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孤独--ラフマニノフとマーラーの「抽象的な恐怖」

『怖いクラシック』より

孤独

 二十世紀最初の年、一九〇一年十一月九日(当時のロシアの暦では十月二十七日)、モスクワのフィルハーモニー協会の演奏会で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が作曲者自身のピアノ、その従兄でもあるアレクサンドル・ジロティの指揮で初演された。

 このピアノ協奏曲第二番も「怖い音楽」だ。冒頭は弔いの鐘のような重厚なピアノの響きの連打で始まる。

 マーラーの交響曲も、そのほとんどが悲劇的音楽であり、死や孤独の恐怖にのたうちまわっているかのようにも聞こえる。彼が二十世紀になってから書いた最初の交響曲は第五番だが、この曲も新世紀の始まりを喜ぶのではなく、弔いの葬送行進曲で始まる。続いて書いた第六番は「悲劇的交響曲」と自ら呼んだ曲で、これも冒頭は不気味な激しいリズムの連打で始まり、悲劇的なイメージに終始する。

 だが、二人とも何か具体的な恐怖を音楽として描写したわけではなかった。

最後の日々

 マーラーは一九一〇年春までニューヨークで指揮の仕事をすると、ヨーロッパヘ戻った。翌シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックを指揮する契約を結んでいた。

 一九一〇年の夏、マーラーは多忙だった。大作の第八番の初演があり、さらに第十番にも取り掛かっていた。第九番の出版の打合せもある。そんなところに妻アルマの不倫が発覚した。苦悩したマーラーは神経を病み、フロイトの診断を受けた。さらに扁桃腺も炎症を起こし、しばらく寝こむほどだった。

 それでも秋にはすべてが解決した。アルマとは和解し、第八番の初演も成功し、マーラーは満ち足りた思いでニューヨークヘ向かった。到着は十月二十五日で、フィルハーモニックの新しいシーズンを精力的にこなしていった。

 だが年が明けて一九一一年二月、マーラーは体調を崩し、重症となる。溶血性連鎖球菌による感染症だった。いまならば抗生物質ですぐに治るが、当時はまだペニシリンが発見されていない。安静にしていたが、容態は快方に向かわず、マーラーは死を覚悟した。

 どうせ死ぬのならニューヨークではなくウィーンで死にたいと言い、マーラーは四月八日にニューヨークを発って、パリを経由して五月十二日にウィーンに着いた。そして十八日に亡くなった。五十歳だった。第十番は未完となった。

 マーラーはニューヨークは異国、異郷と感じていた。だから、そこで死ぬのを嫌がった。そして彼はウィーンヘ還った。ではウィーンは彼の故郷だったのだろうか。

 ウィーンはマーラーが十五歳から暮らし、その他の都市で働いていた時でも常に根拠地としていた場所だ。そして彼のキャリアの頂点の地でもあり、最も長く常任の指揮者として活躍した都市でもある。彼には、この地しか帰るところはなかった。

 ラフマニノフが故郷を喪うのはマーラーと共演した七年後だった。

 ラフマニノフの人気はますます高まっていった。ロシア国内はもちろん、ヨーロッパ各地で演奏した。しかし、彼の人生は第一次世界大戦とそれに連動して起きたロシア革命で大きく変わる。

 一九一七年、ロシア革命が勃発し、社会主義国家が誕生した。革命から数週間後にスウェーデンの興行師から出演依頼の電報が来ると、ラフマニノフは妻と子どもを連れて、口シアを離れることにした。反社会主義という思想的な理由もあったが、一九〇五年の革命の時もドレスデンに疎開したように、彼は混乱を避けたかったのである。

 彼はこのまま生涯にわたりロシアに戻らないという決意をしたわけではなく、一時的に避難するつもりで、出国したと思われる。スーツケースひとつだけという軽装で、ラフマニノフとその家族は十二月二十三日(十二月十日)にロシアを出た。国境でも「亡命」とは疑われず、無事にストックホルムに到着した。

