goo

8時から活動できる工夫

レミゼの東京公演日程

 レミゼの東京公演に日程が発表された。生ちゃんが出演する26公演をモバイル先行予約(抽選)。コゼット役でトリプルのはずです。S席は13500円で、帝国劇場では1120席。1/3だと360席。アイドル経由できたのは正解だったかもしれない。何しろ、ファンがバックにつきます。

ミュージカルの変革

 生ちゃんにはミュージカルそのものを変えて欲しい。46時間TVの時のイエヴァンポルカのように、好きなものは独力で切り開く才能を持っている。

 レミゼにはフラッシュ・モブはつきものです。街の中で突然始まる。「民衆の歌」はフランス革命の街を想定できる。日本に革命の烽火を挙げる。「自由」に加えて、「平等」のための進軍。

8時から活動できる工夫

 寒い朝に、8時から活動できる工夫をしよう。部屋の中は零度以下だから、7時に下の居間までいって、唯一の暖房器具に点火する。8枚切りパン二切れの朝食を食べながら、外出用に着替えを行なう。その作業を7時版までに終えれば、奥さんが起きてくるまでに退散する。

 その間に8時からの行動を決める。ゴミ出しして、そのまま駅前スタバへ行き、書き起こし作業とか、机で未唯宇宙の作業とか。考える部分を避けていてもしょうがない。未唯宇宙に向かいましょう。

書き起こしを極める

 書き起こしで「書く」ことを始めている。ICレコーダーで聞きながら、書き起こししていたが、ノートに万年筆で書いてから、そこから書き起こすことにした。何しろ、とてつもなく大きな未唯宇宙が残っている。亡くなる前に目処を付けたいものです。他者の世界との関係から私の世界を明確にする。自分の言葉で存在を示していく。横道に逸れたけど、これは一つのセオリーです。

「こんなはずじゃなかった」

 何となく、亡くなる時に「こんなはずじゃなかった」と言いそう。これだけの感覚を持っているのに。だからといって、どれだけのものになっていけばいいのかという答えはない。

 他者の世界から、名前は知られても、その名前はダミーです。これは本名にも言えるけど。スターリン、トロッキー、チェ・ゲバラは全て本来の名前ではない。トロッキーはシベリアの看守の名前です。

二本角のアレクサンドロス

 イスラムの世界観にアレクサンドリアが出てきます。クルアーンの中に「二本角のアレクサンドロス」として、世界をまたぐものとして、認識されている。この謎を解明したい。アレクサンドロスからムハンマドまで900年を隔たれている。

OCR化した本の感想

 『戦地の図書館』

  「蘇る不死鳥」になりうるのか。リアルの本ならば、燃やすことができる。本を燃やすことは人間を燃やすことになる。ナチはそれを実行した。若い頃はたき火が趣味だった。家の前で色々なものを燃やしていた。ダイオキシンとかが問題になる前のこと。その時に、本も燃やしていた。

  日本では戦前に「図書館戦争」のカタチを取った。

  電子書籍になった時は二つの形態が考えられる。一つは拡散したものは統制が取れない、もう一つは統制されて、一気になくしてしまう。これには個人の分化と超国家での統合が絡んでくる。いずれにしても、リアルの本とは別の新しい世界になる。

 『スペイン レコンキスタ時代の王たち』

  アストゥリアス王国はペネレー山脈に沿って、かろうじて生き残った。ここからレコンキスタを開始した。ジブラルタル海峡で防ぐことを考えなかったのかな。というのは、何となく、蒙古襲来と対比してしまう。

  700年も維持できたのは、ムスリムの政策に寄るのだろう。イスラムに支配される、というと住民たちは緊張するかと思いますが、このときのイスラム支配は緩やかなものでした。侵入した土地の有力貴族とそれぞれ別個に協定を結び、一定の税金を貢納をさせる代わりに生命や財産を守り、奴隷にはしないことを約束し、信仰も保証したのです。イスラム教に改宗はさせなかったのでしょうか。改宗者も多く出ました。が、キリスト教徒やユダヤ教徒からは特別税を徴収していたので、彼らが改宗してイスラム教徒になると、その特別税をとれなくなるのです。ですから支配層のイスラムとしては、「税か宗教か、どちらかは、従え」だったのでしょう。こんな風に緩やかな変化だったので、わずか数年でイスラム支配、ということが可能だったのです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イベリア半島、あっという間に占領される

