スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ロンジン賞ジャパンカップ&善意

2023-11-26 20:02:07 | 中央競馬
 フランスから1頭,兵庫から2頭が遠征してきた第43回ジャパンカップ。田中学騎手が腰痛のためチェスナットコートは田辺騎手に変更。
 パンサラッサが逃げてタイトルホルダーが2番手。2馬身差でイクイノックス。3馬身差でリバティアイランドとディープボンドとスターズオンアース。7番手にドウデュースとスタッドリーとショウナンバシット。10番手にクリノメガミエース。11番手にイレジンとヴェラアズールとダノンベルーガとフォワードアゲン。15番手にチェスナットコートとトラストケンシン。2馬身差でインプレス。2馬身差の最後尾にウインエアフォルクで発馬後の正面を通過。向正面の入口ではパンサラッサのリードが10馬身くらいになって2番手のタイトルホルダーと3番手のイクイノックスの差が5馬身くらい。さらに単独の4番手となったリバティアイランドとの差も5馬身くらいに。3コーナーにかけてパンサラッサはさらにリードを広げていって20馬身くらいに。タイトルホルダーとイクイノックス,イクイノックスとリバティアイランドの差は縮まっていきました。最初の1000mは57秒6の超ハイペース。
 直線の入口でイクイノックスがタイトルホルダーの外へ。すぐに2番手に上がるともう一杯となっていたパンサラッサも楽に差して先頭に。そこからも差を広げていって圧勝。イクイノックスの後ろから外に出されて追ってきたリバティアイランドが4馬身差の2着。リバティアイランドの外の進路になったスターズオンアースが1馬身差で3着。さらに外から追い込んだドウデュースが4分の3馬身差の4着。
 優勝したイクイノックスはこれが天皇賞(秋)以来のレース。6連勝で大レース6勝目。メンバーから考えて,リバティアイランド以外の馬に負けるというケースはほとんど考えられませんでした。その最大の強敵とみられたリバティアイランドに対してこれだけの差をつけて勝ったというのは驚異的で,ディープインパクト以来の最強馬という印象です。父は第36回を勝ったキタサンブラックで父仔制覇。4代母がブランシュレイン。ひとつ上の半兄が2021年のラジオNIKKEI賞を勝ったヴァイスメテオール。Equinoxは春分と秋分。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はエリザベス女王杯以来の大レース制覇。第29回,38回,40回に続いて3年ぶりのジャパンカップ4勝目。管理している木村哲也調教師は天皇賞(秋)以来の大レース8勝目。ジャパンカップは初勝利。

 Deusが本性naturaの必然性necessitasによって働くagereという第一部定理一七が,キリスト教の神学によって否定されるのは,キリスト教でいわれる神は,自由意志voluntas liberaによって働くとされているからです。スピノザが第一部定理一七備考で示しているように,もし神が自由意志によって働くというなら,神はなし得る事柄のすべてをなすことはできないということになるので,神の全能性あるいは神の完全性perfectioを欠くことになってしまうのですが,神学ではむしろ,神は自由意志によって働くという方が,神の全能性も完全性も確保されると考えられているのです。
 神が自由意志によって働くということは,デカルトRené Descartesも肯定していたことでした。デカルトがそのとき,自身の哲学がキリスト教に見合うような形にするということを意識していたかどうかは分かりません。ただ,デカルトはそのように主張したのですから、やはり自由意志によって働くということが神の完全性や神の全能を欠かすことにはならないと考えていたのは間違いありません。仮にデカルトが,神についてキリスト教と見合うような見解にしようと意識していたのだとしても,哲学的観点からデカルトがそのようにいったのは疑い得ないですから,哲学的にも,神が自由意志によって働くと主張することが可能であるのは間違いないのです。
 だからライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizも,単に神学に見合うような哲学を構築するのであれば,神は自由意志によって働くといえばよかったのです。ところがライプニッツはそのようにはいわず,神の働きactioはすべて神の善意によるとしました。これは第一部定理三三備考二でスピノザがいっているように,神が自由意志によって働くというよりも,さらに真理veritasから遠くなっています。というのは,神が何事をも善意によってなすというのは,神が善bonumという目的finisのために働くということになり,善という目的に神が従属するということになってしまうからです。
 ではなぜライプニッツがそのように主張したのかといえば,そこにライプニッツの願望,宮廷に仕えていたライプニッツとしてではなく,そのことを離れた個人としてのライプニッツの願望があったからだとみることができるのではないかと僕は思うのです。

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