未唯への手紙
未唯への手紙
全体主義プロパガンダ
『精読 アレント『全体主義の起源』』より 全体主義の成立--『全体主義の起源』第三部「全体主義」 運動としての全体主義
モッブとエリートが全体主義運動に--運動のもつ行動主義やテロルなどに惹かれて--自分から飛び込んでいくのに対して、大衆はおよそそうした行動の動因となるような自己への利害関心をもたないのであるから、誰かが外から動員し、組織しなければならない。そのための手段がプロパガンダである。
全体主義は特定のプロパガンダの技法や宣伝内容をみずから開発したわけではない。「全体主義は大衆プロパガンダの技術を完成させたが、それを自分で発明したわけでもないし、その主題を創りだしたわけでもない。それらは帝国主義の興隆と国民国家の崩壊にいたる五〇年間に、モッブがヨーロッパ政治の舞台に登場した時に準備されてきたのであった」。全体主義はただそれを徹底して大衆に適用したにすぎない。
大衆は目に見えるものは何も信じない。自分自身の経験のリアリティを信じないのである。彼らは自分の目と耳を信頼せず、ただ想像力のみを信ずる。彼らの想像力は普遍的で一貫しているものなら何でもその虜になりうる。大衆を納得させるのは事実ではないし、でっち上げられた事実でさえない。彼らがその一部となるだろうシステムの一貫性だけを信ずるのである。繰り返しの重要性がしばしば過大評価されるのは、大衆が理解能力や記憶力に劣ると一般に信じられているからだが、それが重要なのは繰り返すことで最後にはその一貫性を納得させるからにすぎない。
階級社会の崩壊によって生活の基盤を根こそぎ奪われて「故郷喪失」の状態におかれ、バラバラに孤立した大衆の願望、もはや彼らが適応できなくなった世界から逃避する一方で、何らかの一貫した拠り所を求める願望こそが、全体主義のプロパガンダを可能にする前提である。「権力を掌握して彼らの教義に合致した世界を作り出す前に、全体主義運動は現実そのものよりも人間の心の必要に適した一貫した嘘の世界を呼び出す」のである)。
もとより全体主義運動か完全に権力を掌握して、鉄のカーテンで外界からの騒音、ごく僅かなリアリティの衝撃をも遮断できるようになるまでは、やはり何らかの現実との通路が必要になる。
統合されずバラバラにされた大衆--不幸に見舞われるたびにますます編されやすくなっている大衆--がそれでもなお理解することのできる現実世界の徴は、いわば現実世外の裂け目、つまり誇張され歪曲された形ではあれ急所を突いているがゆえに誰もあえて公然と議論しようとはしない問題、誰もあえて反論しないような噂である。
そうした急所から全体主義のプロパガンダの嘘は仮構と現実との間の溝を埋めるのに必要な真実らしさ、現実的な経験を引き出してくるのである。
全体主義のプロパガンダの嘘を完結させるリアリティの欠片、あるいは現実世界の裂け目を示す噂として最大の効果を発揮したものこそ、「ユダヤの陰謀」というフィクションであった。世界支配をめぐるユダヤ人の陰謀の噂はドレフュス事件以来ひろく流布してきたし、世界中に分散して国際的に連繋しているユダヤ人の存在という事実によってそれは裏付けられていたのであった。皮肉なことにユダヤ人の存在が人目を引くようになったのは、国民国家体制における彼らの影響力が減退しはじめてからである。第一次世界大戦による国民国家の解体とそれにともなうユダヤ人社会の解体は、一九世紀末の繁栄とともに一時的に影を潜めた反ユダヤ主義をあらためて噴出させることになるが、ナチスの反ユダヤ主義プロパガンダはこれを継承して発展させたものであった。そのスローガンの内容自体はこれまでの反ユダヤ主義の焼き直しにすぎない。彼らが付け加えたただ一つの新しい要素は、ナチ党員に非ユダヤ人の血統証明を要求したことであった。
ナチスはユダヤ人問題をプロパガンダの中心に据えたが、その意味するところは、反ユダヤ主義がもはや多数者とは異質な人々についての意見の問題でも民族政策の問題でもなく、党員一人一人の個人的実存に関わる切実な問題になったということである。「家系図」に問題がある者は一人として党員にはなれないし、ナチスでの位階が上昇すればするほど血統を昔にさかのぼって証明しなければならなかった。