『スペイン レコンキスタ時代の王たち』より アストゥリアス王国の誕生 七一八年 ⇒ やっと、イベリア半島をムスリムに占領された時の記述に出会えた。

西暦七一一年、イベリア半島に大変なことが起こりました。キリスト教国である西ゴート王国が治めていたところに、北アフリカからジブラルタル海峡を越えて、突如イスラム教徒の軍隊が入ってきたのです。そして、わずか数年の間に、まさにあれよあれよという間に、半島のほとんどをその支配下に置いてしまったのです。

いくら何でも、あの広いイベリア半島のほとんどをわずか数年で新たに支配するのは不可能でしょ、と思うのですが、その不可能が実際に起こってしまったのです。

その侵入されてしまった西ゴート王国について見てみると。

西ゴート王国は、五世紀初めにローマの支配から独立してイベリア半島に入った王国で、六世紀後半には首都をトレドに置き、王は原則として貴族の選挙によって選ばれていました。一見民主的ですが、王は普通、自分の息子を次期王にしたいので、統治の一部を息子に任せ時には共同王としていたのです。[系図]で王様を見ると、キンダスウィントとかレケスウィントとか、聞いたことのない名前が並んでいるのですが、このキンダスウィント王は息子レケスウィントを共同王としたので、二人の在位期間が重複しているのです。

とはいえ、現王への反対派は常にいて、レケスウィント王の次は、系図ではつながらないワムバが、選挙で選ばれました。が、この人は聖職者に徴兵制を課したため反感を買い、次の王は、キンダスウィント王の遠縁のエルウィックとなったのです。そんなことから、[系図1]では、王様たちが一つの線でつながっておらず、あちこちに散らばっているのです。

そして西暦七一〇年、ウィティザ王が死去します。ウィティザ王は晩年、息子のアヒラと共同して統治をしていました。ですから、ウィティザ派は、このアヒラを王に推します。一方、伝統派はキンダスウィント王に繋がるロドリゴを推したのです。ウィティザ派はウィティザの兄弟たちやセビーリャ大司教、有力貴族たちを味方につけて戦いますが、結局ロドリゴ派が勝利しました。

こうしてロドリゴ王が誕生したのですが、この西暦七一〇年のウィティザ王からロドリゴ王への王位の変遷は、両家の対抗意識を増加させるとともに、ウィティザ派に恨みを残すことになったのです。

ロドリゴ派とウィティザ派の王位争いは、ある出来事をきっかけに大ごととなりました。

北アフリカは当時イスラムが支配していたのですが、ここに、もとは西ゴート王国の貴族だったフリアン伯爵という人物が登場します。この人、イスラム系の名前も持っていて、両国の間を行ったり来たりしながら商売をしていたのです。イスラムの総督からも親しくされており、その領土の一部を譲り受けたりもしていた仲でした。アフリカの北端セウタの総督をしていたとも言われています。

このフリアン伯爵には、美しい娘フロリンダがいたのですが、水浴びをしているところをロドリゴ王に見られてしまいます。ロドリゴ王は、その娘のあまりの美しさに惹かれ夢中になり我を忘れ、フロリンダを犯すのです。これを知って怒り狂ったフリアン伯爵は復讐を決心し、イスラム人と協力して彼らがジブラルタル海峡を渡れるように手配したのです。ロドリゴ王に恨みを持っていたのはフリアン伯爵だけではありませんでした。先王ウィティザ派は、この機に打倒ロドリゴを企て、ロドリゴ王を倒すために北アフリカ総督のムーサに援助を求めたのです。

