スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典浦和記念&ヘーゲルの願望

2023-11-23 19:17:42 | 地方競馬
 第44回浦和記念。ライアン・ムーア騎手が19日の2レースで落馬し背中を負傷したためディクテオンは本田正重騎手に変更。笹川騎手は主催者から配車された自動車を無断で下りたために処分を受け,セイカメテオポリスは今野騎手に変更。
 逃げたのはミトノオー。ジョエル,ヒーローコール,エルデュクラージュの3頭が2番手。メイショウフンジンとテイエムサウスダンが5番手。7番手にスーパーフェザー。4馬身差でセイカメテオポリス。9番手にディクテオン。10番手にシンコーマーチャンでこの3頭は一団。1馬身半差でテンカハルとコウエイスーシェフが並んで最後尾という隊列で発馬直後の向正面を通過。テイエムサウスダンが外から2番手に上がってきて,その後ろがメイショウフンジンとヒーローコール。その後ろがジョエルとエルデュクラージュという隊列になって1周目の正面を通過しました。前半の1000mは63秒0のミドルペース。
 2周目の向正面に入るとディクテオンが外から進出。そのまま上がっていったので3コーナーからはミトノオー,ヒーローコール,エルデュクラージュ,ディクテオンが一団。ここからコーナーでエルデュクラージュは後退。直線の手前でヒーローコールが脱落。直線の入口ではディクテオンがミトノオーの前に出ました。そこからまたミトノオーも粘ったのですが,最後はディクテオンが突き離して優勝。逃げ粘ったミトノオーが2馬身半差で2着。直線でディクテオンの外に出して盛り返そうとしたヒーローコールの外から,ディクテオンを追って後方から追い込んだテンカハルが差して2馬身差の3着。
 優勝したディクテオンは重賞初勝利。オープンは勝っていましたので,このメンバーであれば通用はするだろうとみていました。それだけの能力があったということは間違いないのですが,今日はいかにも嵌ったという感の残る勝ち方でしたから,同じようなメンバー構成でも安定して結果を残せるかどうかは微妙のような気もします。父はキングカメハメハ。母の父はキングヘイロー。母は2013年にTCK女王盃,マリーンカップ,スパーキングレディーカップ,レディスプレリュード,JBCレディスクラシック,2014年にTCK女王盃を勝ったメーデイア。Diktaeanはゼウスの生地。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は2017年のジャパンダートダービー以来の重賞2勝目。管理している吉岡辰弥調教師は浦和記念初勝利。

 スピノザの哲学では個々の人間の現実的本性actualis essentiaは,各々の人間が外部の物体corpusから刺激されるaffici限りにおいて,つまり働きを受けるpati限りにおいて相違するのであって,個々の人間が十全な原因causa adaequataとなって働くagere限りにおいては相違しません。そのゆえに,そこに主体subjectumという概念notioを持ち込もうとするのであれば,働きを受ける限りにおいての主体ということになります。しかし本来的にはこれは客体なのであって主体ではありません。だからヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelはスピノザの哲学には主体という概念が欠如していると批判するのです。実際にヘーゲルがいっていることは正しいので,ヘーゲルはスピノザの哲学を正しく理解していると僕は考えます。このためにヘーゲルはこのオペレーションシステムを変更して,本来的な意味での主体という概念を組み入れた哲学を組み立てていきます。
                                   
 このことが僕のような立場からみると,ヘーゲルの願望の表出のようにみえるのです。つまりヘーゲルは,個々の人間が本来的な意味で主体として働くという願望を有していて,あるいは自分自身が主体として働きたいというように思っていて,その願望を叶えるために独自の哲学を組み立てているようにみえるのです。しかしそれはあくまでも願望の世界なのであって,そういう世界が現実的に存在するというわけではありません。単純にいえばひとつの事柄に対して真理veritasというのはひとつなのであって,その真理を知性intellectusが概念するconcipere限り,概念されたその観念の形相formaは,どのような知性のうちにおいても同じです。しかるに知性が働くとは知性が事物を真に概念するということを意味するのですから,結局のところ現実的に存在するどの人間の知性がそれを概念するとしても同じ観念を認識するcognoscereことになります。よってこの観念は現実的に存在するどの人間の知性が認識しているのかということは考慮する必要がないのです。つまりこの意味では主体という概念は存在しません。存在しないというか,もしも存在すると考えても考慮する必要がない概念なのです。そしてこれが現実的な世界を構成しているのです。なので個々の人間に,有意味に主体という概念を組み入れるのは,そうありたい願望の表出でしかありません。

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