未唯への手紙
未唯への手紙
スタバのパートナーには社会現象を勉強してほしい
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駅前スタバでひめたんとか生ちゃんのことを話したけど、皆、知らなかった。信じられない! 異性のドロスなら知っているのかな? ちなみに、関西ではドロス、関東ではアレキだそうです。真ん中の中部は「サン」でしょう。
スタバのスタッフのアイドル化計画というのはないのか。コミュニケーションの一環として、お気に入りとの握手会とかジャンケン大会は楽しい。
月末月初の新刊書は期待できない
豊田市図書館の新刊書収集の日だけど、袋を一つ忘れてきた。これだと、20冊しか入らない。だけど、月末月初はプアだから、これで十分でしょう。案の定、14冊しかなかった。
OCR化した本の感想
『「世界史」の世界史』
アレクサンドロスは悪魔的存在に仕立て上げられた。ササン朝時代に形作られた歴史認繊におけるアレクサンドロスは、ソロアスター教に対して、あるいはイラン国に対して三つの大罪--聖職者や王族の惨殺、聖典の焼尽・略奪、イランの王権の分割--を犯したとされた。そしてササン朝起源のソロアスター教書に現れるアレクサンドロスは、「エジプトに住む憎きローマ人アレクサンドロス」、「かの敵、不運をもたらす異端者、邪悪で有害なエジプトのローマ人アレクサンドロス」、「憎きローマのアレクサンドロス」、「憎きアレクサンドロス」、「不運の悪党」、「不運と怒りに満ちた悪党」、「邪悪なギリシア人のアレクサンドロス」といったように、憎しみが込められた形容辞無しには語られない。
この一神教のフィルターを通したアレクサンドロス伝承は、イスラームの聖典『クルアーン』の「洞窟の章」八二~九七節に「二本角」の話として取り入れられた。この世の東と西の果てまで突き進む布教者、野蛮な民族の侵攻を防ぐ守護者として描かれている「二本角」。このことによって、中世イスラーム世界においてアレクサンドロスは「二本角のアレクサンドロス」と呼ばれ、神聖視された。
『〈軍〉の中国史』
中国は、私兵が国軍のかわりをはたす歴史をもち、その過程で、統率者が「もの」「かね」「ちから」を分配しながら、軍とのつよいつながりをつくってきた。また軍もそれらをもとめて統率者に依存するという、もちつもたれつの関係を形成してきた。
この関係はひとや制度を変化させつつ、ながい時間をかけてつくりあげられてきたため、ひじょうに強固であり、法律や規則で解消できるほど単純ではない。この相互依存関係がベースにあるからこそ、軍の末端部が統率者に「もの」「かね」「ちから」の分配をもとめ、ときには別途これらを確保してゆさぶりをかけるので、統率者側もやむをえず承認するとかんがえられる。
それにくわえて、統率者へのたえまないへつらいとあまえがあり、そして場合によっては、自分たちの行動によって統率者の方針をかえてしまえる、そのような過信もあるだろう。中国における「人治」はかくも根深く、法治への転換は容易ではない。国際法遵守を他国からもとめられていながら、それをなかなか完全なかたちにできないでいる中国は、けっして怠惰でも傲慢でもない。むしろみずからの歴史のなかにある、肥大化した「人治」のかたまりを、なんとか摘出しようとして苦闘しているさなかなのである。
しかしそのかたまりは、中国の「体」にしっかりと根をはってしまっているので、とりだそうとすればつよい痛みにおそわれる。そのくるしみにのたうつあまり、暴言や暴挙にみえるふるまいもでてくる。そうかんがえれば、日本も過剰反応をしないですむのではないだろうか。
駅前スタバでひめたんとか生ちゃんのことを話したけど、皆、知らなかった。信じられない! 異性のドロスなら知っているのかな? ちなみに、関西ではドロス、関東ではアレキだそうです。真ん中の中部は「サン」でしょう。
スタバのスタッフのアイドル化計画というのはないのか。コミュニケーションの一環として、お気に入りとの握手会とかジャンケン大会は楽しい。
月末月初の新刊書は期待できない
豊田市図書館の新刊書収集の日だけど、袋を一つ忘れてきた。これだと、20冊しか入らない。だけど、月末月初はプアだから、これで十分でしょう。案の定、14冊しかなかった。
OCR化した本の感想
『「世界史」の世界史』
アレクサンドロスは悪魔的存在に仕立て上げられた。ササン朝時代に形作られた歴史認繊におけるアレクサンドロスは、ソロアスター教に対して、あるいはイラン国に対して三つの大罪--聖職者や王族の惨殺、聖典の焼尽・略奪、イランの王権の分割--を犯したとされた。そしてササン朝起源のソロアスター教書に現れるアレクサンドロスは、「エジプトに住む憎きローマ人アレクサンドロス」、「かの敵、不運をもたらす異端者、邪悪で有害なエジプトのローマ人アレクサンドロス」、「憎きローマのアレクサンドロス」、「憎きアレクサンドロス」、「不運の悪党」、「不運と怒りに満ちた悪党」、「邪悪なギリシア人のアレクサンドロス」といったように、憎しみが込められた形容辞無しには語られない。
この一神教のフィルターを通したアレクサンドロス伝承は、イスラームの聖典『クルアーン』の「洞窟の章」八二~九七節に「二本角」の話として取り入れられた。この世の東と西の果てまで突き進む布教者、野蛮な民族の侵攻を防ぐ守護者として描かれている「二本角」。このことによって、中世イスラーム世界においてアレクサンドロスは「二本角のアレクサンドロス」と呼ばれ、神聖視された。
『〈軍〉の中国史』
中国は、私兵が国軍のかわりをはたす歴史をもち、その過程で、統率者が「もの」「かね」「ちから」を分配しながら、軍とのつよいつながりをつくってきた。また軍もそれらをもとめて統率者に依存するという、もちつもたれつの関係を形成してきた。
この関係はひとや制度を変化させつつ、ながい時間をかけてつくりあげられてきたため、ひじょうに強固であり、法律や規則で解消できるほど単純ではない。この相互依存関係がベースにあるからこそ、軍の末端部が統率者に「もの」「かね」「ちから」の分配をもとめ、ときには別途これらを確保してゆさぶりをかけるので、統率者側もやむをえず承認するとかんがえられる。
それにくわえて、統率者へのたえまないへつらいとあまえがあり、そして場合によっては、自分たちの行動によって統率者の方針をかえてしまえる、そのような過信もあるだろう。中国における「人治」はかくも根深く、法治への転換は容易ではない。国際法遵守を他国からもとめられていながら、それをなかなか完全なかたちにできないでいる中国は、けっして怠惰でも傲慢でもない。むしろみずからの歴史のなかにある、肥大化した「人治」のかたまりを、なんとか摘出しようとして苦闘しているさなかなのである。
しかしそのかたまりは、中国の「体」にしっかりと根をはってしまっているので、とりだそうとすればつよい痛みにおそわれる。そのくるしみにのたうつあまり、暴言や暴挙にみえるふるまいもでてくる。そうかんがえれば、日本も過剰反応をしないですむのではないだろうか。
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