総督ムーサは、部下でベルペル人の隊長ターリクを呼びました。

 「イベリア半島から、援助の要請が来ている。ちょうどよい。偵察してくるように」

ムーサは機会あればイベリアに入っていこう、などと思っていたのです。ターリクは、「ははあ」とばかり、五〇〇人の兵士と四隻の船で急ぎイベリア半島に向かい、静かに上陸し、数週間かけて調査をし、ついでに掠奪もして北アフリカに戻りました。

 「上陸も侵攻も容易であります。強い抵抗もなく、全体に西ゴートの国の防衛は大したことはありません」

ムーサは満足しました。

 「よくやった。来年は兵士を増やし、もっと奥まで進め。戦闘も、思う存分するように」

そして、翌七一一年、ターリクは今度は七〇〇〇名の兵士とともに、いよいよ本格的に上陸したのです。

このとき、ロドリゴ王はどこにいたのでしょう。「イスラム軍、ジブラルタルに上陸」の知らせを受けたのは、半島北部のパンプローナに遠征していたときでした。

驚いた西ゴート王国の南方面の司令官は、独自に急遽数千人の兵士を集めるのですが、イスラムはもっと大軍であるという知らせが届くと、何と兵士たちは戦いを拒否してしまいます。司令官はあわててパンプローナに使いを送り王に状況を知らせると、王は甥を前衛隊長としてジブラルタル向けて送るのですが、何もしないうちにこの甥は戦死をしてしまいます。

ロドリゴ王は自らコルドバに行き、その号令のもとに、軍隊を集合させます。そこには対立していた先王ウィティザの兄弟や息子たちもいました。王を選ぶときにはライバルでしたが、対イスラムにおいては当然に共に戦うはずでした。

西ゴート軍とイスラム軍は、グアダレーテ川の河畔で出合います。世に言う、「グアダレーテの戦い」です。ロドリゴはグアダレーテ川に沿って戦隊を配置し、その両翼にはウィティザ隊を配置しました。イスラム側に比べて、西ゴート側は、兵士は二倍、騎馬隊は三倍と言われます。また、騎馬隊も歩兵隊も強力で、武器も、槍、剣、弓、投石器、矢など、種類も多かったと言われています。

西ゴート軍は、敵を屈服させるために戦いを開始したのですが、ロドリゴ王が驚いたことには、両翼のウィティザ隊はロドリゴの戦闘開始の合図に反応しなかったのです。そればかりか、逃亡を始めたのです。さらに、イスラム側の騎馬隊はとても動きが速く軽かったのに対し、西ゴート側の動きは重く遅かったのです。そして、イスラム側は戦況が不利になると、隊長ターリクが素晴らしい熱弁を振るい、隊員たちを奮い立たせたといいます。

ロドリゴ王の最期はわかっていないのですが、この戦いでグアダレーテ河岸で死亡したものとされています。

 「グアダレーテの戦い」に勝利したターリク軍は、セビーリャを征服し、もう一隊はコルドバを征服後北上し、西ゴート王国の首都のトレドを征服しています。ほとんど戦うことなしにトレドの占領はなされました。このターリクの成功を見て、翌七一二年、今度は総督ムーサが自らの軍隊一万八〇〇〇人を率いてイベリア半島に上陸してきたのです。サラゴサやウエスカの占領は、ムーサ軍とターリク軍と共同して行っています。

ロドリゴ王の死をもって西ゴート王国は滅んでおり、その後のイスラムの侵入、北上は、多分したい放題だったのでしょう。コルドバ、トレドに加えて、サラマンカ、サラゴサ、地中海沿岸のタラゴナ、北部のレオンやアストゥルガ、さらには、カンタブリア海に面しかヒホンなどまで奪っています。南方では、マラガやムルシアにも侵入をしています。ほぼ、イペリア全域をイスラムが支配したのです。

では、イスラム軍は、どこまで行きたかったのでしょうか。七三二年に、イスラム軍はピレネー山脈を越えて、中部フランスのトゥールとポワティエの間で、いわゆる「トゥール・ポワティエの戦い」が起きました。これは、イスラムがイベリア半島を征服し、ピレネーを越えてフランスの領土にも迫った戦争でした。しかし、イスラム軍はフランス軍に敗れ、以後、それ以上の侵入はありませんでした。イベリア半島の支配でひとまず満足をすることになったのです。

