スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京中日スポーツ賞クラウンカップ&神と内部

2019-04-03 20:46:53 | 地方競馬
 第22回クラウンカップ。左海誠二騎手が今日の1レースの本馬場入場のときに落馬し右の足首を負傷したためホールドユアハンドはJRAの戸崎騎手に変更。
                                     
 ダンサーバローズが鞭を入れられましたがハナを奪いきるには至らず,ホールドユアハンドの逃げに。ダンサーバローズがカシノビートと並んで2番手。4番手にサクセッサーで5番手にフォルベルス。6番手を併走したグラビテーションとマイティウォーリアの7頭は集団。3馬身差でブラックプリンスで9番手併走のアギトとサーブルグロワールの3頭は一団。2馬身差でマムティキングとトーセンアイアン。3馬身差の最後尾にトドビエン。前半の800mは50秒8のミドルペース。
 3コーナーを回ると外にもち出したサクセッサーが進出開始。ダンサーバローズはコーナーでついていかれなくなり,ホールドユアハンド,カシノビート,サクセッサーの3頭と差が開きました。カシノビートも直線の入口付近で一杯。ここから逃げるホールドユアハンドと追うサクセッサーの競り合いがフィニッシュまで続きました。一旦はサクセッサーが前に出たように見えますが,フィニッシュ直前でまた一伸びしたホールドユアハンドが差し返す形で優勝。サクセッサーがクビ差で2着。馬群の中から伸びてきたマムティキングが一旦は3番手に上がりましたが,それを大外から差したアギトが2馬身半差で3着。マムティキングがアタマ差の4着。
 優勝したホールドユアハンドはJRAデビュー。新馬を勝った後は3戦したものの大敗続きで昨年11月に浦和へ転入。転入初戦を勝った後,兵庫ジュニアグランプリは大敗でしたが条件戦を連勝。前走の京浜盃は大敗でしたが,ここはメンバーのレベルがさほどではないので,優勝候補の1頭と考えていました。今日の2着馬は2月に連勝したときにいずれも2着だった馬で,2戦とも圧倒していたのですが今日は差を詰められました。これは2着馬に上積みがあったからかもしれませんし,こちらがそのときほどの力を出せなかったからかもしれません。一定の能力はありますが,クラシックを勝つということになると現時点では疑問を感じます。父はエスポワールシチー。ひとつ上の半兄が昨年のクラウンカップを勝った現役のスプリングマンで兄弟制覇。
 騎乗したJRAの戸崎圭太騎手は南関東重賞は2014年の報知グランプリカップ以来の制覇。クラウンカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師第20回,21回に続く三連覇でクラウンカップ3勝目。南関東重賞は35勝目。

 同じ属性attributumの様態modiである限り,それらは内部と外部に実在的には区分されないというのは,いくつかの観点から説明することができます。
 まず第一部定理二五系です。今は特殊的事物res particularisと個別的事物res singularisの相違は気にしなくても大丈夫です。この系Corollariumによれば,個物Res particularesは神の属性Dei attributorumを一定の仕方で表現する様態modo exprimunturです。この系は個物ということで特殊的事物を示していますが,個別的事物が特殊的事物であるという点に異論は出ない筈なので,僕は個別的事物の場合で考えます。
 この系は,このことを神のある属性を表現する個物の側からいったものです。そういう目的を有した系だからです。ですがこのことは,この系で表現されるといわれている神の側からみることもできます。その場合は,個物はその個物という様態的変状modificatioに様態化した神あるいは神のある属性であるということになります。そしてこのようにみれば,これを全体のうちの部分として,いい換えれば外部と内部を分割するものとして抽出することが困難であることが理解できる筈です。というのもある個物をひとつだけ抽出したとして,それはその個物という様態的変状に様態化した神あるいはその属性そのものなのですから,それは神の内部にあるというより神そのものであるからです。そしてこのことが存在するすべての個物に妥当するのですから,ある個物もそれとは別の個物も神そのものなのであって,神の内部であるとはいえません。結果的にある個物と別の個物も,各々の外部にあるのではなく,むしろ各々が神そのものとしてあるといわなければならないことになります。よって同じ属性の様態である個物Aと個物Bを抽出した場合に,個物Bは個物Aの外部にあるとか,個物Aは個物Bの外部にあるといういい方は,個物Aや個物Bについて単独で考える場合には有効な方法ではありますが,形而上学的には不正確な把握であるということになるのです。
 このことは,スピノザの哲学において主体subjectumが排除されるということと関係します。スピノザの哲学における主体の排除は,いろいろな側面からいえるのですが,そのうちのひとつは万物が様態的変状に様態化した神であるということに端を発するからです。
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