スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

よさこい賞争覇戦&第二部定義七の意味

2019-04-15 19:12:08 | 競輪
 昨日の高知記念の決勝。並びは田中に山中‐佐々木の高知,吉田‐村上の中部近畿,取鳥‐清水‐松浦の中国で諸橋は中国ラインと番手戦。
 村上がスタートを取って吉田の前受け。3番手に取鳥。周回中は無理に競らず,取鳥の後ろが諸橋で5番手に清水で6番手に松浦。7番手に田中の隊列になりました。残り2周のバックの手前から田中が上昇開始。吉田を叩いて前に。清水が追い上げ,諸橋の外に並んで打鐘。ここから取鳥が田中を叩きました。番手戦はホームまで続きましたが踏み勝った清水が死守。諸橋は3番手で松浦と併走。田中はバックから捲っていきましたが,車が伸びず,松浦の横で一杯。これを清水が警戒しすぎたため,コーナーで諸橋が清水のインを掬いました。さらに田中の勢いをもらってコーナーでは内を回った山中が取鳥と諸橋の間から直線で急襲して優勝。田中の後ろから捲った吉田に乗った村上が外を伸びて4分の3車身差で2着。諸橋が4分の1車輪差で3着。
 優勝した高知の山中貴雄選手は昨年10月の豊橋のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは清水の脚力が上位で,仮に番手戦で競り負けても自力で何とかできるので,清水と松浦の優勝争いになるだろうと予想していました。踏み勝って番手を守ったのですから,勝たなければいけないレース。後ろを気にしすぎたあまり,競り勝った相手にまたインを掬われるという競走は,いくら若くて経験の浅い選手であっても,甘かったとしかいいようがないと思います。

 現在の考察と直接的に関係するものではありませんが,この考察をしていて思い至ったことがありますので,ここに記しておきます。
                                   
 僕は第二部定義七は,どんな個物res singularisもそれが個物となっている属性attributumと同じ属性の別の個物と協同し,より複雑な個物を組織することを前提していなければ,何も意味を有することができないと考えていました。もちろんそうして組織されたより複雑な個物もまた,個物であるからには,やはり同じ属性の別の個物と協同してさらに複雑な個物を組織するのであり,こうした連鎖が無限に続いていくことになるのです。ですから僕はこのことを,個物の複合の無限連鎖と命名し,このことがスピノザの哲学の中で成立していると解してきたのです。
 僕が思い至ったのは,この定義Definitioは,これと逆のことも含んでいるのでなければ,同様に意味を有することができないのではないかということです。つまりどんな個物も,さらに小さなあるいは単純な個物に分割することができるということがそれで,そうして分割された個物もまた個物であるからには,さらに単純な個物に分解することができ,この連鎖が無限に続いていくということです。実際のところ,ある個物から始めて,その個物の複合の無限連鎖が成立するのであれば,これと逆方向の分割の無限連鎖というのも成立しなければならないように思われます。ある単独の個物を無作為に抽出したとき,個物の複合の無限連鎖というのが成立しているなら,抽出されたその個物というのは複合の無限連鎖の途中過程にある個物であると考えるのが妥当で,少なくともさらに単純な個物に分割することが可能であることは確かであるからです。
 そしてこれを認めることは,スピノザが「アトム」は存在しないといっていること,すなわちそれ以上には分割することができないものが存在しないといっていることと合致しています。もしそれ以上に分割することができない個物が存在するということを肯定するなら,これはアトムが存在するといっているのと同じことであるからです。
 よって僕は今後この定義の意味に,個物の複合の無限連鎖と同時に,個物の分割の無限連鎖も加えることにします。
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皐月賞&間接無限様態の内部と外部

2019-04-14 19:12:26 | 中央競馬
 第79回皐月賞
 ランスオブプラーナとダディーズマインドとクリノガウディーの先行争い。枠順の通りにランスオブプラーナの逃げになり2番手にダディーズマインド。3番手はダノンキングリーとクリノガウディーの併走に。5番手にアドマイヤマーズとヴェロックス。7番手にファンタジストとクラージュゲリエとサートゥルナーリア。ここまで一団。2馬身差でシュヴァルツリーゼ,ラストドラフト,ニシノデイジーの3頭。また2馬身差でブレイキングドーンとサトノルークス。アドマイヤジャスタ,タガノディアマンテ,ナイママと8枠の3頭が後方グループの後ろで2馬身差の最後尾にメイショウテンゲン。前半の1000mは59秒1のミドルペース。
 3コーナーを回るとランスオブプラーナ,クリノガウディー,ダディーズマインドの3頭が雁行となりその後ろもダノンキングリー,アドマイヤマーズ,ヴェロックスの3頭で雁行。外目を回ってサートゥルナーリアがその後ろまで追い上げてきました。直線に入ってダディーズマインドが一旦は先頭も,逃げたランスオブプラーナとダディーズマインドの間に進路を取ったダノンキングリーと,早めに仕掛けてダディーズマインドの外から伸びたヴェロックスの2頭が前に。この争いにヴェロックスの外から末脚を伸ばしたサートゥルナーリアも加わって3頭の競り合いに。接戦でしたがフィニッシュでは内の2頭を差し切ったサートゥルナーリアが優勝。ヴェロックスがアタマ差の2着でダノンキングリーがハナ差で3着。4コーナーで勝ち馬に被せられ,外に出すのが遅れてしまったアドマイヤマーズは2馬身差で4着。
 優勝したサートゥルナーリアはここがホープフルステークス以来の実戦で大レース連勝となる2勝目。ここはアドマイヤマーズ,ダノンキングリー,ヴェロックス,サートゥルナーリアの争いとみていたところその4頭で上位を独占。勝負所で抜け出ることができなかったアドマイヤマーズ以外の3頭の接戦になりましたから,順当な決着といえるでしょう。久々の実戦というのが最大の課題でしたが,おそらく能力は最上位で,その差でカバーしたというところだと思います。ここは負けてもダービーではと思っていたくらいなので,ダービーでは最有力候補でしょう。父はロードカナロア。母はシーザリオでその父はスペシャルウィーク。祖母はキロフプリミエール。6つ上の半兄に2012年にラジオNIKKEI杯2歳ステークス,2013年に神戸新聞杯と菊花賞,2014年にジャパンカップに勝ったエピファネイア。3つ上の半兄に2015年のJRA賞の最優秀2歳牡馬のリオンディーズ。Saturnaliaは古代ローマの祭り。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は桜花賞に続き3週連続の大レース制覇。皐月賞は初勝利。本来の管理者である角居勝彦調教師は一昨年の菊花賞以来の大レース36勝目。第70回以来9年ぶりの皐月賞2勝目。

 僕のように考えれば,間接無限様態は部分に分割することができないのですから,それを構成している無限に多くのinfinita個物res singularisを内部と外部に分割することはできないことはそれ自体で明らかだと思います。しかし仮に,間接無限様態を個物res particularisであると把握するにしても,この結論自体は変わらないと僕は考えます。というのは,間接無限様態を個物と認識するcognoscereことの根拠は,僕が個物の複合の無限連鎖といっている,どのような個物もほかの個物と協同してより複雑な個物を構成するという点にあるからです。間接無限様態が個物であるという主張は,この複合の無限連鎖の無限の極致に間接無限様態をみる点にあるのです。となれば少なくとも個物Aと個物Bが協同する,共同し得ることはこの主張の場合にも認めざるを得ないことになるでしょう。仮にそうして構成されるのが個物Cであるなら,この個物Cもまたほかの個物と協同し,より複雑な個物を構成するということも認めざるを得ません。であるなら,個物Aと個物Bは,確かにそれらが単独でみられる場合には,個物Aは個物Bの外部にあり,個物Bは個物Aの外部にあると把握することが可能かもしれませんが,それらが協同して個物Cを組織している場合には,個物Aも個物Bも,個物Cの内部にあるということはできるかもしれませんが,互いに互いの外部にあるということはできなくなります。そしてこの無限の極致に間接無限様態があるのですから,すべての個物は間接無限様態の内部にあるということはできても,ほかの個物の外部にあるということはできないことになります。
 一方,すべての個物は間接無限様態の内部にあるということはできたとしても,間接無限様態の外部に個物があるということはできません。これは無限連鎖の極致に間接無限様態があるということから明白です。したがって間接無限様態の外部には個物はありませんが,個物がないなら何もないのです。なぜならここでは間接無限様態が個物とみなされているからです。よって間接無限様態には外部はないのであり,内部もありません。内部は外部と対になっている概念notioであるからです。だからこの場合にも,内部と外部の区分は無効です。
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農林水産省賞典中山グランドジャンプ&部分