イスラムに支配される、というと住民たちは緊張するかと思いますが、このときのイスラム支配は緩やかなものでした。侵入した土地の有力貴族とそれぞれ別個に協定を結び、一定の税金を貢納をさせる代わりに生命や財産を守り、奴隷にはしないことを約束し、信仰も保証したのです。「貢納金は徴収する。イスラムの敵に加担することは禁じるが、その他のことは自治に任せる」、という感じでしょうか。でも、これはすんなり降伏した町の話であって、激しく抵抗した町に対しては、財産の一部没収などの厳しい措置が取られたのでした。

イスラム教に改宗はさせなかったのでしょうか。改宗者も多く出ました。が、キリスト教徒やユダヤ教徒からは特別税を徴収していたので、彼らが改宗してイスラム教徒になると、その特別税をとれなくなるのです。ですから支配層のイスラムとしては、「税か宗教か、どちらかは、従え」だったのでしょう。こんな風に緩やかな変化だったので、わずか数年でイスラム支配、ということが可能だったのです。

とはいえ、キリスト教徒の生活には、ずいぶんと不都合が起きていました。既存の教会を使うことはできたのですが、新たな教会を建設することは禁じられました。教会内部では礼拝ができましたが、教会の外での礼拝は禁止でした。宗教行列も禁じられました。ミサを知らせるために教会の鐘を鳴らすことも禁じられました。

イスラムに改宗しなくても生きていけましたが、現実には、かなりの不具合をともなっていたのです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

書籍の灰からは、民主主義と自由を希求する精神が蘇った

ヒトラーは、ひとつの国をドイツの支配下に置くと、権力をより強固なものにするために、細心の注意を払いながら、その国の文化、歴史、芸術、報道、娯楽を改変した。多くの場合、文化の柱である図書館に最初に手をつけている。ヒトラーは、支配地域で価値のある書籍や美術品を集めるために、全国指導者ローゼンベルク特捜隊(ERR)を設立した。この部隊が集めた品々は、戦後に設立するナチスの大学に置く予定だった。一方で、有害と考える書籍などは処分した。驚くことに、この部隊は、東ヨーロッパの三百七十五の公文書館、四百二の博物館、五百三十一の施設、九百五十七の図書館を焼き尽くしている。チェコスロバキアとポーランドではそれぞれの国が有する書籍の半分を、ロシアでは五千五百万の書籍を処分したと言われている。支配された地域の図書館は、閉鎖を免れても、ナチスの計画の実現に役立つように改変された。ポーランドの図書館は、国家社会主義路線に添って改変されている。ナチスは文書を〝ドイツ化〟し、彼らが認めた文学作品を補充し、有害と見なしたものをことごとく取り除いた。占領したオランダの図書館には、ドイツの様々な功績を伝えるドイツの最新の書籍を並べた。フランスが敗れた時、ドイツがまず行なったことのひとつは、〈ベルンハルトのリスト〉の発行である。このリストには、発禁処分とする百四十の作品の題名が記されていた。さらに一九四〇年九月には、千四百近い作品名が記された、より広範なリストを発行している。ナチスは、パリの多くの図書館をそのまま閉鎖したが、H・G・ウェルズが設立した《燃やされた本の図書館》は、皮肉の意を込めて、そのまま残した。この図書館の事務局長アルフレート・カントロヴィチ博士によると、「ドイツ人が図書館に鍵をかけたため、図書館の本を読むのは実質的に不可能だった」。が、ドイツ人は参考図書として利用していた。ヒトラーの図書館に対する関心の高さを知った西ヨーロッパ諸国の図書館員や学芸員は、価値のある書籍や美術品を洞窟や城に隠して守ろうとした。

