民共和国を建国したあとから現在にいたるまでも、この名称の軍隊が存在するということは、抗日戦争および国民党との対立によって、共産党および毛沢東のアイデンティティが確立され、その正統性も担保されていることの証拠にほかならない。
解放軍は現在でも「共産党の軍隊」であり、党がやしなう義務をおっている軍隊である。共産党の根幹であるとともに、党の指導下にあるとされる中華人民共和国の根幹でもある。さらにいえば、現在の共産党と共和国のゆくえを決定づけた、毛沢東の軍隊でもある。二〇一五年の抗日戦争勝利軍事パレードに、習近平(一九五三~)国家主席(兼中国共産党総書記。国家および共産党の軍事委員会主席も兼任)が、毛沢東風のコスチューム(人民服)に身をかためて登場したのは、毛の権威にいまもたよらなければ、解放軍を掌握するのはむずかしいことを暗示している。
国民革命軍に勝利する
さらに、民国時代と共和国成立以後とのちがいもふまえなければならない。民国時代の紅軍は、日本軍や国民革命軍から圧迫されていたものの、それゆえにたたかうべき「敵」は明確であった。しかし、一九四五年に日本が無条件降伏したあと、事態はかわった。
まず国共両党は連合政府樹立を模索したが、これが暗礁にのりあげると、ソ連軍の進攻により崩壊した旧「満洲帝国」領内(東北地方)に、共産党は兵力を潜入させた。国民党との一戦はさけられないとみて、その力がほとんどおよんでいない東北地方に先手をうったのである。一九四六年に事実上の内戦に突入すると、それまで中華民国の維持に協力的であったアメリカが国民党への明確な支持や共産党の排除をうちださなかったため、援助をじゅうぶんに得られなかった蒋介石は、しだいに不利なたたかいを強いられるようになった。
けっきょく一九四八年の三大戦役にやぶれ、さいごに首都をおいた四川省成都もまもりきれなくなって、蒋は台湾へとのがれた(一九四九年)。台湾に自称「中華民国」が存続し、大陸に中華人民共和国が建国されて現在にいたるのは周知のとおりである。共産党にとって、台湾の「回収」なくして中国の真の統一は実現しないため、その意を受けた解放軍は、なんども攻撃や挑発をくりかえしてきた。他方で大陸内部には、共産党支配に反発する少数民族の火種はくすぶり続けているものの、明確な外敵はいない。いまだ「回収」できないでいる台湾をみすえるいっぽうで、大陸における広大な領土を維持し、多様な民族をまとめあげ、外敵の侵入をゆるさないためには、「共和国」人民の結束を内外に印象づけ、共産党につよい求心力があることをしめす必要がある。もっともわかりやすいシンボルが解放軍の偉容であり、それをうみだした「抗日戦争」勝利の栄光なのである。
人民だれしもに共通するナショナルな歴史的体験を、「抗日戦争勝利」に一本化し、その立役者としての解放軍を賞賛しなければ、中華人民共和国という国家の存在意義と、国民(人民)意識はたちゆかなくなるだろう(それらが動揺しているときほど、日本を攻撃の標的にしてまとまろうとする)。その意味でも日中関係の根本的改善に、「人民解放軍」がカギをにぎっていることをわすれてはならない。
毛沢東の擾頭
毛沢東(一八九三~一九七六)が軍事的・政治的権威を確立しはじめるのは、日中戦争が激化して国民党からの圧迫がめだってくる一九四〇年代であった。
共産党創立当初(一九二一年)には、出身地・湖南省の代表にすぎなかった毛は、第一次国共合作時に、国民党員として農民運動の指導に成果をあげ、しだいに頭角をあらわした。合作崩壊後は、湖南省と江西省とのさかいにある井肖山にさいしょの革命根拠地をつくり、先述の両省だけではなく、福建省西部方面にも勢力をのばした。しかしその功績がありながら、毛はコミンテルンやソ連から評価されなかった。なぜならば、都市労働者を糾合するのが共産主義革命の基本であるのに、毛は貧しい農民や小作農を糾合したばかりか、山間部の匪賊にまで根拠地建設に協力させ、なおかつ根拠地に「革命」の名を冠したからである。