反ユダヤ主義は、孤立した大衆に「自己規定と自己同二化」を与えて、彼らにある種の自尊心を回復させて組織するための手段なのであった。ナチ・プロパガンダはいわば「反ユダヤ主義を自己規定の原理に転換」したのである。
『シオンの賢者の議定書』
ナチスのプロパガンダとその反ユダヤ主義の特徴をよく示しているのが、『シオンの賢者の議定書』についての応答である。ナチスはこの偽書をユダヤ人の陰謀の証拠として攻撃の材料に用いるだけでなく、自らの構想のプロパガンダの手段として用いたのである。
純粋なプロパガンダとして見た場合に、ナチスが発見したのは、大衆はユダヤの世界支配の陰謀に驚くよりもむしろどうしてそのような支配が可能になるのかに興味を持つという事実であった。この議定書が評判になったのは憎悪というより賛嘆とその方法を知りたいという熱望からであって、だからその際だった定式のいくつかにできるだけ近づくのが賢明だということにナチスは気づいたのだった。例えば「ドイツ民族にとって良いことが正義である」という有ちなスローガンは、議定書の「ユダヤ民族にとって利益となるすべては道徳的に正しく神聖である」を写したものなのである。
ナチスは『シオンの賢者の議定書』に示されたユダヤ人の世界帝国の構想--それに向けられた大衆の驚嘆や好奇心--を逆手に取る形で、いわばユダヤの世界支配の陰画としてドイツ民族の「民族共同体」による世界支配の構想を提示したのである。もとよりすでに述べたように、全体主義運動にとってプロパガンダはあくまでも大衆を組織するための手段であり、大衆を獲得できるかどうかによってその実効性は試される。
全体主義プロパガンダの真の目的は、人々を説得するのではなく組織すること--「暴力という手段をもたずに権力を蓄えること」--にある。イデオロギーの内容が独創的であることはこの目的のためには不必要な障碍にしかならない。われわれの時代の二つの全体主義運動は支配の方法では驚くほど「新しい」し、組織の方法の点では独創的であったが、決して新しい教義を説いたり、一般に流布していないイデオロギーを発明したりしなかったことは偶然ではない。大衆を獲得するのはデマゴギーの束の間の成功ではなく、「生ける組織」の目に見えるリアリティと力なのである。
仮構のリアリティをもって大衆を組織する、そのためのプロパガンダの手段に対する嗅覚こそが、全体主義のリーダーの権力の基礎となる。その意味において全体主義のリーダーは単なるデマゴーグ、煽動家ではなかった--ヒトラーの雄弁の才能さえ必須の要素ではなかった--というのである。全体主義の権力の核心は、「生ける組織」としての運動そのものの展開の内にある。「プロパガンダのスローガンがひとたび『生ける組織』に具現されてしまえば、組織の全構造を破壊することなしにそれを取り除くことはもはや不可能となる」。組織の中に組み込まれた虚構そのものは一人歩きを始めることになる。ということは逆に言えば、組織の自己運動なくしては全体主義的プロパガンダの虚構は崩壊するということでもある。
全体主義プロパガンダの内在的な弱点が露呈するのは敗北の瞬間である。運動の力がなくなれば、構成員は直ちにそのドグマを信ずるのを止めてしまう。昨日まではみずからの生命も捧げるつもりでいたそのドグマをである。運動、すなわち構成員を外界から保護していた虚構の世界が破壊された瞬間に、大衆はバラバラの個人というもとの立場に戻り、変化した世界を喜んで受け入れるか、余計な存在であるというもとの絶望的な状態に沈み込んでいくのである。……
連合国はドイツ国民のなかに確信犯でナチスを自認する者を探し求めたが見つけることができなかった。国民の九〇%〔ドイツ語版=邦訳では「八〇%」となっている。なお、英語版は第二版以降も「九〇%」のままであ亘はおそらくある時点では本気でナチスに共感していたにもかかわらずである。このことはたんに人間の弱さやまったくの日和見主義の印として理解すべきではない。
