7日に倉敷由加温泉で指された第31期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が35勝,西山朋佳女流四冠が31勝。これはNHK杯の女流予選が公式戦であったときの記録を含んでいます。
振駒で西山女流四冠の先手となって三間飛車。後手の里見香奈倉敷藤花はなかなか態度を明らかにしませんでしたが,先手の出方をみて居飛車を選択しました。
ここから後手は☖8六歩で攻め合いを選択。☗同歩に☖6五歩といきました。
先手も☗3五歩と攻めていきましたが後手は無視して☖7五歩。☗同歩に☖6六歩と取り込み☗3四歩と取り込まれたところで☖4四歩☗5六銀と引かせました。
この仕掛けで有利に立った後手がそのまま一方的に押し切る将棋。これは振飛車の☗5六銀型には居飛車の急戦が有効とされていて,それがものの見事に決まったため。結果的にですが先手は☗5六銀と上がるタイミングが早すぎたということだと思います。
里見倉敷藤花が先勝。第二局は18日に指されました。
ひとつの事柄の真理veritasはひとつなので,どの知性intellectusがその真理を概念しようと,各々の知性を主体subjectumとして分別することは意味をなさないという点については,ひとつだけ注意しておきます。
確かにひとつの事柄に真理はひとつのなので,その事柄の真理を表現するexprimere観念idea,いい換えればその事柄の十全な観念idea adaequataの形相formaというのは同一ですから,現実的に存在するどの人間の知性のうちにあっても同一です。つまりその十全な観念がどの知性のうちに存在するのかということを考えることには意味はありません。ただこのことは,現実的に存在するすべての人間がその十全な観念を有するということを前提としているとはいえます。実際には,現実的に存在するAという人間のうちにはXの十全な観念はあるけれども,現実的に存在するBという人間の精神mens humanaのうちにはXの十全な観念はないということはあり得るのであって,というか現にあるのであって,そのときに,AはXを十全に認識しているけれどもBはXを十全には認識していないということは,まったく意味をもたないわけではありません。
ただこのことは,主体という概念notioの形成の上ではほとんど意味をもつことができないのです。なぜなら,この場合はAはXの十全な観念に対しては確かに主体であるということができるのですが,Bはそのようにはいえません。したがってもしも主体という概念をこの例に組み込もうとするなら,Aは主体であるけれどもBは主体ではないということになるでしょう。しかしこれはあくまでもこの一例に留まるのであって,一般的にAは主体であってBは主体ではないといえるわけではありません。当然ながらこうしたことが現にあるとすれば,Yの十全な観念はAの知性のうちにはないけれどもBの知性のうちにはあるということも現にあるのであって,その場合はBは主体ではあるけれどもAは主体ではないといわなければならなくなるからです。
よって現実的に存在する人間は,事物を十全に認識するcognoscere限りで主体であるといわなければならなくなります。ところが十全な観念の形相は同一なのですから,現実的に存在する人間は主体である限りでは同一であるということになるのです。
振駒で西山女流四冠の先手となって三間飛車。後手の里見香奈倉敷藤花はなかなか態度を明らかにしませんでしたが,先手の出方をみて居飛車を選択しました。
ここから後手は☖8六歩で攻め合いを選択。☗同歩に☖6五歩といきました。
先手も☗3五歩と攻めていきましたが後手は無視して☖7五歩。☗同歩に☖6六歩と取り込み☗3四歩と取り込まれたところで☖4四歩☗5六銀と引かせました。
この仕掛けで有利に立った後手がそのまま一方的に押し切る将棋。これは振飛車の☗5六銀型には居飛車の急戦が有効とされていて,それがものの見事に決まったため。結果的にですが先手は☗5六銀と上がるタイミングが早すぎたということだと思います。
里見倉敷藤花が先勝。第二局は18日に指されました。
ひとつの事柄の真理veritasはひとつなので,どの知性intellectusがその真理を概念しようと,各々の知性を主体subjectumとして分別することは意味をなさないという点については,ひとつだけ注意しておきます。
確かにひとつの事柄に真理はひとつのなので,その事柄の真理を表現するexprimere観念idea,いい換えればその事柄の十全な観念idea adaequataの形相formaというのは同一ですから,現実的に存在するどの人間の知性のうちにあっても同一です。つまりその十全な観念がどの知性のうちに存在するのかということを考えることには意味はありません。ただこのことは,現実的に存在するすべての人間がその十全な観念を有するということを前提としているとはいえます。実際には,現実的に存在するAという人間のうちにはXの十全な観念はあるけれども,現実的に存在するBという人間の精神mens humanaのうちにはXの十全な観念はないということはあり得るのであって,というか現にあるのであって,そのときに,AはXを十全に認識しているけれどもBはXを十全には認識していないということは,まったく意味をもたないわけではありません。
ただこのことは,主体という概念notioの形成の上ではほとんど意味をもつことができないのです。なぜなら,この場合はAはXの十全な観念に対しては確かに主体であるということができるのですが,Bはそのようにはいえません。したがってもしも主体という概念をこの例に組み込もうとするなら,Aは主体であるけれどもBは主体ではないということになるでしょう。しかしこれはあくまでもこの一例に留まるのであって,一般的にAは主体であってBは主体ではないといえるわけではありません。当然ながらこうしたことが現にあるとすれば,Yの十全な観念はAの知性のうちにはないけれどもBの知性のうちにはあるということも現にあるのであって,その場合はBは主体ではあるけれどもAは主体ではないといわなければならなくなるからです。
よって現実的に存在する人間は,事物を十全に認識するcognoscere限りで主体であるといわなければならなくなります。ところが十全な観念の形相は同一なのですから,現実的に存在する人間は主体である限りでは同一であるということになるのです。
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