2019-04-13 19:00:29 | 中央競馬
 第21回中山グランドジャンプ
 最初のコーナーを回ってからミヤジタイガがハナへ。マイネルプロンプト,オジュウチョウサン,ニホンピロバロン,タイセイドリーム,シンキングダンサー,ラピッドシップとルペールノエルという隊列。ヤマニンシルフ,シゲルボスザル,トーアツキヒカリの3頭は前の8頭から離れて追走。最初の大障害に入るところでオジュウチョウサンが2番手になり,これをマークしてニホンピロバロンが3番手に。2回目の大障害に入るところではニホンピロバロンが2番手でオジュウチョウサンは3番手。大障害後のコーナーワークでまたオジュウチョウサンが単独の2番手に上がりました。
 最終周回の向正面に入るとマイネルプロンプトが動いていき,3番手がニホンピロバロン,シンキングダンサー,マイネルプロンプトの3頭で横並び。さらにタイセイドリームが上がっていくとオジュウチョウサンはミヤジタイガを抜いて先頭に。それにシンキングダンサー,タイセイドリームの3頭が雁行。最終コーナーでタイセイドリームは一杯となり,オジュウチョウサンとシンキングダンサーの優勝争い。直線に入るあたりでの手応えには差があり,前をいっていたオジュウチョウサンが徐々に差を広げて優勝。シンキングダンサーが2馬身半差で2着。7馬身差の3着はマイネルプロンプトで直線で外から一気に追い込んだラピッドシップがクビ差で4着。タイセイドリームがクビ差の5着。
 優勝したオジュウチョウサンは前走の阪神スプリングジャンプから連勝。重賞は11勝目。大レースは昨年の中山グランドジャンプ以来の6勝目。第18回,19回,20回に続く四連覇で中山グランドジャンプは4勝目。今回は陣営からかつてないほど強気な発言が出ていました。競馬の場合はどう乗っても勝てるということはあり得ず,自信過剰なら危ないところがあるのではないかと思っていたのですが,馬に対する絶大な信頼が表出していただけのようです。レースの前半から負かしに来た馬たちを次々に潰し,最後に追い掛けてきたシンキングダンサーを突き放したのは文句なしに強い内容。同一重賞四連覇だけでもそうですが,それが大レースということになるとこれは空前だけでなく絶後の記録となるかもしれません。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。ひとつ上の全兄に2013年にラジオNIKKEI賞に勝ったケイアイチョウサン
 騎乗した石神深一騎手は中山大障害以来の大レース7勝目。中山グランドジャンプは四連覇で4勝目。管理している和田正一郎調教師は昨年の中山グランドジャンプ以来の大レース6勝目。中山グランドジャンプは四連覇で4勝目。

 実体substantiaや属性attributumはそれ自身によって無限infinitumであるといわれます。これに対して無限様態modus infinitusはその原因causaによって無限であるといわれます。これは直接無限様態であろうと間接無限様態であろうと同様です。第一部定理一三系は,それ自体でみれば実体,やや広くとっても属性は分割できないといっているのですから,同じことを無限様態に適用するためには,もう少し丁寧な論証Demonstratioが必要でしょう。
                                   
 これには第一部定理一三備考を参照すれば事足りると僕は考えます。この備考Scholiumは確かに,実体について言及し,実体が部分に分割されるならその部分は有限なfinitum実体としか解せず,それは第一部定理八,すなわち実体は無限であるということに反してしまうといっています。しかし同じことは無限様態についても妥当します。今は間接無限様態だけが考察の対象ですからそちらだけに絞りますが,もしも間接無限様態が部分に分割できるなら,その部分は有限な間接無限様態であることになります。ですがその名称からも分かるように,また第一部定理二二からも分かるように,間接無限様態は無限です。よって実体を部分に分割することができないのと同じように,間接無限様態も部分に分割することはできないのです。なので間接無限様態を構成する無限に多くのinfinita個物res singularisを,間接無限様態の部分として把握するのは誤りです。少なくとも間接無限様態の何たるかを理解するという観点からは誤りなのです。ですから形而上学的な把握としては,間接無限様態を構成するとされる無限に多くの各々の個物は,その各々を内部と外部というように区分することが,形而上学的には不可能になっているのです。
 これはある個物をそれ単独で認識するcognoscereことはできないということを意味するものではありません。ただ第二部定義七の前提は,どのような個物であってもほかの個物と協同してより複雑な個物を構成する,あるいは構成し得るということになっているので,内部と外部という区分は無効であるというだけです。むしろ個物Aと個物Bを別個に認識するということはあるのであって,しかしそのうち一方が内部で一方が外部であるとか,双方が双方の外部にあると認識するなら,それは誤りなのです。
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叡王戦&分割

2019-04-12 19:17:56 | 将棋
 6日に台北で指された第4期叡王戦七番勝負第一局。対戦成績は高見泰地叡王が0勝,永瀬拓矢七段が3勝。
 事前の振駒で先手になり5時間の持ち時間を選択したのが永瀬七段。角換り早繰り銀を目指しました。後手の高見叡王は腰掛銀から早い段階で自陣に角を打ち,その角を攻めの主軸として8筋を詰めることに成功。先手は角を温存したまま後手の角を目標に攻める展開。やはり8筋の応接の方が大きく,後手が有利に進展していきました。
                                        
 後手が6五の歩を取り込んで先手が逃げずに取った局面。後手はその前に角を切って攻めていってるので,ここで決めてしまいたいところ。そのためには☖6四歩と打つのがよく,☗6六玉と逃げたとき☖6九飛と下から王手。☗6七歩と受けたときに☖5四桂と王手に打てば先手は☗同銀と取るほかなくそこで☖同歩と取っておけば先手は窮していました。
 実戦は☖6四銀と打ちました。これにも☗6六玉ですがこれは歩を打つのに比べて後手の持駒から銀が減っています。銀を打ったのは☖5五金と王手銀取りに打つ狙いでしたが☗5七王に☖4五金と取ったとき,☗3四角という王手金取りの返し技が発生。ここから☖4三歩☗4五角は必然でしょう。
                                        
 第2図は後手が寄せ損ねた形。なので☖5四銀と辛抱しておくのはあったかもしれません。後手は駒は不足していますが先手も後手玉をすぐに寄せるのは簡単ではないからです。
 実戦は☖5五飛の王手角取りから攻め続けましたが,これは詰めろが続かなくなり先手の勝ち筋に入りました。
 永瀬七段が先勝。第二局は明日です。

