小倉競輪場で行われた昨晩の第65回競輪祭の決勝。並びは深谷‐松井‐簗田の南関東,脇本‐南の近畿,太田‐松浦の中国で真杉と北津留は単騎。
松浦と南がスタートを取りにいき,誘導の後ろには松浦が入りました。太田の前受けとなり,3番手に深谷,6番手に真杉,7番手に脇本,最後尾に北津留という周回から,北津留が真杉の後ろに入ろうとしたのですが,脇本が譲らなかったのでまた最後尾に下がりました。残り3周のバックから脇本が徐に上昇。北津留も続きました。脇本は深谷に蓋をしたので深谷が引き,正面に入ると内から北津留が上昇したので,3番手に北津留,4番手に脇本,6番手に深谷,最後尾に真杉という隊列に変化。引いた深谷がそのまま発進。真杉まで続いた4人で太田を叩いて先行となり,打鐘では一列棒状に。ホームに戻って8番手の脇本が発進すると,松浦が牽制。これで脇本は不発となり,太田が発進すると4番手の真杉も発進。さらに松井も番手捲りを敢行しての捲り合戦。先頭で直線に入った松井を外から差した真杉が優勝。松井が半車輪差で2着。コーナーはインを回って直線は真杉の外に出てきた松浦が4分の3車身差で3着。
優勝した栃木の真杉匠選手は前回出走の豊橋のFⅠから連続優勝。グレードレースは8月のオールスター競輪以来でGⅠ2勝目。このレースは並びから深谷の先行が有力。松井が臆せずに番手から発進できるのかということにやや疑問を感じてはいたのですが,シビアに走りきりました。ですから南関東の作戦は成功したといえ,松井が勝たなければいけなかったレースだったと思います。真杉はこのラインを追走する選択をしたこともよかったですし,現状の脚力では上回っているということでもあるのでしょう。まだ強くなる選手だと思います。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizには,神Deusが単に神の自由意志voluntas liberaによって働くagereだけでなく,その自由意志が善bonumに基づいていてほしいという願望があったのではないでしょうか。他面からいえば,神の自由意志によって創造された現にあるこの世界が,最善の世界であってほしいという願望があったのではないでしょうか。そうした願望の表出が,神が善意によって働くということを哲学的論理として示したモナド論にはあるとみることができるのではないかと僕には思えるのです。
なお,こうした願望は,ライプニッツの個人的なものとみることができますが,キリスト教との関係からライプニッツは願望をもつようになったということも可能ではあります。というのは,現にある世界では,その世界のうちに生きている人びとにとって,よいことも起これば悪いことも起こるようになっているからです。これは現にそうであるというほかなくて,このことを理解してもらうためにそれ以上の説明は不要でしょう。
すべてが神の自由意志によって生じるのであると仮定すれば,よいことも神の自由意志によって生じるのだし悪いことも神の自由意志によって生じるといわなければなりません。よってよいことが生じたなら人は神に感謝し,また神を愛するでしょうが,逆に悪いことが起こったなら,人は神に反撥するでしょうし神を憎むようになるでしょう。これは第三部定理四〇系二や第三部定理四一で示されているのに類することですが,とくにそうした論理に訴えなくても理解できるところだと思います。したがって,すべてが神の自由意志によって生じるとするなら,人びとは神に反撥しまた神を憎むようになるかもしれないのです。しかしこのことは,キリスト教を布教していくという際には明らかにマイナスに働くでしょう。ここで自由意志によって働くとされている神は,キリスト教が信仰fidesの対象としている神と仮定されているからです。
なので神が自由意志によって働くということ自体を,キリスト教と関連させた上でライプニッツが否定するnegareとしても,それを合理的に説明することはできます。いい換えればその自由意志が善意であってほしいと希望することを説明できるのです。
松浦と南がスタートを取りにいき,誘導の後ろには松浦が入りました。太田の前受けとなり,3番手に深谷,6番手に真杉,7番手に脇本,最後尾に北津留という周回から,北津留が真杉の後ろに入ろうとしたのですが,脇本が譲らなかったのでまた最後尾に下がりました。残り3周のバックから脇本が徐に上昇。北津留も続きました。脇本は深谷に蓋をしたので深谷が引き,正面に入ると内から北津留が上昇したので,3番手に北津留,4番手に脇本,6番手に深谷,最後尾に真杉という隊列に変化。引いた深谷がそのまま発進。真杉まで続いた4人で太田を叩いて先行となり,打鐘では一列棒状に。ホームに戻って8番手の脇本が発進すると,松浦が牽制。これで脇本は不発となり,太田が発進すると4番手の真杉も発進。さらに松井も番手捲りを敢行しての捲り合戦。先頭で直線に入った松井を外から差した真杉が優勝。松井が半車輪差で2着。コーナーはインを回って直線は真杉の外に出てきた松浦が4分の3車身差で3着。
優勝した栃木の真杉匠選手は前回出走の豊橋のFⅠから連続優勝。グレードレースは8月のオールスター競輪以来でGⅠ2勝目。このレースは並びから深谷の先行が有力。松井が臆せずに番手から発進できるのかということにやや疑問を感じてはいたのですが,シビアに走りきりました。ですから南関東の作戦は成功したといえ,松井が勝たなければいけなかったレースだったと思います。真杉はこのラインを追走する選択をしたこともよかったですし,現状の脚力では上回っているということでもあるのでしょう。まだ強くなる選手だと思います。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizには,神Deusが単に神の自由意志voluntas liberaによって働くagereだけでなく,その自由意志が善bonumに基づいていてほしいという願望があったのではないでしょうか。他面からいえば,神の自由意志によって創造された現にあるこの世界が,最善の世界であってほしいという願望があったのではないでしょうか。そうした願望の表出が,神が善意によって働くということを哲学的論理として示したモナド論にはあるとみることができるのではないかと僕には思えるのです。
なお,こうした願望は,ライプニッツの個人的なものとみることができますが,キリスト教との関係からライプニッツは願望をもつようになったということも可能ではあります。というのは,現にある世界では,その世界のうちに生きている人びとにとって,よいことも起これば悪いことも起こるようになっているからです。これは現にそうであるというほかなくて,このことを理解してもらうためにそれ以上の説明は不要でしょう。
すべてが神の自由意志によって生じるのであると仮定すれば,よいことも神の自由意志によって生じるのだし悪いことも神の自由意志によって生じるといわなければなりません。よってよいことが生じたなら人は神に感謝し,また神を愛するでしょうが,逆に悪いことが起こったなら,人は神に反撥するでしょうし神を憎むようになるでしょう。これは第三部定理四〇系二や第三部定理四一で示されているのに類することですが,とくにそうした論理に訴えなくても理解できるところだと思います。したがって,すべてが神の自由意志によって生じるとするなら,人びとは神に反撥しまた神を憎むようになるかもしれないのです。しかしこのことは,キリスト教を布教していくという際には明らかにマイナスに働くでしょう。ここで自由意志によって働くとされている神は,キリスト教が信仰fidesの対象としている神と仮定されているからです。
なので神が自由意志によって働くということ自体を,キリスト教と関連させた上でライプニッツが否定するnegareとしても,それを合理的に説明することはできます。いい換えればその自由意志が善意であってほしいと希望することを説明できるのです。
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