スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

グレート・小鹿&慎重姿勢

2017-02-26 19:15:21 | NOAH
 僕のプロレスキャリアが始まった頃,大熊元司のタッグパートナーはグレート・小鹿で,このチームは極道コンビと呼ばれていました。極道コンビ,国際プロレスから移籍してきたマイティ・井上阿修羅・原のコンビ,そして石川敬士佐藤昭雄のコンビの3チームによって,アジアタッグは争われていたのです。
 この6選手のうち,僕に最も印象が薄いのが小鹿なのです。たとえばほかの5選手は,それぞれどんな得意技をもっていたか記憶にあるのですが,小鹿だけはどんな技を多用していたのかどうしても思い出せません。6人のうち小鹿と佐藤のふたりは,日本テレビで試合が中継されることがほかの4人よりもかなり少なかったと思うので,仕方ないかもしれません。そして佐藤はソバットを得意として,当時の全日本プロレスではこの技を使う選手がほかにいなかったので,中継は少なくても印象に残ったのだと思います。ということは小鹿にはほかの選手が使わないようなオリジナルな得意技というのはなかったのかもしれません。
 また,佐藤はフロントとしての能力を買われ,アメリカにわたってリングを降りて活躍の場を見出しました。原は金銭トラブルがあって解雇されています。石川は輪島大士の引退とともに,僕には唐突に思えましたが全日本プロレスを退団しています。大熊は悪役商会に加入して,現役のままこの世を去りました。井上は現役は引退しましたがレフェリーとして全日本プロレスに残り,NOAHの旗揚げのときにもレフェリーとして移籍しています。このように5人はどうして全日本プロレスから存在しなくなったか覚えているのですが,小鹿がいつどのような経緯で全日本プロレスを去ったのかも僕の記憶にはありません。
 なので僕にとっても小鹿は,大日本プロレスを設立してからの方がよく知っています。わりと全日本プロレスを観戦していた僕がこのような記憶しかありませんから,全日本時代の小鹿についてよく知っているという方は,本当の小鹿ファンで全日本ファンといえるのではないでしょうか。

 スピノザが1669年暮れか1670年の初めにフォールブルフVoorburgからデン・ハーグに移り住んだとき,オランダ政治の実権はヨハン・デ・ウィットJan de Wittが握っていました。ですがその後,ウィットは失脚し,反動的勢力を支持する民衆によって虐殺されました。これにより政治権力は議会派から王党派へと移行したのです。そして1674年には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は禁書に指定されました。ですから1671年よりも1675年の方が,スピノザは自身の哲学思想をあからさまにすることに対して,より慎重になっていたと考えられます。つまり僕はスピノザがスぺイクの家に間借りすることになった時点でも,自身の哲学思想を語ることについてはたぶん慎重であったと思うのですが,そうした姿勢はスぺイクの家に住んでいる間により増進したのではないかと思うのです。
                                     
 すでに1671年の時点でスピノザは,イエレスJarig Jellesに宛てた書簡四十四の中で,『神学・政治論』がオランダ語訳で出版される予定があることを知り,その出版を阻止するように依頼しています。おそらくフラゼマケルJan Hendrikzen Glazemakerが蘭訳したであろうその本は,この依頼によって出版を阻止されました。僕はスピノザがこの本の著者であるという理由によって処罰されなかったのは,それがラテン語で書かれたものであったこと,すなわちインテリだけが読むことができるものであり,多くの一般民衆は読むことができなかったという点にあるかもしれないと思っていて,さらにそれをオランダ語で出版しないようにすることについては,実際に政治権力を握っていた議会派の政治家からアドバイスがあったのかもしれないと思っています。しかし理由はどうあれ,それを多くの民衆が読めるような形で出版することをスピノザが望まなかったということは事実なのであり,それは自身の思想をだれかれ構わず明らかにすることに対して慎重であったスピノザの姿勢と調和するものだと思えます。つまりこうした様ざまな事情から,スピノザは自身の思想については,スぺイクには多くを語らなかっただろうと推測するのです。スぺイクは日々の生活に追われる民衆のひとりであることを,スピノザは承知していただろうからです。
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