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抗日戦争が中国にもたらしたもの

『中国史』より 抗日戦争 戦争の勃発と社会の変貌

1937年に始まった日中戦争は、中国の人々に計り知れない苦難を与え、途方もない戦禍を産み出した。この戦争は期間にして8年、地理的には中国本土の主要部分に及ぶことになり、結果的に中国の社会・政治・経済の全体にも大きな変容をもたらした。この戦争がなかったら、「南京の10年」(国民政府による1927-37年の統治)で大きく前進した中国の経済建設や国民統合はさらに進展し、のちの中国史はまったく違ったものになっただろう、中国共産党の勝利もなかったかも知れないということが、しばしば歴史家の口に上るが、それほどまでに日中戦争は中国の運命を変えたのである。戦局の推移を概述する前に、この変容について説明しよう。

まずは政治面である。緒戦における奮戦にもかかわらず、中国(国民政府軍)は華北の主要都市、長江中下流域の経済先進地を短期間で失った。ただし、それによってもたらされた威信・求心力の下落は限定的で、むしろ抗日を求めてきた世論の声にようやく応えたという戦時の高揚感が国民党と国民政府を支えた。西安事変後に関係改善の交渉が続いていた共産党も、日中戦争開始後の9月に三民主義を奉じて国難に対処するという宣言を出し、蒋介石も共産党の合法的地位を認め、その宣言の受け入れを表明することで、国共両党の協力体制が実現した。これを第二次国共合作と称するが、両党の間に合意文書や政策協定が交わされたわけではない。当面は協力しあうが、それはあくまでも--そう遠くないはずの--日本との戦争の終結までのことだとの含意がそこにはあった。事実、共産党の軍隊(紅軍)は八路軍、新四軍などの名称で、中国軍に改編されて軍需物資の支給を受け、共産党の支配地域(ソヴィエト区)も「辺区」という国民政府下の特別行政区に繰り入れられたが、両者の協力関係は、戦争が1年を超え、戦時が日常化するころには、急速に冷え込んでいくのである。

全民抗戦を謳う国民党に他党派がどのように協力していくのかという問題も、当初の国民党の公約が一時的に世論の支持を得たものの、やがて骨抜きにされ、逆に諸党派の反発を招くという推移をたどった。すなわち、1938年3-4月に武漢で開催された国民党の臨時党大会では「抗戦建国綱領」が採択されて、抗戦と並行して「国家建設」を進めることが謳われ、抗戦終結後における憲政実現の構想も示されていた。本来なら1937年には「訓政」が終わることになっていたのに、準備不足や抗日戦争のせいでそのスケジュールが狂ってしまったわけで、その意味では日中戦争勃発後に発足した国防最高会議、あるいは国防参議会(のち「国民参政会」--いずれも民意を反映する国民政府の諮問会議で、「戦時国会」とも形容された)に国民党以外の政党政派の代表が招かれたことは、戦時にあっても決して憲政への移行を足踏みさせないという国民党の決意を印象づけるものであった。だが、これもまた戦争の長期化に伴い、国民党が総力戦体制の確立にあたって集権型政治指導の是認を強く求めたため、これに反発する知識人・政治家グループが総力戦体制には逆に国民党の政権開放が必要だという主張を展開するに至った。我々は「戦時」と聞けば、政治の世界も抗戦完遂一色に塗りつぶされたかのようにイメージするかも知れないが、将来の憲政を見越した政論や議論は、実はこの抗日戦争の期間も止むことなく続けられたのである。

経済の面で戦争が中国にもたらしたのは、多大な損失のみである。日本軍の攻勢は広大な農村部にまで及ぶということはなかったものの、武漢、広州を占領した1938年末時点までに、中国のかなりの地域が戦禍に巻き込まれ、日本軍に占領された。前線から離れた国民政府支配地域は「大後方」と呼ばれたが、それら内陸地域、すなわち西南6省(四川・西康・雲南・貴州・広西・湖南)と西北5省(院西・甘粛・寧夏・青海・新疆)は、経済後進地域である。抗戦前のこれら奥地の近代的工場の比率は全国の8%にとどまっており、発電量に至ってはわずか2%に過ぎなかったと言われる。むろん、政府収入も厳しい。税源ひとつをとってみても、戦前の国民政府は税収の大半を輸入関税や統税など流通税に依存していたのであった。沿海部の主要地を失うことは、これらの税収が軒並み激減することを意味したのである。国民政府はやむなく、1941年にそれまで省の財源とされていた田賦(土地税)を中央政府に移管し、あわせて金納から物納へと切り替える措置をとることになる。金納から物納という一見時代を逆行するようなことが行われたのは、これが戦時食糧統制の役割を併せ持ったからである。だが、こうした食糧統制による物資不足と紙幣・公債の増発は、必然的に激しいインフレを呼ぶことになる。1940年の食糧価格は戦前の5倍に、翌年には20倍を超えるに至り、都市生活者の困窮は耐え難いものになっていった。むろん、日本軍占領地や日中両軍の対峙する地域では、戦闘自体による生産施設・資材の破壊は言うまでもなく、調達という名の略奪が横行し、民衆を苦しめた。

では、戦争によって中国社会には如何なる変化が生じ、それはその後の中国にどのように影響したか。戦場が中国全土に広がって泥沼化したことにより、中国は空間的に、日本占領地域(および親日傀儡政権支配地域)、戦闘地域、中国政府支配地域(大後方)に分かたれた。日本の侵攻に伴い、避難、あるいは従軍・抗戦のために大後方へ移動する人の流れはあったとはいえ、日本占領地に住まう人々の多くは、そのまま敵の支配下に暮らさざるを得なかった。むろん、中には積極的に日本軍や傀儡政権に協力する者もいたが、そうでなくとも、そこで日常の生活を送ろうとすること自体が敵軍の占領の受忍を意味したため、かれらは精神的に僻屈した状態に置かれた。一方、前線に近い地域の苦難--軍による徴発、収奪や殺戮、暴力--についてはいうまでもなく、他方で大後方にいるからと言って、戦争の影が遠かったわけではない。大後方の在地社会に対して、国民政府は統治に必要な地方組織や統計データを充分に持っていなかった。早い話が、兵役法や徴兵令は出されたが、戸籍は整備されていなかったのである。それゆえ、実際の徴兵や食糧買い上げといった業務は、下へ下へと丸投げされた。かくて、有力者による権力濫用とそれに伴う汚職・腐敗が蔓延し、基層社会では、支配にせよ、それへの抵抗にせよ、暴力や武力を頼みとする傾向がいっそう強まったのだった。いわば、戦時下の中国社会は、空間的に彼我の支配する地域に引き裂かれただけでなく、それら地域内部でも、大小の緊張、競争、衝突が常態化する様相を呈していたわけである。

この戦争が中国の人々に災厄以外のものを与えたとするならば、その筆頭に来るのがいわゆる「ナショナリズム」であろう。何と言っても、日本軍はそれまでのどの列強よりも広い範囲に、大量に、長期間にわたって、それも単一国による侵略軍として現れた。生の目でそれを見た人の数は言うに及ばず、様々な宣伝・広報によって間接的に接した者も入れれば、「日本鬼子」の存在が中国の人々に圧倒的な印象や反発を与えない方が不思議である。むろん、そうした素朴な反発の感情は、「ナショナリズム」と呼ぶにはまだまだ原初的だっただろうし、祖国や民族の存亡のために我が身を捧げるという域にまで達した例となると、同時代の日本とは到底比較になるまい。だが、日本との戦争が、それまでの中国にはなかった民衆の「共通の記憶」となったこと、そしてそれが中国「ナショナリズム」の結晶核となったことだけは、争えない事実なのである。
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