 間接無限様態といわれるのですから,それが無限infinitumであることは当たり前と思われるかもしれません。ですがここではそれが重要なのです。というのは,僕はあるものが無限であるなら,それは部分に分割することはできないと考えるからです。いい換えればそれはそのうちにあるものを内部と外部に区分することはできないということであり,X属性の無限に多くのinfinita個物res singularisによって構成されるのがX属性の間接無限様態であるなら,X属性の個物Aと個物Bは内部と外部に区分することができないということが直ちに結論できると僕は考えているのです。
 無限であるものを部分に分割することができないということは,スピノザ自身が是認することだと僕は考えます。スピノザは第一部定理一三で,絶対に無限な実体substantiaは分割されないといっています。このことは第一部定理一二を受けていわれていると解釈するべきなので,たとえば絶対に無限な実体,これはDeusのことですが,その神を属性attributumによって分割することはできないという意味である,あるいは少なくともそういう意味を含んでいると理解しなければなりません。つまり神は,たとえば延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumとに分割することはできないということがいわれているのだという解釈です。この場合には,無限であるものが分割されないということより,絶対に無限なものは分割されないという意味合いになるでしょう。
 ですが続く第一部定理一三系では,物体的実体substantia corporeaは実体である限り分割されないといわれています。物体的実体というのはスピノザの哲学においては延長の属性のことを指します。つまりここでは個別の属性,あるいはその属性によって本性essentiaを構成される個別の実体について言及され,それが分割不可能であるといわれているのです。そしてそれがなぜなのかといえば,第一部定理八によって,実体は無限であるからなのです。
 この論証Demonstratioが成立するためには,一般に無限であるものは分割不可能であるということが成立するのでなければなりません。だから実体や属性だけでなく間接無限様態の場合にも,それは無限である限りは適用されなければならないのです。よって間接無限様態は部分に分割できません。
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東京スプリント&個物と間接無限様態

2019-04-11 19:13:00 | 地方競馬
 昨晩の第30回東京スプリント
 飛び出したナチュラリーを制してヒロシゲゴールドの逃げ。その後ろでキャンドルグラス,キタサンミカヅキ,ゴーディー,アクティブミノル,ナチュラリーの5頭が一団。7番手にショコラブラン。8番手にテーオーヘリオス。9番手はコパノキッキング,アンサンブルライフ,ホウショウナウの3頭で集団。12番手にマッチレスヒーロー。13番手がマイネルルークスとサトノタイガー。15番手がジョーオリオンで最後尾にアシャカダイキという隊列。前半の600mは34秒7のハイペース。
 3コーナーではキタサンミカヅキが単独の2番手になり,3番手にショコラブランが上昇。この隊列のまま直線へ。ヒロシゲゴールドが懸命に逃げ込みを図りましたが,キタサンミカヅキが余裕をもって差し切り優勝。大外に回って鋭く追い込んだコパノキッキングが,残り100mを過ぎてからショコラブランを捕えるとフィニッシュ寸前でヒロシゲゴールドも差して1馬身差の2着。ヒロシゲゴールドがクビ差で3着。直線で前と同じ脚色になってしまったショコラブランはクビ差で4着。
                                   
 優勝したキタサンミカヅキ東京盃以来の勝利で重賞3勝目。このレースはコパノキッキング,ヒロシゲゴールド,キタサンミカヅキ,ホウショウナウの4頭のスピード能力が他を凌駕していて,4頭の争いになると見込んでいました。このうち,ヒロシゲゴールドは逃げ,コパノキッキングとホウショウナウは末脚勝負と,展開面に課題があるのに対し,キタサンミカヅキは好位で流れに乗れるタイプなので,最も崩れにくいのはこの馬と考えていました。逃げた馬と追い込んだ馬が僅差の2着争いをしたのですから,その分の有利さが出た一戦だったといえるでしょう。大井の1200mが最も能力を発揮できる舞台のようです。9歳ですがまだ走れることが証明されました。父はキングヘイロー。母の父はサクラバクシンオー。母の8つ上の半兄に1998年に埼玉新聞杯を勝ったキタサンシーズン
 騎乗した船橋の森泰斗騎手TCK女王杯以来の重賞3勝目。東京スプリントは初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は東京盃以来の重賞9勝目。東京スプリントは初勝利。

 無限に多くのinfinita個物res singularisによって構成されるのが無限様態modus infinitusであるということは,前に示した第二部自然学②補助定理七備考のスピノザのいい方からも確かであるように思われます。そこではスピノザは延長の属性Extensionis attributumの個物である物体corpusについてのみ言及し,無限に多くの個物が協同すると不変であるひとつの個体としての全自然になるという主旨のことをいっています。ここでいわれている不変の個体は,書簡六十四でいわれている無限の仕方で変化しながらも常に同一に止まる全宇宙の姿facies totius Universiと同じものだと解せます。よって書簡六十四により,それは延長の属性の間接無限様態です。スピノザは延長の属性についてのみ言及しているわけですが,このことは延長以外のすべての属性に該当しなければならないと僕は考えます。するとスピノザは,延長の属性については,無限に多くの物体すなわち個物の協同によって組織されているのが間接無限様態だといっているように解せるでしょう。
 これに基づいて,『個と無限』の第一章の「「エチカ」第一部の二つの因果性がめざすもの」では,間接無限様態は個物であると主張されています。そして『概念と個別性』ではこの主張が敷衍されています。いい換えればその主張に基づいて論述が展開されています。そしてこちらでは,間接無限様態が個物といわれる場合の個物は,個別的事物res singularisとしての個物ではなく,特殊的事物res particularisとしての個物であるとされています。しかし僕はこのような解釈は採用していません。現在の考察との関連だけでいえば,このことについてどの解釈を採用するかはあまり関係がありません。どちらにしても個物を内部と外部に区分することはできないということは帰結させられる筈だからです。ですが僕が間接無限様態を個物とはみなしていない点については,よく理解しておいてほしいのです。なので僕は,僕自身が採用する解釈を基に,個物を内部と外部に区分することができないということがどのように帰結するのかということにまずは的を絞って探求していきます。
 間接無限様態がいかにして発生するのかということは,第一部定理二二に示されています。僕が注目するのは,それが無限であるとされている点です。
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ブリリアントカップ&複合の無限連鎖の論証

2019-04-10 19:05:36 | 地方競馬
 昨晩の第2回ブリリアントカップ
 シュテルングランツとディアデルレイの2頭が先手を主張。発走後の正面で競り合った末,先手を奪ったのは外のディアデルレイ。3馬身差の2番手にシュテルングランツが控え,5馬身差でタービランスが単独の3番手。2馬身差で4番手はクリスタルシルバーとヒガシウィルウィン。6番手にキャプテンキング。7番手にヤマノファイト。8番手はサブノクロヒョウとハッピースプリント。10番手にウマノジョーとハセノパイロとムサシキングオーの3頭。13番手がサンドプラチナとサウンドトゥルーとモズライジンの3頭でこの12頭は一団。2馬身差の最後尾にコティニャック。最初の800mは50秒6のスローペース。
 3コーナーを前にシュテルングランツは脱落。クリスタルシルバーが2番手に上がり,その外にタービランス。この3頭はコーナーから雁行。この直後をキャプテンキングが追う形に。直線に入ると手応えのよかったタービランスが自然と先頭に立ちここから追い出されると,直後に上がっていたキャプテンキングが追ってきて2頭の優勝争い。フィニッシュ前に差し切ったキャプテンキングが優勝。タービランスがクビ差の2着。一杯にはなったもののクリスタルシルバーが3馬身半差で3着。
 優勝したキャプテンキングは前走のフジノウェーブ記念に続き南関東重賞3連勝となる4勝目。この距離でも南関東重賞を勝ってはいるものの,近走は距離を短くして復活していただけに,この距離延長は不安で僕は軽視していました。2着馬は僕が有力候補とみていた馬で,それをマークしてレースを進められた利があったのは確かですが,差し切るというのは距離を克服したからにほかなりません。この馬に対する見立ては変える必要がありそうです。このペースで抜け出しましたので,現状は上位2頭の力量が上とみてよいと思います。母の5つ上の全兄に2007年にアンタレスステークスとプロキオンステークス,2008年に根岸ステークスを勝ったワイルドワンダー
 騎乗した大井の坂井英光騎手はフジノウェーブ記念以来の南関東重賞17勝目。ブリリアントカップは初勝利。管理している大井の的場直之調教師は南関東重賞5勝目。ブリリアントカップは初勝利。