共産主義理論に反する行動がおおかった毛は、ソ連の最高指導者・スターリン(一八七八~一九五三)からきらわれた。スターリンは、中国共産党の指導者としての地位を毛にみとめなかったばかりか、軍事指揮権すら途中から剥奪した。かわりに、ソ連に留学した中国人党員たちを要職につけ、自分の命令どおりに共産党をうごかそうとした。
毛がスターリンのくびきを脱したのは、一九三九年の第二次世界大戦勃発後、とりわけ一九四一年の独ソ戦開始以降であった。ぞもそも一九三七年の日中戦争勃発をうけて、ソ連への日本軍進攻をおそれたスターリンは、第二次大戦勃発直前にナチス・ドイツと相互不可侵条約をむすび、西側から侵略される不安を払拭した。しかし一九四一年三月になると、ドイツのおもな攻撃対象であったイギリスにアメリカが武器援助を開始したため、ドイツはヨーロッパでそれ以上に勢力を拡大できなくなった。局面打開の反転攻撃は、ソ連へとむかった(同年六月)。ソ連は大戦のうずにいやおうなくまきこまれ、中国共産党にあまり干渉できなくなった。一九四三年にはコミンテルンも解散し、「コミンテルン中国支部」という制約がなくなったため、中国共産党がスターリン人脈をトップにすえる必要もなくなり、毛沢東の自主性がさらにたかまった。このころから、抗日(日中)戦争をたたかう軍事指揮権を掌握し、スターリン人脈をおいおとし、政治的権威をも上昇させていった。毛にとっての日中戦争とは、ソ連との上下関係を清算して中国共産党内での権力闘争をかちぬき、自分の権威を確立する、重要な契機だった。敵は日本や、圧迫をくわえてくる国民党だけではなかったのだ。
人民のための軍隊
一九四五年四月、毛沢東は中国共産党第七回全国代表大会で、「聯合政府について」という政治報告をおこない、抗日戦争の歴史を総括し、今後のみとおしをのべた。かれはこのなかで、抗日戦争は「人民戦争」でもあるとのべている。それは八路軍・新四軍ほか共産党系の軍隊が、「広範な人民大衆の利益のため」に「団結してたたかっているから」で、また「この軍隊の唯一の根本理念」は、「中国人民とともにしっかりとたちあがって、誠心誠意、中国人民に奉仕すること」であるとも断言している。そしてこのように人民とつよくむすびついた軍隊であるから、「最後には日本の侵略者をうちやぶることができる」とものべている。
先述したとおり、日本軍だけではなく国民政府の圧力ともたたかわねばならなかった共産党は、全中国から見れば華北のごく、一部にすぎない「辺区」におしこめられ、長期戦による疲弊と食糧不足とにくるしんでいた。報告では、「中国人民の抗戦を破壊し中国人民の国家をあやうくしているのは、まさか国民党政府でないというわけではあるまい」、つまり国民「党」政府が抗戦を妨害し、国家存立の危機をもたらしているとのべている。
共産党がいきのこっていくためには、まずかれらの軍隊の存在意義を、つよくうちださなければならなかった。そのための有効なロジックが、「人民のための軍隊」だったと筆者はかんがえる。つぎに、重慶国民政府による日本への抗戦と人民の防衛とがいかに有名無実であるか、さらには、いかに有害であるかを印象づける必要もあった。弱小ながら、「人民のための軍隊」であろうとしてきた共産党の軍隊だけが、そしてその最高指導者である毛沢東だけが、抗戦をまっとうして日本に勝利し人民をまもれるのだと強調することも、この報告の眼目であった。つまり、共産党の軍隊はもはや国民革命軍の一部ではなく、毛沢東の指揮下にあって、「人民」全体の軍であると宣言したにひとしい。