アメリカでは、ヒトラーによる文化に対する攻撃について新聞が報じると、第二次世界大戦はふたつの側面を持つ戦争である、という見方がなされるようになった。あるジャーナリストは、次のように述べている。「ふたつの戦いが同時に進行している。ひとつは縦の戦い。これは軍と軍の戦いである。もうひとつは横の戦い。これはイデオロギー、政治、社会、経済の戦いである」この戦争には肉体的な戦いと精神的な戦いが含まれているとか、戦場と図書館において戦いが繰り広げられているなどと述べている者もいる。人によって表現の仕方は違うが、「この戦いは、戦場だけで行なわれているのではない。国家が信奉する思想も攻撃にさらされている」という認識を皆が抱いでいた。ヒトラーは軍隊だけではなく、民主主義や自由思想を叩き潰そうとしていた。この戦争も、第一次世界大戦と同じく。総力戦々だったのだ。

アメリカも、ドイツ軍が遠く離れた場所にいるからといって安心してはいられなかった。ヒトラーの思想はアメリカにも簡単に入り込み得る、ということが明らかになってきたからだ。ヒトラーは、フランスに軍隊を送る前、ラジオを用いてフランス国民の心を攻略した。それと同様に、アメリカが参戦を考えるようになるずっと以前から、ラジオを利用してアメリカ国民の心を攻略しようとしていた。一九三〇年代から一九四〇年代にかけて製造されたラジオ受信機は一般に、国際放送に利用される短波を受信できた。ドイツは日本の協力の下、毎日十八時間、北アメリカに向けてラジオ番組を放送していた。ドイツは、アメリカに対する心理戦を秘かに始めていたのである。もしもアメリカ国民が、フランス国民と同じように意気阻喪すれば、赤子の手をひねるように、アメリカを打ち負かせるからだ。

より効果的なプロパガンダを行なうために、ドイツの役人がドイツ在住のアメリカ人を探し出し、アナウンサーとして雇い入れた。彼らはアメリカ英語のアクセントで話すため、ドイッヘの忠誠心を感じさせなかった。アナウンサーになると、ドイッ国民にのみ支給されていた配給切符の支給を受けられたし、日々不穏さを増すドイツで保護してもらえるという利点もあったので、数人のアメリカ人が、帝国放送のアナウンサーになっている。初期のアメリカ人アナウンサーは、アイオワ州出身のフレデリック・ウィリアム・カルテンバッハ、イリノイ州出身のエドワード・レオ・ディレイニーなどである。帝国放送は後に、アクシス・サリーという名で知られる悪名高きミルドレッド・ギラースを使って、大々的にプロパガンダ攻勢を仕掛けている。

しかし、アメリカに対するプロパガンダ作戦は効果を発揮しなかった。アメリカの報道機関が、ドイツのラジオ番組の実態を易々と暴いたからだ。〈ニューヨーク・タイムズ〉によると、ドイツのラジオ番組は、アメリカの典型的なラジオ番組の構成をそっくり真似ていた。まず、アナウンサーがニュースを読み、それから音楽とドラマを流すのだ。〈ニューヨーク・タイムズ〉は次のように伝えている。「アメリカのラジオ局は、番組の途中で石鹸や朝食用シリアルの宣伝をするが、ドイツは自分たちの思想を宣伝している」

アメリカでは、ドイツによるプロパガンダ作戦を報じるだけでなく、それに対抗する動きも現れた。フランスがあえなく敗れたのは、ドイツのプロパガンダ作戦が効を奏したからだった。そこで、プロパガンダに立ち向かおうと幾つかの組織が立ち上がった。その組織のひとつが、アメリカ図書館協会(ALA)である。図書館員には、ヒトラーがアメリカに仕掛けてきた思想戦で、ヒトラーの勝利を阻止する責務がある、とアメリカ図書館協会は考えていた。彼らは、図書館の書架から書籍を取り除きたくはなかった。書籍が燃やされる光景を見たくもなかった。アメリカが参戦していないからといって、行動を起こさず、ただ手をこまねいているつもりもなかった。一九四一年一月のアメリカ図書館協会の刊行物には、こう記されている。「ヒトラーの目的は、思想を弾圧することである……ドイツと直接砲火を交えていない国々においても、それを行なおうとしている」