 それではスピノザの哲学が形而上学的に内部と外部の区分を認めないということ,とりわけある個物res singularisと別の個物も内部と外部に区分することができないということを,別の観点から説明します。これがこの部分の考察に関しては最後の説明になります。
                                   
 第二部定義七は,現実的に存在するどんな個物も,同じ属性attributumの別の個物と協同して,より大きなあるいはより複雑な個物を構成することを前提していなければ,実際には何も意味を有することができないということを僕はかつて示しました。そして実際にそういう意味を有していることは,旧版なら115ページ,新版なら139ページから始まっている,第二部自然学②補助定理七備考でスピノザがいっていることから裏付けることができます。第一部定理二八の無限連鎖に対比して,僕はこれを個物の複合の無限連鎖といっています。
 ですから個物Aと個物Bは,同じ属性のうちで別の個物として存在し得るということは肯定しなければなりませんが,しかし個物Aと個物Bは協同することによってより複雑な個物である個物Cを構成することになるのです。もちろんこれは,現実的に存在する個物が実際に協同するということを必ずしも意味するものではありませんが,論理的にはそうなっています。他面からいえばある個物と別の個物は,必ず協同する,あるいは正確性を欠くいい方ではありますが必ず協同できるのであって,その場合にはある個物と別の個物を各々の内部と外部とに区分することはできません。このことがどのような個物,この場合でいうなら個物Aと個物Bの協同によって構成された個物Cの場合にも該当することになるのですから,結局のところはあらゆる個物がほかの個物に対してその内部にあるわけではないし,かといって外部にあるというわけでもないということになります。よってある個物と別の個物との間に,内部と外部という区分はないのであって,あらゆる個物,つまり無限に多くのinfinita個物が協同してひとつの様態modiを構成するのです。
 ただし,ここでは次のことに注意しておいてください。論理的にいえば,無限に多くの個物によって組織される個物は無限様態modus infinitusであることになります。
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将棋大賞&神学と集合論

2019-04-09 19:36:05 | 将棋トピック
 2018年度の将棋大賞は1日に発表されました。
 最優秀棋士賞は豊島将之二冠。棋聖挑戦,奪取。王位挑戦,奪取。A級順位戦優勝。もとより力がある棋士ということは分かっていましたが,昨年度は飛躍の一年となりました。2017年度の敢闘賞で最優秀棋士賞は初受賞。
                                        
 優秀棋士賞は渡辺明二冠。王将挑戦,奪取。棋王防衛。記録部門の連勝賞も受賞。勝ちまくった棋士のひとりで,最優秀棋士賞でもおかしくないところでした。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度,2015年度に続き3年ぶり6度目の優秀棋士賞。
 敢闘賞は広瀬章人竜王。竜王挑戦,奪取。棋王挑戦。記録部門の最多対局賞も受賞。こちらも勝ちまくりましたが,今年に入ってやや失速。棋王戦は優秀棋士賞の争いでもあったことになります。2010年度以来8年ぶり2度目の敢闘賞。
 新人賞は大橋貴洸四段。YAMADAチャレンジ杯優勝。加古川青流戦優勝。新人王戦を優勝した藤井聡太七段が,昨年度の新人賞ということでこちらに回ってきました。初受賞。
 その他の記録部門では,最多勝利賞が佐々木大地五段。勝率1位賞が藤井聡太七段でした。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王将防衛。女流王座防衛。倉敷藤花防衛。女流名人防衛。マイナビ女子オープン挑戦。これは当然。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度に続き4年連続9度目の受賞。
 優秀女流棋士賞は渡部愛女流王位。女流王位奪取(挑戦決定は2017年度内)。第一人者からタイトルを奪取したのですからこちらも当然でしょう。日本将棋連盟主催の賞ですが,所属団体は無関係のようです。初受賞。女流王位戦五番勝負は4局全体で女流名局賞に選出されました。
 記録部門の女流最多対局賞は伊藤沙恵女流二段。
 升田幸三賞は竜王戦5組決勝で藤井聡太七段が76手目に指した☖7七同飛成。これは凄い一手ですが,この手があることを読んで68手目に☖6三同金と取っていたことに驚愕します。
 角換りおよび一手損角換りの研究により,丸山忠久九段に升田幸三特別賞が贈られています。
 名局賞は名人戦第一局。横歩取りから互いに一歩も引かない激しい攻め合いになった将棋でした。
 名局賞特別賞は女流名人戦リーグ4回戦の渡部‐上田戦。これは対抗形の相穴熊の将棋で204手の熱戦。駒柱が何度も出現し,投了図も8筋に駒柱が立っている局面でした。

 キリスト教神学のDeusが超越論的な神であるなら,神学は集合論を支える形而上学になり得ると僕は予想します。もちろん僕は,外延と内包というのが集合論においてどういった概念notioであるのかが分からないということは何度もいっている通りですが,上野のいい方はスピノザは内包を認めないというもので,これは外延なら認めると受け取ることができることは説明しました。よってこの説明は,集合論における外延の形而上学的位置は,スピノザの哲学における神に該当するというように僕は読解するのです。僕自身は,スピノザの形而上学は,外部と内部という区分自体を認めないというものだと考えますから,もし上野がいっていることが僕の読解の通りであるなら,この考え方には同調はしません。ですがもし外延を神学における神であると解するなら,外延の形而上学的位置が,神学における神の形而上学的位置に一致すると思います。そして上野の説明の仕方からは,そうである可能性が高いだろうと思うのです。なのでたぶん集合論というのは,神学と一致する形而上学的背景を有する論理なのではないでしょうか。
 よってスピノザの形而上学が集合論を支えることはあり得ないということはここからも出てくるのですが,同じような意味では,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの形而上学も同様なのだろうと僕は思うのです。確かにニーチェの哲学というのは,スピノザの哲学ほど徹底した内在の哲学であるわけではなく,むしろ超越論的な要素を有しているといえるでしょう。ですがこの超越論的背景が,集合論の本性essentiaに属する部分と形而上学的に一致する背景である可能性は,低いのではないかと僕は思います。
 ただしこれは,僕が集合論における外延の形而上学的な位置を,上野の発言から類推する限りで神の形而上学的位置としているから出てくる見解opinioです。実際にはそうでない場合というのもあり得るということは僕も否定することはできません。少なくともスピノザの哲学が集合論を肯定する形而上学を有することはありませんが,たとえば外延と内包の関係が,ニーチェのいう意志voluntasと観念ideaの関係に類するのであれば,ニーチェの形而上学が集合論を肯定することはあり得ます。
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大楠賞争奪戦&神学の超越論