共産党が、八路軍・新四軍そのほか、協力する各種武装勢力もふくめて「中国人民解放軍」を正式に編制するのは、国共内戦時(一九四六~一九四九年)であったとされるが、その構想は日本の無条件降伏以前、抗戦末期にはすでにあったとみてよいだろう。周知のとおり、内戦に勝った共産党が人民共和国を建国したあとから現在にいたるまでも、この名称の軍隊が存在するということは、抗日戦争および国民党との対立によって、共産党および毛沢東のアイデンティティが確立され、その正統性も担保されていることの証拠にほかならない。
解放軍は現在でも「共産党の軍隊」であり、党がやしなう義務をおっている軍隊である。共産党の根幹であるとともに、党の指導下にあるとされる中華人民共和国の根幹でもある。さらにいえば、現在の共産党と共和国のゆくえを決定づけた、毛沢東の軍隊でもある。二〇一五年の抗日戦争勝利軍事パレードに、習近平(一九五三~)国家主席(兼中国共産党総書記。国家および共産党の軍事委員会主席も兼任)が、毛沢東風のコスチューム(人民服)に身をかためて登場したのは、毛の権威にいまもたよらなければ、解放軍を掌握するのはむずかしいことを暗示している。
国民革命軍に勝利する
さらに、民国時代と共和国成立以後とのちがいもふまえなければならない。民国時代の紅軍は、日本軍や国民革命軍から圧迫されていたものの、それゆえにたたかうべき「敵」は明確であった。しかし、一九四五年に日本が無条件降伏したあと、事態はかわった。
まず国共両党は連合政府樹立を模索したが、これが暗礁にのりあげると、ソ連軍の進攻により崩壊した旧「満洲帝国」領内(東北地方)に、共産党は兵力を潜入させた。国民党との一戦はさけられないとみて、その力がほとんどおよんでいない東北地方に先手をうったのである。一九四六年に事実上の内戦に突入すると、それまで中華民国の維持に協力的であったアメリカが国民党への明確な支持や共産党の排除をうちださなかったため、援助をじゅうぶんに得られなかった蒋介石は、しだいに不利なたたかいを強いられるようになった。
けっきょく一九四八年の三大戦役にやぶれ、さいごに首都をおいた四川省成都もまもりきれなくなって、蒋は台湾へとのがれた(一九四九年)。台湾に自称「中華民国」が存続し、大陸に中華人民共和国が建国されて現在にいたるのは周知のとおりである。共産党にとって、台湾の「回収」なくして中国の真の統一は実現しないため、その意を受けた解放軍は、なんども攻撃や挑発をくりかえしてきた。他方で大陸内部には、共産党支配に反発する少数民族の火種はくすぶり続けているものの、明確な外敵はいない。いまだ「回収」できないでいる台湾をみすえるいっぽうで、大陸における広大な領土を維持し、多様な民族をまとめあげ、外敵の侵入をゆるさないためには、「共和国」人民の結束を内外に印象づけ、共産党につよい求心力があることをしめす必要がある。もっともわかりやすいシンボルが解放軍の偉容であり、それをうみだした「抗日戦争」勝利の栄光なのである。
人民だれしもに共通するナショナルな歴史的体験を、「抗日戦争勝利」に一本化し、その立役者としての解放軍を賞賛しなければ、中華人民共和国という国家の存在意義と、国民(人民)意識はたちゆかなくなるだろう(それらが動揺しているときほど、日本を攻撃の標的にしてまとまろうとする)。その意味でも日中関係の根本的改善に、「人民解放軍」がカギをにぎっていることをわすれてはならない。
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アレクサンドロスの「イスラーム化」と聖書的な古代史観
『「世界史」の世界史』より
イスラームの世界史観--アレクサンドロスは「大王」か?-- 「大王」の由来 西洋的歴史観から離れて ⇒ クルアーンを読んだ時に、不意にアレクサンドロスの名があった。紀元前324年になくなったアレクサンドロスと570年頃生まれたムハンマドの間には900年ほど空いている。なぜ、クルアーンに記述されているのか、不思議だった。