 その後、ラフマニノフはヨーロッパ各地を演奏する生活となった。一九一八年十一月にアメリカヘ渡ると、そこに永住することを決意した。

 アメリカでのラフマニノフは作曲家ではく、コンサートーピアニストに転身した。それでなければ生活ができなかった。自作だけでなく、ベートーヴェンやショパンの作品も弾いて、喝采を浴びた。ラフマニノフは人気・実力とも当代一のピアニストとなった。時には指揮者としても活躍した。レコードが発明されると、録音もした。一年の半分はフランスやスイスなどヨーロッパで暮らすことにもしたが、ソ連へは演奏旅行でも行かなかった。国外へ出たラフマニノフをソ連政府は反国家的音楽家として批判していた。

 演奏家として活躍すればするほど、作曲の時間がなくなったが、ラフマニノフは一九二六年にはピアノ協奏曲第四番を完成させた。

 第二次世界大戦が始まると、ラフマニノフはソ連の戦争犠牲者を救済するためのコンサートを何度も開き、収益を故国へ送金した。この戦争では米ソは共闘していたので、ソ連も、亡命した音楽家であるにもかかわらず、ラフマニノフを自国が誇る偉大な音楽家として扱うようになっていた。

 一九四三年、ラフマニノフはようやくアメリカ市民権を得たが、三月二十八日、七十歳の誕生日の四日前に亡くなった。祖国を旅立ってから二十五年と三ヵ月が過ぎていた。ラフマニノフは生涯の半分を祖国喪失者として生きたことになる。

「怖い音楽」の変質

 十九世紀までの「怖い音楽」は、先に「怖いもの」があり、それを音楽で表現したものだった。

 《ドン・ジョヴァンニ》や《レクイエムyは歌詞もあるので、怖い物語が誰にでも分かる。《田園交響曲》や《幻想交響曲》もタイトルとプログラム(標題)とがあるので、聴き手は、その音楽が何を描いている音楽なのかを知った上で聴けた。「葬送行進曲」にしてもそう呼ばれているわけだから、それが葬列の音楽であり、そこから転じて死への旅をイメージしているものだと推測できた。

 だが二十世紀の「怖い音楽」は何ら具体的なタイトルや標題を持たない。ただ、ひたすら怖い。

 マーラーやラフマニノフが結局のところ、何を表現したのかは、本人にしか、あるいは本人にすら分からない。二人がともに故郷喪失者なので、「孤独」「郷愁」「絶望」「怒り」「哀しみ」がその音楽にあると解釈するのは簡単だが、そう単純なものではないだろう。

 二人とも実生活において最も幸福な時期に、暗く深刻な音楽を書いているのも、謎と言えば謎だ。幸福な家庭を持ったが、いつか壊れることを予感していたという解釈も成り立つが、これもまた、もっともらしいが故に、真実ではないだろう。

 藝術家は炭鉱のカナリアだという。炭鉱では空気の変化に気付かないと鉱夫たちは命取りになる。そこでカナリアをカゴに入れて鉱内で飼う。酸素が減ってくるとカナリアがバタバタして死んでしまい、危険を知らせる。探知機の代用だ。そんな話から、蕪術家は社会の空気の変化に敏感で、誰よりも先に戦争や独裁政権の弾圧を感じ、それを作品にするのだ、いやするべきなのだ、という考えが生まれた。

 マーラーとラフマニノフが、暗く、重く、そしてメランコリックな「怖い音楽」を書いたのは、戦争と革命と粛清の世紀が来るのを蕪術家の本能で感じ取り、その言葉では表現できない恐怖を音楽で提示した--これもまた深いようで表層的な見方である。

 ラフマニノフはつい最近まで通俗だと批判され、マーラーも一九六〇年代まではキッチユ(安っぽい、けばけばしい)だと攻撃されてきた。多分、二人の音楽は演出過剰と感じられたのだ。だが二十世紀も後半になると、世の中全体がもっと演出過剰になったので、受け入れられるようになったのかもしれない。ともあれ--二十世紀の音楽は二人の孤独な故郷喪失者による、具体性のない、怖い音楽で始まったのであった。


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