一九四○年の終わりから一九四一年初めにかけて、アメリカの図書館員は、ドイツによる目に見えない攻撃からアメリカの思想を守る方法について話し合った。ヨーロッパにおける〝書物大虐殺〟は、彼らの神経を逆撫でするものだった。そして議論の末、〝思想戦における最強の武器と防具は、本である〟いう結論に達した。アメリカ国民が本を読めば、ドイツによるプロパガンダ放送の影響は薄まるだろう。焚書は読書の対極にあるものだ、という認識も深まるだろう。ヒトラーが、ファシズム体制を強化するために記された言葉を抹殺するつもりなら、図書館員は読書を促すのだ。ある図書館員は語っている。「ヒトラーの『我が闘争』が、幾百万もの人々を奮い立たせ、不寛容と圧制と憎しみを求める戦いへと向かわせ得るなら、幾百万の人々を、それに対抗する戦いへと向かわせ得る本も存在するのではないでしょうか?」

一九三三年五月十日の夜、ゲッベルスはベルリンで行なった演説において、眼前で燃る書籍の灰から「新しい精神が不死鳥の如く生まれるだろう」と述べている。ゲッベルスはこの時、灰から生まれるのはドイツの民族主義、ファシズム、ナチズムだと考えていた。

しかし、ゲッベルスの演説から十年も経たないうちに、書籍の灰からは、民主主義と自由を希求する精神が蘇った。めらめらと燃える炎に黒く焦がされた書籍が伝える思想をはじめとする、様々な思想を広めようという精神が生まれた。そして、アメリカの図書館員の尽力により、図書館、百貨店、学校、映画館に、書籍が山のように積み上げられることとなった。燃やすためではなく、アメリカ軍兵士に送るためである。また、アメリカ軍兵士のために、ライバル同士の出版社が資金や知恵を出し合い、協力して膨大な数の書籍を作った。それらはあらゆる題材を扱い、あらゆる思想を伝えていた。

灰から、書籍が力強く蘇ったのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ベーベル広場での焚書風景

『戦地の図書館』より 蘇る不死鳥

一九三三年五月十日、ベルリンには霧雨が降っていた。しかし、この日催された壮大なパレードは、陽気な雰囲気に包まれていた。数千人の学生が、霧雨に霞む通りを、ベーベル広場へ向かって行進した。皆、大学の校章を誇らしげに身につけ、赤々と燃える松明を掲げている。フリードリヒ・ヴィルヘルム大学と歌劇場に接する、街の主要な広場であるベーベル広場には、やがて執り行なわれる焚書を見物するために、およそ四万人が集まっていた。パレードが通る道沿いにも、同じくらい多くの人々がつめかけていた。ベーベル広場の中央には、薪が高く積み重ねられていた。薪の山は幅十二フィート、高さ五フィートほど。最初に広場に到着した浮かれ気分の学生たちが、その異様な薪の山の上に松明を放り投げた。すると、青い炎が空に向かって噴き上がった。はっと息をのむような光景だった。積み上げられた薪は、たちまちのうちに巨大な赤い炎に包まれていった。

やがて、列をなした自動車が、蛇行しながらベーベル広場に到着した。学生の一部が、ぱちぱち燃える薪の山と自動車の間に整然と並ぶ。集まった人々が見守る中、ひとりの学生が先頭の自動車に手を伸ばし、中に積んである書籍を一冊掴んだ。その書籍は、並んだ学生の手から手へと渡され、最後に、薪の山に一番近い学生によって炎の中へ投げ込まれた。観衆は一斉に拍手した。このようにして、書籍が一冊また一冊と火中に消えていった。幾人かの学生は、自動車の中の書籍を腕いっぱいに抱えて、薪の山のそばまで歩いていき、激しく燃える炎の中に投げ入れた。そのたびに、炎は一層燃え上がった。