アレクサンドロスの死後にギリシア・ローマ世界に広がり、その後ヨーロッパに引き継がれた「偉大なるアレクサンドロス」という名称は、明治期に西洋史学の受容とともに「アレクサンドロス人に」として日本に定着した。では、かつてアレクサンドロスに征服された土地では、どのような名称で呼ばれてきたのであろうか。とくにイランにおけるかれの位置づけは非常に特殊であるので、簡単に紹介しておこう。
アレクサンドロスがイランに惨禍をもたらしたという遠い記憶は、ザサン朝(二二四~六五一年)創建時のプロパガンダにおいて利用され、アレクサンドロスは創建アルダシールと対峙する悪魔的存在に仕立て上げられた。ササン朝時代に形作られたが史認繊におけるアレクサンドロスは、ソロアスター教に対して、あるいはイラン国に対して三つの大罪--聖職者や王族の惨殺、聖典の焼尽・略奪、イランの王権の分割--を犯したとされた。そしてササン朝起源のソロアスター教書に現れるアレクサンドロスは、「エジプトに住む憎きローマ人アレクサンドロス」、「かの敵、不運をもたらす異端者、邪悪で有害なエジプトのローマ人アレクサンドロス」、「憎きローマのアレクサンドロス」、「憎きアレクサンドロス」、「不運の悪党」、「不運と怒りに満ちた悪党」、「邪悪なギリシア人のアレクサンドロス」といったように、憎しみが込められた形容辞無しには語られない。
七世紀以降のイスラームの拡大とともに、西アジアにおけるアレクサンドロス像とその呼称はさらに変容する。紀元後三世紀までにエジプトのアレクサンドリアで成立したとされる「アレクサンドロス物語」と呼ばれるアレクサンドロスにまつわる伝説的な物語群は、ギリシア語からシリア語、パフラヴィー語などさまざまな言語に訳されて西アジアにも広く流布するが、その一部はユダヤ・キリスト教の宗教説話に取り入れられる。さらに、この一神教のフィルターを通したアレクサンドロス伝承は、イスラームの聖典『クルアーン』の「洞窟の章」八二~九七節に「二本角」の話として取り入れられた。『クルアーン』にはアレクサンドロスの名前は現れないが、この世の東と西の果てまで突き進む布教者、野蛮な民族の侵攻を防ぐ守護者として描かれている「二本角」とアレクサンドロスが同一であるという議論は、早くからイスラーム学者たちのあいだでもとなえられていたようで、タバリーハが回忌(九二三年没)の『タフスィール』(クルアーン注釈書)などには、二本角の節の注釈として、アレクサンドロスと結びついたイスラーム初期に遡る説話が挙げられている。このことによって、中世イスラーム世界においてアレクサンドロスは「二本角のアレクサンドロス」と呼ばれ、神聖視された。
ここで『クルアーン』自体の歴史観について、一言述べておこう。『クルアーン』には、人類の始祖アダム、アブラハムやモーセなど、「最後の預言者」ムハンマド以前の預言者や『聖書』と共通する聖人が多く登場するが、『クルアーン』自体はそれらを時間軸に沿って位置づけようとはしていない。「アレクサンドロス」という名前とともに歴史的なコンテクストが完全に省かれ、寓意的なエッセンスのみが抽出されている「二本角」の一節においても、この傾向は顕著に現れている。初期のムスリム(イスラーム教徒)たちが、『クルアーン』が示すこのような「非歴史的」あるいは「超歴史的」な世界観を共有していたであろうことはよく指摘されている。イスラーム初期に歴史叙述が存在しなかったわけではないが、それはもっぱらイスラーム共同体の誕生と拡大に関連したハディース(伝承)やハバル(情報)が中心で、イスラーム以前の古代文明に関する系統だった知識が歴史学に取り入れられるのは、九世紀半ば以降に万国史のジャンルが発達してくる時代を侍たなければならない。
