12日の四日市記念の決勝。並びは坂井‐和田の東日本,浅井‐川口の中部,脇本‐南の近畿,小川‐橋本‐栗田の四国。
スタートを取りにいったのは浅井と坂井と小川。小川が誘導の後ろに入って前受け。4番手に浅井,6番手に坂井,8番手に脇本の周回に。それぞれの車間が開くところはあったものの,打鐘周回のホームまで上昇の動きはありませんでした。バックに入って脇本が上昇の構えをみせると坂井がそれを制するように発進して打鐘。ホームで小川を叩いた坂井の先行となり,3番手に小川,6番手に浅井,8番手に脇本という一列棒状に。ホームの出口から脇本が発進しましたが,今度はそれを制して浅井も発進。浅井の外を回らざるを得なくなった脇本は一杯になって不発。自力で前の5人を捲り切った浅井が優勝。坂井マークの和田が浅井と川口の間を突いて半車身差で2着。浅井マークの川口が4分の1車輪差で3着。
優勝した三重の浅井康太選手は6月の大垣記念以来の優勝で記念競輪32勝目。GⅢは33勝目。四日市記念は2014年,2015年2月,2015年8月,2018年と優勝していて5年ぶりの5勝目。今年の4月のベイサイドナイトドリームも優勝しています。このメンバーでは脚力上位の脇本はこの開催が骨折からの復帰戦。決勝までは無難に勝ち上がってきていたのですが,ここは不発になりました。3日間を走った後でのレースということで,疲労が蓄積していたということもあったでしょうが,まだ決勝では勝てるまでの調子に戻っていなかったということだったのだと思います。浅井は楽な位置ではありませんでしたが,そこから自力で捲り切って勝ったのは,地元開催ということを割り引いても評価できるところで,こちらは復調してきていて,ビッグでも戦える状態に戻っているかもしれません。
メンデルスゾーンMoses Mendelssohnのスピノザの解釈に対して,それは誤りであって,本来はこのように解釈するべきであるという指摘をヤコービFriedrich Heinrich Jaobiがすることがあります。こうした指摘がなされるとき,正しいのはヤコービであって,メンデルスゾーンはスピノザの哲学を誤解しています。こうしたことから理解できるように,スピノザの哲学に対する正しい解釈者はメンデルスゾーンではなくヤコービであるといわなければなりません。こうしたことも,メンデルスゾーンが汎神論論争に参加したのは,止むを得ない事情があったからで,メンデルスゾーンの本意ではないところがあったと僕に思わせる理由になっています。
ところで,メンデルスゾーンが死んでしまったレッシングGottfried Ephraim Lessingに代わってヤコービに反論するとき,普通はヤコービはレッシングがスピノザ主義者であるといっているけれど,本当はそうではなかったというのではないかと僕は思います。スピノザのことを死んだ犬と評したレッシングは,そう評したという事実からして,スピノザの哲学に関心を抱いていたというのは事実だと思いますし,実際はヤコービが暴露したようにスピノザ主義者であった可能性もあると僕はみています。しかし表面上は死んだ犬とこき下ろしていたわけですから,もしレッシングが生きていたら,レッシング自身は自分はスピノザ主義者ではないと反論したでしょうし,そのように反論するほかなかったろうと僕は思っています。ところがメンデルスゾーンはそうせずに,たとえレッシングがスピノザ主義者であったとしても,スピノザの哲学は優れた哲学である,少なくとも優れた点を含んでいるというような仕方で,スピノザの哲学を擁護するような方法で反論したのです。
メンデルスゾーンがそのようにした真意は分かりません。もしそこに積極的な理由を探すとするなら,メンデルスゾーン自身のうちにそのような考え方があった,つまりレッシングがそう考えていたのではなく,メンデルスゾーンがスピノザの哲学を好意的に評価していたということになるでしょう。それが実際にどうであったかを確定するために,メンデルスゾーンのスピノザ受容に関する研究は,大きな意義をもつのです。
