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未唯への手紙

未唯への手紙

プラトン アカデメイア創設

2015年11月21日 | 2.数学
『知の教科書 プラトン』より その人物と生涯 プラトンに関する史料

カリキュラムと授業風景

 アテネに戻ってから、プラトンは英雄アカデモスに捧げられた土地を購入した。そして前三八七年頃、一つの学園を開いた。それは弁論術教師であるイソクラテス(前四三六~前三三八年)の学園と並んで、ギリシャにおける最初の高等教育のための施設であった。学園は間もなくして名声を博し、数多くの若者たちを惹きつけた。プラトンの学園における学問的な生活の特徴は、学問的探究の基礎の上に築かれた哲学的な共同生活(シュヌーシア)と、数学や天文学、植物学、動物学、論理学と弁論術、政治学と倫理学といった諸学の振興であった。定位すべき最高の収斂点は善の原理であり、それは現実の存在論的構造を説明する原理であると同時に、あらゆる人間の意欲の目標と見なされた。

 学生たぢの間では、純粋に理論的考察に関心を寄せるグループと、探究の成果から実践的な利益を引き出そうとするより大きなグループとの間に明らかな違いがあった。その生活と学習の特徴は日々の生活の必要性からの自由であり、理論的探究に関心を寄せる者の間の平等と共同であった。授業の枠組みの中で、プラトンの作品も論じられた可能性も考えられる。

 アカデメイアにおける授業についての報告を我々はあまり持ち合わせておらず、その点については部分的にプラトンに批判的な伝承や喜劇の戯画化された描写に頼らざるをえない。しかしそれらについても、おそらくは現実の一部を核として含んでいることを認めることができるであろう。この点ではとりわけ、前四世紀前半の喜劇作家エピクラテスによるアカデメイアの学園の授業風景の描写(断が有名である。

 舞台で演じられるのは、プラトンに典型的な分割法(ディアイレシス)[『ソフィスト』『政治家』『ピレボス』など後期対話篇で提唱され、実演される方法。ひとまとめにされている事柄をその差異に応じて切り分け分割することをいう。逆に多くのものに共通する性質を見出して一つのものにまとめあげる方法を綜合(シュナゴーゲー)という。この二つの方法を合わせて対話法(ディアレクティケー)と呼ぶ]である。それを用いて一つの対象が規定されなければならないのであるが、エピクラテスにあっては、カボチャはどの種に属すか、という問いが問題とされる。学生たちの間で論争が起きたため、プラトンが温厚な審判役を引き受け、結局、彼は学生たちに最初からやり直させる。

 たとえ喜劇固有の嘲弄によって歪曲されているとしても、プラトンの対話篇(たとえば『ソフィスト』や『政治家』)と彼の甥であるとともに学校運営の後継者であるスペウシッポスについての報告からして、そのシーンが学園の実際の特徴を映し出していることは証明されうる。それに加えて、我々はプラトンが学生に課題を出したことも聞いている。それらの課題はたとえば数学や宇宙論の領域に関するものであり、その解き方についての提案へと導くものであった。いうまでもなく、本当の探究に関心をもつ学生もいれば、どちらかといえば皮相な哲学的関心を追究する学生もいた。

共同体としてのアカデメイア

 我々はプラトンの対話篇が彼の学生の間で読まれ、それらの対話篇の中で提起された問いとアポリアが論じられ、指針が求められ、プラトン的意味における解決が求められたという前提から出発することが許されるかもしれない。プラトンのアカデメイアは、授業料が無料である--学園はプラトンの財産によって賄われていた--ということによってその学園の重要な競争相手であるイソクラテスの学園と異なっていた。また哲学的な生活共同体という理念や一緒に祝う学園祭(アポロンの誕生日)や饗宴によっても異なっていた。

 それに加え、皆が学園と構成員に対して責任感を抱いていた。ピュタゴラス派の共同体との共通性が認められるが、プラトンにおいては「秘教的」な要素はより少なく、おそらくはまた独断的な仕方で物事が進むこともより少なかったと思われる。たとえプラトンが大きな権威を持っていたとしても、アリストテレスのような弟子がプラトンに対して行使することができたような大いなる自由は--アリストテレスによるプラトンのイデア論に対する批判を考えてもみよ--アカデメイア内部におけるリベラルな雰囲気を物語っている。

 プラトンの学習と教授のための共同体--伝え聞くところではそれには二人の女性も含む多くのメンバーが所属していたが--では、プラトンの甥で彼の後継者にもなったスペウシッポスやスペウシッポスの後に学園の運営を引き継いだクセノクラテス、またプラトンの死後、学園を後にするまで二十年にわたってアカデメイアで学び教えたアリストテレスのように重要な哲学者たちが活動していた。多くのメンバーは、後に世界のさまざまな地域において助言者として重要な政治的課題に取り組んだ。プラトンの教授活動の最初の二十年の間に、『メノン』『パイドン』『饗宴』の如き重要な対話篇が書かれた。おそらくはまた『パイドロス』と、とりわけ彼の主著とも呼ぶべき『国家』の如き理想国の構想がこの期間に属する。

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