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中国・中華思想

『中国史』より

今日、我々が普通に「中国」と呼んでいるアジア大陸の東部に位置し、13億以上の人口を有する国家の正式名称は、中華人民共和国(People Republic of China)であり、この国号は1949年9月に決められた。同時に現在の国旗(五星紅旗)と国歌(義勇軍行進曲)も成立する。

それ以前に「中国」という国名があったのかといえば、そうではない。各時代の王朝名、それを「国名」と考えれば、それらは秦、漢、魏から明、清と称したことは、周知のことであり、「中国」といった国家は悠久の中国史を通じて、存在しなかった。

確かに「中国」という国名はなかったが、この2字の言葉自体は紀元前の文献、たとえば『ネし記』『詩経』『春秋左氏傅』『春秋公羊伝』などのいわゆる儒教の教典に「世界の中心」「中心の国」という意味で登場する。しかし、それは場所、地域をさす言葉ではなく、極めて観念的、抽象的な意味であり、「中国」の対語は「夷秋」「四夷」であった。

前漢時代始めに成立したと考えられる『礼記』の王制篇には、四夷つまり東夷・南蛮・西戎・北秋といった夷狭と中国は、もともと異なった相容れない素質をもつ存在という。

 --中国、戎夷の五方の民、皆な性あるなり。推移すべからず。

中国は別に中華、諸夏との称謂もあるが、その夷狭と中国の間に引かれた超えられない一線は、文明と野蛮、より具体的にいえば、道義、倫理、礼儀と、そうでない非文明・未開である。

 夷秋の君あるは、諸夏の亡きに如かざる也--夷狄はたとえ君主がいて統治されていたとしても、君主がない混乱の中国には、及ばない。(『論語』八伶篇)

 中国に芭みて、四夷を撫んず--中国に君臨して、夷狄を懐柔する。(『孟子』梁恵王)

かの孔子や孟子も懐いていた強烈な中華思想、「中国」とは、世界の文明の中心という意味に他ならない。

かかる中国、そして中華思想は漢武帝期に名実ともに現実のものとなる。儒教思想が政治・制度のうえで、影響力をもち、また積年の敵であった匈奴を駆逐して西はタリム盆地、東は朝鮮半島全域を領土とした漢帝国は、まさに世界の中心に君臨する「中華帝国」を成し遂げたのであった。歴代の王朝はこの漢武帝の時代を理想とし、最も崇敬してやまない。

漢帝国が古代史の舞台から退場し、魏晋時代そして南北朝にはいるとともに、中華世界の性格は変化していく。

その第1段階は、五胡十六国から南北朝時代、つまり4世紀初頭か・、6 11t紀末にいたる300年近い分裂の時代である。分裂と統一が繰り返される中国史において、この4世紀にはじまる混乱は、それまで漢族が支配していた中華世界が異民族(胡族)により占領され、華北黄川流域に胡族の国家が登場したことによって生じた。

胡漢融合とは、単に同じ空間を共有するということではなく、文化、思想、制度等において、胡族、漢族が互いに影響を受けて、時代が変化し歴史の原動力になっていくことを意味する。そのもっとも大きな、ことがらとして、胡族の首長のなかには漢人の教養を身につけたものが少なくなく、彼らはむしろ漢人よりもより漢人士大夫的であった。漢人国家の衰退と堕落を目にし、胡族国家が新たな「中華帝国」を再建するという大義名分のもと西晋を打倒し、河北に胡族国家が起こったのである。

後述する遼・金・元は、歴史家が「征服王朝」と呼んできたが、この4世紀から6世紀の五胡十六国そして鮮卑族の北魏を私は「孵化王朝」と呼びたい。それは、内部に巣をつくりそれが孵化して取って代わったからである。

五胡十六国を統一して華北に登場した胡族孵化王朝が鮮卑族の北魏であった。後の隋唐帝国の均田制、律令などの隋唐帝国の制度の骨格は、実はこの鮮卑族の北魏で作られ、それが北斉、北周へと受け継がれる。そして北周王朝に仕える随国公楊忠の子であり、北周宣帝の外戚となる楊堅(隋文帝)が起こした国が隋に他ならない。その後、20年も経たないうちに、楊堅と姻戚関係にあった唐国公李淵は、場帝に反旗を翻し唐王朝が成立するのだが、隋、唐は北朝つまり異民族の系列をひくもので、事実、楊氏は訣西(弘農華陰)を出自とし、唐李氏は甘粛(朧西)を出自とする。それゆえ李氏は鮮卑族であるとの説もある。つまり、秦漢にはじまる漢民族の王朝の流れは、南朝の滅亡とともに終焉した、と言っても誤りないであろう。教科書では、北魏の漢化政策が必ずとり上げられ、そこから、鮮卑族が漢民族の制度、習慣を全面的に採用したと思われがちであるが、律令という法制一つを取ってみても、そこには、秦漢の制度とは異なり、異民族の影響が色濃く反映されているのである。ここで、次のことを指摘しておかねばならない。一つは、秦漢帝国の時代の中華思想・華夷思想と隋唐帝国のそれとは、異なるということ。そして今ひとつは、遣隋使、遣唐使を通じて我が国が受容した中国の政治制度、思想、文化は、西北異民族の影響が強いということを。

第2段階は、遼、金、元の中国支配である。916年に契丹族の耶律阿保機が潮海を滅ぼし遼を建国して、華北燕雲十六州を宋に先だっ後晋から獲得した。その遼を女真族の完顔阿骨打が建国した金が滅ぼし、その勢いで、1127年には宋の都開封を陥落させ滅亡にみちびく。

1234年モンゴルが金を滅ぼし、1279年に広州圧山にまで追い詰められた南宋の命運は、南海の海中に果てるのである。

中国に侵入し支配した遼、金、そして元の王朝に、歴史家は「征服王朝」という呼称をあたえている。名称はドイツのハイデルベルグ大学でマックス・ウェーバーに師事したウイットフォーゲルの命名による。

第2段階のこの征服王朝は、第1段階の「孵化王朝」とは、異なった特徴を有している。第1段階の異民族王朝は禅譲という形で政権を委譲したのであったが、第2段階のそれは、その名の通り、中国を武力でもって攻撃支配し、いわゆる漢人--上述のごとく、隋唐以降は漢人王朝とはいえないのだが--の国家を滅ぼして成立した王朝であった。

さらに、胡漢融合を目指した孵化王朝とは異なり、政治制度、軍事、経済の面で部族制遊牧社会と州県制漢人農耕社会との二元的世界を征服王朝は志向する。先の孵化王朝の鮮卑族は独自の文字はなかったが、征服王朝では契丹、女真、そして蒙古はいずれも文字をもち、漢字と併用したことは、その二元性の表れといってもよい。

征服王朝という学説、およびその分析にかんしては、今日いくつかの賢論が出され、特に二元的世界の貫徹ということは修正され、むしん異民族国家の中華思想、自身を中華と見なす正統性の存在が指摘されている。いずれにしても10世紀~13世紀にかけて、「中国王朝」が民族によって再度滅亡をきたし、これが中華思想の第2段階の変化であったことは、否定できない。

第3段階は、1616年から1911年まで290年続いた最後の中華帝国の清である。清は中国北部ツングース系満洲女真が建国した王朝でありいわゆる征服王朝であった。漢民族に強制した弁髪は、他でもないその異民族の習慣であったのだが、「最後の中華帝国」と述べたように、清が漢民族国家と誤解し、中華帝国と称することに違和感を覚えない人は少なくないだろう。

それは、1644年、北京に遷都して以降、康煕、雍正、乾隆の三代の皇帝の政治と政策による。康煕帝をはじめとする皇帝たちは、北魏の胡族が漢族の政治制度に接近するといった胡漢融合の漢化政策とは異なり、またモンゴルが漢民族との差別化を図った胡漢二元体制とも違っていた。清王朝の皇帝達は、清を「中華」と「夷秋」を止揚した多民族国家と位置づけ、そこに正統性を求めたのである。皇帝は天の命をうけた地上の支配者であり、天は徳を有する清の皇帝を天子として認める。そこには夷秋も徳があれば中華となることができる、「夷狄の君あるは、諸夏の亡きに如かざる也」というかの『論語』の条文は、清儒においては、「夷秋の君あるは、諸夏の亡きが如きにあらざるなり--夷狄に君主が存在するのは、混乱の中国に君主が存在しないよりもずっと優れている」と解釈するにれは南宋朱熹の解釈である)ことは、このことを象徴すると言わねばならぬ。天、天命、徳治政治を標榜し、皇帝は中華文明、儒教政治の継続者として「治国平天下」を目指したのである。

第3段階は、新たに侵入してきた異民族と、すでに名実を喪失した漢民族の両者が伝統的中華文明、儒教国家の完成の大義名分のもとに昇華した中華帝国であったのだ。それは東洋的中華国家といってもよく、それに対面するものは、西洋国家、西洋の列強であった。

かくして、文明の中心としての観念的「中華」とは別の地域的「中国」つまり中華民国、中華人民共和国が誕生する。
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