アレクサンドロスに関しても、八世紀半ば頃までは『クルアーン』の二本角と結びついた宗教説話的なエピソードが、おそらく断片的に流布していただけのようである。二本角アレクサンドロスが昇天して地上を見下ろし、天使に布教の使命を明かされたり、信徒を脅かす野蛮な民族ヤージュージュとマージュージュ(『聖書』のゴグとマゴグ)に対する防雌を建設するという内容の語りで、前述したように、タバリーの『タフスィール』などに引用された形でのみ現存している。これらは、「イスラーイーリーヤート」(イスラエルもの)と総称される、イスラーム的なコンテクストに置き換えられたユダヤ・キリスト教起源の説話群の一部をなしていたと考えられる。
このような説話がイスラーム教の一神教的過去を構築する素材となったのであるが、これらを時間軸に沿った叙述の枠組みにおいて整理・編集し、ムハンマドとイスラーム教を、この世の始まり以来の預言者の歴史の中に位置づけたのは、イブン・イスハーク(七〇四頃~七六七年)であるといわれている。このような時間的連続性のある歴史的展望が明らかになってくる転換期は、ウマイヤ朝(六六一~七五○年)からアッバース朝(七五○~て一五八年)への移行の政治的な動乱の時代と重なる。東方イスラーム世界の非アラブ人の軍事力を頼りにウマイヤ朝を倒したアッバース家は、その政権の正当性を思想的にも示す必要があり、歴史の編纂はその于段の一つであった。アッバース朝は、ウマイヤ朝が行っていた非アラブの改宗ムスリム(マワーリー)に対する差別的な制度を廃し、とくにイラン系知識人の多くを官僚として帝国の運営に取り入れた。しかしユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の融和を図ると同時に、イスラーム帝国の統一の理念において、預言者としてのムハンマドの優越性を明確にする必要があった。ムハンマドが神によって人類に遣わされた最後で最高の預言者であるという位置づけを確実にするためのムハンマド伝をまとめたのがイブン・イスハークである。
イブン・イスハークのムハンマド伝は、もともとは三部からなっていたと考えられている。この世の創造からイスラーム勃興以前の歴史が記された第一部は、「創世の書」または『創造物のはじまり』と呼ばれ、預言者の到来に至るアラビア史である第二部が『到来の書』、そして第三部は預言者・布教者としてのムハンマドの行伝『征服の書』である。併せて通称『行伝』(アラビア語でスィーラ)と呼ぶ。しかし現存する写本は、イブン・イスハークの当初の構想であったはずのこの三部構成のかたちでは残っておらず、第一部「創世の書」が含まれていない。だが、かなりの部分が断片的にではあるがタバリーなどの後の歴史家・解釈学者に忠実に引用されており、ゴードン・ニュービーは散在する引用を集めて、天地創造からアダムの誕生に始まり、ムハンマド以前の預言者や聖者に関する伝承を列伝的に並べるという構成において、英訳で復元している。
二本角アレクサンドロスに関する伝承もイブン・イスハークの『創世の書』において、聖書的な古代史観の時間軸の流れの中に組み込まれた。しかし、伝承の内容としてはイスラーイーリーヤートの類の、歴史的具体性に欠ける宗教説話であったことには変わりない。「ルーム」(ギリシア・ローマを指す)のアレクサンドロス、あるいはアレクサンドリアの建設者アレクサンドロスと同一視されていながらも、ペルシア王ダレイオス、インド王ポロスなど実在した王とのやりとりは含まれていない。
イスラームの世界史観--アレクサンドロスは「大王」か?-- 「大王」の由来 西洋的歴史観から離れて ⇒ クルアーンを読んだ時に、不意にアレクサンドロスの名があった。紀元前324年になくなったアレクサンドロスと570年頃生まれたムハンマドの間には900年ほど空いている。なぜ、クルアーンに記述されているのか、不思議だった。
