未唯への手紙
未唯への手紙
人民のための軍隊 国家の存在意義
『〈軍〉の中国史』より 人民共和国への道 共産党の軍隊
毛沢東の擾頭
毛沢東(一八九三~一九七六)が軍事的・政治的権威を確立しはじめるのは、日中戦争が激化して国民党からの圧迫がめだってくる一九四〇年代であった。
共産党創立当初(一九二一年)には、出身地・湖南省の代表にすぎなかった毛は、第一次国共合作時に、国民党員として農民運動の指導に成果をあげ、しだいに頭角をあらわした。合作崩壊後は、湖南省と江西省とのさかいにある井肖山にさいしょの革命根拠地をつくり、先述の両省だけではなく、福建省西部方面にも勢力をのばした。しかしその功績がありながら、毛はコミンテルンやソ連から評価されなかった。なぜならば、都市労働者を糾合するのが共産主義革命の基本であるのに、毛は貧しい農民や小作農を糾合したばかりか、山間部の匪賊にまで根拠地建設に協力させ、なおかつ根拠地に「革命」の名を冠したからである。
共産主義理論に反する行動がおおかった毛は、ソ連の最高指導者・スターリン(一八七八~一九五三)からきらわれた。スターリンは、中国共産党の指導者としての地位を毛にみとめなかったばかりか、軍事指揮権すら途中から剥奪した。かわりに、ソ連に留学した中国人党員たちを要職につけ、自分の命令どおりに共産党をうごかそうとした。
毛がスターリンのくびきを脱したのは、一九三九年の第二次世界大戦勃発後、とりわけ一九四一年の独ソ戦開始以降であった。ぞもそも一九三七年の日中戦争勃発をうけて、ソ連への日本軍進攻をおそれたスターリンは、第二次大戦勃発直前にナチス・ドイツと相互不可侵条約をむすび、西側から侵略される不安を払拭した。しかし一九四一年三月になると、ドイツのおもな攻撃対象であったイギリスにアメリカが武器援助を開始したため、ドイツはヨーロッパでそれ以上に勢力を拡大できなくなった。局面打開の反転攻撃は、ソ連へとむかった(同年六月)。ソ連は大戦のうずにいやおうなくまきこまれ、中国共産党にあまり干渉できなくなった。一九四三年にはコミンテルンも解散し、「コミンテルン中国支部」という制約がなくなったため、中国共産党がスターリン人脈をトップにすえる必要もなくなり、毛沢東の自主性がさらにたかまった。このころから、抗日(日中)戦争をたたかう軍事指揮権を掌握し、スターリン人脈をおいおとし、政治的権威をも上昇させていった。毛にとっての日中戦争とは、ソ連との上下関係を清算して中国共産党内での権力闘争をかちぬき、自分の権威を確立する、重要な契機だった。敵は日本や、圧迫をくわえてくる国民党だけではなかったのだ。
人民のための軍隊
一九四五年四月、毛沢東は中国共産党第七回全国代表大会で、「聯合政府について」という政治報告をおこない、抗日戦争の歴史を総括し、今後のみとおしをのべた。かれはこのなかで、抗日戦争は「人民戦争」でもあるとのべている。それは八路軍・新四軍ほか共産党系の軍隊が、「広範な人民大衆の利益のため」に「団結してたたかっているから」で、また「この軍隊の唯一の根本理念」は、「中国人民とともにしっかりとたちあがって、誠心誠意、中国人民に奉仕すること」であるとも断言している。そしてこのように人民とつよくむすびついた軍隊であるから、「最後には日本の侵略者をうちやぶることができる」とものべている。
先述したとおり、日本軍だけではなく国民政府の圧力ともたたかわねばならなかった共産党は、全中国から見れば華北のごく、一部にすぎない「辺区」におしこめられ、長期戦による疲弊と食糧不足とにくるしんでいた。報告では、「中国人民の抗戦を破壊し中国人民の国家をあやうくしているのは、まさか国民党政府でないというわけではあるまい」、つまり国民「党」政府が抗戦を妨害し、国家存立の危機をもたらしているとのべている。