焚書はしばし中断され、主催者である学生のひとりが、焚書の目的を説明した。曰く、ドイツ文学の純粋性を守るために、〝非ドイツ的〃な書籍と文書をすべて燃やさなければならない。こ非ドイツ的〟な書籍は、ナチス・ドイツの国民運動を阻害するものだ。ユダヤ人作家の著作はすべて非ドイツ的である。なぜなら、「知力は高いが、血が劣っているユダヤ人は……ドイツの思想を理解せず、ドイツの威厳を損なわせ、ドイツの精神を傷つける」からだ。ドイツがより強くなるためには、侮辱的な書籍を抹殺し、ドイツの発展を妨げる思想を取り除かなければならない。 焚書が再開すると、別の学生が、焚書の対象となる書籍の著者の名前を読み上げ、それらの人物の思想がなぜドイツにとって有害なのかを説明した。ジークムント・フロイトは、「ドイツの歴史を歪曲し、ドイツの偉人たちの評価を失墜させた」という理由で糾弾された。エミール・ルートヴィヒは、「文学において非道を働き、ドイツに反逆した」。エーリッヒ・マリア・レマルクは、「ドイツの言語を低め、国家の理想を踏みにじった」。著者の名前は次々に読み上げられた。書籍はどんどん燃やされ、集まった人々は、まるでスポーツを観戦している時のように喝采した。焚書は、夜になるまで何時間にもわたって続けられた。

この焚書は熱狂的な学生団体が独断で計画したものだと噂されていたが、実はナチスの承認を受けて実行されたものだった。当日、国民啓蒙・宣伝大臣のパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス博士が広場に赴き、演説している。ゲッベルスは、ドイツの文学、報道、ラジオ、演劇、音楽、芸術、映画を統制する機関である帝国文化院の長でもあり、その権力を用いて、ヒトラーの思想に添った社会を作り出そうとしていた。そのため、進歩的な政治思想を持つ作家、あるいは平和主義、社会主義、改革主義、性的自由などを支持する作家の著書に目を光らせていた。進歩的な思想を匂わせる文章が含まれているだけでも、書籍は燃やされる運命にあった。

ゲッベルスは鉤十字が飾られた演壇に登り、「ユダヤ人の主知主義は死んだ」と述べた。「国家社会主義が道を切り開くのだ」ゲッベルスは、目の前の光景を指し示しながら演説を続けた。

 ドイツ国民の魂は、再び語る力を得るだろう。この炎は、古き時代の終焉を告げ、新しき時代を照らし出している。若者には、古き時代の遺物を一掃する権利があるのだ。我々新世代の人間の行動を理解できない旧世代の人間には、その意義を教えてやろうではないか。

古きものは燃え尽き、新しきものが、我々の心の炎から生まれるだろう。ゲッベルスの演説が終わると、「国民よ、武器を取れ」と題された歌が夜空に響き渡り、再び学生たちが、燃え立つ炎の中に書籍を投げ入れ始めた。

ベルリンで実行された焚書を広く伝えるために、その模様はラジオで生中継された。ドイツ各地の映画館は、ベルリンの焚書を撮影した映画をただちに上映し、〝ドイツの価値を貶める有害な書籍を抹殺しなければならない〟というナチスの主張を観客に伝えている。ナチスの主張が広がると、九十三か所で焚書が実行された。いずれの焚書も大観衆を集め、報道機関がその様子を熱心に伝えた。キール大学の学生は、ドイツの精神に害をもたらすと見なした二千の文学作品を集めた。そして大きな簿火を焚き、招待した大勢の人々の前で、それらの〝有害〟な書籍を燃やしている。ミュンヘンでは、学生が壮麗な松明パレードを行ない、大学の図書館から集めた百作品を公然と燃やした。ミュンヘンで実行された別の焚書では、五千人の子供が集まり、マルクス主義者の著作を燃やしている。その際、子供たちは次のように命じられている。「これらの非ドイツ的な本が燃える様をしっかりと見なさい。そして、父なる国への愛を新たにしなさい」ヴロツワフでは、ナチスが異端視する書籍五千ポンド分が、わずか一日で灰と化した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )