未唯への手紙
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未唯空間第4章 歴史編
未唯空間第4章 歴史編
第4章歴史編。分け方が難しいですね。社会よりも縦軸があり、さらに広大です。今考えると、大学の入った時からのテーマです。
民主主義の歴史
民主主義の歴史。全体主義がドイツで起こったのか。何を狙ったのか。何をしたかったのか。民主主義が発端です。民主主義が自由を求めて、全体主義になった。更なる格差是正を求めて、共産主義に走った。
その二つは同じ時期に大きくなって、ぶつかって、それよりも先に行くことが出来ずに、亡くなった。残された民主主義は方向を失っている。
国民国家の歴史
次は国民国家の形態の歴史。19世紀まで、国民国家を作る体制にはなかった。フランス革命、共和制、そして、ナポレオンの独裁制。それに対抗する周辺国。民衆の矛先は国民国家に向かった。それは国家間の争いから国民を含めた戦争に拡大していった。
国民国家はグローバル化と多様化に晒されている。民主主義と資本主義も揺らいでいる。これらは共に、ハイアラキーの元に在る。
歴史認識
歴史は認識によって、多く異なってくる。国家の意識にしても、民族とか宗教とかで、様々な様相を作り出す。それが経過でまた、異なってくる。歴史には時間軸がある。ローマ帝国の盛衰を繰り返す。
歴史の要素を考えると、ローカルとグローバルに分かれるけど、他の要素が入り切れていない。カリスマとか指導者とか戦争の形態とかが主人公になっている。その時に現れるツールによって、絵が変わってくる。偶然によって、いくらでも歴史は変わってしまう。
根本となる歴史認識があるけど、それは民族によっても、宗教によっても、層によっても異なる。どうなっているのか。
そこから歴史の動きを見ていく。多くの人の幸せを求めるための変化。動きそのものも誰が主導権を取るのか。新しい動きとして、分化と統合を入れたい。そういう見方そのものです。ハイアラキーで歴史が動かない。これが確かになったのは十九世紀以降です。二十世紀の大衝突をどこに持ったらいいのか。
未来方程式
そして、未来方程式を作り出した。ベースとなる考えは、何が変わったのか、何を変えるとどうなるのか。世の中で変わってきているのは情報共有です。それを先人が作り上げてきた。個人ベースで武器を持っているけど、方向は持っていない。
今までの意思の力が存在の力になることで、未来は大きく変わってくる。歴史の進化がどういうカタチになってくるのか。個人が力を持ってくる。その時に個人は覚醒していないといけない。一人ひとりが自分で分化して、変わっていくという、シナリオを自分に当てはめて考えてみた。それが未来方程式。
歴史哲学が変わる
そして、歴史の底辺にあるのは、ヘーゲルが示したように、歴史哲学。意思の力から存在の力に変わって、分化して、新しい進化をとげるというシナリオ。
これはマルクスと同様に、歴史をどう見ていくのか。国家とか人民とかの認識が与えられた。それには答が出ている。ヘーゲルは国民国家であり、マルクスは共産主義であった。それらは異なった形で実験は終わっている。新しい実験が始まろうとしている。個人が覚醒するためには、知の世界が無ければならない。
そんな面倒なことが人類にできるかどうか。出来なければ、バラバラになって、壊れていく。結局、他人事になります。
新しい循環
元々、社会は分かりにくいので、新しい循環が出て来た。家庭と会社と学校の循環です。イメージとしては分かりやすい。それぞれの結びつきが個人レベルで、国家レベルになっていない。
だからこそ、循環でなければならない。一カ所だけを変えることはできない。例えば、就職することを考えても、そこだけ変わることはできない。企業そのものが何で儲けるかが変わってこないといけない。マーケティングが変わるには、ライフスタイルが変わらないといけない。と同時に、何を皆が学んだらいいのか。教育も学校だけでなく、もっと大きなレベルの教育が必要になってくる
国の規模は500万人
日本のように、民族と地理的な要素が国家のカタチで一つになっているのは珍しい。500万人規模に分けていかないといけない。それを誰がやるかは知ったことではない。
企業が変われば、国家の形態が変わってくる。国家も1億人では動きが取れない。500万人の国家に分割されていく。それを組み合わせて、国家連合に変わっていく。国家そのものが「中間の存在」になってくる。
個人と超国家が一緒になる分岐点
先の先から考えると、歴史的には、ムスリムの世界のように個人と超国家が一緒になっていく。その間に「中間の存在」として地域がある。地域といっても、論理的な単位でもいい。個人をまとめると同時に、一番上の超国家と個人がつながっている。そのようなバリアブルなカタチでありながら、全体の安定性を求める。その時に、どのような商売になっていくのか、どのような教育になっていくのかは新しい循環で考えていく。歴史的に見たら、それが一つの分岐点です。
戦争と平和
歴史というのは、戦争から見ていくカタチになりそうです。何万人も動員できて、動いていく。国家というものを歴史的に見ていく。それって、本当に歴史なのか。ハンニバルはローマに入り込んで、何が起こったのか。歴史の一つのページができただけ。
ハンニバルの気持ちになって、考えて、ローマを守って、挙句にカルタゴを滅亡させた、スキピオも歴史の流れの一つ。個人があまりにも無くなってしまう戦争の時期、個人が主役の平和の時期。ソクラテスは何人のアテネ市民に話をしたのか。
アテネの民主制は無に帰して、ローマ共和制・帝政に渡されなかった。個人はそんなに重要なのか。無視されるべきなのか。
このままでいくと
今の時代も個人はクレームを付けるだけの時代になっている。それも碌でもないことだけに。その碌でもないことで、モノが変わっていってしまう。やがて、憲法が変わり、大量動員の世界がやってくる。
個人個人が考えることで維持する民主制が無くなり、全体主義的な傾向になっていく。そういう、一つの世界。時間の世界。
やはり、一人ひとりが覚醒しないといけない。そうしないと、今のように依存していては方向性を持ちえない。覚醒するとなると、皆、バラバラの思いをどのように統合させていくのか。不安定でありながら安定なカタチをどう取っていくのか。まだまだ、歴史を知らな過ぎる。歴史から学ぶもの。歴史を創るもの。
第4章歴史編。分け方が難しいですね。社会よりも縦軸があり、さらに広大です。今考えると、大学の入った時からのテーマです。
民主主義の歴史
民主主義の歴史。全体主義がドイツで起こったのか。何を狙ったのか。何をしたかったのか。民主主義が発端です。民主主義が自由を求めて、全体主義になった。更なる格差是正を求めて、共産主義に走った。
その二つは同じ時期に大きくなって、ぶつかって、それよりも先に行くことが出来ずに、亡くなった。残された民主主義は方向を失っている。
国民国家の歴史
次は国民国家の形態の歴史。19世紀まで、国民国家を作る体制にはなかった。フランス革命、共和制、そして、ナポレオンの独裁制。それに対抗する周辺国。民衆の矛先は国民国家に向かった。それは国家間の争いから国民を含めた戦争に拡大していった。
国民国家はグローバル化と多様化に晒されている。民主主義と資本主義も揺らいでいる。これらは共に、ハイアラキーの元に在る。
歴史認識
歴史は認識によって、多く異なってくる。国家の意識にしても、民族とか宗教とかで、様々な様相を作り出す。それが経過でまた、異なってくる。歴史には時間軸がある。ローマ帝国の盛衰を繰り返す。
歴史の要素を考えると、ローカルとグローバルに分かれるけど、他の要素が入り切れていない。カリスマとか指導者とか戦争の形態とかが主人公になっている。その時に現れるツールによって、絵が変わってくる。偶然によって、いくらでも歴史は変わってしまう。
根本となる歴史認識があるけど、それは民族によっても、宗教によっても、層によっても異なる。どうなっているのか。
そこから歴史の動きを見ていく。多くの人の幸せを求めるための変化。動きそのものも誰が主導権を取るのか。新しい動きとして、分化と統合を入れたい。そういう見方そのものです。ハイアラキーで歴史が動かない。これが確かになったのは十九世紀以降です。二十世紀の大衝突をどこに持ったらいいのか。
未来方程式
そして、未来方程式を作り出した。ベースとなる考えは、何が変わったのか、何を変えるとどうなるのか。世の中で変わってきているのは情報共有です。それを先人が作り上げてきた。個人ベースで武器を持っているけど、方向は持っていない。
今までの意思の力が存在の力になることで、未来は大きく変わってくる。歴史の進化がどういうカタチになってくるのか。個人が力を持ってくる。その時に個人は覚醒していないといけない。一人ひとりが自分で分化して、変わっていくという、シナリオを自分に当てはめて考えてみた。それが未来方程式。
歴史哲学が変わる
そして、歴史の底辺にあるのは、ヘーゲルが示したように、歴史哲学。意思の力から存在の力に変わって、分化して、新しい進化をとげるというシナリオ。
これはマルクスと同様に、歴史をどう見ていくのか。国家とか人民とかの認識が与えられた。それには答が出ている。ヘーゲルは国民国家であり、マルクスは共産主義であった。それらは異なった形で実験は終わっている。新しい実験が始まろうとしている。個人が覚醒するためには、知の世界が無ければならない。
そんな面倒なことが人類にできるかどうか。出来なければ、バラバラになって、壊れていく。結局、他人事になります。
新しい循環
元々、社会は分かりにくいので、新しい循環が出て来た。家庭と会社と学校の循環です。イメージとしては分かりやすい。それぞれの結びつきが個人レベルで、国家レベルになっていない。
だからこそ、循環でなければならない。一カ所だけを変えることはできない。例えば、就職することを考えても、そこだけ変わることはできない。企業そのものが何で儲けるかが変わってこないといけない。マーケティングが変わるには、ライフスタイルが変わらないといけない。と同時に、何を皆が学んだらいいのか。教育も学校だけでなく、もっと大きなレベルの教育が必要になってくる
国の規模は500万人
日本のように、民族と地理的な要素が国家のカタチで一つになっているのは珍しい。500万人規模に分けていかないといけない。それを誰がやるかは知ったことではない。
企業が変われば、国家の形態が変わってくる。国家も1億人では動きが取れない。500万人の国家に分割されていく。それを組み合わせて、国家連合に変わっていく。国家そのものが「中間の存在」になってくる。
個人と超国家が一緒になる分岐点
先の先から考えると、歴史的には、ムスリムの世界のように個人と超国家が一緒になっていく。その間に「中間の存在」として地域がある。地域といっても、論理的な単位でもいい。個人をまとめると同時に、一番上の超国家と個人がつながっている。そのようなバリアブルなカタチでありながら、全体の安定性を求める。その時に、どのような商売になっていくのか、どのような教育になっていくのかは新しい循環で考えていく。歴史的に見たら、それが一つの分岐点です。
戦争と平和
歴史というのは、戦争から見ていくカタチになりそうです。何万人も動員できて、動いていく。国家というものを歴史的に見ていく。それって、本当に歴史なのか。ハンニバルはローマに入り込んで、何が起こったのか。歴史の一つのページができただけ。
ハンニバルの気持ちになって、考えて、ローマを守って、挙句にカルタゴを滅亡させた、スキピオも歴史の流れの一つ。個人があまりにも無くなってしまう戦争の時期、個人が主役の平和の時期。ソクラテスは何人のアテネ市民に話をしたのか。
アテネの民主制は無に帰して、ローマ共和制・帝政に渡されなかった。個人はそんなに重要なのか。無視されるべきなのか。
このままでいくと
今の時代も個人はクレームを付けるだけの時代になっている。それも碌でもないことだけに。その碌でもないことで、モノが変わっていってしまう。やがて、憲法が変わり、大量動員の世界がやってくる。
個人個人が考えることで維持する民主制が無くなり、全体主義的な傾向になっていく。そういう、一つの世界。時間の世界。
やはり、一人ひとりが覚醒しないといけない。そうしないと、今のように依存していては方向性を持ちえない。覚醒するとなると、皆、バラバラの思いをどのように統合させていくのか。不安定でありながら安定なカタチをどう取っていくのか。まだまだ、歴史を知らな過ぎる。歴史から学ぶもの。歴史を創るもの。
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