モッブとエリートが全体主義運動に--運動のもつ行動主義やテロルなどに惹かれて--自分から飛び込んでいくのに対して、大衆はおよそそうした行動の動因となるような自己への利害関心をもたないのであるから、誰かが外から動員し、組織しなければならない。そのための手段がプロパガンダである。
全体主義は特定のプロパガンダの技法や宣伝内容をみずから開発したわけではない。「全体主義は大衆プロパガンダの技術を完成させたが、それを自分で発明したわけでもないし、その主題を創りだしたわけでもない。それらは帝国主義の興隆と国民国家の崩壊にいたる五〇年間に、モッブがヨーロッパ政治の舞台に登場した時に準備されてきたのであった」。全体主義はただそれを徹底して大衆に適用したにすぎない。
大衆は目に見えるものは何も信じない。自分自身の経験のリアリティを信じないのである。彼らは自分の目と耳を信頼せず、ただ想像力のみを信ずる。彼らの想像力は普遍的で一貫しているものなら何でもその虜になりうる。大衆を納得させるのは事実ではないし、でっち上げられた事実でさえない。彼らがその一部となるだろうシステムの一貫性だけを信ずるのである。繰り返しの重要性がしばしば過大評価されるのは、大衆が理解能力や記憶力に劣ると一般に信じられているからだが、それが重要なのは繰り返すことで最後にはその一貫性を納得させるからにすぎない。
階級社会の崩壊によって生活の基盤を根こそぎ奪われて「故郷喪失」の状態におかれ、バラバラに孤立した大衆の願望、もはや彼らが適応できなくなった世界から逃避する一方で、何らかの一貫した拠り所を求める願望こそが、全体主義のプロパガンダを可能にする前提である。「権力を掌握して彼らの教義に合致した世界を作り出す前に、全体主義運動は現実そのものよりも人間の心の必要に適した一貫した嘘の世界を呼び出す」のである)。
もとより全体主義運動か完全に権力を掌握して、鉄のカーテンで外界からの騒音、ごく僅かなリアリティの衝撃をも遮断できるようになるまでは、やはり何らかの現実との通路が必要になる。
統合されずバラバラにされた大衆--不幸に見舞われるたびにますます編されやすくなっている大衆--がそれでもなお理解することのできる現実世界の徴は、いわば現実世外の裂け目、つまり誇張され歪曲された形ではあれ急所を突いているがゆえに誰もあえて公然と議論しようとはしない問題、誰もあえて反論しないような噂である。
そうした急所から全体主義のプロパガンダの嘘は仮構と現実との間の溝を埋めるのに必要な真実らしさ、現実的な経験を引き出してくるのである。
全体主義のプロパガンダの嘘を完結させるリアリティの欠片、あるいは現実世界の裂け目を示す噂として最大の効果を発揮したものこそ、「ユダヤの陰謀」というフィクションであった。世界支配をめぐるユダヤ人の陰謀の噂はドレフュス事件以来ひろく流布してきたし、世界中に分散して国際的に連繋しているユダヤ人の存在という事実によってそれは裏付けられていたのであった。皮肉なことにユダヤ人の存在が人目を引くようになったのは、国民国家体制における彼らの影響力が減退しはじめてからである。第一次世界大戦による国民国家の解体とそれにともなうユダヤ人社会の解体は、一九世紀末の繁栄とともに一時的に影を潜めた反ユダヤ主義をあらためて噴出させることになるが、ナチスの反ユダヤ主義プロパガンダはこれを継承して発展させたものであった。そのスローガンの内容自体はこれまでの反ユダヤ主義の焼き直しにすぎない。彼らが付け加えたただ一つの新しい要素は、ナチ党員に非ユダヤ人の血統証明を要求したことであった。
ナチスはユダヤ人問題をプロパガンダの中心に据えたが、その意味するところは、反ユダヤ主義がもはや多数者とは異質な人々についての意見の問題でも民族政策の問題でもなく、党員一人一人の個人的実存に関わる切実な問題になったということである。「家系図」に問題がある者は一人として党員にはなれないし、ナチスでの位階が上昇すればするほど血統を昔にさかのぼって証明しなければならなかった。