2019-04-08 19:07:40 | 競輪
 昨日の武雄記念の決勝。並びは松坂‐中村の南関東,松浦‐小倉の中国四国,山崎‐荒井の九州で,平原と小川と野田が単騎。
 山崎がスタートを取って前受け。3番手に松浦,5番手に松坂,7番手に平原,8番手に野田,最後尾に小川で周回。残り2周のホームから松坂が上昇開始。平原と野田が続き,バックの入口で4人で山崎を叩きました。このまま打鐘になり,5番手に山崎,7番手に松浦,最後尾に小川の一列棒状に。ホームに入って山崎が発進。一気に松坂を叩きました。松浦はこのラインに続きましたが,小倉が徐々に離れていき,バックでは3人で後ろを離す展開に。直線から踏み込んでいった荒井がぎりぎりで粘って優勝。マークの形になった松浦が8分の1車輪差で2着。中村の後ろからバックで動いていった平原がよく追い込んだものの4分の1車輪差の3着まで。
 優勝した佐賀の荒井崇博選手は昨年8月のアーバンナイトカーニバル以来の優勝でGⅢ15勝目。記念競輪は2016年10月の千葉記念以来となる14勝目。武雄記念は2008年,2010年,2014年と優勝していて5年ぶりの4勝目。このレースは現状の力からすると山崎に普通に駆けられると荒井が抜くのは難しく,かといって山崎が荒井を引き出す駆け方をすればいい位置から捲ってくる平原が届きそうに思えたので,荒井の優勝は難しいのではないかと考えていました。実際に平原はかなり離れた位置からの捲りで僅差に追い込んでいますから,もっと巧みに位置を取っていれば勝てていたのではないかと思います。南関東を追走するようなレースをしたのが失敗だったといえるでしょう。逆に九州勢を追った松浦には絶好だった筈で,チャンスを逸してしまったという感が否めません。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学は超越論哲学として説明されることがあります。たとえばニーチェが「神は死んだ」というとき,スピノザが定義する神Deusも死んだということを意味していると僕は考えますので,ニーチェを超越論哲学者と規定することが誤りであるとは僕も思いません。ですが,普通に考えればそこで「死んだ」とされているのはキリスト教の神です。そしてキリスト教の神は超越的な存在です。
                                   
 キリスト教の文脈での神による天地の創造というのを,無から有を産出するというように解するにせよ,カオスをコスモスに秩序立てるというように解するにせよ,このときに神が超越的な立場で天地を創造していることに変わりはありません。いい換えればキリスト教における神は,天地あるいは天地のうちにある万物に対しては内在的原因causa immanensではなく超越的原因causa transiensです。つまり第一部定理一八は,キリスト教が規定する神を否定するという意味をもっています。いい換えればその限りにおいてはスピノザもまた「神は死んだ」といっているのです。当然ながらこの点だけに限定していえば,ニーチェもそれに同意はするでしょう。もちろんそのとき,ニーチェは神が内在的原因であるということも同時に否定するのですが,少なくとも超越的原因である限りの神を否定するという点ではスピノザと同じ立場に立つのであり,よってニーチェの哲学というのは,超越論哲学ではないという見方にも一理はあります。少なくとも神と万物の関係を,能産的自然Natura Naturansと所産的自然Natura Naturataと把握した場合に,能産的自然が超越的原因として所産的自然を産出するというのでなければ,キリスト教を支える形而上学は成り立たないといえるでしょう。このことをニーチェが否定するのも間違いないのです。
 ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは,スピノザの哲学の論理は完全なものであって,それを論理的に否定することはできないと判断しました。ですが同時にヤコービはキリスト教の信者であり,神学の見解は守らなければならなかったので,スピノザの哲学については超論理で否定することになったのです。ここにはヤコービの超越論があるわけですが,それは同時に神学が超越論に支えられていることのひとつの証でもあるのです。
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桜花賞&ニーチェの超越論

2019-04-07 19:27:57 | 中央競馬
 第79回桜花賞
 一旦は前に出たメイショウケイメイを外から抜いていったプールヴィルの逃げに。控えたメイショウケイメイがジュランビルと並んで2番手。4番手にホウオウカトリーヌとグランアレグリア。6番手にクロノジェネシス,アクアミラビリス,ダノンファンタジーの3頭。9番手にノーブルスコア,ノーワン,ビーチサンバの3頭。12番手がルガールカルムとアウィルアウェイ。14番手にエールヴォアとシゲルピンクダイヤ。16番手がシェーングランツとレッドアステル。17頭は一団で,2馬身離れた最後尾にフィリアプーラ。前半の800mは47秒7の超スローペース。
 3コーナーを回ってからグランアレグリアが外から進出。直線の入口では逃げるプールヴィルまで捲り切って先頭。ダノンファンタジーはこの後から追い出されました。その時点での手応えは悪くなかったのですが,道中でかなり行きたがっていた影響から鋭くは伸びることができず,逃げるプールヴィルを捕まえるのにもてこずりました。その間にグランアレグリアが差を広げてセーフティリード。そのまま差を詰められることなく快勝。後方から馬群を捌き,ダノンファンタジーの内から伸びてきたシゲルピンクダイヤが2馬身半差で2着。大外から追い込んだクロノジェネシスがクビ差の3着でダノンファンタジーはハナ差で4着。ダノンファンタジーとクロノジェネシスの間から差してきたビーチサンバがクビ差の5着。
 優勝したグランアレグリアはサウジアラビアロイヤルカップ以来の重賞2勝目で大レース初制覇。ここはダノンファンタジーが1番人気でしたが,新馬ではこちらが勝っているように能力は上。久々の実戦よりも,折り合いを心配していましたが,それをクリアすればこちらが勝つだろうと思っていました。早めに進出したので不安がよぎりましたが,あれでよかったようです。騎手が正しく判断したということでしょう。能力はかなり高いですが,自分との戦いという課題を抱えたままだと思いますので,絶対視するのは禁物のように思います。父はディープインパクト。Gran Alegriaはスペイン語で大きな喜び。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はドバイターフに続いて2週連続の大レース制覇。国内ではジャパンカップ以来。第78回に続く桜花賞連覇での2勝目。管理している藤沢和雄調教師は天皇賞(秋)以来の大レース制覇。第64回以来15年ぶりの桜花賞2勝目。

 第二部定理四九および第二部定理四九系から明瞭なように,スピノザは観念ideaから独立した意志作用volitioというのを認めません。したがって観念の集積である知性intellectusから独立した,意志作用の集積である意志voluntasも認めないのです。もっともこれは,意志作用から独立した観念,他面からいえば一切の意志作用を含んでいないような観念があるということも認めないということでもあります。これについては第二部公理三が,本来はどのような意味を有していなければならないのかということとしても説明したことがあります。いずれにせよ観念と意志作用は一体化したものであり,一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えるconcipereこともできないような関係にあります。別の面からいえば,観念がある思惟の様態cogitandi modiの形相formaであるとすれば,意志作用とはある思惟の様態の力potentiaなのであり,形相なき力というものがあり得ないのは当然であるとしても,力なき形相というのもあり得ない,これは実在し得ないといった方がより的確かもしれませんが,あり得ないというようにスピノザは考えているのです。僕はこの考え方に同意します。
 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの場合にはこれとは違って,観念から独立した意志について,そういう思惟の様態が存在するということについては肯定的です。これは僕が同意するといったスピノザの考え方からみるならば,観念を超越した意志作用を肯定するという意味なのであって,この点においてニーチェの形而上学はスピノザの形而上学より超越論的であると解さなければならないと僕は考えます。しかるにスピノザが第一部定理一八で,Deusが万物の内在的原因causa immanensであるというと同時に万物の超越的原因causa transiensではないといっていることから窺えるように,一般に内在の哲学に対立的な哲学は超越論的哲学なのです。したがって,スピノザのような内在の哲学が,集合論の形而上学的要素を容認し得ないのであるとすれば,それを背後から支える形而上学は,超越論的哲学の形而上学になる可能性が高いのではないかと僕は推測しています。集合論自体を僕は十全に把握できていませんから,断定はできないのですが,上述したことからして可能性としてとても高そうなのです。
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ドンカスターマイル&ニーチェの形而上学