アレクサンドロスの死後にギリシア・ローマ世界に広がり、その後ヨーロッパに引き継がれた「偉大なるアレクサンドロス」という名称は、明治期に西洋史学の受容とともに「アレクサンドロス人に」として日本に定着した。では、かつてアレクサンドロスに征服された土地では、どのような名称で呼ばれてきたのであろうか。とくにイランにおけるかれの位置づけは非常に特殊であるので、簡単に紹介しておこう。
アレクサンドロスがイランに惨禍をもたらしたという遠い記憶は、ザサン朝(二二四~六五一年)創建時のプロパガンダにおいて利用され、アレクサンドロスは創建アルダシールと対峙する悪魔的存在に仕立て上げられた。ササン朝時代に形作られたが史認繊におけるアレクサンドロスは、ソロアスター教に対して、あるいはイラン国に対して三つの大罪--聖職者や王族の惨殺、聖典の焼尽・略奪、イランの王権の分割--を犯したとされた。そしてササン朝起源のソロアスター教書に現れるアレクサンドロスは、「エジプトに住む憎きローマ人アレクサンドロス」、「かの敵、不運をもたらす異端者、邪悪で有害なエジプトのローマ人アレクサンドロス」、「憎きローマのアレクサンドロス」、「憎きアレクサンドロス」、「不運の悪党」、「不運と怒りに満ちた悪党」、「邪悪なギリシア人のアレクサンドロス」といったように、憎しみが込められた形容辞無しには語られない。
七世紀以降のイスラームの拡大とともに、西アジアにおけるアレクサンドロス像とその呼称はさらに変容する。紀元後三世紀までにエジプトのアレクサンドリアで成立したとされる「アレクサンドロス物語」と呼ばれるアレクサンドロスにまつわる伝説的な物語群は、ギリシア語からシリア語、パフラヴィー語などさまざまな言語に訳されて西アジアにも広く流布するが、その一部はユダヤ・キリスト教の宗教説話に取り入れられる。さらに、この一神教のフィルターを通したアレクサンドロス伝承は、イスラームの聖典『クルアーン』の「洞窟の章」八二~九七節に「二本角」の話として取り入れられた。『クルアーン』にはアレクサンドロスの名前は現れないが、この世の東と西の果てまで突き進む布教者、野蛮な民族の侵攻を防ぐ守護者として描かれている「二本角」とアレクサンドロスが同一であるという議論は、早くからイスラーム学者たちのあいだでもとなえられていたようで、タバリーハが回忌(九二三年没)の『タフスィール』(クルアーン注釈書)などには、二本角の節の注釈として、アレクサンドロスと結びついたイスラーム初期に遡る説話が挙げられている。このことによって、中世イスラーム世界においてアレクサンドロスは「二本角のアレクサンドロス」と呼ばれ、神聖視された。
ここで『クルアーン』自体の歴史観について、一言述べておこう。『クルアーン』には、人類の始祖アダム、アブラハムやモーセなど、「最後の預言者」ムハンマド以前の預言者や『聖書』と共通する聖人が多く登場するが、『クルアーン』自体はそれらを時間軸に沿って位置づけようとはしていない。「アレクサンドロス」という名前とともに歴史的なコンテクストが完全に省かれ、寓意的なエッセンスのみが抽出されている「二本角」の一節においても、この傾向は顕著に現れている。初期のムスリム(イスラーム教徒)たちが、『クルアーン』が示すこのような「非歴史的」あるいは「超歴史的」な世界観を共有していたであろうことはよく指摘されている。イスラーム初期に歴史叙述が存在しなかったわけではないが、それはもっぱらイスラーム共同体の誕生と拡大に関連したハディース(伝承)やハバル(情報)が中心で、イスラーム以前の古代文明に関する系統だった知識が歴史学に取り入れられるのは、九世紀半ば以降に万国史のジャンルが発達してくる時代を侍たなければならない。