共産党がいきのこっていくためには、まずかれらの軍隊の存在意義を、つよくうちださなければならなかった。そのための有効なロジックが、「人民のための軍隊」だったと筆者はかんがえる。つぎに、重慶国民政府による日本への抗戦と人民の防衛とがいかに有名無実であるか、さらには、いかに有害であるかを印象づける必要もあった。弱小ながら、「人民のための軍隊」であろうとしてきた共産党の軍隊だけが、そしてその最高指導者である毛沢東だけが、抗戦をまっとうして日本に勝利し人民をまもれるのだと強調することも、この報告の眼目であった。つまり、共産党の軍隊はもはや国民革命軍の一部ではなく、毛沢東の指揮下にあって、「人民」全体の軍であると宣言したにひとしい。
共産党が、八路軍・新四軍そのほか、協力する各種武装勢力もふくめて「中国人民解放軍」を正式に編制するのは、国共内戦時(一九四六~一九四九年)であったとされるが、その構想は日本の無条件降伏以前、抗戦末期にはすでにあったとみてよいだろう。周知のとおり、内戦に勝った共産党が人民共和国を建国したあとから現在にいたるまでも、この名称の軍隊が存在するということは、抗日戦争および国民党との対立によって、共産党および毛沢東のアイデンティティが確立され、その正統性も担保されていることの証拠にほかならない。
解放軍は現在でも「共産党の軍隊」であり、党がやしなう義務をおっている軍隊である。共産党の根幹であるとともに、党の指導下にあるとされる中華人民共和国の根幹でもある。さらにいえば、現在の共産党と共和国のゆくえを決定づけた、毛沢東の軍隊でもある。二〇一五年の抗日戦争勝利軍事パレードに、習近平(一九五三~)国家主席(兼中国共産党総書記。国家および共産党の軍事委員会主席も兼任)が、毛沢東風のコスチューム(人民服)に身をかためて登場したのは、毛の権威にいまもたよらなければ、解放軍を掌握するのはむずかしいことを暗示している。
国民革命軍に勝利する
さらに、民国時代と共和国成立以後とのちがいもふまえなければならない。民国時代の紅軍は、日本軍や国民革命軍から圧迫されていたものの、それゆえにたたかうべき「敵」は明確であった。しかし、一九四五年に日本が無条件降伏したあと、事態はかわった。
まず国共両党は連合政府樹立を模索したが、これが暗礁にのりあげると、ソ連軍の進攻により崩壊した旧「満洲帝国」領内(東北地方)に、共産党は兵力を潜入させた。国民党との一戦はさけられないとみて、その力がほとんどおよんでいない東北地方に先手をうったのである。一九四六年に事実上の内戦に突入すると、それまで中華民国の維持に協力的であったアメリカが国民党への明確な支持や共産党の排除をうちださなかったため、援助をじゅうぶんに得られなかった蒋介石は、しだいに不利なたたかいを強いられるようになった。
けっきょく一九四八年の三大戦役にやぶれ、さいごに首都をおいた四川省成都もまもりきれなくなって、蒋は台湾へとのがれた(一九四九年)。台湾に自称「中華民国」が存続し、大陸に中華人民共和国が建国されて現在にいたるのは周知のとおりである。共産党にとって、台湾の「回収」なくして中国の真の統一は実現しないため、その意を受けた解放軍は、なんども攻撃や挑発をくりかえしてきた。他方で大陸内部には、共産党支配に反発する少数民族の火種はくすぶり続けているものの、明確な外敵はいない。いまだ「回収」できないでいる台湾をみすえるいっぽうで、大陸における広大な領土を維持し、多様な民族をまとめあげ、外敵の侵入をゆるさないためには、「共和国」人民の結束を内外に印象づけ、共産党につよい求心力があることをしめす必要がある。もっともわかりやすいシンボルが解放軍の偉容であり、それをうみだした「抗日戦争」勝利の栄光なのである。
人民だれしもに共通するナショナルな歴史的体験を、「抗日戦争勝利」に一本化し、その立役者としての解放軍を賞賛しなければ、中華人民共和国という国家の存在意義と、国民(人民)意識はたちゆかなくなるだろう(それらが動揺しているときほど、日本を攻撃の標的にしてまとまろうとする)。その意味でも日中関係の根本的改善に、「人民解放軍」がカギをにぎっていることをわすれてはならない。
