goo

安倍政治はなぜ猛威を振るうようになったのか

『学問の自由と大学の危機』より 民主主義と学問の自由

フルデモクラシーヘの挑戦と挫折

 民主主義の変異という話を少し現代史的に整理しておきたいと思います。政治の雰囲気を振り返ってみますと、安保法制の話に関連してよくするのですが、この二〇年間の変化というのは著しいものがあります。二〇年前は戦後五〇年の節目でありまして、あのころは自民党にもまだまだ戦争を知っている立派な見識を持った政治家がおられまして、例えば、戦後五〇年村山談話を出した時に村山さんを支えました。つまり歴史観に関して世界標準を日本も共有する、そして、罪を反省し謝罪をするという知性があったわけです。それから二〇年前というと、例えば男女共同参画社会基本法とか情報公開法とかNPO法とか、市民社会を強化するようないろいろな法制度ができたわけです。その意味で日本の政治はかなりデモクラタイズ、民主化されたと私は思います。

 その頃、政治・行政の制度の改革というのがありました。つまり、政権交代のない自民党の一党優位体制、政治学的に私が最近使っている言葉で言えば、セミデモクラシー、半分の民主主義というものを、もっと民主化していこうという話か出てきます。要するにフルのデモクラシーにしていこうということで、政治改革や政党再編に取り組んだ。しかしながら、二〇〇九年にはつかの間政権交代が起きて、フルデモクラシーができたかなと思ったのですが、全然そんなことはなかった。民主党政権の瓦解が今の安倍政権に道を開いたわけです。人々は政治の変化にはむしろ飽きまして、何でもいいから安定持続の方がいいというような現状肯定的な見方を取る。その時に選択肢として浮上した自民党というのはある意味ではとんでもない、これはまさに進化ではなく退化を遂げていたわけであります。野党時代に金も権力もない自民党を支えてくれた例えば日本会議みたいなイデオロギー団体、石川さんの話で言えば蓑田胸喜みたいな類の連中がいっぱいうようよしているような狂信的なナショナリズムを持った団体が自民党のいわば草の根レベルの支持組織になり、政治家に対する影響力を非常に高めていた。そういう右傾化し、反知性的になった政党がいわば消去法として、これしかないかという形で政権に戻るという展開です。

二一世紀型全体主義

 ある種の変異・進化を遂げた民主主義がもたらす弊害という話に移ります。民主党が政権を取ったころから、政治主導ということが盛んに言われておりました。つまり、今までの日本の政策決定というのは専門性をよりどころにする官僚、あるいはその取り巻きの専門家が全部牛耳ってきた。民意というものが届いていなかった。それゆえに、例えば無駄な公共事業にしても原発政策にしても、一握りの専門家と称する官僚や学者たちがお手盛りで政策を動かしてきた。そのことが大いに国民の利益を害した、損なったのだという認識が政治主導の根底にあります。だから選挙に勝った政権が民意を背景に政治的リーダーシップを発揮して、政策を動かしていく、変えていくという主張が二〇〇九年以降急速に強まったわけです。大阪の橋下という人も、その意味では政治主導をある意味でフルに体現しようとした政治家だったでしょう。

 専門家による独裁を排して、民意を背景に政策を展開するということは別に悪いことではない。しかしながら、民意を背景に多数の力で政策を動かすことができる領域と、それから単純な多数者の意思ではあまり安易に変えてはいけない領域があるという、識別という話は二〇〇九年以来の政治主導の中では、実はなかったわけです。例えば、小沢一郎という人も政治主導を割と早くから言っていた人ですが、この人は内閣法制局を目の敵にしていました。憲法解釈について責任を持つのは、やはり国民から選ばれた為政者だということを言って、それはその限りでは安倍首相にも共通している発想です。

 そこのところをどう考えるか。確かに専門家の権威が政策決定を非常に閉ざされたものにし、国民の利益を損なった政策をいっぱい作ってきたことは事実です。だから専門家なんかいらない、ここが反専門家主義から、さらに反知性主義へ突き進んでいくいわば糸口だったわけです。政党政治という意味での政治が侵入してはいけない領域というのは、実はあるということについて、最近かなり痛切に私なんかも感じるようになりました。私はどちらかというとやはり能天気に、民主党政権ができたときは政治主導でいろんな政策決定は政治のイニシアティブで転換していけと言っていた側なので、まことに恥ずかしい部分もあるのですが、少数者であっても保障されなければいけない人権みたいなものはあるわけでありまして、そこに民意とか多数の意思とか、あるいは選挙で勝った権力者のりIダーシップみたいな原理を持ち込んでいくということが、やはり多元的な、あるいは寛容な社会を壊していく。あるいは人間の精神的活動の自律性を壊していくという問題があるわけです。

 安倍政権は民主党政権が崩壊した後、ある意味で政治主導を引き継いでいるわけであります。今回の安保法制における憲法解釈の政治的捻じ曲げ、内閣法制局の人事の政治的な決定とか、あるいは日本銀行に対する政治的なコントロール、メディアに対する政治的なコントロールなど過度な政治主導の例が相次いでいます。やはり専門家が自律的に活動してきたことに意味があった領域を政治化する、政党政治の色で染めるという意味での政治化を進めていくということは、この政権において顕著な現象です。

反知性主義と政治主導

 それがとうとう研究教育の世界にも入り込もうとしているということです。そして大学における国旗国歌の掲揚・斉唱というのは、国民であるということを常に意識しなさいという意味を持つわけでありますが、ここで考えなければいけないのは、反知性主義と政治の関係であります。反知性主義の定義ですが、佐藤優さんが最近出した『知性とは何か』(祥伝社新書)で非常にクリアに説明されています。「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分か欲するように世界を理解する態度」が反知性主義です。頑固な人はいつもいるのですが、意図的に事実を見ない、あるいは自分の持っている先入観とか偏見で客観性を無視して物事を理解し、それを他人に押し付ける、さらには国の政策にするという組織的な動きが広がってきたというのが最近の政治の大きな変化であります。

 別段選挙の時に、歴史認識とか教育についての国家統制とか全部細大漏らさず国民に説明して、これでいいですねみたいな話は実際には不可能です。しかし、今の為政者は、自分たちが選挙で勝った、議会の多数を持っているということで自分たちのあらゆる考えを正当化できるという風に考えているわけです。だから、今の為政者の知的な意味での好き嫌い、偏食を正当化するためにも、政治主導という理念、理屈が利用されています。つまり自分は選挙で勝って国民に支持されているのだから、報道機関に対してコントロールするのも民意、今の報道機関が反政府的な二ュースを報道して、国益を損ねているのなら、それに対して政治がきちんと介入することは、むしろ国民の利益に資するみたいな発想で動く政治家がいるわけです。この間の自民党の文化芸術懇話会なる会合における本当に馬鹿げた報道統制みたいな話も、彼らは本気で言っているのです。あれは冗談で言っているわけではないのです。そこにやはり今の時代の問題があるといわなければなりません。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 岡崎市図書館... 中国・中華思想 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。