アレクサンドロスに関しても、八世紀半ば頃までは『クルアーン』の二本角と結びついた宗教説話的なエピソードが、おそらく断片的に流布していただけのようである。二本角アレクサンドロスが昇天して地上を見下ろし、天使に布教の使命を明かされたり、信徒を脅かす野蛮な民族ヤージュージュとマージュージュ(『聖書』のゴグとマゴグ)に対する防雌を建設するという内容の語りで、前述したように、タバリーの『タフスィール』などに引用された形でのみ現存している。これらは、「イスラーイーリーヤート」(イスラエルもの)と総称される、イスラーム的なコンテクストに置き換えられたユダヤ・キリスト教起源の説話群の一部をなしていたと考えられる。
このような説話がイスラーム教の一神教的過去を構築する素材となったのであるが、これらを時間軸に沿った叙述の枠組みにおいて整理・編集し、ムハンマドとイスラーム教を、この世の始まり以来の預言者の歴史の中に位置づけたのは、イブン・イスハーク(七〇四頃~七六七年)であるといわれている。このような時間的連続性のある歴史的展望が明らかになってくる転換期は、ウマイヤ朝(六六一~七五○年)からアッバース朝(七五○~て一五八年)への移行の政治的な動乱の時代と重なる。東方イスラーム世界の非アラブ人の軍事力を頼りにウマイヤ朝を倒したアッバース家は、その政権の正当性を思想的にも示す必要があり、歴史の編纂はその于段の一つであった。アッバース朝は、ウマイヤ朝が行っていた非アラブの改宗ムスリム(マワーリー)に対する差別的な制度を廃し、とくにイラン系知識人の多くを官僚として帝国の運営に取り入れた。しかしユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の融和を図ると同時に、イスラーム帝国の統一の理念において、預言者としてのムハンマドの優越性を明確にする必要があった。ムハンマドが神によって人類に遣わされた最後で最高の預言者であるという位置づけを確実にするためのムハンマド伝をまとめたのがイブン・イスハークである。
イブン・イスハークのムハンマド伝は、もともとは三部からなっていたと考えられている。この世の創造からイスラーム勃興以前の歴史が記された第一部は、「創世の書」または『創造物のはじまり』と呼ばれ、預言者の到来に至るアラビア史である第二部が『到来の書』、そして第三部は預言者・布教者としてのムハンマドの行伝『征服の書』である。併せて通称『行伝』(アラビア語でスィーラ)と呼ぶ。しかし現存する写本は、イブン・イスハークの当初の構想であったはずのこの三部構成のかたちでは残っておらず、第一部「創世の書」が含まれていない。だが、かなりの部分が断片的にではあるがタバリーなどの後の歴史家・解釈学者に忠実に引用されており、ゴードン・ニュービーは散在する引用を集めて、天地創造からアダムの誕生に始まり、ムハンマド以前の預言者や聖者に関する伝承を列伝的に並べるという構成において、英訳で復元している。
二本角アレクサンドロスに関する伝承もイブン・イスハークの『創世の書』において、聖書的な古代史観の時間軸の流れの中に組み込まれた。しかし、伝承の内容としてはイスラーイーリーヤートの類の、歴史的具体性に欠ける宗教説話であったことには変わりない。「ルーム」(ギリシア・ローマを指す)のアレクサンドロス、あるいはアレクサンドリアの建設者アレクサンドロスと同一視されていながらも、ペルシア王ダレイオス、インド王ポロスなど実在した王とのやりとりは含まれていない。
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豊田市図書館の14冊
201.1『「世界史」の世界史』
366.29『女性の職業のすべて 2018年版』
588.9『未開封の包装史』青果包装100年の歩み
748『朝日新聞 報道写真集2017』
813.7『朝日キーワード2018』
674『ネーミング全史』商品名が主役に躍り出た
336『AIが同僚』
377.9『業界選び・仕事選び・自己分析・自己PR【完全版】』内定者はこう選んだ!