スタートを取りにいったのは浅井と坂井と小川。小川が誘導の後ろに入って前受け。4番手に浅井,6番手に坂井,8番手に脇本の周回に。それぞれの車間が開くところはあったものの,打鐘周回のホームまで上昇の動きはありませんでした。バックに入って脇本が上昇の構えをみせると坂井がそれを制するように発進して打鐘。ホームで小川を叩いた坂井の先行となり,3番手に小川,6番手に浅井,8番手に脇本という一列棒状に。ホームの出口から脇本が発進しましたが,今度はそれを制して浅井も発進。浅井の外を回らざるを得なくなった脇本は一杯になって不発。自力で前の5人を捲り切った浅井が優勝。坂井マークの和田が浅井と川口の間を突いて半車身差で2着。浅井マークの川口が4分の1車輪差で3着。
優勝した三重の浅井康太選手は6月の大垣記念以来の優勝で記念競輪32勝目。GⅢは33勝目。四日市記念は2014年,2015年2月,2015年8月,2018年と優勝していて5年ぶりの5勝目。今年の4月のベイサイドナイトドリームも優勝しています。このメンバーでは脚力上位の脇本はこの開催が骨折からの復帰戦。決勝までは無難に勝ち上がってきていたのですが,ここは不発になりました。3日間を走った後でのレースということで,疲労が蓄積していたということもあったでしょうが,まだ決勝では勝てるまでの調子に戻っていなかったということだったのだと思います。浅井は楽な位置ではありませんでしたが,そこから自力で捲り切って勝ったのは,地元開催ということを割り引いても評価できるところで,こちらは復調してきていて,ビッグでも戦える状態に戻っているかもしれません。
メンデルスゾーンMoses Mendelssohnのスピノザの解釈に対して,それは誤りであって,本来はこのように解釈するべきであるという指摘をヤコービFriedrich Heinrich Jaobiがすることがあります。こうした指摘がなされるとき,正しいのはヤコービであって,メンデルスゾーンはスピノザの哲学を誤解しています。こうしたことから理解できるように,スピノザの哲学に対する正しい解釈者はメンデルスゾーンではなくヤコービであるといわなければなりません。こうしたことも,メンデルスゾーンが汎神論論争に参加したのは,止むを得ない事情があったからで,メンデルスゾーンの本意ではないところがあったと僕に思わせる理由になっています。
ところで,メンデルスゾーンが死んでしまったレッシングGottfried Ephraim Lessingに代わってヤコービに反論するとき,普通はヤコービはレッシングがスピノザ主義者であるといっているけれど,本当はそうではなかったというのではないかと僕は思います。スピノザのことを死んだ犬と評したレッシングは,そう評したという事実からして,スピノザの哲学に関心を抱いていたというのは事実だと思いますし,実際はヤコービが暴露したようにスピノザ主義者であった可能性もあると僕はみています。しかし表面上は死んだ犬とこき下ろしていたわけですから,もしレッシングが生きていたら,レッシング自身は自分はスピノザ主義者ではないと反論したでしょうし,そのように反論するほかなかったろうと僕は思っています。ところがメンデルスゾーンはそうせずに,たとえレッシングがスピノザ主義者であったとしても,スピノザの哲学は優れた哲学である,少なくとも優れた点を含んでいるというような仕方で,スピノザの哲学を擁護するような方法で反論したのです。
メンデルスゾーンがそのようにした真意は分かりません。もしそこに積極的な理由を探すとするなら,メンデルスゾーン自身のうちにそのような考え方があった,つまりレッシングがそう考えていたのではなく,メンデルスゾーンがスピノザの哲学を好意的に評価していたということになるでしょう。それが実際にどうであったかを確定するために,メンデルスゾーンのスピノザ受容に関する研究は,大きな意義をもつのです。