スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リコー杯女流王座戦&願望

2023-11-25 18:58:59 | 将棋
 10日に仙台で指された第13期女流王座戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流四段の先手で後手の里見香奈女流王座の中飛車。急戦の将棋になりました。
                                        
 第1図で先手は☗3五歩と角道を止めました。ただこれは緩手で,☗4二角成☖同金☗同龍と殺到するのが有力だったと思います。☗4二角成に☖5六香は怖いところですが,☗2九歩で龍の利きをずらすことができるので,たぶん受け切れたのではないかと思います。
 後手は☖8四歩と角に働きかけにいきましたが,これは危険で,やはり☗4二角成の筋を受けて☖5一銀か☖5一金としておくところだったでしょう。
 ここで☗9五香と走ったので☖5一銀と引かれ,☗4二角成とできなくなったので後手が有利になりました。ここも☗4二角成が有力で,☖同金☗同龍のときに☖4五桂ないしは☖2五桂があるものの,☗4三龍と逃げておいても十分に先手が指せたと思います。
                                        
 里見女流王座が連勝。第三局は来月5日に指される予定です。

 Xの十全な観念idea adaequataを有している人間と有していない人間を分けることは意味があります。ただ,現実的に存在する人間が本来的な意味において主体subjectumといわれるのは,十全な観念を有する場合だけです。ですからある観念を十全に認識しているか十全に認識していないかという分別は,主体という概念notioに対しては意味をもつことができるわけではありません。
 このようなわけで,本来的な意味で存在しない主体が,現実的にあるという哲学を組み立てたヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelは,ヘーゲル自身の願望によってそうした哲学を構築したように僕からはみえてしまうのです。ただ,この種の願望を表出させて哲学ないしは思想を構築したという点だけに着目すれば,それはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの場合にもヤコービFriedrich Heinrich Jaobiの場合にも,程度の差はあったにしても一致するのかもしれないとも思います。
 ライプニッツの場合,スピノザの哲学において最も受け入れられない部分,つまりヘーゲルにおける主体という概念が欠如しているという点に該当するのは,神Deusが本性naturaの必然性necessitasによって働くagereという点にあっただろうと僕は思います。これは第一部定理一七でいわれていることですから,ライプニッツにとってスピノザの哲学の最大のターゲットはここにあったと思われます。
 なぜそれがライプニッツにとって最大の難点となってしまったのかということはわりと簡単に理解することができます。これはもしも神が本性の必然性によって働くものとされるなら,それはキリスト教の観点からは絶対に受け入れられないような事柄であったからです。ライプニッツは自身の立場からスピノザの哲学に反論したといえるのであって,これもそのひとつと考えることはできるでしょう。いい換えればこの場合のライプニッツの願望というのは,キリスト教的な意味での神の立場を守りたいという願望であると同時に,自身の生活基盤を守りたいという願望であるとみなすこともできます。
 しかし,僕にはそれだけであったとは思えない一面があるのです。むしろそうした生活基盤を抜きにしても,神が本性の必然性によって働くものであってほしくないという願望が,ライプニッツ個人のうちにあったようにも思えます。
コメント
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