スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

桜花賞&非礼

2018-04-08 19:04:54 | 中央競馬
 第78回桜花賞。アマルフィコーストが左の前脚を跛行したために出走取消となり17頭。
 プリモシーンは加速が鈍くほかより遅れました。好発だったラッキーライラックを外から抜く形でコーディエライトがハナへ。2番手がツヅミモン。3番手にアンヴァルとなり控えたラッキーライラックは4番手。5番手にレッドサクヤ。この後ろはリバティハイツ,ハーレムライン,リリーノーブルの3頭。その後ろにアンコールブリュ,スカーレットカラー,レッドレグナントの3頭。以下は概ね半馬身ずつの間隔でマウレア,トーセンブレス,フィニフティ,巻き返したプリモシーン,アーモンドアイ。やや離れて最後尾にデルニエオールという隊列。最初の800mは46秒6のミドルペース。
 直線に入るところでツヅミモンがコーディエライトを抜いて先頭。内からその外へ持ち出したラッキーライラックがその後から追い出されて先頭に。ただ後方から外を回って4コーナーでは前を射程圏に入れていたアーモンドアイの末脚が炸裂。あっさりとラッキーライラックを捕えると抜け出し,桜花賞レコードで優勝。1馬身4分の3差でラッキーライラックが2着。馬群を捌いて2頭の間から末脚を伸ばしたリリーノーブルが半馬身差で3着。
 優勝したアーモンドアイはシンザン記念からの重賞連勝で大レース初制覇。シンザン記念を好走した牝馬は桜花賞を勝つという傾向があり,この馬は圧勝といっていい内容だったのでその時点で桜花賞候補に。ただ,これまではそれ以降に1度はレースを使うというのがパターンで,この馬はここが久々のレースになっているということが課題でした。それでも直線に入ったあたりでは勝ちそうだと思えるくらいのレースぶりでしたので,過去の傾向の方を今後も重視した方がよさそうです。これまでのレース内容から,距離が伸びることはこの馬にとってはプラス材料とは思えませんが,決め脚比べになれば問題ないでしょう。そういうレースにならないならオークスでは2着馬の巻き返しがあると思います。父はJRA賞で2012年の最優秀短距離馬,2013年の年度代表馬に選出されたロードカナロアでその父はキングカメハメハ。母は2006年にエリザベス女王杯,2007年に札幌記念を勝ったフサイチパンドラ
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は秋華賞以来の大レース制覇で桜花賞は初勝利。管理している国枝栄調教師は2014年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇で第70回以来8年ぶりの桜花賞2勝目。

 第四部定理四五系二を解するにあたって注意しておくべきことは,ここで非礼turpeといわれていることが何を意味しているかということです。この非礼は,単に礼儀を失うとか礼節を欠くことではありません。スピノザは人と人が友情amicitiaを結ぶのを妨害するような事柄について,そのすべてを非礼といいます。確かに礼儀知らずであったり礼節を欠いたりすることは,人が友情を結ぶ上での妨げになることがあるでしょう。ですからその意味においてはそれも非礼です。ですがそれだけが非礼であるわけではなく,スピノザがいう非礼はもっと広範に渡っていると解さなければなりません。当然ながら礼を失しているということだけが,僕たちが友情を結ぶことを妨害するわけではないからです。
 したがって第四部定理四五系二がいっているのは,憎しみodiumという感情affectusから生じる欲望cupiditasのすべては,人と人が友情を結ぶことを妨害するということです。ただしこの憎しみが,人間に対する憎しみに限定されていることはここでも踏まえておいてください。僕たちは人を憎めばそこから必然的にnecessario憎む相手に対して何らかの欲望を抱きます。これは第三部定理一三からも明白であって,少なくとも僕たちはある人間を憎めば,その人間の表象像imagoを排除するように努めるconariのであり,これは受動的な現実的本性actualis essentiaであって,第三部諸感情の定義一により欲望そのものにほかならないからです。
 憤慨indignatioは憎しみの一種なので,憤慨することによって何らかのことを欲望するということであれば,これは一律的に非礼です。非礼は一般的にいわれるのですから,それは国家Civitasにおいてもあるいは社会societasにおいても非礼であるのです。ただそれが国家においては不正injustitiaであるといい換えられているのは,不正という概念notioは一般的なものではなくて,国家や社会という概念の中でのみ有効であるからです。他面からいうなら,もし自然状態status naturalisに人間が存在すると仮定した場合には,憎しみから生じる欲望は非礼であっても不正ではありません。不正あるいは正義justitiaという概念は,自然状態における人間のうちには発生しないものであるからです。あるいは自然状態では,正義とか不正といわれることは何も生じ得ないからです。
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