2019-04-06 19:10:31 | 海外競馬
 オーストラリアのランドウィック競馬場で行われたドンカスターマイルGⅠ芝1600m。
 クルーガーは発馬はあまりよくありませんでした。ただこのレースは20頭が出走し,4番というわりと内目の枠を引けていたこともあり,8番手くらいの位置を確保。向正面から3コーナーにかけて外から上昇していく馬もいましたが,そこではじっと待機。位置取りは一時的に下がりましたが,3コーナーを回ってから追い上げを開始。直線に入って残り400mのあたりで前をいく馬たちの後ろの集団の真只中に。ここから行き場がなかったようでかなり内に切れ込む形になり,進路を確保してから伸びてきましたが,勝ち馬から概ね2馬身4分の3差の4着でした。
 この馬は芝1600mの重賞をひとつ勝ってはいますが最近の成績は頭打ちで,ここ2戦はダートに出走していました。僕は2着馬は軽視していましたが1着馬と3着馬は優勝候補とみていましたので,そういう馬たちとこの着差なら,近況から考えても健闘したといってよいのではないでしょうか。直線で行き場がなくなったのは残念ですが,騎手はうまく乗ったと思います。たぶん日本の馬場よりこの馬には適してもいるのでしょう。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは『偶像の黄昏』の「四つの大きな錯誤」という章の第八節で,自分の存在がもっている宿命性は,過去に存在しまた未来に存在することになるすべてのものの宿命性から,ひとつだけ切り離して取り出すことができないものであるという意味のことをいっています。そしてまた,ひとりの人間というものは必然であり,一片の運命にすぎず,全体に属しかつ全体の中にあるものであるという意味のこともいっています。
                                        
 ニーチェはここでは人間についてのみ語ることを意図しています。しかしこれがニーチェが人間というものを語るときの形而上学的背景であるとしたら,このことはとくに人間に限らず,少なくとも物体corpusといわれるもののすべてに該当しなければならないだろうと僕は考えます。するとその考え方は,第一部定理二八でスピノザがいっていることととても近いように僕には思えます。第一部定理二八の方はおおよそ個物res singularisといわれるすべてのもの,すなわちスピノザの場合は無限に多くの属性attributumの存在を認めるのですから,それら無限に多くの属性の各々に無限に多くの個物が存在するということも同時に認めていることになり,それらすべての個物にこの定理Propositioが妥当すると理解しなければなりません。一方でニーチェの場合は,人間ということで人間の身体corpusだけを意味しているように僕には思われ,人間の精神mensというのは考慮の外に置かれているように思われますので,スピノザの哲学でいえば延長の属性Extensionis attributumに属するものについてのみ妥当するようなテーゼが語られていると理解しておくのが安全であると僕は思います。ですが少なくとも物体という延長の属性の個物についてなら,ある個物は物体の世界全体から切断して理解できるものではないし,またある物体とほかの物体を切り離して概念するconcipereことができるものでもないという点では一致しているといっていいでしょう。そしてたぶん,このニーチェのいい方の方が,ある個物と別の個物とを,内部と外部に区分することは,形而上学的には不可能なのであるということは,理解しやすいのではないかと思います。
 ただしニーチェはスピノザには否定的な見解も持っていますから,そこは注意を要します。
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チルンハウスの誤解⑦&原因の無限連鎖による論証

2019-04-05 19:18:47 | 哲学
 チルンハウスの誤解⑥でいったようなことが書簡六十四の主旨に含まれていたとして,その主旨の通りにチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが理解したと仮定します。この誤解についてはチルンハウスは重ねて質問をしていないので,そういう可能性もあったように僕には思えます。ではその場合に,実際にどのようなことが起こったのかを最後に検証しておきましょう。
                                        
 チルンハウスはそもそも,で示した立論のうちⅢの部分は誤りでなければならないと考えていたと僕は想定します。つまりチルンハウスは,神Deusの知性intellectusが人間の知性の原因causaでなければならないのに,スピノザの主張では神の知性が人間の知性の原因であることができなくなってしまい,それはおかしいのではないかと指摘したのだと僕は思います。
 もしもこのとき,チルンハウスが神の知性を思惟の属性Cogitationis attributumと混同していたなら,スピノザの哲学では神の知性は人間の知性の原因ではありませんが,思惟の属性は人間の知性の原因なので,スピノザの解答には満足したでしょう。ですが神の知性と思惟の属性との混同はそのまま続いた筈なので,当初の誤解とは異なった種類の誤解が続いたということになります。
 一方,この混同は,スピノザが予想した混同であることは間違いないと思いますが,チルンハウスが実際にしていたかどうかは不明確な面があります。その場合にはチルンハウスは書簡の内容を,神の知性が人間の知性の原因であるという解答であると理解したでしょう。で示したようにそれは誤りなので,この誤解がチルンハウスのうちで続いただろうと僕は思います。
 つまり,チルンハウスはいずれにせよスピノザの解答には満足しただろうけれども,すべての誤解が解消されるには至らなかったと僕は考えています。

 それでは内部と外部の区分の考察に戻ります。
 この区分を形而上学的な意味で否定するのは,スピノザの哲学では第一部定理二五系です。ただ,同じことを現実的に存在する個物res singularisまで視野に入れて論証する場合には,これから示す二点を援用する方が容易に理解できるのではないかと思います。
 スピノザは第一部定理二八で,個物が存在existentiaと作用に決定される原因causaは,その個物と別の個物であり,その別の個物が存在と作用とに決定される原因はまたそれとは別の個物であるという具合に,個物の存在と作用の決定の原因は無限に進むのだといっています。これは,神Deusが個物の最近原因causa proximaであるとはどういうことかを示すことを主眼とした定理Propositioであって,よってその意味は,ある個物を存在と作用に決定するのは,それとは別の個物という様態的変状modificatioに様態化した神であるということになります。いい換えれば,個物を存在と作用に決定する原因を特定するために,それとは別の個物,その原因である個物というように,原因を無限に渡って特定していく必要はないのです。
 ですが一方で,個物を個物だけとしてみるなら,確かにそれを存在と作用に決定する原因というのは無限に進んでいくのであり,したがってそこには無限に多くの個物が登場してくることになります。いい換えれば無限に多くの個物が,この原因と結果の無限連鎖によって繋がっているのであり,そこにおいてはある個物と別の個物との間に外部と内部という区分を設けることはできません。ただ無限に多くの個物が無限に連鎖しているだけです。このために,ある個物と別の個物は,一方が内部で他方が外部であるという関係を形作ることはできないのです。なので個物はこの無限連鎖のうちにあり,かつこのことがすべての個物に妥当するので,現実的には因果関係をそれ自体では有さないような個物Aと個物Bも,内部と外部に区分することができません。個物Aと個物Bには直接的な因果関係がなかったとしても,個物Aが存在と作用に決定される原因は無限に進み,個物Bが存在と作用に決定される原因も無限に進むのですから,各々が無限に進んでいくうちにどこかで因果関係が必ず生じるからです。
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小鹿の雑感⑩&主体の問題

