オーストラリアのランドウィック競馬場で行われたドンカスターマイルGⅠ芝1600m。
クルーガーは発馬はあまりよくありませんでした。ただこのレースは20頭が出走し,4番というわりと内目の枠を引けていたこともあり,8番手くらいの位置を確保。向正面から3コーナーにかけて外から上昇していく馬もいましたが,そこではじっと待機。位置取りは一時的に下がりましたが,3コーナーを回ってから追い上げを開始。直線に入って残り400mのあたりで前をいく馬たちの後ろの集団の真只中に。ここから行き場がなかったようでかなり内に切れ込む形になり,進路を確保してから伸びてきましたが,勝ち馬から概ね2馬身4分の3差の4着でした。
この馬は芝1600mの重賞をひとつ勝ってはいますが最近の成績は頭打ちで,ここ2戦はダートに出走していました。僕は2着馬は軽視していましたが1着馬と3着馬は優勝候補とみていましたので,そういう馬たちとこの着差なら,近況から考えても健闘したといってよいのではないでしょうか。直線で行き場がなくなったのは残念ですが,騎手はうまく乗ったと思います。たぶん日本の馬場よりこの馬には適してもいるのでしょう。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは『偶像の黄昏』の「四つの大きな錯誤」という章の第八節で,自分の存在がもっている宿命性は,過去に存在しまた未来に存在することになるすべてのものの宿命性から,ひとつだけ切り離して取り出すことができないものであるという意味のことをいっています。そしてまた,ひとりの人間というものは必然であり,一片の運命にすぎず,全体に属しかつ全体の中にあるものであるという意味のこともいっています。
ニーチェはここでは人間についてのみ語ることを意図しています。しかしこれがニーチェが人間というものを語るときの形而上学的背景であるとしたら,このことはとくに人間に限らず,少なくとも物体corpusといわれるもののすべてに該当しなければならないだろうと僕は考えます。するとその考え方は,第一部定理二八でスピノザがいっていることととても近いように僕には思えます。第一部定理二八の方はおおよそ個物res singularisといわれるすべてのもの,すなわちスピノザの場合は無限に多くの属性attributumの存在を認めるのですから,それら無限に多くの属性の各々に無限に多くの個物が存在するということも同時に認めていることになり,それらすべての個物にこの定理Propositioが妥当すると理解しなければなりません。一方でニーチェの場合は,人間ということで人間の身体corpusだけを意味しているように僕には思われ,人間の精神mensというのは考慮の外に置かれているように思われますので,スピノザの哲学でいえば延長の属性Extensionis attributumに属するものについてのみ妥当するようなテーゼが語られていると理解しておくのが安全であると僕は思います。ですが少なくとも物体という延長の属性の個物についてなら,ある個物は物体の世界全体から切断して理解できるものではないし,またある物体とほかの物体を切り離して概念するconcipereことができるものでもないという点では一致しているといっていいでしょう。そしてたぶん,このニーチェのいい方の方が,ある個物と別の個物とを,内部と外部に区分することは,形而上学的には不可能なのであるということは,理解しやすいのではないかと思います。
ただしニーチェはスピノザには否定的な見解も持っていますから,そこは注意を要します。
クルーガーは発馬はあまりよくありませんでした。ただこのレースは20頭が出走し,4番というわりと内目の枠を引けていたこともあり,8番手くらいの位置を確保。向正面から3コーナーにかけて外から上昇していく馬もいましたが,そこではじっと待機。位置取りは一時的に下がりましたが,3コーナーを回ってから追い上げを開始。直線に入って残り400mのあたりで前をいく馬たちの後ろの集団の真只中に。ここから行き場がなかったようでかなり内に切れ込む形になり,進路を確保してから伸びてきましたが,勝ち馬から概ね2馬身4分の3差の4着でした。
この馬は芝1600mの重賞をひとつ勝ってはいますが最近の成績は頭打ちで,ここ2戦はダートに出走していました。僕は2着馬は軽視していましたが1着馬と3着馬は優勝候補とみていましたので,そういう馬たちとこの着差なら,近況から考えても健闘したといってよいのではないでしょうか。直線で行き場がなくなったのは残念ですが,騎手はうまく乗ったと思います。たぶん日本の馬場よりこの馬には適してもいるのでしょう。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは『偶像の黄昏』の「四つの大きな錯誤」という章の第八節で,自分の存在がもっている宿命性は,過去に存在しまた未来に存在することになるすべてのものの宿命性から,ひとつだけ切り離して取り出すことができないものであるという意味のことをいっています。そしてまた,ひとりの人間というものは必然であり,一片の運命にすぎず,全体に属しかつ全体の中にあるものであるという意味のこともいっています。
ニーチェはここでは人間についてのみ語ることを意図しています。しかしこれがニーチェが人間というものを語るときの形而上学的背景であるとしたら,このことはとくに人間に限らず,少なくとも物体corpusといわれるもののすべてに該当しなければならないだろうと僕は考えます。するとその考え方は,第一部定理二八でスピノザがいっていることととても近いように僕には思えます。第一部定理二八の方はおおよそ個物res singularisといわれるすべてのもの,すなわちスピノザの場合は無限に多くの属性attributumの存在を認めるのですから,それら無限に多くの属性の各々に無限に多くの個物が存在するということも同時に認めていることになり,それらすべての個物にこの定理Propositioが妥当すると理解しなければなりません。一方でニーチェの場合は,人間ということで人間の身体corpusだけを意味しているように僕には思われ,人間の精神mensというのは考慮の外に置かれているように思われますので,スピノザの哲学でいえば延長の属性Extensionis attributumに属するものについてのみ妥当するようなテーゼが語られていると理解しておくのが安全であると僕は思います。ですが少なくとも物体という延長の属性の個物についてなら,ある個物は物体の世界全体から切断して理解できるものではないし,またある物体とほかの物体を切り離して概念するconcipereことができるものでもないという点では一致しているといっていいでしょう。そしてたぶん,このニーチェのいい方の方が,ある個物と別の個物とを,内部と外部に区分することは,形而上学的には不可能なのであるということは,理解しやすいのではないかと思います。
ただしニーチェはスピノザには否定的な見解も持っていますから,そこは注意を要します。