毛沢東の擾頭
毛沢東(一八九三~一九七六)が軍事的・政治的権威を確立しはじめるのは、日中戦争が激化して国民党からの圧迫がめだってくる一九四〇年代であった。
共産党創立当初(一九二一年)には、出身地・湖南省の代表にすぎなかった毛は、第一次国共合作時に、国民党員として農民運動の指導に成果をあげ、しだいに頭角をあらわした。合作崩壊後は、湖南省と江西省とのさかいにある井肖山にさいしょの革命根拠地をつくり、先述の両省だけではなく、福建省西部方面にも勢力をのばした。しかしその功績がありながら、毛はコミンテルンやソ連から評価されなかった。なぜならば、都市労働者を糾合するのが共産主義革命の基本であるのに、毛は貧しい農民や小作農を糾合したばかりか、山間部の匪賊にまで根拠地建設に協力させ、なおかつ根拠地に「革命」の名を冠したからである。
共産主義理論に反する行動がおおかった毛は、ソ連の最高指導者・スターリン(一八七八~一九五三)からきらわれた。スターリンは、中国共産党の指導者としての地位を毛にみとめなかったばかりか、軍事指揮権すら途中から剥奪した。かわりに、ソ連に留学した中国人党員たちを要職につけ、自分の命令どおりに共産党をうごかそうとした。
毛がスターリンのくびきを脱したのは、一九三九年の第二次世界大戦勃発後、とりわけ一九四一年の独ソ戦開始以降であった。ぞもそも一九三七年の日中戦争勃発をうけて、ソ連への日本軍進攻をおそれたスターリンは、第二次大戦勃発直前にナチス・ドイツと相互不可侵条約をむすび、西側から侵略される不安を払拭した。しかし一九四一年三月になると、ドイツのおもな攻撃対象であったイギリスにアメリカが武器援助を開始したため、ドイツはヨーロッパでそれ以上に勢力を拡大できなくなった。局面打開の反転攻撃は、ソ連へとむかった(同年六月)。ソ連は大戦のうずにいやおうなくまきこまれ、中国共産党にあまり干渉できなくなった。一九四三年にはコミンテルンも解散し、「コミンテルン中国支部」という制約がなくなったため、中国共産党がスターリン人脈をトップにすえる必要もなくなり、毛沢東の自主性がさらにたかまった。このころから、抗日(日中)戦争をたたかう軍事指揮権を掌握し、スターリン人脈をおいおとし、政治的権威をも上昇させていった。毛にとっての日中戦争とは、ソ連との上下関係を清算して中国共産党内での権力闘争をかちぬき、自分の権威を確立する、重要な契機だった。敵は日本や、圧迫をくわえてくる国民党だけではなかったのだ。
人民のための軍隊
一九四五年四月、毛沢東は中国共産党第七回全国代表大会で、「聯合政府について」という政治報告をおこない、抗日戦争の歴史を総括し、今後のみとおしをのべた。かれはこのなかで、抗日戦争は「人民戦争」でもあるとのべている。それは八路軍・新四軍ほか共産党系の軍隊が、「広範な人民大衆の利益のため」に「団結してたたかっているから」で、また「この軍隊の唯一の根本理念」は、「中国人民とともにしっかりとたちあがって、誠心誠意、中国人民に奉仕すること」であるとも断言している。そしてこのように人民とつよくむすびついた軍隊であるから、「最後には日本の侵略者をうちやぶることができる」とものべている。
先述したとおり、日本軍だけではなく国民政府の圧力ともたたかわねばならなかった共産党は、全中国から見れば華北のごく、一部にすぎない「辺区」におしこめられ、長期戦による疲弊と食糧不足とにくるしんでいた。報告では、「中国人民の抗戦を破壊し中国人民の国家をあやうくしているのは、まさか国民党政府でないというわけではあるまい」、つまり国民「党」政府が抗戦を妨害し、国家存立の危機をもたらしているとのべている。