2019-04-04 19:05:00 | NOAH
 小鹿の雑感⑨の話題の後で,3人は全日本プロレスで最もよかった時代について回顧しています。
 グレート・小鹿があげているのは,新日本プロレスで初代タイガーマスクがデビューした頃で,僕のプロレスキャリアが始まる少し前の時代です。これは黒い呪術師が新日本プロレスに引き抜かれた頃で,この年の終りに不沈艦が全日本に移籍。ハンセンの乱入は僕はテレビで視ているわけですから,僕のプロレスキャリアの初期の頃も含んでいるといっていいでしょう。小鹿によればこの頃の馬場は新日本に追いつきたかったのだけれども追いつけず,何とかして追いつくために選手も営業も一致団結していたと言っていて,それがいい時代だったという認識の理由になっています。小鹿は後に大日本プロレスを設立していることもあり,経営者としての目線も入っているように僕には感じられました。また,この発言は裏を返せば,一致団結していなかった時代があったとも読めます。小鹿はそれは示していないのでこれ以前か以後かは分かりませんが,ばらばらだった時代もあったと小鹿は思っているのだろうと僕は推測します。
 ザ・グレート・カブキ天龍源一郎阿修羅・原が組んでいた頃をあげています。カブキはリング上ではふたりとは敵対関係でしたが,試合をやっていて最も楽しい時期だったと言っています。カブキがやりたかったプロレスは,天龍や原と正面からぶつかり合っていた時代のプロレスだったということが分かります。
 天龍は入団した頃が最も楽しかったと言っていて,これは最も夢があったからだそうです。ということは天龍のプロレス人生は,大きな夢から始まって,それが現実によって徐々に失われていくようなものであったのでしょう。後の天龍の試合スタイルは,夢破れていったがゆえのものであったのかもしれません。
 3人とも,僕が最良の時代としている全日本プロレスでは仕事をしていません。カブキは自身があげた時代は客が入ったと言っていて,それは嘘ではありませんが,客が最も集まったのは最良の時代の方でしょう。
 話はまだ続いているのですが,小鹿の雑感についてはこれで終了とします。

 愛する主体思惟の主体も,スピノザの哲学においては,僕たちが一般に主体subjectumといって思い浮かべる概念notioとはだいぶ様相を異にしたものになっているということは以前に検証しました。僕が主体の排除というのはこのような意味での主体は排除されているということです。では一般に思い浮かべられるような主体とはどんなものかといえば,その典型は「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」というテーゼで示されている,デカルトRené Descartesの哲学に示された主体です。近代の科学が,このような主体の概念とともに発展してきたことは疑い得ません。
                                        
 実はこの主体というのが,この本の主要なテーマのひとつになっています。もっともそれは,本の題名が『主体の論理・概念の倫理』であることからも明白だといえるでしょう。つまりこの本が研究の対象としている時代のフランスでは,このデカルト的な主体に対する懐疑が主流だったのです。これは扱われている学問がどんなものであろうと一貫しています。たとえば数学における認識cognitioはどのように個別の人間に生じ,またその認識の主体をどのように把握するべきなのかということとか,精神分析学が分析の対象とする主体をどのように把握するべきなのかといった諸々の問題です。このとき,デカルト的主体を否定する可能性として,スピノザ的主体があったというのが研究の骨子で,だからこの時代のフランスの科学認識論は,スピノザの哲学と強く結びついていたのだという仮説が立てられ,それが各々の場合に応じて検証されていくのです。
 これはこれでとても重要かつ興味深いテーマではあるのですが,現在の考察からは大きく逸れてしまいますから,ここではこれくらいにしておきます。ただ,主体という概念が,数学においても問題の対象となっていたということはここでの考察とも関連は有するでしょう。数学的真理は真理veritasの一種です。そしてスピノザの哲学では真理とは真の観念idea veraの集積です。さらに第二部定理三二により,観念は神と関連する限りでは真ideae, quatenus ad Deum referuntur, veraeです。よってある人間のうちにある真の観念は,神のうちにある観念に同一です。これは認識するのがだれであっても同じなのです。つまり主体がどの人間かは問われないのです。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&神と内部

2019-04-03 20:46:53 | 地方競馬
 第22回クラウンカップ。左海誠二騎手が今日の1レースの本馬場入場のときに落馬し右の足首を負傷したためホールドユアハンドはJRAの戸崎騎手に変更。
                                     
 ダンサーバローズが鞭を入れられましたがハナを奪いきるには至らず,ホールドユアハンドの逃げに。ダンサーバローズがカシノビートと並んで2番手。4番手にサクセッサーで5番手にフォルベルス。6番手を併走したグラビテーションとマイティウォーリアの7頭は集団。3馬身差でブラックプリンスで9番手併走のアギトとサーブルグロワールの3頭は一団。2馬身差でマムティキングとトーセンアイアン。3馬身差の最後尾にトドビエン。前半の800mは50秒8のミドルペース。
 3コーナーを回ると外にもち出したサクセッサーが進出開始。ダンサーバローズはコーナーでついていかれなくなり,ホールドユアハンド,カシノビート,サクセッサーの3頭と差が開きました。カシノビートも直線の入口付近で一杯。ここから逃げるホールドユアハンドと追うサクセッサーの競り合いがフィニッシュまで続きました。一旦はサクセッサーが前に出たように見えますが,フィニッシュ直前でまた一伸びしたホールドユアハンドが差し返す形で優勝。サクセッサーがクビ差で2着。馬群の中から伸びてきたマムティキングが一旦は3番手に上がりましたが,それを大外から差したアギトが2馬身半差で3着。マムティキングがアタマ差の4着。
 優勝したホールドユアハンドはJRAデビュー。新馬を勝った後は3戦したものの大敗続きで昨年11月に浦和へ転入。転入初戦を勝った後,兵庫ジュニアグランプリは大敗でしたが条件戦を連勝。前走の京浜盃は大敗でしたが,ここはメンバーのレベルがさほどではないので,優勝候補の1頭と考えていました。今日の2着馬は2月に連勝したときにいずれも2着だった馬で,2戦とも圧倒していたのですが今日は差を詰められました。これは2着馬に上積みがあったからかもしれませんし,こちらがそのときほどの力を出せなかったからかもしれません。一定の能力はありますが,クラシックを勝つということになると現時点では疑問を感じます。父はエスポワールシチー。ひとつ上の半兄が昨年のクラウンカップを勝った現役のスプリングマンで兄弟制覇。
 騎乗したJRAの戸崎圭太騎手は南関東重賞は2014年の報知グランプリカップ以来の制覇。クラウンカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師第20回,21回に続く三連覇でクラウンカップ3勝目。南関東重賞は35勝目。

 同じ属性attributumの様態modiである限り,それらは内部と外部に実在的には区分されないというのは,いくつかの観点から説明することができます。
 まず第一部定理二五系です。今は特殊的事物res particularisと個別的事物res singularisの相違は気にしなくても大丈夫です。この系Corollariumによれば,個物Res particularesは神の属性Dei attributorumを一定の仕方で表現する様態modo exprimunturです。この系は個物ということで特殊的事物を示していますが,個別的事物が特殊的事物であるという点に異論は出ない筈なので,僕は個別的事物の場合で考えます。
 この系は,このことを神のある属性を表現する個物の側からいったものです。そういう目的を有した系だからです。ですがこのことは,この系で表現されるといわれている神の側からみることもできます。その場合は,個物はその個物という様態的変状modificatioに様態化した神あるいは神のある属性であるということになります。そしてこのようにみれば,これを全体のうちの部分として,いい換えれば外部と内部を分割するものとして抽出することが困難であることが理解できる筈です。というのもある個物をひとつだけ抽出したとして,それはその個物という様態的変状に様態化した神あるいはその属性そのものなのですから,それは神の内部にあるというより神そのものであるからです。そしてこのことが存在するすべての個物に妥当するのですから,ある個物もそれとは別の個物も神そのものなのであって,神の内部であるとはいえません。結果的にある個物と別の個物も,各々の外部にあるのではなく,むしろ各々が神そのものとしてあるといわなければならないことになります。よって同じ属性の様態である個物Aと個物Bを抽出した場合に,個物Bは個物Aの外部にあるとか,個物Aは個物Bの外部にあるといういい方は,個物Aや個物Bについて単独で考える場合には有効な方法ではありますが,形而上学的には不正確な把握であるということになるのです。
 このことは,スピノザの哲学において主体subjectumが排除されるということと関係します。スピノザの哲学における主体の排除は,いろいろな側面からいえるのですが,そのうちのひとつは万物が様態的変状に様態化した神であるということに端を発するからです。
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小倉濱田翁カップ&実在的な区分