反ユダヤ主義は、孤立した大衆に「自己規定と自己同二化」を与えて、彼らにある種の自尊心を回復させて組織するための手段なのであった。ナチ・プロパガンダはいわば「反ユダヤ主義を自己規定の原理に転換」したのである。
『シオンの賢者の議定書』
ナチスのプロパガンダとその反ユダヤ主義の特徴をよく示しているのが、『シオンの賢者の議定書』についての応答である。ナチスはこの偽書をユダヤ人の陰謀の証拠として攻撃の材料に用いるだけでなく、自らの構想のプロパガンダの手段として用いたのである。
純粋なプロパガンダとして見た場合に、ナチスが発見したのは、大衆はユダヤの世界支配の陰謀に驚くよりもむしろどうしてそのような支配が可能になるのかに興味を持つという事実であった。この議定書が評判になったのは憎悪というより賛嘆とその方法を知りたいという熱望からであって、だからその際だった定式のいくつかにできるだけ近づくのが賢明だということにナチスは気づいたのだった。例えば「ドイツ民族にとって良いことが正義である」という有ちなスローガンは、議定書の「ユダヤ民族にとって利益となるすべては道徳的に正しく神聖である」を写したものなのである。
ナチスは『シオンの賢者の議定書』に示されたユダヤ人の世界帝国の構想--それに向けられた大衆の驚嘆や好奇心--を逆手に取る形で、いわばユダヤの世界支配の陰画としてドイツ民族の「民族共同体」による世界支配の構想を提示したのである。もとよりすでに述べたように、全体主義運動にとってプロパガンダはあくまでも大衆を組織するための手段であり、大衆を獲得できるかどうかによってその実効性は試される。
全体主義プロパガンダの真の目的は、人々を説得するのではなく組織すること--「暴力という手段をもたずに権力を蓄えること」--にある。イデオロギーの内容が独創的であることはこの目的のためには不必要な障碍にしかならない。われわれの時代の二つの全体主義運動は支配の方法では驚くほど「新しい」し、組織の方法の点では独創的であったが、決して新しい教義を説いたり、一般に流布していないイデオロギーを発明したりしなかったことは偶然ではない。大衆を獲得するのはデマゴギーの束の間の成功ではなく、「生ける組織」の目に見えるリアリティと力なのである。
仮構のリアリティをもって大衆を組織する、そのためのプロパガンダの手段に対する嗅覚こそが、全体主義のリーダーの権力の基礎となる。その意味において全体主義のリーダーは単なるデマゴーグ、煽動家ではなかった--ヒトラーの雄弁の才能さえ必須の要素ではなかった--というのである。全体主義の権力の核心は、「生ける組織」としての運動そのものの展開の内にある。「プロパガンダのスローガンがひとたび『生ける組織』に具現されてしまえば、組織の全構造を破壊することなしにそれを取り除くことはもはや不可能となる」。組織の中に組み込まれた虚構そのものは一人歩きを始めることになる。ということは逆に言えば、組織の自己運動なくしては全体主義的プロパガンダの虚構は崩壊するということでもある。
全体主義プロパガンダの内在的な弱点が露呈するのは敗北の瞬間である。運動の力がなくなれば、構成員は直ちにそのドグマを信ずるのを止めてしまう。昨日まではみずからの生命も捧げるつもりでいたそのドグマをである。運動、すなわち構成員を外界から保護していた虚構の世界が破壊された瞬間に、大衆はバラバラの個人というもとの立場に戻り、変化した世界を喜んで受け入れるか、余計な存在であるというもとの絶望的な状態に沈み込んでいくのである。……
連合国はドイツ国民のなかに確信犯でナチスを自認する者を探し求めたが見つけることができなかった。国民の九〇%〔ドイツ語版=邦訳では「八〇%」となっている。なお、英語版は第二版以降も「九〇%」のままであ亘はおそらくある時点では本気でナチスに共感していたにもかかわらずである。このことはたんに人間の弱さやまったくの日和見主義の印として理解すべきではない。
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