383.8『パスタと麺の歴史』「食」の図書館
140.7『質的研究法』
392.22『〈軍〉の中国史』
361.45『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか』ネット時代のメディア戦争
210.3『日本の古代国家』
501.6『里地里山エネルギー』自立分散への挑戦
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スタバのパートナーには社会現象を勉強してほしい
スタバのパートナーには社会現象を勉強してほしい
駅前スタバでひめたんとか生ちゃんのことを話したけど、皆、知らなかった。信じられない! 異性のドロスなら知っているのかな? ちなみに、関西ではドロス、関東ではアレキだそうです。真ん中の中部は「サン」でしょう。
スタバのスタッフのアイドル化計画というのはないのか。コミュニケーションの一環として、お気に入りとの握手会とかジャンケン大会は楽しい。
月末月初の新刊書は期待できない
豊田市図書館の新刊書収集の日だけど、袋を一つ忘れてきた。これだと、20冊しか入らない。だけど、月末月初はプアだから、これで十分でしょう。案の定、14冊しかなかった。
OCR化した本の感想
『「世界史」の世界史』
アレクサンドロスは悪魔的存在に仕立て上げられた。ササン朝時代に形作られた歴史認繊におけるアレクサンドロスは、ソロアスター教に対して、あるいはイラン国に対して三つの大罪--聖職者や王族の惨殺、聖典の焼尽・略奪、イランの王権の分割--を犯したとされた。そしてササン朝起源のソロアスター教書に現れるアレクサンドロスは、「エジプトに住む憎きローマ人アレクサンドロス」、「かの敵、不運をもたらす異端者、邪悪で有害なエジプトのローマ人アレクサンドロス」、「憎きローマのアレクサンドロス」、「憎きアレクサンドロス」、「不運の悪党」、「不運と怒りに満ちた悪党」、「邪悪なギリシア人のアレクサンドロス」といったように、憎しみが込められた形容辞無しには語られない。
この一神教のフィルターを通したアレクサンドロス伝承は、イスラームの聖典『クルアーン』の「洞窟の章」八二~九七節に「二本角」の話として取り入れられた。この世の東と西の果てまで突き進む布教者、野蛮な民族の侵攻を防ぐ守護者として描かれている「二本角」。このことによって、中世イスラーム世界においてアレクサンドロスは「二本角のアレクサンドロス」と呼ばれ、神聖視された。
『〈軍〉の中国史』
中国は、私兵が国軍のかわりをはたす歴史をもち、その過程で、統率者が「もの」「かね」「ちから」を分配しながら、軍とのつよいつながりをつくってきた。また軍もそれらをもとめて統率者に依存するという、もちつもたれつの関係を形成してきた。
この関係はひとや制度を変化させつつ、ながい時間をかけてつくりあげられてきたため、ひじょうに強固であり、法律や規則で解消できるほど単純ではない。この相互依存関係がベースにあるからこそ、軍の末端部が統率者に「もの」「かね」「ちから」の分配をもとめ、ときには別途これらを確保してゆさぶりをかけるので、統率者側もやむをえず承認するとかんがえられる。
それにくわえて、統率者へのたえまないへつらいとあまえがあり、そして場合によっては、自分たちの行動によって統率者の方針をかえてしまえる、そのような過信もあるだろう。中国における「人治」はかくも根深く、法治への転換は容易ではない。国際法遵守を他国からもとめられていながら、それをなかなか完全なかたちにできないでいる中国は、けっして怠惰でも傲慢でもない。むしろみずからの歴史のなかにある、肥大化した「人治」のかたまりを、なんとか摘出しようとして苦闘しているさなかなのである。
しかしそのかたまりは、中国の「体」にしっかりと根をはってしまっているので、とりだそうとすればつよい痛みにおそわれる。そのくるしみにのたうつあまり、暴言や暴挙にみえるふるまいもでてくる。そうかんがえれば、日本も過剰反応をしないですむのではないだろうか。
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それにくわえて、統率者へのたえまないへつらいとあまえがあり、そして場合によっては、自分たちの行動によって統率者の方針をかえてしまえる、そのような過信もあるだろう。中国における「人治」はかくも根深く、法治への転換は容易ではない。国際法遵守を他国からもとめられていながら、それをなかなか完全なかたちにできないでいる中国は、けっして怠惰でも傲慢でもない。むしろみずからの歴史のなかにある、肥大化した「人治」のかたまりを、なんとか摘出しようとして苦闘しているさなかなのである。
しかしそのかたまりは、中国の「体」にしっかりと根をはってしまっているので、とりだそうとすればつよい痛みにおそわれる。そのくるしみにのたうつあまり、暴言や暴挙にみえるふるまいもでてくる。そうかんがえれば、日本も過剰反応をしないですむのではないだろうか。
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