2019-04-02 19:06:25 | 競輪
 一昨日の第1回小倉濱田翁カップの決勝。並びは田中‐小林の東日本,南‐村上の近畿,取鳥‐工藤の岡山,中川‐園田の九州で吉田が単騎。
 中川がスタートを取って前受け。3番手に田中,5番手に南,7番手に取鳥,最後尾に吉田で周回。残り2周のホームの入口から取鳥が上昇。まず南の外を併走。バックに入ってから中川を叩いて打鐘。このラインに田中が続き,中川も引かなかったので3番手が併走となり,中川はホームでインに詰まる形。ここから南が発進すると,隊列が短くなっていたこともあり,バックの入口では取鳥を叩ききりました。あとはマークの村上と直線勝負。バックで瞬間的に村上が追走に苦しんだところがあり,それが最後に影響したか粘りきった南が優勝。マークの村上が半車輪差の2着で近畿のワンツー。このラインにスイッチする形となった吉田が4分の3車輪差で3着。
 優勝した和歌山の南潤選手は前々回に出走した宇都宮のFⅠ以来の優勝。GⅢは昨年4月の函館のナイター競輪20周年記念以来の2勝目。前回のときは出走メンバーのレベルがさほどではなかったのですが,今回は中川がいました。ただ,明らかに組み立て失敗というレースになってしまい不発。こうなれば脚力的に南の出番で,村上との直線勝負になりました。差させなかったのは直線の長さもありますが,地力があることの証明ともいえます。通常の記念競輪を制覇するのもそう遠くない将来のように思えます。

 外部と内部の区分を無効とする考え方がどのようなものであるかということを,スピノザの哲学においてもう少し具体的に考察しておきます。
                                   
 スピノザは個物res singularisなるものが実在するということは肯定します。そしてそれは第一部定理一五により,神のうちにあるin Deo estわけです。このとき,個物は神の内部に存在すると解することは可能であるように思われます。そして個物というのが無限に多く存在することもスピノザは肯定します。そこで個物Aと個物Bのふたつを抽出すると,個物Aも個物Bも神のうちにあるという点では同じですが,個物Aからみれば個物Bは個物A自身の外部にあり,個物Bからみると個物Aは個物B自身の外部にあると解することも可能であると思われます。
 これはこのように解しても構いません。というのも内部と外部の区分を否定するというのは,たとえば神の内部と神の外部という区分を否定するということなのであって,神の内部と神の内部にあるものの外部を否定するということとは異なるからです。ただしこのように解すると,神の内部にある個物Aからみると,神自身も個物Aの外部にあるかのように把握されるおそれがあり,その点には注意しなければなりません。実際にはどのような個物にとっても神は個物自身の外部ではないのです。第一部定理一八でいわれている内在的原因causa immanensとしての神には,そのような意味があると考えなければならないからです。よって個物Aも個物Bも同じように神を内在的原因として存在する個物なのですから,本来的な意味においては個物Bは個物Aの外部にあるのではないし,個物Aも個物Bの外部にあるというわけではないのです。いい換えれば,個物A自身の内部と外部という区分も,個物B自身の内部と外部という区分も,考察の便宜のために概念notioの上で,あるいは理性的に区分はされても,実在的な意味では区分されていない,少なくとも個物Aと個物Bが同一の属性attributumの様態modusである限り,内部と外部には区分されないと考えておく方が僕は安全であると考えます。もっと一般的にいうなら,同じ属性のどんな個物も,それ以外の個物との間で外部と内部に区分されないと考える方がよいということです。
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大阪杯&無効な区分

2019-04-01 19:15:43 | 中央競馬
 昨日の第63回大阪杯
 昨秋の一連のレース内容からキセキの逃げを予想していましたが発馬が少しだけ悪く,いち早く先頭に立っていたエポカドーロの逃げに。2番手がキセキ。3番手はアルアインとステルヴィオとスティッフェリオ。6番手にダンビュライト。7番手にワグネリアンとエアウィンザー。9番手がペルシアンナイト。10番手はステイフーリッシュ。11番手にムイトオブリガードとブラストワンピース。最後尾をマカヒキとサングレーザーで併走。前半の1000mが61秒3のスローペース。
 このペースのわりに動きが少なく,エポカドーロとキセキが3コーナーを過ぎると並ぶような形になって直線に。ここでキセキが外に進路を取ったため内が開き,エポカドーロとの間のエアウィンザーとさらにその内からアルアインが伸びてきました。エアウィンザーはすぐに止まりましたが,アルアインは内からキセキを抜いて優勝。キセキがクビ差で2着。最内から脚を伸ばしたワグネリアンがクビ差で3着。
 優勝したアルアインは一昨年の皐月賞以来の勝利で大レース2勝目。それ以降は勝つことができていなかったのですが,大きく負けたのは距離が長く馬場も極度に悪化した菊花賞だけで,それ以外は堅実に走っていました。僕は脚質と距離適性を能力に加味すれば,キセキが最有力候補で,負かし得る馬としてはアルアイン,エポカドーロ,サングレーザー,ペルシアンナイトの4頭と考えていましたので,ちょっと人気を落とし過ぎていたような気がします。大敗したレースに明確な敗因があるのですから,そうならない限りは今後も堅実に走ってくるでしょう。父はディープインパクト。Al AinはUAEにある世界遺産。アラビア語で泉。
 騎乗した北村友一騎手は全日本2歳優駿以来の大レース2勝目。管理している池江泰寿調教師は一昨年のマイルチャンピオンシップ以来の大レース制覇で大レース21勝目。第53回,57回に続き6年ぶりの大阪杯3勝目。

 スピノザの哲学ではDeusの内部だけがあって神の外部は存在しない,と説明すれば,その説明で何がいわれているのかは理解できるのだろうと思います。そしてそれがなぜ理解可能であるのかといえば,僕たちが一般的な概念notioとして内部と外部を理解しているからです。しかし,もし僕たちが内部という概念を有していなかったなら,外部という概念を有することはできないでしょう。同様に,外部という概念を有していなかったなら内部という概念を有することもできない筈なのです。つまり外部と内部はふたつでセットとなる概念であって,内部という概念を有している人は必ず外部という概念を有しているのだし,内部という概念を有している人は必ず外部という概念も有している筈だと僕は考えます。
                                     
 したがって,すべてのものは神のうちにあり,神は万物の内在的原因causa immanensであるというスピノザの主張は,神の内部だけがあって神の外部は存在しないというように理解しない方がいいと僕は考えます。むしろ,神の外部は存在しないけれども神の内部というのも存在するわけではない,概念としてはともかく実在としては存在しないと解するべきだし,そのように解する方がこの考え方,いい換えれば内在の哲学をより正確に把握できるのだと僕は考えるのです。では内在の哲学はこういうことで何を主張しているのかといえば,内部もないし外部もない,いい換えるなら,外部と内部という区分自体を認めないといっているのです。内部だけがあって外部はないのではありません。外部と内部という区分自体が無効なのです。
 ですから僕は,上野の発言から窺えるように,集合論における外延をスピノザは認めるけれども内包は認めないというのではなく,外延と内包という区分自体を形而上学的にスピノザは容認しないというように解します。ただ,スピノザの哲学が形而上学的に集合論を容認しないという点については,上野もそのようにいっているわけで,その部分での相違はなく,解釈上の相違があるというだけです。外延と内包が外部と内部を意味するのであれば,外延と内包の区分が容認されないとする方が,おそらくスピノザの哲学には適した解し方だと思います。
コメント
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