共産党がいきのこっていくためには、まずかれらの軍隊の存在意義を、つよくうちださなければならなかった。そのための有効なロジックが、「人民のための軍隊」だったと筆者はかんがえる。つぎに、重慶国民政府による日本への抗戦と人民の防衛とがいかに有名無実であるか、さらには、いかに有害であるかを印象づける必要もあった。弱小ながら、「人民のための軍隊」であろうとしてきた共産党の軍隊だけが、そしてその最高指導者である毛沢東だけが、抗戦をまっとうして日本に勝利し人民をまもれるのだと強調することも、この報告の眼目であった。つまり、共産党の軍隊はもはや国民革命軍の一部ではなく、毛沢東の指揮下にあって、「人民」全体の軍であると宣言したにひとしい。
共産党が、八路軍・新四軍そのほか、協力する各種武装勢力もふくめて「中国人民解放軍」を正式に編制するのは、国共内戦時(一九四六~一九四九年)であったとされるが、その構想は日本の無条件降伏以前、抗戦末期にはすでにあったとみてよいだろう。周知のとおり、内戦に勝った共産党が人民共和国を建国したあとから現在にいたるまでも、この名称の軍隊が存在するということは、抗日戦争および国民党との対立によって、共産党および毛沢東のアイデンティティが確立され、その正統性も担保されていることの証拠にほかならない。
解放軍は現在でも「共産党の軍隊」であり、党がやしなう義務をおっている軍隊である。共産党の根幹であるとともに、党の指導下にあるとされる中華人民共和国の根幹でもある。さらにいえば、現在の共産党と共和国のゆくえを決定づけた、毛沢東の軍隊でもある。二〇一五年の抗日戦争勝利軍事パレードに、習近平(一九五三~)国家主席(兼中国共産党総書記。国家および共産党の軍事委員会主席も兼任)が、毛沢東風のコスチューム(人民服)に身をかためて登場したのは、毛の権威にいまもたよらなければ、解放軍を掌握するのはむずかしいことを暗示している。
国民革命軍に勝利する
さらに、民国時代と共和国成立以後とのちがいもふまえなければならない。民国時代の紅軍は、日本軍や国民革命軍から圧迫されていたものの、それゆえにたたかうべき「敵」は明確であった。しかし、一九四五年に日本が無条件降伏したあと、事態はかわった。
まず国共両党は連合政府樹立を模索したが、これが暗礁にのりあげると、ソ連軍の進攻により崩壊した旧「満洲帝国」領内(東北地方)に、共産党は兵力を潜入させた。国民党との一戦はさけられないとみて、その力がほとんどおよんでいない東北地方に先手をうったのである。一九四六年に事実上の内戦に突入すると、それまで中華民国の維持に協力的であったアメリカが国民党への明確な支持や共産党の排除をうちださなかったため、援助をじゅうぶんに得られなかった蒋介石は、しだいに不利なたたかいを強いられるようになった。
けっきょく一九四八年の三大戦役にやぶれ、さいごに首都をおいた四川省成都もまもりきれなくなって、蒋は台湾へとのがれた(一九四九年)。台湾に自称「中華民国」が存続し、大陸に中華人民共和国が建国されて現在にいたるのは周知のとおりである。共産党にとって、台湾の「回収」なくして中国の真の統一は実現しないため、その意を受けた解放軍は、なんども攻撃や挑発をくりかえしてきた。他方で大陸内部には、共産党支配に反発する少数民族の火種はくすぶり続けているものの、明確な外敵はいない。いまだ「回収」できないでいる台湾をみすえるいっぽうで、大陸における広大な領土を維持し、多様な民族をまとめあげ、外敵の侵入をゆるさないためには、「共和国」人民の結束を内外に印象づけ、共産党につよい求心力があることをしめす必要がある。もっともわかりやすいシンボルが解放軍の偉容であり、それをうみだした「抗日戦争」勝利の栄光なのである。
人民だれしもに共通するナショナルな歴史的体験を、「抗日戦争勝利」に一本化し、その立役者としての解放軍を賞賛しなければ、中華人民共和国という国家の存在意義と、国民(人民)意識はたちゆかなくなるだろう(それらが動揺しているときほど、日本を攻撃の標的にしてまとまろうとする)。その意味でも日中関係の根本的改善に、「人民解放軍」がカギをにぎっていることをわすれてはならない。
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