スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大楠賞争奪戦&神学の超越論

2019-04-08 19:07:40 | 競輪
 昨日の武雄記念の決勝。並びは松坂‐中村の南関東,松浦‐小倉の中国四国,山崎‐荒井の九州で,平原と小川と野田が単騎。
 山崎がスタートを取って前受け。3番手に松浦,5番手に松坂,7番手に平原,8番手に野田,最後尾に小川で周回。残り2周のホームから松坂が上昇開始。平原と野田が続き,バックの入口で4人で山崎を叩きました。このまま打鐘になり,5番手に山崎,7番手に松浦,最後尾に小川の一列棒状に。ホームに入って山崎が発進。一気に松坂を叩きました。松浦はこのラインに続きましたが,小倉が徐々に離れていき,バックでは3人で後ろを離す展開に。直線から踏み込んでいった荒井がぎりぎりで粘って優勝。マークの形になった松浦が8分の1車輪差で2着。中村の後ろからバックで動いていった平原がよく追い込んだものの4分の1車輪差の3着まで。
 優勝した佐賀の荒井崇博選手は昨年8月のアーバンナイトカーニバル以来の優勝でGⅢ15勝目。記念競輪は2016年10月の千葉記念以来となる14勝目。武雄記念は2008年,2010年,2014年と優勝していて5年ぶりの4勝目。このレースは現状の力からすると山崎に普通に駆けられると荒井が抜くのは難しく,かといって山崎が荒井を引き出す駆け方をすればいい位置から捲ってくる平原が届きそうに思えたので,荒井の優勝は難しいのではないかと考えていました。実際に平原はかなり離れた位置からの捲りで僅差に追い込んでいますから,もっと巧みに位置を取っていれば勝てていたのではないかと思います。南関東を追走するようなレースをしたのが失敗だったといえるでしょう。逆に九州勢を追った松浦には絶好だった筈で,チャンスを逸してしまったという感が否めません。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学は超越論哲学として説明されることがあります。たとえばニーチェが「神は死んだ」というとき,スピノザが定義する神Deusも死んだということを意味していると僕は考えますので,ニーチェを超越論哲学者と規定することが誤りであるとは僕も思いません。ですが,普通に考えればそこで「死んだ」とされているのはキリスト教の神です。そしてキリスト教の神は超越的な存在です。
                                   
 キリスト教の文脈での神による天地の創造というのを,無から有を産出するというように解するにせよ,カオスをコスモスに秩序立てるというように解するにせよ,このときに神が超越的な立場で天地を創造していることに変わりはありません。いい換えればキリスト教における神は,天地あるいは天地のうちにある万物に対しては内在的原因causa immanensではなく超越的原因causa transiensです。つまり第一部定理一八は,キリスト教が規定する神を否定するという意味をもっています。いい換えればその限りにおいてはスピノザもまた「神は死んだ」といっているのです。当然ながらこの点だけに限定していえば,ニーチェもそれに同意はするでしょう。もちろんそのとき,ニーチェは神が内在的原因であるということも同時に否定するのですが,少なくとも超越的原因である限りの神を否定するという点ではスピノザと同じ立場に立つのであり,よってニーチェの哲学というのは,超越論哲学ではないという見方にも一理はあります。少なくとも神と万物の関係を,能産的自然Natura Naturansと所産的自然Natura Naturataと把握した場合に,能産的自然が超越的原因として所産的自然を産出するというのでなければ,キリスト教を支える形而上学は成り立たないといえるでしょう。このことをニーチェが否定するのも間違いないのです。
 ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiは,スピノザの哲学の論理は完全なものであって,それを論理的に否定することはできないと判断しました。ですが同時にヤコービはキリスト教の信者であり,神学の見解は守らなければならなかったので,スピノザの哲学については超論理で否定することになったのです。ここにはヤコービの超越論があるわけですが,それは同時に神学が超越論に支えられていることのひとつの証でもあるのです。
コメント
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