①では,欲しがるものが手に入らなかっただけだと歌われていました。そして②では,悪くてもゼロであってマイナスではないと歌われていました。これらは実は同じことを意味しています。どのような意味であるかも歌われています。
それならば私は何も失わずに生きてゆけた
確かにそうで,欲しがっているものを入手できなかったとしても,それは得られなかったというだけであって何かを失ってしまったというわけではありません。悪くてもゼロであったというのも同様で,それは得ることができなかったということは意味し得るでしょうが,失ってしまったということは意味し得ません。失ったのならゼロではなくマイナスですが,ゼロであるということは,得ることはできなかったけれども失うこともなかったということを意味するからです。
歌い手は自分がこのような生き方をしていたということに気付きます。
でも何か忘れたことがある
でも誰も愛したことがない
愛を求めてそれを得ることはできませんでした。ですがそれはマイナスではなくゼロだったのです。そしてゼロであり得たのは,愛を求めるだけで,自分から愛そうとはしなかったからなのです。もしそうしていたら,マイナスになっていたかもしれないのです。そしてここには,僕が「化粧」に読み込んだのと同じ意味があります。愛そうとしなかった,失おうとしなかった自分はバカだった,と。
念のためにいっておきますが,僕が第二部定義七の意味として含ませるのは,個物res singularisの複合の無限連鎖と分割の無限連鎖です。つまり各々の無限連鎖が個物に妥当するということであって,物体corpusに限って妥当するということではありません。第二部定義七は個物一般に妥当する定義Definitioでなければなりません。したがってそれがどの属性attributumの個物であろうと,個物なら妥当するのです。物体は延長の属性Extensionis attributumの個物ですから,物体の複合の無限連鎖も物体の分割の無限連鎖も成立するのですが,延長の属性の個物である物体に限って第二部定義七がその複合および分割の無限連鎖を含意しているということを僕は主張したわけではありません。もっと広く,個物であるならどの属性の個物であろうと,複合の無限連鎖と分割の無限連鎖が成立すると主張しているのです。自然学Physical Digressionでは,というか自然学ですから当然ですが,スピノザはそこでは延長の属性の個物である物体についてのみ言及しています。僕もその部分を援用したため,物体についてのみ強調する考察になったと考えてください。
もうひとついうと,第二部定理七によって観念ideaと観念対象ideatumの秩序ordoは一致するのですから,少なくとも物体について複合および分割の無限連鎖が成立するのであれば,物体の観念についてもそれは妥当します。よって思惟の属性Cogitationis attributumの個物である個物の観念,この場合は物体の観念ということになりますが,それについても複合および分割の無限連鎖が成立していることは間違いありません。そして第二部公理五により,僕たちが何か個物を認識するcognoscereということがあるなら,それは物体であるか個物の観念であるかのどちらかなのですから,これだけでも僕たちにとって十分といえるかもしれません。
それでは再び数学に関連した考察に戻ります。
すでにみたことから,スピノザの哲学が,集合論を支える形而上学を提示するということはありません。どのような形而上学が集合論を支えるのかということについては,僕は考察の中で推理はしたものの,はっきりとした結論を出すのは僕の能力を超過していますから控えます。そして,僕の関心はそれがどういう哲学であるかという点にあるのではないのです。
それならば私は何も失わずに生きてゆけた
確かにそうで,欲しがっているものを入手できなかったとしても,それは得られなかったというだけであって何かを失ってしまったというわけではありません。悪くてもゼロであったというのも同様で,それは得ることができなかったということは意味し得るでしょうが,失ってしまったということは意味し得ません。失ったのならゼロではなくマイナスですが,ゼロであるということは,得ることはできなかったけれども失うこともなかったということを意味するからです。
歌い手は自分がこのような生き方をしていたということに気付きます。
でも何か忘れたことがある
でも誰も愛したことがない
愛を求めてそれを得ることはできませんでした。ですがそれはマイナスではなくゼロだったのです。そしてゼロであり得たのは,愛を求めるだけで,自分から愛そうとはしなかったからなのです。もしそうしていたら,マイナスになっていたかもしれないのです。そしてここには,僕が「化粧」に読み込んだのと同じ意味があります。愛そうとしなかった,失おうとしなかった自分はバカだった,と。
念のためにいっておきますが,僕が第二部定義七の意味として含ませるのは,個物res singularisの複合の無限連鎖と分割の無限連鎖です。つまり各々の無限連鎖が個物に妥当するということであって,物体corpusに限って妥当するということではありません。第二部定義七は個物一般に妥当する定義Definitioでなければなりません。したがってそれがどの属性attributumの個物であろうと,個物なら妥当するのです。物体は延長の属性Extensionis attributumの個物ですから,物体の複合の無限連鎖も物体の分割の無限連鎖も成立するのですが,延長の属性の個物である物体に限って第二部定義七がその複合および分割の無限連鎖を含意しているということを僕は主張したわけではありません。もっと広く,個物であるならどの属性の個物であろうと,複合の無限連鎖と分割の無限連鎖が成立すると主張しているのです。自然学Physical Digressionでは,というか自然学ですから当然ですが,スピノザはそこでは延長の属性の個物である物体についてのみ言及しています。僕もその部分を援用したため,物体についてのみ強調する考察になったと考えてください。
もうひとついうと,第二部定理七によって観念ideaと観念対象ideatumの秩序ordoは一致するのですから,少なくとも物体について複合および分割の無限連鎖が成立するのであれば,物体の観念についてもそれは妥当します。よって思惟の属性Cogitationis attributumの個物である個物の観念,この場合は物体の観念ということになりますが,それについても複合および分割の無限連鎖が成立していることは間違いありません。そして第二部公理五により,僕たちが何か個物を認識するcognoscereということがあるなら,それは物体であるか個物の観念であるかのどちらかなのですから,これだけでも僕たちにとって十分といえるかもしれません。
それでは再び数学に関連した考察に戻ります。
すでにみたことから,スピノザの哲学が,集合論を支える形而上学を提示するということはありません。どのような形而上学が集合論を支えるのかということについては,僕は考察の中で推理はしたものの,はっきりとした結論を出すのは僕の能力を超過していますから控えます。そして,僕の関心はそれがどういう哲学であるかという点にあるのではないのです。